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Guilty Dependance  作者: タチバナ ナツメ
#Episode:1 What is evil ? - Whatever springs from weakness.
1/5

#00 Prologue

 湿った風が髪を撫で付けている。

 重く圧し掛かるような暗雲が街を覆い隠し、時折鋭く雷鳴が轟いていた。

 どうやら雨が近いらしい。

 突如として差し込んできた痛みに、思わず長身の男は、なだらかな眉山を(いびつ)に跳ね上げる。水平に走った首元の古傷をそっと抑えると、鋭利な疼きは緩やかに小さくなっていった。


「やっと見つけた……」


 そこからは街じゅうを見渡す事が出来た。

 近代的な高層ビルの谷間から覗いているのは、(いにしえ)の都の面影を残す、神さびた巨大な鳥居。霊験あらたかな仏閣の傍らに錦を織り成す、桜並木。

 しかし、喧騒の繁華街からほんの僅かに外れた路地裏をちらりと窺い見てみれば、そこにはアンダーグラウンドな別世界が広がっていたりする。

 カビ臭さと埃にまみれた路地の側壁は、これでもかと言うほど、けばけばしい原色のスプレー塗料によって蹂躙されている。その壁のすぐ側を、胡乱(うろん)な目つきの若者が、ふらふらと覚束ない足取りを引き摺るようにしながら通り過ぎていく。千鳥足の若者に突き飛ばされ、無様に地面へと転がされたゴミ箱の中から飛び出してきたのは、くたびれた毛並みを引っ提げた野良猫だ。


 いや――待てよ。


 今しがたゴミ箱の中から飛び出したのは、本当にただの野良猫だっただろうか。


「最近の猫は、尾が二股に分かれてるのも居るんだったかなあ――なんてね」


 細長い指をくるくると回し、彼は薄い唇を持ち上げて(わら)った。

 男は今、街で一番の高さを誇るビルの屋上に居る。激しい暴風をものともせず、ガタガタと震えるフェンスの上に腰掛け、街を見下ろしている。


「ここは、とてもいい風が吹くなあ。雨と雷と、鉄錆の匂いがする」


 日本全土に“古都”と呼ばれる場所は数多くあるが、その中でもここ神楽坂市(かぐらざかし)は底抜けに異質だ。神聖な霊廟が街のいたるところに乱立しているにもかかわらず、そのすぐ傍らには深い深い闇が息を潜め、今にもその台頭を(くつがえ)そうと機を窺っている。

 光と闇のせめぎ合う街。相容れぬ力の拮抗する、渾沌の地――それが神楽坂だ。


「君と僕が出逢う場所としては、まさにお(あつら)え向きの舞台だね」


 硝子のように透き通った碧眼を光らせ、彼は唇を舐める。


「待っててね、必ず見つけ出してあげる。そうしたら、僕は君を――」


 俄かに、頭上から篠を突くような大雨が零れ落ちてくる。突然の横槍に目を見張った男は、再び空を見上げていた。




*****




「もしもし――おう、順調や。せやなあ……このまま行ったら、“あれ”踏ん縛るまでにはあと小一時間っちゅうとこか」


桜雨(さくらあめ)”とは、桜の季節に降る美しい雨を指す言葉であるらしい。

 しかし、現実のところを思うと、それは大して美しい情景でもないのかもしれないと、彼は常々思っていた。

 桜の頃の空模様といえば、春の嵐――ちょうど今のような、雷鳴轟く鈍色の空が、最も強く思い浮かぶ。

 しとしとと降り続く雨に打たれる満開の桜を目にすること自体は、(おもむき)もあっていいものなのかもしれない。けれど、“卯の花(くだ)し”という言葉があるように、止まない雨は、咲き乱れる春の花を腐らせてしまうだろう。

 霖雨が引き上げた後の、鮮やかな薄紅の衣をすっかり散らせた憐れな木の姿を思うと、それは――――


『おい、聞いているのか! まさか、何かあったのではないだろうな?』


 電話の向こうから、鼓膜を(つんざ)くような怒声が響いてきた瞬間のこと。通話相手の男が青筋を立て、眉間に深く皺を刻む様が脳裏にちらついた気がして、彼ははっと顔を上げていた。


「悪い悪い。ちょっと気になることがあったさかい」


 手の中からするりと零れ落ちそうになった携帯電話をあたふたと掴み直し、男は金色の短い髪をぼりぼりと掻きながら、苦笑いを浮かべていた。


『気になること?』


 狭い路地の脇という不自然な立ち位置で、異常なまでの強い存在感を醸す真紅の大鳥居を見上げ、男は瞳を凝らしていた。薄暗い街灯に照らされた大鳥居は、確かに遥かな年代を重ねてきているというのに、どういうわけか塗装の劣化も材質の風化もほとんど感じられないほど、陸離として原色の光彩を放っている。


「俺以外にも、“あれ”を追いかけとる奴がおるみたいなんや。まあ……なんぼ言うたかて、俺は獲物を横取りされるようなヘマなんぞやらかすつもりはあらへんけどな」

『そうか――お前が言うなら間違いはないのだろうが、くれぐれも無茶は止めておけよ、篠崎(しのざき)

「お? 何や、心配してくれとるんか? やっぱり学級委員長っちゅうのは掛ける言葉の深さがちゃうなあ、(せい)ちゃん」


 しばしの逡巡があり、電話の男が深い溜め息を漏らす音が聞こえてくる。

 いつもの彼なら、おそらく目を三角に吊り上げて怒り出す頃合いなのだが――いい加減彼も、いくら叱咤怒号を飛ばしたところで、こちらには少しも堪える様子がないということを学習したのであろうか。


『何が目的だ? お前に褒められると虫唾(むしず)が走る。くだらん事を言っている暇があるなら、目の前の獲物に集中しろ。それから、その気色の悪い呼び名を今すぐ止めろ』


 しかし、彼の言葉の端々には、消化不良の怒りによる揺らぎが顕著に表れているようである。どうやらまだまだ自分には、“依頼者”である彼を手玉に取るだけの余裕は残されているらしい。


「任しとけや。何ちゅうたって俺は、天下一の――――あれ?」


 こちらが言葉を締め括る前に、とうとう依頼者の男は痺れを切らしてしまったようである。いつの間にか、スピーカーの向こうから跳ね返ってくるのは、無機質な電子音のみとなっていた。


「何ちゅう無愛想な奴や……まあ、ほんなもんは(はな)から分かっとったことやけど」


 自然と下がってくる瞼を無理矢理持ち上げる。気がつくと彼は、先ほどの電話の男に負けず劣らずの深い溜め息を零していた。

 気を取り直し、新調したばかりのポロシャツの胸ポケットに携帯電話を仕舞い込む。再び男は空を見上げ、アスファルトの灰色で塗り固められた四囲をじっくりと見回した。

 すると、そこには予想通り、彼の“捜しもの”と、それに追いすがろうとするもう一つの人影が、狭まった路地の隙間を縫うようにしながら、疾風怒濤の勢いで駆け抜けていく姿が見えた。


「さて――ほんなら、お手並み拝見と行きますか」


 知らぬ間に、雨脚はすっかり遠のいてしまったようである。この調子ならばおそらく、まだ幾日かは桜の拝める日もあるに違いない。

 にっこりと微笑んだ男は、二つの影に追行しようと、静かに駆け出していた。

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