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Guilty Dependance  作者: タチバナ ナツメ
#Episode:1 What is evil ? - Whatever springs from weakness.
4/5

#03 Accident will happen-3

 ありありと横たわる危険因子に、自ら勇んで飛び込むと決めた。

 そこには恐怖も、痛みも、焦燥も、“迷い”を誘発する一切の要因は必要ない。

 ザラザラとした不協和音(ノイズ)が遠のいていくにつれ、戒の奥底は、凪のような静けさと穏やかさとを帯びていった。

 頭の真ん中から這い出した“(オピオイド)”が、神経の(くさむら)を掻き分け、急速に全身へ拡がってゆくのが分かる。

 最初は左肩。

 続いて胸部。

 そして最後に、左腕。

 拡がりゆく闇を想うたび、煩瑣な重力の呪縛が(ほど)けてゆくのを感じる。

 鋭く疼いていた左上半身は、たった今、すべての感覚から解き放たれた。

 心地よい喪失感だ。

 俄かに心が躍るのを感じた戒は、再び薄く口端を持ち上げた――




 意識的に大量分泌した脳内麻薬(エンドルフィン)によって、不都合な感覚を完全遮蔽する――

 痛みはおろか、恐怖感や焦燥感までも根こそぎ封じることが出来るのだから、“肉斬骨断”を基本戦法とする戒にとって、これ以上便利な特技はない。

 しかし、極端すぎる感覚離断は、肉体そのものの存在感すら喪失させてしまう。

 恐怖も痛みも感じない体は、ただ“戦う”ということに関してだけ言えば、ひたすら好都合ではある。けれど、それは同時に“どんな酷い怪我を負っても気が付くことが出来ない”という、極端すぎるリスクを背負わされていることを意味する。

 捨て身で躍り掛かってきた(ぬえ)は、果たして今も戒の左肩に喰らい付いたままでいるのか、それとも。

 せめてもう少しだけ、あらゆる苦痛から解放された感覚に酔い痴れていたかったのだが、肉体損傷の度合いを確かめる方法が“目視”以外にない以上、いつまでもそうしてはいられない。

 麗らかなまどろみを邪魔されたかのような心地になる。

 苛立ちを飲み込んだ戒は小さく息をつき、やがて静かに目を開けた。




 そうして。

 ようやく戒は、自らの立たされた現状が、想定した二択とは大きく外れた行筋を辿っていることに気付いていた。

 爽やかなシトラスの香りがゆらめいている。

 大きくバランスを崩した戒の身体を、見覚えのある派手柄のドレスシャツが包み込んでいた。

 肌触りの良い生地越しに伝わってくるのは、おそらく“彼”の体温だろう。急激な失血によって冷え切った身体に、心地よい温もりが戻ってくるのを感じる。

 ――あれ?

 刹那。

 脳裏を、朧気な記憶の断片が掠めていくような感覚があった。

 並の人肌よりも、ほんの僅かに低い体温。

 柔らかにゆれて鼻腔をくすぐる、清々しい香り。

 そして何より、僅かな淀みすらも感じさせない、この清浄な存在感。

 何故だろう――こうして彼の腕に抱かれるのは、今が初めてではないような気がする。

 そこまでを思ったところで、戒はわだかまる既視感の原因をどうにか検索しようと、男の胸元に伏せていた顔を持ち上げた。


「大丈夫か?」

「ああ――たぶん」


 言われてようやく自身の左腕に目をやった戒は、(えぐ)られることも千切られることもなく、感覚を喪失する前の見慣れた半身がそこにあることを実感した。

 意識の向こう側へと追いやっていた感覚は、じめじめとした虚脱感を伴いながら徐々に戻りつつあったが、未だ戒の左腕は、指先すらまともに動かすことも出来ないほど、神経回路が鈍ってしまっているようであった。


「お前、ホンマに危なっかしいやっちゃなあ。ちょっと前に俺が言うたこと、ちゃんと聞いとったんかいな?」

「聞いてたけど、これは反射行動みたいなものだから――意識してもすぐに直るものじゃないんだ」


 男が戒の体を抱きとめる腕には、想像以上の強い力が込められているようである。

 酸欠に喘ぐ弱りきった体には少々息苦しかったが、それすらも何故だか心地よく思えたのは、やはりあの奇妙な既視感のせいだろうか。


「何が起きたのか、よく分からなかったけど」


“感覚喪失”を行った後、決まってやってくる大きな虚脱感がいつもよりも随分軽く済んでいたおかげで、今が目標との戦闘状態であることをすっかり忘れてしまっていたようである。

 仕留め損ねた獲物に手痛い反撃を受けたあの瞬間からは、おそらく既にかなりの時間が経過しているものと思われる。目の前の男の落ち着き払った様子を見れば、まさに一触即発であったあの状況に、自分以外の誰かから何らかの対処が行われたことは間違いない。

 その“誰か”とは、他ならぬ彼のこと以外に有り得ないはずだが――如何にして彼は、あの危殆に終止符を打ったのであろうか。


「もう支えてなくても大丈夫だ……助けてくれたんだな」


 半ば“引っ剥がす”ようにして、無傷の右腕で男の拘束を(ほど)いた戒は、(くだん)の獣の顛末(てんまつ)を見届けようと、後方を振り返った。


「もっちろん! 未来の嫁さんを危険から守るんは、男の宿命やからな」


 ――未来の嫁さん?


「何言ってんだ、お前」


 ところが、数瞬と立たぬうちに再び男の方を振り返った戒は、怪訝に眉を吊り上げた。

 嬉々として胸を張る男の意図が、全くもって理解出来ない。

 しかしながら、彼が紛れもない男だという事実を思えば、女である自分に、彼の生涯の伴侶となる確率が全くないわけではない――と、考えられなくはないが。


「まあ、いいけど」


 確率は、ざっと見積もって六千五百万分の一くらいだ。決してゼロではない。そう考えることにしておこう。考察終わり。

 とかく戒は、仕事以外の他事をあれこれと深く考えるのが得意ではないし、そもそも興味がない。

 それよりもきっと、お調子者の言い分といちいちまともに向き合っても、キリがないだけだろう。

 にやりと白い歯をこぼした男がまたも何やら言いかけたような気はしたが、構わず視線を逸らした戒は、今度こそ気を取り直し、鵺の傍らにしゃがみこんでいた。

 黒焦げの憐れな異形は、もはや単なる炭の塊と成り果て、すっかり動かなくなってしまっている。

 微かな筋痙攣さえもなくなっており、鼓動の音も聞こえてこない。何より、出鱈目に撒き散らされていたドス黒い殺気が、跡形もないほど消え失せてしまっている。

 この世のものならざる存在に、“こちら”の常識がどこまで通用するかは甚だ不明だが、これだけ追い詰めれば、差し当たり脅威は去ったと考えても良さそうである。

 ――問題は、あいつがどうやって鵺を黙らせたのかってことだ。

 心当たりなら、大いにあった。

 何故なら戒の周囲には、その手掛かりとなる痕跡がありありと残されたままになっていたからである。

 これまでの経験上、戒と生業を同じくする“異能者”たちは、後々自らが不利に立たされることを見越してか、簡単には手の内を明かさない者が殆どなのだが――

 よほど腕に自信があるのか、それとも単に警戒心が薄いだけなのか。

 どうやら彼には、“それ”を隠し立てする心積もりが(はな)からないようであった。


「もしかして、回りくどい自己紹介のつもりか?」

「お、さすが! 分かってくれた?」


 得意げに頭の後ろで手を組んだ男は、鼻歌混じりの上機嫌で、すたすたと戒の側へ歩み寄ってくる。

 男の動きに呼応するようにして、鵺の横たわるアスファルトの地面に突き刺さっていた“痕跡”が、白銀の淡い光を放っていた。

 鈍色の地面には、鵺の周囲を取り囲むようにして、いくつかの“(くさび)”が埋め込まれている――その数は全部で五つだ。

 それぞれ最も近い位置にある楔同士を直線で結ぶと、あてずっぽうで描かれたものとは思えぬほどの、美しく整った正五角形が浮かび上がる。そして鵺は、まるで(あつら)えたかのように、五角形のちょうど中心にあたる部分に横たわっていた。

 これはおそらく、彼の作り出した“陣”であろう。

 異能者の間でしばしば使われる“陣”とは、放出されたエネルギーを、他所へ拡散させることなくその場に凝縮させ、とどめることのできる、霊的な“力場(フィールド)”を意味する。

“陣”のもたらす効能を身近な現象で例えるとするならば、それは“虫眼鏡で日光を集める原理”と似ている。

 太陽光は、通常人体にはほぼ無害であるが、虫眼鏡を使って拡散した光を一点に集めれば、照射した物体に火が点くほどの高熱を得ることが可能である。

 あらゆる方向へ熱を放出し続ける太陽のように、人間の持つ霊的エネルギーというものも、体のいたるところから常に流出を繰り返している。

 従って、強大な霊力を秘めた者であっても、それらをただ無尽蔵に放出し続けてしまったのでは、殆どのエネルギーを無駄遣いしてしまうことになるのである。

 しかし、この霊的力場を作り出す技術さえあれば、流出したエネルギーの行く先を、任意で切り出した空間の中だけにとどめておくことが出来る。要するに“陣”とは、自らの霊的エネルギーを一定方向へ収束させるための、“虫眼鏡”の役割を果たすものなのだ。

 ところがこの技術は、高い霊力を持つ者であれば誰にでも身に付くというわけではない。

 膨大な霊力の容量(キャパシティ)が必要となるのはもちろんのこと、天性のセンスと潜在能力(ポテンシャル)に恵まれていなくては、そうそう習得できるものではないのである。

 ちなみに過去、戒はこの“陣形成”の技術を体得しようとして、見事なまでの失敗に終わっている。

 陣の形成には、自身のほぼ全力に近い勢いで霊力を放出し続ける必要があり、ようやっとその霊的力場を作り出せた頃には、そこへ向けて放出するためのエネルギーが空っぽに尽き果ててしまうのだ。つまり戒には、その先の段階(ステップ)へ辿り着くための霊力容量が、てんで足りていないということなのである。

 こんな出鱈目な術なんて、身につけようと考えること自体が馬鹿馬鹿しい。

 自分自身を鍛え上げることにおいて、並大抵のことでは根をあげない戒であったが、唯一手も足も出なかったのが、まさにこの技術だった。

 異能者には、突如として力に目覚めた“突然変異型”も多いが、これほどの完璧な力場を作り出せる能力者ともなると、そうではない可能性が非常に高い。おそらく彼は、古の昔から、ヒトの領域を侵す脅威に抗い続けてきた存在――すなわち、代々続く“破魔の力を持つ一族”なのだろう。彼の力はまさに、然るべき血統に生まれ、然るべき師のもとで然るべき修練を積み上げてきた者だけに受け継がれる、一子相伝の秘術なのだ。


「“紋様陣”を使える能力者となると、だいぶ絞られてくるからな――お前のならきっと、“こちら側”の人間でなくたって、大方の想像がつく奴は居ると思うけど」


 彼ら“血統者”の扱う陣には、共通の特徴がある。

 当然のことながら、破魔の一族にもいくつかの所属勢力というものが存在するのだが、各々の勢力によって、陣中に浮かび上がる図形や紋様に大きな違いが生ずるのである。

 鵺を取り巻く陣の外形は、“正五角形”だ。

 ここに浮かび上がる紋様といえば、たったひとつを除いては考えられない。

 それは、五つの角を結ぶ五本の直線が描き出す図形――“五芒星”である。

 五芒星の紋様陣を扱うとされる勢力は、おそらく数多ある一族の中でも最も有力で、最も高名な集団だろう。


「お前、陰陽師(おんみょうじ)だったのか」


 これまでの考察を踏まえれば、それが最も合点のいく“回答”だ。

 歴史の裏側で、この国をあらゆる災厄から護り続けてきたとされる、強力な霊能者の一族――陰陽師。

 一族の中にも細かい派閥はあるようだが、彼らが“顧客”とする相手は、専らVIPクラスの要人ばかりと相場が決まっている。

 出来るなら、いろんな意味でも敵に回したくない相手だが――そんな彼の雇い主とは、一体どのような立場の人間なのだろうか。


「ご名答。俺は、陰陽師の篠崎荒汰(しのざきこうた)や。さすが優等生は、オカルトの分野にも詳しいんやなあ」


 ちらりと側めた男の横顔は、これ以上ないほど嬉しそうにほころんでいる。

 こちらの後を追うようにして、鵺の傍らにどっかとしゃがみこんだ男は、いつの間にか口元に煙草を咥えていた。


「陰陽師には、これまで何度か遭ったことがあるからな」

「ほんなら、細かい自己紹介は必要あらへんな」

「“陰陽師”を名乗る人間は、みんな相当な実力者ばかりだったよ」

「それはそれは。認めてもらえて光栄やね」


 僅かに口角を持ち上げた男は、細長い指でつまんだ煙草をゆっくりと口元から遠ざけると、心地よさげに瞼を下ろし、ぷかぷかと紫煙を吐いた。

 男の持つ煙草に、別段変わったところはなさそうだ。フィルターの側に描かれたロゴも、日本全国どこのコンビニでも売られているような、ごくありふれた銘柄のものである。

 けれど。

 思いもよらぬ事実に気付かされた戒は、特に珍しくも何ともないその煙草を、思わず食い入るように見つめてしまっていた。


「この煙草が、どうかしたんか?」


 何度見つめてみても、やはり彼の煙草そのものに、変わったところは見当たらない。

 得意げに鼻を鳴らした男の態度がやや気に食わなかったこともあるが、これ以上の収穫が得られそうもないことを悟った戒は、ふいと瞳だけを動かして、再び足元へ視線を落とした。

 相も変わらず、そこには寸分の狂いもないほどの等間隔で、光の楔が打ち込まれたままとなっている。

 最初こそ楔の描き出す図形にばかり気を取られていたが、更なる驚きの光景は、もっと別のところにあったのだ――鈍色のアスファルトに食い込んだ楔の正体は、男が今ものほほんとした様子で吹かしている、何の変哲もない“煙草”だったのである。

 いくら霊力を纏い付かせているとはいえ、紙で出来た煙草に、硬いアスファルトを貫通させるほどの強度を持たせることが出来るとは。


「お前みたいに煙草で陣を描いた奴は初めて見た。いかにも“それっぽい”術札みたいなのを使ってる奴なら見たことあったけど」


 どうやら彼は、今までその存在に気付けなかったことが悔やまれるほど、相当な技術者のようであった。


「びっくりした?」

「ちょっとだけ」

「別に煙草に限らんけど、俺の場合は紙で出来たもんやったら、何でも霊力を下ろせるんや。ノートの切れっ端でもテストの答案でも何でもええけど、俺にとってはこの煙草が、一番身近で扱いやすいんや」

「ふーん」


 子供みたいな奴。

 いかにも“褒めて褒めて”と言わんばかりの屈託のない笑顔が、やたらと鼻に付く。

 先ほどから男の様子が妙に癪に障るのは、自身でどう足掻いても越えられなかった壁を、脳天気なこの男に易々と越えられてしまったような気になっているせいかもしれない。

 いくら何でも、彼も何の努力もなしにこの夢のような高等技術を身に付けたわけではないのだろうが――

 よりにもよって何故この男なのだろう。嫉妬に近い思いに翻弄されている自分自身にも、酷く煩わしさを感じる。

 下腹あたりに累々と募ってゆくモヤモヤとした感覚を持て余しながら、戒は露骨に瞼を下げ、恨めしげに男を睨んだ。


「――篠崎」

「嫌やなあ、今更そんな他人行儀に呼ばんといてや。俺のことは荒汰でええで、“戒”」


 腹に溜まり切った毒素が、思わず口から飛び出しそうになっていた。

 感情的になるな。子供じみてるのはどっちだ。

 やり場のない思いを拳で握り潰し、どうにか戒は黒々とした嘔吐感をやり過ごすことができていた。


「確か、未成年の喫煙は法律違反だよな」

「堅いこと言うなって。陰陽師っちゅうのはな、ホンマにストレスの多い職業なんや。ほんのちょっと“例外”を認めるだけで、この街の平和が保たれるんやったら、安いもんやろ。“必要悪”っちゅうのは、こういうことを言うんやで?」

「今時ストレスを感じてない人間なんて、どこにも居ないと思うけどな。節制できるか、できないかの問題だろ」

「何やお前――意外と頭の固いやっちゃなあ。もうちょっと話の分かる奴やと思とったのに」

「悪かったな、イメージ通りじゃなくて」


 お前は見た目を裏切らないちゃらんぽらんな奴みたいだけどな。

 男――どうやら本人は“荒汰”と呼んで欲しいらしい――が苦々しく口元を歪めたことで、辛々ながらようやくしっぺ返しをお見舞いしてやれたような気持ちになる。

 いちいち突っ掛かっていても、埒があかない。

 小さな溜息とともに強張った両肩を下ろした戒は、“これで気が済んだのだ”と思い込むことにしていた。


「まあ、別にそんなことはどうでもいいけど」

「学校の外なんやし、煙草くらい目(つむ)ってや……どっかの怖い学級委員長と話しとるみたいで、いまいちプライベート感が薄れるわ。俺、これからまたアイツと会っていろいろと報告せなあかんねんで」

「学級委員長に?」


 お前のプライベートはむしろ学校に居る時間の方じゃないのかと、瑣末な疑問が頭を()ぎったことは、とりあえず忘れておくことにする。

 大事なのは、もっと別のことだ。

 先の発言の中にあった、“今日の出来事を報告しなければならない相手”とは、彼の“雇い主”のことに他ならないだろう。

 荒汰の雇い主の正体については先ほども思案したところだが、彼はそれを“学級委員長”と呼んだ。


「お前、守秘義務って言葉知ってるか」


 高校生、同級生、クラスメイト。

 たった一つの言葉の中には、いくつもの可能性が詰め込まれていた。

 彼の口にした呼称が、雇い主の社会的立場(スタンス)そのものを表しているとするならば、あまりに迂闊である。

 ここまでの情報だけでも充分すぎるくらいだが、更に彼の雇い主が、クラスでたった一人しかいない“学級委員長”のポストに就いている人間なのだとすれば――それを暴く方法は極めてシンプルだ。

 明日の朝、いつも通りにいつもの通学路を歩いて、いつもの教室に登校する。

 たったのそれだけで事足りるだろう。

 自分から顧客(クライアント)の正体をバラすなんて、プロのすることじゃないだろ……

 呆気に取られるあまり、戒はすっかり掛ける言葉をなくしていた。


「あー、大丈夫大丈夫。どっちみち俺が“あいつ”にお前のこと報告したら、同じことになんのは分かっとるさかいな。今俺がバラそうが、明日あいつの口からバラされようが、どっちも大して変わらへんやろ?」


 しかし、対する荒汰の態度は、これでもかと言うくらい、ひたすらに暢気なままである。

 また、このパターンか――

 兎にも角にもこの男には、出遭った当初からペースを崩されっ放しである。

 もはや条件反射的と言っても過言ではないくらいに、彼の理解不能な言動を深追いしないことに決めた戒は、構わず見失っていた“本題”を追い直すことにしていた。


「お前も誰かからの“依頼”で動いてるんだよな。だったら、一つ聞くけど」


 彼が自分を“助けてくれた”という思いが強かったおかげで、いつの間にかうやむやになってしまったことがある。

 それは本来、荒汰が戒の目の前に現れた当初から、最優先で確かめなければならないことだった。


「お前、(こいつ)をどうするつもりなんだ?」


 現状で最も憂慮すべきなのは、彼――篠崎荒汰が“自分の障害であるか、否か”ということだ。

 荒汰は確かに、窮地に陥っていた自分を救ってくれたが、それは彼の“本懐”ではなかったはずだ。雇い主からの依頼で動いていると言っている以上、ここに現れたことに何らかの目的があるのは間違いない。

 もしもこいつの目的が、俺と同じだったとしたら?

 当然のことながら、目的を遂げられるのはたった一人だけ。そうだとすれば――


「どうするって、何のことや?」


 気だるげに瞼を下げた荒汰は、すっかり短くなった煙草を再び口元からつまみ上げた。




 雨上がりの街を吹き抜ける一陣の風が、薄雲のようにたなびく紫煙を、音もなく(さら)ってゆく。

 荒汰の指先の辿った軌跡を追いかけるように、煙草の先のオレンジの光が、ぼんやりと宙を泳いでいた。


「とぼけないでくれ。これ以上の説明が必要あるか?」


 遠雷が轟き、闇空が雨粒を散らす音が迫ってくる。

 情に流されることなど、以ての(ほか)

 けれど、叶うならば。

 我ながら、呆れるほど瑣末な願いであることは理解している。

 しかし戒にはもはや、忘れ去ることができなくなってしまっていたのだ――彼の腕に抱かれたあの瞬間、温もりとともに伝わってきた、微かな“記憶”。甘い甘い痛みを伴って、自身の最も深いところに刻み付けられた、懐かしい移り香を。

 やおら立ち上がった戒が、しゃがみ込んだままの荒汰を見遣ると、雨音は急速にその勢いを強め、滝降りの(とばり)が瞬く間に二人を飲み込んでいた。

 沈黙。

 魅入られたように空の鈍色を見つめたままの荒汰は、何も話そうとはしなかった。


 ――それがお前の“答え”か。


「なら、今ここで決着(ケリ)をつけよう」


 空しい気がする。

 切ない気がする。

 ためらいが、心に波紋を生んでいた。

 皮膚を裂かれたときよりも、骨を砕かれたときよりも、ずっとずっと強い不協和音(ノイズ)が、戒の内側を駆け巡っている。

 この煩わしい不協和音の要因は、やはりあの“既視感”にあるのだろう。

 捉われてはいけない。

 乱されてはいけない。

 お前が目の前にしているものは、“敵対者”だ。

 呪文のように繰り返した戒は、再び奥底に鍵を掛け、頭の奥から這い出した“闇”に意識を預けようとする。

“迷い”は要らない。

 煩瑣な(かせ)は棄ててしまえ――


「安綱!」


 撒き散らされた甲声とともに、戒の右手に鈍色の閃きが生まれた。

 無数の血管と神経叢――血色の柄糸(つかいと)に絡みついた共有組織が、早鐘のように脈動している。

 馴染んだ感触を確かめるように、脈打つ柄を強く握り締めると、繋がり合った神経回路を経由して、すぐさま安綱から歓喜の信号(パルス)が跳ね返ってくるのが分かった。


「待ってくれ、戒! 俺は――」


 悲痛を浮かべた荒汰の声は、まるで水中から拾った地上の音のように、酷く不鮮明なものと成り果てていた。

 おそらくは、彼の肉声を“障害”と認識した戒の本能(システム・プログラム)が、不必要な感覚を遮蔽してしまった結果だろう。

 きっと、これで良い。

 水音を撥ね散らし、靴底で地を蹴り付けた戒は、無心で刃を振りかざしていた。




 紫電一閃。

 ためらいなく(ひるがえ)された安綱の刃の軌跡を、荒汰はすんでのところでやり過ごした。

 翔んだ――?

 ほんの束の間、戒の視野から完全消滅を果たした荒汰の体は、意外なほど高い位置に躍っていた。

 ビルの隙間を駆け抜ける彼の動きを目にした折、自分は確かにそれを“翔んでいるようだ”と感じたが、その身のこなしから受けるイメージは、あながち間違いではなかったようである。

 それは、“滑空”などと括ってしまえるような、半端な状態ではない。今の荒汰は、誰の目にも明らかなほど、はっきりと宙に浮かんでいるのである。

 とはいえ、この違和感は何だろう。

 浮遊する荒汰の片腕は、闇色の天井に向かって、不自然なほどまっすぐに伸ばされている。

 視えない何かを掌握するように固く閉じられた拳を支点とし、横風に煽られた荒汰の体が、振り子のように右へ左へ揺れている。

 それはまるで、空から垂らされた透明な糸にぶら下がっているかのようであった。

 刹那。

 近い上空に幾筋もの稲妻が走り抜け、目もくらむほどの閃光が四囲を覆っていた。

 稲光の白と夜闇の黒が、鮮烈な錯綜を繰り返す。

 氾濫する光の中で、戒ははっきりと“それ”を視認した。

 荒汰の頭上で悠然と翼を広げる、巨大な一羽の鳥の姿を。


「“式鬼(しき)”、か――!」


 光の中に現れた大鳥は、陰陽師の秘術中の秘術――“式鬼”に違いない。

 強大な霊力を持つ陰陽師は、低位の鬼神を自らの配下とし、いわゆる“使い魔”のように自在に使役することができるのである。

 元より異能者として万能の存在である陰陽師を、更に万能たらしめんとしているのは、まさにこの力の及ぼすところに他ならない。

 転じて強敵となった相手に、どう立ち回る?

 彼をこの場から追い払うのは、考えるまでもなく至難の業だ。深手を負ったまま単独で鵺を仕留めることの方が、よほど容易いに違いない。

 踏み込むか、手を引くか――

 究極の選択が迫られる中で、戒が僅かな逡巡に注意を奪われた、その瞬間のこと。

 上空から、強張った面持ちでこちらを見下ろしていた荒汰の表情が、大きく揺らいだ。

 見開かれた彼の両目は、露骨なまでに戒の足元へ向けられている。

 そこで戒は、初めて“異変”に気が付いていた。


「ひゃっはあ! チョロいんだよ、お前ら!」


 場違いな歓喜の声があがったのは、戒の立ち位置から、数メートルを隔てた地点だ。

 ひときわ甲高いその歓声に、聞き覚えは無かった。

 まさか、新手か――?


「あかん! “あいつ”、俺の張った結界陣ごと全部持ち逃げしよる気や!」


 くぐもった荒汰の声を耳にして、戒はようやく、事の重大さを認識する。

 弾かれるように足元へ目を遣った時にはもう、焼け焦げた体を横たえていた鵺は、蛍光灯の何倍もの明るさを放つ、青白い光の塊へと姿を変えていた。

 やがて拳大の光球へと化身した鵺は、キンと耳障りな高音を残し、鬱蒼とビルの建ち並ぶ路地奥へ向かって、一直線に疾走を始める。


「しまった……!」


 気が付くと、光球はすっかり行方をくらまし、導火線のような細長い光が、戒を(あざけ)(わら)うかのように置き去られていた。

 焦燥に背中を押された戒は、無我夢中で残光の示す軌跡を追い掛け、走り出す――

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