#02 Accident will happen-2
すぐに根をあげるだろうと思っていた。
――それなのに。
予期せぬ展開に苛立ちを覚えていた戒が、渦中の妨害因子に配慮する余裕など、持ち合わせているはずもなく。
むしろ、生半可な配慮など必要ないと思っていた。
歩み寄ってやろうなどという考えは一切持たず、いつもの全力疾走で目標の追走劇を続けてさえいれば、“彼”は数分と立たぬうちに根をあげるに違いないと、そう思っていたのに。
あれから、どれほどの時間が過ぎたことだろうか。
距離にすれば既に、相当な長さを走破しているものと思われる。前方を走る戒から付かず離れずの距離を維持したまま、件の妨害因子――正体不明の金髪男は今も尚、追走を続けていた。
足場を蹴りつける合間合間で横目に捉えた男の様子は、いくら時間の経過を重ねても平常そのもので、疲労感を露わにするどころか、腹立たしいほどの余裕すら伺えた。満身創痍の戒とは違い、彼には未だ、僅かに息を乱した様子さえ見られなかったのである。
緊張感のない奴――
様子を伺うたび、にっこりと屈託なく浮かべられるその笑顔を見ていると、今が切迫した状況であることを忘れてしまいそうになる。
彼は一体何者なのだろうか。
根本的なことは何一つ分からないままであったが、“彼が何故ああも余裕でいられるのか”ということだけに焦点を絞るとするなら、自ずと答えは見える。
持てる脚力を余すところなく生かし、空に程近い地面をひたむきに駆ける戒に対し、彼は“身体を殆ど動かさない状態で移動していた”のである。
走ることに限った話ではなく、日常のあらゆる動作において、無駄な動きを省けば疲労を軽減できるのは自明の理であろう。戒自身、細胞に染み付くほど繰り返された“訓練”によって、最も体力を温存できる全力疾走の方法は心得ている。ところが彼の動きは、地を蹴り、宙を跳躍する――つまり“走る”という動作の概念自体を超越しているように思われたのだ。
彼は先ほどから、進行方向を微調整するとき以外には、全くと言っていいほど地に足をつけていない。
半ば“空を翔んでいる”と言っても過言ではない――その動きを例えるとするなら、最も適切な言葉は“滑空”だろうか。
全力疾走の戒と同じ移動スピードを叩き出しているにもかかわらず、彼の動きはとてもしなやかで優雅で――それはまるで、男の周囲の時間だけが、その流れを緩めているようにさえ感じられるほどであった。
彼の風体がもう少し落ち着いたものであったなら、さぞかし絵になる光景であったに違いないだろう。
しかし、月明かりの下では真っ白く見えるほど色素の抜け切った金色の髪に、けばけばしく耳元を彩るたくさんのピアス。そして、ところどころに派手なネオンカラーをあしらったドレスシャツというファッションセンスは、“雅”というものを語るには少々奇抜さが過ぎるように思われた。
彼は一体何者なのだろうか。
つい先ほども浮かんだばかりの疑問が、間髪を置かずまたも脳裏を埋め尽くそうとしている。
ただ分かるのは、彼がおそらく自分と“同じ側”の人間であるということだ。
男には自分と同じく、妖を視る素質があり、ヒトの領域を超えたモノに対抗し得るだけの力がある。
彼が今、戒の目の前で披露しているこの“滑空”も、その力の一環ということなのだろうが――
「なになに? 何か俺に聞きたいことでもあるんか?」
そんな戒の心持ちを見透かしてのことだろうか。
ニヤリと底意地の悪そうな笑みを浮かべた金髪男が、こちらの真隣の位置へ距離を詰めてくるのが横目に見えた。
どうせまた、うんざりするほど暢気な発言でもするつもりなのだろう――それなら、相手にするだけ時間の無駄というものである。
あっさりと再び“気にしない”方向を選択した戒は、募りゆく倦怠感を溜息とともに吐き出すと、そそくさと前方に照準を固定し直すことにした――簡潔に言えば、“容赦なく無視した”ということである。
ところが、対する男にめげたような様子はない。
それどころか、ますます面白おかしそうに相好を崩した男は、素っ気なく背けられた戒の鼻先を追いかけるようにしながら、こちらの顔色を覗き込んでくる。
「なあなあ。お前、前からずっとこんな事しとったんか? 運動神経ごっつええのは知っとったけど、まさかここまでとは思てなかったわ」
――なんて馴れ馴れしい奴なんだろう。
澪以外の人間と親密な関係を築いた経験のない戒にとって、赤の他人以外の何ものでもない男との現在の距離感は、ただただ不快でしかない。
ほぼ反射的と言っていいほどのタイミングで、目元に鋭い力を込めた戒であったが、感情よりもやや遅れて耳朶に染み入ってきた男の台詞を咀嚼した途端、そんな苛立ちはすぐにどうでもよくなっていた。
「お前、俺のこと知ってるのか?」
端から“聞く耳持たず”を決め込むつもりだった戒に、彼の言葉は全くもって予想だにしないものであった。すぐさま目元にこめた力を解放した戒は、思わず全力で真横の男を振り返る。
「はぁ? お前それ、本気で言うとるんか?」
しかし、戒の反応を目の当たりにした男は、自分の何倍にも増して驚きを隠せない様子である。目尻に向かって緩やかに下がった瞳を何度もしばたたかせ、彼は“信じられない”とでも言いたげに、自分と戒とを順繰りに指差している。
「知っとるも何も――俺ら、クラスメイトやん」
「え――」
こいつ今、何て――?
気が付くと戒はすっかり言葉を失くし、呆然と立ち尽くしていた。
及びもつかない答えを叩きつけられ、ショート寸前にまで追い込まれた戒の思考回路は、現状を咀嚼する術を完全に失っている。
クラスメイト――ということは、彼は戒と同じ“高校生”だということになる。
その上、同じ学校の同じ学年で、同じクラスに通う生徒であったとは――
いや、待てよ。
ここまで来ると、そんな偶然が起こり得るのだろうかと、疑う気持ちも起こってくる。はっきりとした面識はなくとも、ここまで派手な風体の男なら、同じ教室の中に居れば気が付きそうなものだが――
「俺はお前のこと、知らないぞ」
ところが、しばし思案を重ねてみたものの、思い当たる節がない――と言うより、考える意味がないことに気が付いた戒は、すぐさま白旗を揚げざるを得なくなっていた。
正確に言えば、知らないのは彼に関してのことだけではない。
戒には、同じクラスはおろか、学園内で顔や名前を記憶している生徒が一人もいないのである。クラスメイトだなどと言われたところで、記憶に残っていない以上、検証のしようがない。
「知らないぞって――まあ、まともに顔突き合わすんはこれが初めてやしなあ。お前、授業中も休み時間も寝てばっかりやし、放課後も毎日さっさと帰ってまうさかい、一度も声掛けたことなかったし」
何ともむず痒いような心地がしたが、男の言うことに間違いは見当たらない。呆れ顔を浮かべた男が当てずっぽうを言っているようには思えなかったが、やはり自分には、依然として真偽の確かめようがないままであった。
二年と少し前、戒がこの神楽坂にやってきて間もない頃から、おとなしく学生という身分に従事するようになったのは、相棒の澪の勧めがあったためである。高校生というもっともらしい立場を作っておくことで、社会的なカムフラージュを得ようという魂胆があったのだ。
しかし、そこにはそれ以上の意味などなく、学園生活を通して交友関係を広げようとか、勉強に励もうとか、いかにも普通の学生らしいことまでを演るつもりは端から無かったのだが――
「なんで……」
一日の大半を過ごさなくてはならない場所に、自分の最も大きな“秘密”を握る者がいるというのは、どうにもやりにくくて仕方が無い。秘密を秘密のままで置いておくためには、否が応でも、相手と何かしらのかかわりを持たなくてはならなくなるからである。
こんなことになるなら、もう少し周囲に関心を向けておくべきだっただろうか――
どう切り返せば良いやらと逡巡する戒に、べらべらと調子の良い男は更にお喋りを続けようとしていた。
「――居眠りばっかのくせに、何故か成績はトップクラスで、その上運動やらしたら何でも出来るし……自分では無自覚かもしれへんけど、お前結構クラスん中じゃ目立つ方やと思うで」
「そ……それホントなのか?」
「ホントホント。少なくともクラスでお前のこと知らん奴はおらんと思うけど」
気の遠くなるような心地がしてくる。
すっかり元の軽快な調子を取り戻していた男の笑顔がじわじわと白んで見えたのは、おそらく貧血のせいだけではないだろう。
これまで戒が、徹底的と言えるくらいに周囲との関わりを築いてこなかったのは、ただひたすら“目立たぬ存在であり続けるため”であったはずなのに。
男の言い分をまるごと鵜呑みにするつもりはなかったが、少なくとも彼の見解によれば、自分はいつものクラスで“目立たない部類の人間”には入っていないらしい。
戒は強かに落胆していた――全くもって、予想外である。
「お前は、俺の名前を知ってるのか?」
「もちろん」
それでも尚、戒が悪足掻きをやめようとしなかったのは、彼の口から未だ決定的な証言を引き出すことが出来ていなかったからである。
とはいえ、その自信に溢れた表情を見れば、男の証言が根も葉もない嘘である確率は、既に限りなくゼロに近いように思われたが――
「神楽坂学園高校三年七組、久遠寺戒。座席は窓際の一番後ろや」
シルバーアクセサリーの光る人差し指を、止めとばかりにこちらへまっすぐ突き付けた男は、絵に描いたようなしたり顔を浮かべている。
返す言葉も見当たらない――結果は、やはり惨敗のようである。
名前どころか座席の場所まで言い当てられたとあっては、もはや言い逃れは出来そうもない。むしろこちらが相手のことを何も知らない分、不利に立たされていると言える状況かもしれない。
果たして彼は、敵か味方か?
どちらにせよ、お互いが身近な環境に存在している以上、無益に対立することは避けたいが――
すっかり相手のペースに呑まれていることにも気が付かないまま、戒はただあくせくと、憶測と算段とを繰り返していた。
「でも、俺にとってお前は、成績のこととか運動のことより、もっと他に印象深いことがあるんやけど」
両手をあてがった腰をゆっくりと屈めた男は、何やら意味ありげな目遣いで、黙りこんでしまった戒を満足そうに見下ろしている。
もしかすると、他にも何かボロを出してしまっているのだろうか。
いかにも“聞いて聞いて”と言わんばかりの男の話に、まんまと乗せられてやるのはとても癪だったが、胸を煽る不安をそのまま捨て置くよりは何倍もマシであるような気がした。
「何だ?」
精一杯の厭味を利かせる意味合いで、露骨に重たく瞼を据わらせたまま、戒は初めてまともに男と目を合わせていた。
「いやあ――俺らの学校って男子校やんか。そこに何で男装した女の子が紛れとるんかなって」
なんで、そんなことまで――?
そこまでを思ったところで、戒は思わず口をついて飛び出しそうになった言葉を、無理矢理に喉元へ押し返していた。
まともに顔を突き合わせた状態であれば、いくら言葉を飲み込んだところで、焦りきったその表情を隠し通すのは難しかったかもしれない。
けれど。
「久遠寺、左や!」
幸か不幸か。
男の赤茶色の瞳は、既にこちらを見てはいなかった。
それまでのキラキラした笑顔を一変させ、怒声に近い叫びを上げた男が見つめていたのは、おそらく戒の左肩付近であろう。
脳天を突き抜けるような鋭い痛みが、霞がかった戒の意識に鮮明さを蘇らせる。その痛みの因子となるものは、赤黒い染みの拡がる戒の衣服に深々と食い込んだ、鵺の凶牙であった。
なるほど。逃げ切れないと分かって、最後の悪足掻きってわけか。
塞がりかかっていた傷口を執拗に狙ってくるあたり、狂った異形の獣といえど、それなりの知恵は持ち合わせているらしい。
――だけど、所詮は猿知恵だ。
薄く笑みを浮かべた戒は、ありったけの力を込め、左手の拳を握り締めた。
刹那。
筋の深層まで達するほどがっちりと突き刺さっていた鵺の牙が、たったの一瞬で、あたかもコンクリート詰めにされたかのように、収縮した筋肉によって押さえ込まれる。
その事態を予想もしていなかったのか、数瞬遅れてようやく自身の動きを封じられていることに勘付いた鵺は、耳障りな金切り声をあげると、牙を引き抜くことに激しく気を取られたようであった。
静かに瞼を下ろした戒は、深々と息を吐く。
一呼吸を置き、再び戒が両目を見開くのと同時に、薄紫を放つ閃光が、蔦のように戒の全身を走り抜けていた。
大気を揺るがせ、夜のしじまに強烈な破裂音が響き渡る。
その瞬間、異常な勢いで四肢を大きく跳ね上げた鵺は、だらしなく投げ出された長い舌とともに、白濁した泡を吐き出した。
――手応えはあった。
鵺の身体がすっかり弛緩しきったことを確認してから、戒はようやく全身に込めた力を和らげた。
黒焦げになった鵺の牙が、重力に引かれるまま、ごそりと抜け落ちてゆくのが見える――
「久遠寺! おい、しっかりせえ!」
不意に、金髪男の声がとても近いところで大きく震えるのが分かり、戒ははっと目を開けていた。
周囲を見渡すのに目を開ける必要があったということは――当然のことながら、自分は無意識のうちに目を閉じてしまっていたということになる。
脇に横たわった鵺の黒焼きが今も尚、えも言われぬ燻香をあげ、細い煙を立てているところを見ると、おそらくそれほど時間は経っていないものと思われる。
心ならずも、あの軽薄な金髪男の腕に支えられているところを除けば、経過はそれなりに上々といったところかもしれない。
「大丈夫だ。ちょっと怪我で貧血気味になってて」
「それだけ怪我しとったら、退くのも作戦のうちやろ。肝心なときにクラッと来て、取り返しのつかんことになったらどないすんのや」
「そうは言っても――だいたいいつもこんな感じだし」
「とやかく言われとうないんやったら、もうちょっと怪我の少なく済む戦い方っちゅうもんを心掛けんかい。見とる方はハラハラしてしゃあないやろが」
「――そうだな」
確か数刻ほど前にも、他の誰かに同じ台詞を言われたことがあるように思うのは気のせいだろうか。
――なんだ、真面目な顔も出来るんじゃないか。
ニヤついた面持ちを一変させた男は、異性に関することなどてんで興味のない戒から見てみても、なかなか精悍で好感が持てるように感じられた。
もしかしたらこいつ、澪に紹介してやったら喜ばれるのかもな。
目的を果たせた達成感に酔い痴れてのことなのか、それとも――
ふらつきを堪えて自力で立ち上がった戒は、安堵の息を吐き、苦々しく笑みを浮かべていた。
「前に受けてた傷もしっかり止血してあったから、たぶん大丈夫だ。さっきの傷も、思ったより深くないみたいだし」
「止血って?」
「電熱で皮膚とか血管を焼いて、傷口を塞ぐんだ。ヘタな縫合処置より、ずっと早く済むだろ」
「うげ……それってホンマに大丈夫なうちに入るんかいな――――」
塞がった傷口を確認してみるかと指差すと、露骨に表情を引きつらせ、口元を手で覆った男は、全力で真横に首をねじった。
「外科手術とかでは普通にやってることだと思うけど」
「だからそういうのんは、普通麻酔掛けてからやるもんやろ……」
「麻酔かける暇なんてあったと思うか?」
「だ~か~ら~…………あーもう、ええわ」
最初こそ、まだ何か言い足りない様子で唇を尖らせていたものの、ようやっと彼も、これ以上の押し問答に意味がないことを悟ったらしい。いじけたように足元の小石を蹴飛ばした男は、すっかり意気消沈しているようであった。
「そんなことよりお前、何者なんだ? “あれ”を追いかけてたってことは、普通の世界に生きてる人間とは違うんだろうけど、一体俺に何の用が――」
そこまでを言ったところで、戒は背後に生まれた大きな気配に言葉を呑んでいた。
僅かに風向きが違っていれば、気付くことさえ出来なかったかもしれない。
痺れに痺れた左腕に、ドス黒い殺気と焼けた皮膚の匂いが覆いかぶさってくる。
おそらくは、件の獣が息を吹き返し、捨て身の反撃に出たのであろう。
手負いの獣が土壇場で叩き出したスピードは、戒の想像を遥かに凌駕していた。
迫る脅威を避けきることは不可能。ならば、自分に残された選択肢は――
ただ淡々と、ただ無機質に。
僅かな躊躇も狂いもなく、防衛本能が起動する。
中枢から放出された信号が全身を駆け巡ると、戒の冷たい司令塔は、あっさりと“肉斬骨断”を選び取っていた。
左腕は棄てる。
運良く残ったとすれば、先の要領で再び電撃の蔦を見舞ってやれば良い。但し、次こそは仕損じることのないように、出来得る最大限の電圧で応戦しなくてはならない。
もしも左腕を喰い千切られるようなことがあれば――むしろ好都合。腕から離れた身体は自由を得、利き腕から出現させた安綱で斬り掛かることが出来る。
危急存亡を感じれば感じるほど、戒の意識は鋭敏に冴え渡り、寸分の狂いもない精密な演算を組み立ててゆく。
煩瑣な枷でしかない“感情”と“感覚”は、先んじて切り捨てれば良い。そうすればいつも、完遂は易々と手中に転がり込んできた。
――行くぞ、安綱。
肉体の奥底からもうひとつの電波が生まれ、四肢の隅々へ染み入るように還ってゆくのを感じた瞬間、戒はすべての雑念を振り払い、瞳を閉じていた――。