#01 Accident will happen
夜の帳の中を疾走している。
アスファルトの壁。
錆付いたフェンス。
原色の残像をチカチカと振りまくネオンライト。
足場となったそれらを、靴裏でひとつずつ踏みしめる感触を味わいながら、四肢のあらゆるバネをしなやかに伸縮させ、跳躍する。
久遠寺戒は、限りなく夜空に近い場所で疾走していた。
音もなくステップを踏む度に、整然と並び立つ灰色のビル群は、視界の前方から後方へと目まぐるしく流れていった。
いつ終わるとも知れない追いかけっこは、既に小一時間も続いている。
その間、終始戒の前方で幅をきかせていたのは、一匹の異様な獣であった。
戒の視界の中心には、鎌首をもたげた一匹の大蛇がいる。
大蛇の胴を覆う鎧形は、さながらヒトの背骨を髣髴とさせる、不気味な風体をしていた。
艶のない白骨の甲冑は、右へ左へ大蛇の体が揺られるたび、カラコロと下駄履きの足音に似た、怪訝な音を撒き散らしている。鎧の隙間に填まった開きっ放しの眼球は、血のような赤をたたえて、じっとこちらを凝視していた。
異様な風采はそれだけにとどまらない。中でも最も異質であったのは、大蛇の尾の先に“くっついた”、虎縞の毛皮を纏う四つ足である。そして、虎縞模様の端に据えられた、猿と思しき獣の首である。
老婆のすすり泣きに似た薄気味悪い声で鳴き、猿の頭部と、虎の胴体と、蛇の尾を持つ――事前に集めていた情報によると、あの異様なモノは、“鵺”という名の獣であるらしい。
つまり、彼の獣にとって、あの大蛇はあくまで舵取りのための“尻尾”にすぎないということである。ずっと真後ろから追い続けているせいか、戒にとってはあの大蛇こそが鵺の本体のように思えてならなくなっているのだが、意志持つ頭脳に比べてみれば、あれはほんの飾りのような存在でしかないということなのだろう。
今すぐ丸呑みにしてやるぞと言わんばかりに顎をこじ開け、鋭利な牙を見せつける大蛇の様は、脱兎の如く逃げ続けることを選んだ猿頭とは全く別の、独立した闘争本能を持っているように思われてならないのだが――
もしもそうだとすれば、たった一つの容れ物に二つの心を詰め込まれた彼らには、いったい世界はどのように見え、どのように聞こえているというのだろうか。
――どうにも、不可解である。
「くっ……」
他念するうち、ふと頭の芯を急激に揺さぶられるような感覚をおぼえた戒は、僅かに呼吸を乱していた。
まずい――少々血を流しすぎているかもしれない。
左肩に負った深手が、ジンジンと痺れるように疼いている。
痛みと共に、じわりじわりと狭まってゆく視野はまさに、間もなく訪れる刻限を知らせるものであろう。
そろそろ、蹴りをつけなくては。
焦燥を振り払おうと首を振った戒は、いよいよラストスパートをかけようと、鋭く瞳を凝らした。
『――戒? さっきからずっと黙っちゃってるけど、大丈夫?』
刹那、左耳に仕込んでいたイヤホンを伝わって、覚えのある音が届いた。
「澪、ごめん。ちょっと目標に集中してただけだ。あと少しで追いつくよ」
『そう? それならいいんだけど』
聞き慣れた穏やかな声は、力みきっていた四肢に、大きな安堵と冴えを蘇らせてくれる。
自然とほころんでゆく口元はそのままに、戒はただ、イヤホンの向こうから伝わってくる安らぎの音に耳を傾けていた。
『油断しないでよ、戒。また怪我とかしてないでしょうね?』
「怪我?」
相棒の言葉を反芻した戒は、しばし逡巡していた。返す言葉を決めあぐねていたのである。
とかく、無二の相棒――久遠寺澪は、心配性である。
戒にとって、現状程度の負傷は日常茶飯事とすんなり受け入れられるレベルのものなのだが、澪にとっては全くもって違うらしい。
おそらく今、ありのままの現状を伝えたとすれば、彼女から自分に下される命令は“即退却”の一択だろう。
けれど、苦心して追い詰めた獲物を、この程度の怪我でみすみす逃してしまうのはとても惜しい。
かと言って、現状を誤魔化してみたところで、後々雷を落とされることは目に見えている。
目標達成を取るか、落雷回避を取るか。
最も避けたいのは、獲物を逃がした挙句に説教という、踏んだり蹴ったりのパターンだが――
しかしながら、毎度思案してはみるものの、考える意味などないことはよく分かっている。何故なら戒は、どのような苦境に立たされていようと、端からいつも、選び取る選択肢をひとつに決めてしまっているからである。
「そりゃ、多少はしてるけど……ちゃんと処置出来てるから大丈夫だ。今のところ何も問題は起きてない」
『本当に? “死にそうになってなければ大丈夫”って考えはいい加減改めなさいよ。毎回言ってるけど、あなたの言う軽傷って、普通の人間の重傷と変わらないんだから。私に止められたくなかったらね、ちょっと立ち止まって、無傷で戦い抜ける方法を考えなさい。思いつかなかったら、おとなしく退くのよ』
「うん……気をつけるよ」
――今更もう、遅いと思うけど。
心の中で呟いた戒は、帰宅ののちに癇癪を起こす相棒の姿をありありと思い描きながら、幾度目かの嘆息を零した。
ここはやはり、早いうちに蹴りをつけなくてはならない。
再び決意を固めた戒は、異形の獣に王手を掛ける術を見つけるべく、ぐるりと四囲を見渡した。
「――ん?」
何気なく目をやった眼下の路地に、見慣れぬ人影を認め、戒は思わず声をあげていた。
せっかく追い詰めた目標を見失ってしまったのでは、これまでの努力が全て水泡に帰してしまう。出来るなら、目標以外の対象を注視するのは避けたいところなのだが、その人影は、どうしても捨て置くことのできない有様だったのである。
あいつ、俺の存在に気が付いてるのか?
戒の跳躍の叩き出すスピードは、陽の光の照りつける日中ならばともかく、常人が闇の中でまともに目視できるものではないはずである。
ところが、眼下を走る金髪の男は、こちらの存在に気が付くばかりか、戒と目を合わすや否や、にこやかに眦を下げて手を振り始めたのである。
「なあなあ! ちょっとそこで立ち止まっといて貰えん? 俺もすぐそっち行くさかい!」
何だ、あいつ?
待てと言われて素直に待つはずがない。ようやく今、長い長い追いかけっこを収束させられるところまで辿り着けたというのに。
『――どうしたの?』
再びイヤホンの向こうから、澪の声が響いてくる。
不安げなその声を耳に入れた途端、戒は即座に、眼下で目撃した顛末の全てを“無かった”ことにした。
「何でもないよ。変な奴に声を掛けられただけだ」
『え――何それ、ナンパってこと?』
「そんなわけないだろ。相手は男だよ」
『分っかんないわよー。世の中いろんな人がいるからね』
「どっちにしろ、どうでもいいから無視することにした」
『いい男だったら、私に紹介してくれてもいいわよ』
「うーん、どうかな――俺にはよく分からないけど」
喧騒の真上を疾走していた先ほどまでとは打って変わって、ここはとても暗い。
現在、戒が空中散歩の舞台としているこのオフィス街は、煌びやかなネオン街を抜けた先にある。夜半に差し掛かると極端に人の往来の少なくなるこの区画には、不穏な雨雲の隙間から僅かに顔を出した満月を除けば、光源となるものは殆ど存在していなかったのだが、“暗視”の訓練をみっちりと受けさせられていた戒には、何の問題も無かった。
もう一度横目に捉えた男は、相変わらず脳天気な笑顔を振り撒きながら、今も尚こちらへ向かって何やら叫んでいる。
いくらここが人気の少ない場所だとはいえ、あのままあいつが大声を張り上げ続けていたら、他にも自分の存在に気が付く人間が現れるかもしれない。
そうなってしまえば、取り返しがつかないほど面倒な事態に陥る可能性がある。
「ごめん、澪。ちょっと問題が起きたから、また後で連絡する」
『え? ちょっと、何があったの? 問題って――』
まずはあいつを黙らせることが先決か――
相棒の言葉が、未だ何事か続けられていたにもかかわらず、一方的に携帯電話の電源を落とした戒は、はたと跳躍をやめ、足元にあった電柱のてっぺんを蹴りつけて、金髪男の待つ街路へと降り立った。
「――何だ、お前は」
「そんな怖い顔せんといてえな。俺、お前の邪魔する気はさらさらないんや」
金髪男は取り繕うようにひらひらと手を振っていたが、焦りも恐怖も感じさせない相変わらずの暢気な態度を目の当たりにした戒は、沸々と募っていく怒りの感情に、抗う術をなくしかけていた。
もう既に、今すぐ消し去ってやりたいと思うくらい邪魔になってるのが分からないのか。
討ち取る寸前の獲物をみすみす逃がしてしまうかもしれない可能性を思うと、自然に眦が吊り上がっていくのを感じる。
「お前は誰だって聞いてるんだ」
「お前、ごっつ足速いねんなあ。ここまで追いつくの必死やったんやで。普通に走っとったら到底追いつけんとこやった」
それは、不安定な戒の心をどうにか胸の真ん中にとどめておくための、ただひとつの“楔”であったに違いない。
体の奥から何か大きなものがごそりと抜け落ちる感覚をおぼえた途端、理性よりももっと原始的な衝動に突き動かされた戒は、考えるより速く動いてしまっていた。
「質問に答えろ」
気がつくと戒は、感情の赴くまま、鈍色の切っ先を突き出していた。
金髪男の喉元数ミリ手前へ、ぴたりと突きつけたその刀は、戒が妖を狩る際、愛用している武器のひとつである。その名を、“童子切安綱”という。
俗に言う“天下五剣”の一振りとして数えられる刀と名を同じくしているものの、持ち主である戒自身にも、実在のそれとの因果関係はよく分からない。
ただ分かっているのは、この刀が、この世に生を受けた瞬間からずっと共に在り続けてきた、戒の“半身”であるということ――それは決して比喩的な意味などではなく、事実として戒の体の一部であるということだ。安綱は平時、戒がその力を必要としていないときには、戒の存在そのものを“鞘”とし、戒自身の体内で“共生”しているのである。
その奇々妙々な共生関係を裏付けるかのように、鞘から飛び出した安綱と戒の右手は、無数の血管と皮膚組織とで繋がれている。当然のことながら、思い切り腕を振ってみたところで、安綱の柄が戒の手からすっぽ抜けることはなく、また、刀身に傷が付けば、戒自身も痛みを感じる仕組みになっている。
更に、時折安綱からは、痛みや熱さなどの外的な刺激以外にも、電気信号のような“目に見えない何か”が伝わってくることがある。感覚的なものでありすぎるせいか、言葉として形にすることは難しいが、戒はそれらを安綱の持つ“感情”なのではないかと捉えている。
彼――その性別が“男性”であるような気がするのも、安綱から伝わってくる感覚を自分なりに咀嚼した上での想像にすぎないので、これもまた酷く概念的な考えであることは確かだが――の名を“童子切安綱”と呼んでいることも、何かしらの感覚でもって、他ならぬこの刀自身がそう名乗っているように感じられたことが始まりなのであって、宿主の戒が名付けの親となったわけではない。
実際戒が、古の昔、大江山に巣食っていた鬼の首領“酒呑童子”の首を刎ねたとされる同銘の刀の逸話を知ったのは、ごく最近になってからの話であった。
「お……おいおい、いきなりそれはないやろ? ほれ、見てみ。俺はこの通り丸腰やで?」
おそらくこの男には、肉を掻き分ける音と共に、安綱が戒の右手からその姿を現す瞬間がはっきりと見えたことだろう。
これにはさすがの浮かれ男も、暢気な態度を改めないわけにはいかなくなったようである。
男は、それまでずっと布切れか何かのようにひらひらとさせ続けていた両手をぴたりと静止させると、大げさなほどの音量で、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「そんなことより、いつまでもゴチャゴチャやっとったら、逃げられてまうよ?」
言えた立場か。
戒がぎろりと眉間に力を込めた途端、金髪男はますます怯えたように仰け反ると、苦笑いを零した。
「とりあえず、むつかしい話はあいつを捕まえてからにしよか。絶対に邪魔はせえへんって約束するさかい、な?」
どうあってもこの男は、自らが既に立派な妨害因子となっていることを、自覚するつもりはないようである。
何だかこっちがいちいち突っ掛かってるみたいで、怒るのが馬鹿馬鹿しくなってきた――
安綱を引っ込めるのと同時に、“次に邪魔したらタダではおかない”と前置きを突きつけ、戒は再び鵺の去った方角へ疾り出すことにしていた。