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第二話 幼馴染との喧嘩

 エセルは川辺の草原に寝転がっていた。そろそろ辺りも暗くなり始め、星がぼんやりと夜空に浮いている。まだ冬の寒さの残るこの時期は夜になるととても寒い。エセルはコートのポケットに手を入れ、漆黒の空を見上げていた。

『私は皆とは違う。ずっとエセルの味方なんだから……』

 チェリーの、あの少し恥ずかしそうに頬を赤らめた姿が自然と目に浮かぶ。

「……そういや前にも……」

 あの事件があった直後もチェリーはそんなことを言っていたような気がする。これでチェリーの忘れないでという言葉と辻褄が合った。

「あっちゃー……やっちゃったな」

 あの怒りっぽいチェリーが言った大事な言葉を思いっきり忘れてしまっていたのだ。先程はあれで収まったものの、次同じことを繰り返したりでもしたら……ただで済まないことは目に見えている。

 しばらくチェリーが怒りに任せて暴走するという残酷画を描いていたが、やめにした。あれこれ予想しても、所詮現実がそれ通りになる確率は低いだろう。相手があのお転婆チェリーなら尚更だ。

「にしても……」

 先程のチェリーの怒号は何だったんだろう?

 どれもこれもエセルを侮辱するような言葉ばかりだった。最終的には綺麗にまとめたけど、果たしてそれがチェリーの本心なのだろうか?

 ウェールズを助けに行って。

 エセルにはそう言っているように聞こえた。

 チェリーの言葉が脳裏をよぎる。

『思い付いたことはすぐに実行する。それが本来のエセルだってこと、私は知ってるから』

 では、今の自分は思い付いたことを実行していないのだろうか?

 本来の自分ではないのだろうか?

『きっと、普段のエセルならそうしてる』

 じゃあ普段の自分とは何なのだろうか? 明るい自分か? 素直な自分か? 純粋な自分か?

「ああもう、わかんねぇよ……」

 結局どれもこの言葉に尽きる。

 わからないことばかりが先程から頭の中でぐるぐると回っている。

「はぁ……」

 考えるのは自分の分野ではない。

 エセルは頭の中を空っぽにしてため息をつくと、重い瞼を閉じた。

 今日はこの川辺が寝床となる。川の流れに耳を澄ませながら、エセルは心地よい風に身をさらした。

 ――ウェールズはどう思ってんのかな……。

 意識が闇に呑まれる寸前、エセルはそんなことを思った。




「……ル……ルっ……もう! エセルってば起きてよ!」

 不意に頬に猛烈な痛みを感じ、エセルは飛び起きた。

「なっ、なにすんだよ!」

 つねられた頬を撫でながら傍にいたチェリーを睨む。彼女は手を腰に当ててふぅとため息をついていた。

「やっと起きたわね。もう何度呼びかけても返事がないから死んだかと思ったじゃない」

「俺を勝手に死なせるな」

 寝ているところを襲ってしかも不吉な言葉を向けてきたチェリーは、それでも反省していない様子だ。その姿にむっときてエセルは顔をしかめた。

「それで、何の用なんだよ」

 不機嫌に眉間にしわを寄せる。チェリーが思い出したように手を打った。

「ああそうだった。あのね、あいつらの情報を掴んだのよ! 潜伏場所だってわかったわ!」

「え? あいつら?」

 あらかさまに興奮するチェリーに気の抜けた声を上げると、きっと睨まれてしまった。

「不死鳥一族よ! ウェールズをさらっていった奴ら!」

 声を張り上げて話すチェリーの言葉にエセルは跳ね上がった。

「う、嘘だろ!? 何で今更そんな情報が……」

「知らないわよ。私だって今聞いたばっかだし……とにかく、ちょっと来て!」

 未だ納得がいってないのに半ば強引にチェリーが腕を引いてきた。仕方なくエセルはチェリーの後を追って行先のわからないまま走る。

 着いたのはエセルが育った家、つまりチェリーの家の玄関だった。

「おじさん待たせてごめん。連れてきたからその話をこいつに聞かせて」

 チェリーが玄関に立っていた男にそう言い寄る。男の着ている継ぎ接ぎだらけの粗末な服を見て、エセルは眉をしかめた。男の隣には大きな荷物がどんと置かれている。

(行商人か?)

 首を傾げながら男に視線を戻す。

「ん? ああ。わかった」

 チェリーの要望に素直に頷くと、男は地べたに置いてあった大きな荷物を指差した。

「俺は行商人なんだがな、先の町で不死鳥の噂を聞いて興味があったもんだからそれについて調べてみたんだよ。そしたらどうも不死鳥の群がこの国に来ているらしいんだ」

「それ……本当か?」

 男の軽い物言いに信用が持てず堪らず聞いた。男は不満に顔をしかめることもなく答えてくれた。

「ああ。町の人の話を聞く限り本当だよ。俺も聞いたときは驚いたがな」

 だが男に確認を取ってもまだ半信半疑だった。

 ウェールズがさらわれてから、エセルはウェールズをさらっていった不死鳥一族の情報を集めた。山に囲まれたこの村では情報が来ない。鳥使いならば鳥を使って近くの町に行くのは容易いが、鳥使いをやめてしまったエセルにはできず、わざわざ足を使って山を越えた所にある町や村へ行っては聞き込みをした。

 それでも不死鳥一族の情報は何一つ集められなかった。

 だが、今になってその情報がエセルの元へ来るということはどういうことなのか?

「……それで、潜伏場所はどこなんだ?」

 内心の疑問をあえて言わず、必要な情報を男から聞き出す。

 事情を知らない男は悠長に話し始めた。

「北東にあるグリードの森って所だ。グリードの森には新大陸から来た移住生物が多く住んでて大抵の人間は近づかないから、発見するのに遅れたんだな。もう移住して何年か経ってるそうだ。もうそろそろ奴らも他の所へ移動するんじゃねぇか? 高い知能持ってる奴ら不死鳥なら、一か所に長居しようとは思わないだろ。長居すればするほど、それだけ自分達のテリトリーを他の奴らに教えてしまうもんな」

「グリードの森……」

 小さく囁く。その名は前に聞いたことがあった。新大陸育ちの生物が多数移住していて、とても危険な森なのだという話だ。

(そんな所にいたのか……)

 だがあり得なくもない。男の言うこともあるし、エセルもグリードの森にいるかもしれないと一時森について調べたことがあったのだが、情報はほんの少しだけしか手に入らなかった。つまりそれだけ森から生還できた人間が少ないということだ。男の筋は合っている。

 だがなぜ今頃になって……

「……もういいか?」

 エセルが黙り込んでいると、男が痺れを切らしたように顔をしかめた。

「あ、はい。ありがとうございました」

 チェリーが浅く礼をし、エセルもそれに倣う。男は大きな荷物を背に担ぐと山の方へ歩き出して行った。

「エセル……」

 チェリーが不安げな瞳で見上げてきた。そんな目を見ていられず慌てて視線を泳がす。

「時間がないのよ。早く決断しないと。折角巡ってきたチャンスなのに……」

 万が一不死鳥一族が今の場所を移動したときのことを考えたのだろう。悔しそうに唇を噛み、チェリーは口籠った。

『きっと、普段のエセルなら――』

 昨日とは一変して頼りないチェリーを見ていると、不意に昨日の彼女の言葉が蘇ってきた。

 チェリーは昨日、本来のエセルや普段のエセルという、過去のエセルのことを言っているようだった。

 では、今のエセルはどう思っているのだろう?

 唐突に好奇心に駆られた。

「……チェリーは今の俺をどう思う?」

「え? なによ急に……」

「いいから」

 突然の質問にチェリーが戸惑ったが、エセルは半分強引に詰め寄った。チェリーは不思議そうな顔をしながらも黙った。どうやら必死で言葉をまとめているようだ。

(どう、思ってるんだろう?)

「私は……」

 ためらいがちにチェリーが口を開いた。

 覚悟し、エセルは耳を澄ませる。

「私は、今のエセルは自分を失くしてると思う。きっかけはウェールズのことだと思うけど、自分で自分の首を絞め続けるなんてエセルらしくないもの」

 まるでこちらの反応を見るように、チェリーはゆっくりと言葉を紡いでいく。それをエセルは決して聞き逃さないように耳を傾けながら見守る。

「責任を感じているのなら、今エセルがしていることは道理に適ってないと思うよ。……昨日も言ったけど、私はエセルにウェールズを迎えに行って欲しい。この状態のまま二人の絆が消えてなくなっちゃうなんて、嫌だもん」

「そうか……」

 チェリーの瞳は本当に単純に二人の仲が悪くなるのを嫌がっているようだった。純粋な光を宿す瞳を見ていられず、エセルは目を逸らした。

(そうか。チェリーは……)

 彼女は今のエセルに本来のエセルに戻って欲しいと言っている。

(でも……)

 わからない。

 何が?

 その意味自体がだ。

 そもそも本来のエセルというのがわからない。

 自分は何をしても自分ではないのか?

「ねぇエセル。どうしちゃったのよ。らしくないわよ」

(らしいとか……本来とか……)

 チェリーが心配そうに顔を覗き込んでくる。

(ごちゃごちゃと……)

 心配してくれる人にはありがとうと言うべきなのに。

 今はそれさえも敵視してしまう。

「……ねぇ。最近おかしいわよ、エセル。本当にどうしたの? 具合でも悪いの?」

(おかしい? 何が? どこが?)

 内心で次々に呟かれる疑問を声に出さないように制御するので精一杯で、体が硬直してしまっている。

 チェリーの、言わば負の感情で溢れた瞳が間近にあり、それがしきりに揺れている。

「大丈夫?」

(だから俺は……!)

「……らしくないとか普段のエセルとか、何なんだよ……」

「え?」

 きょとんとした顔でチェリーが見てくる。

 何か奥で、張り詰めていたものが切れた。切れてしまった。

 次々にある感情が体を満たしていく。

(俺は正常なんだよ!)

 怒りだ。

「俺は俺なんだ……」

 低い声で唸るように脅すように小声を吐く。チェリーの手がこちらに伸ばされる。

「エセ……」

「他人にどうこう言われる筋合いなんてねぇんだよ!」

 自分でも驚くほどの大声が出た。進行していた手が止まり、チェリーがびくんと体を震わせたのが見えた。

 彼女の瞳孔が一瞬で縮まる。

 驚きと怖さ。

 それが今、口を半開きにさせたままの彼女を硬直させている理由だろう。

(知ったような口を、言うな!)

 驚く程の速度で怒りが体中に浸透していくのがわかった。

 止めたい。でも止まらない。

「お前にはわかんのか!? 俺がどんだけ辛い思いしてるか!」

「そ、そんなの……」

 何かを言いかけるチェリーの声を黙殺し、怒りのままに声を張り上げた。

「わかんねぇだろ! はっ。所詮人なんてそんなもんだよな。人の気持ちを知ったような口きいて、それで相手をわかった気になってやがる! 例えそれが小さい時からの幼馴染だったとしても変わりは――」

 突然乾いた音が辺りに散らばった。同時に頬がとても熱くなる。

「ふざけないで……」

 エセルの頬を平手打ちした手を握り締め、チェリーが驚くほど低い声を放った。思考と体がまるで氷水に当てられたかのように冷えて行く。

「じゃあ、私がどれだけあなたのこと心配したかわかる? 私が……私がどれだけ……!」

 それから先は言葉にならず、チェリーの口に押しとどまった。その姿にエセルは言葉を失う。

「……いいエセル。あの事件はあなたにとってとても辛いことだったわ。だけど!」

 チェリーが突然声を張り上げ、顔を上げた。

「エセルだけが苦しんでるわけじゃないの! あの事件で皆苦しんでるのよ! それを、自分だけが苦しんでるようなこと言わないで!」

 エセルは思わず息を呑む。

 その瞳からうっすらと涙が頬へと線を描いていた。

「もう……知らない!!」

 チェリーが体の横を駆け抜けて行く。

 それを止めることもできず、エセルはただその場に立ち尽くした。




「あぁ〜あ。やっちゃった」

 樹木の枝木に立って二人の様子を見ていた赤い髪の女性が不意に残念そうに声を上げた。癖っ毛の長髪は生意気に跳ねまくりながら、その美貌と魅力を感じさせる肉体を飾っている。

「……レベッカ、自分の子どもらにその言葉はないだろう」

 女性の隣に座る初老、ジェイクは顔をしかめ、遠くの二人から目を外すと女性に疑念の視線を送った。威厳を感じさせる、その歳には不釣り合いな程に引き締まった顔が向けられているにも関わらず、レベッカと呼ばれた女性は振り返るとその視線を平然と受け止めた。

「だって、他にこの状況にピッタリの言葉ってある?」

「少し考えればそんなの幾らでも出てくる。適当な言葉で自らの失態を誤魔化すな」

「って言っときながら自分だって誤魔化してるじゃない。父さんのそういう所、直した方がいいと思うけど?」

 レベッカが忌々しそうに眉をひそめる。だがそれを全く気にかけることもなく、ジェイクは口の端を歪めて鼻を鳴らした。

「お前に言われる筋合いなどない。減らず口を叩くな。全くお前に付き合っていると疲れる」

「それが実の娘に言うセリフ? まったく堅物にも程があるわよ」

 落胆したように肩を落とし、レベッカは額に手を当てため息をついた。そして例の二人ではなく、どこか遠くを見るように山々を見据える。

「……それにしても困ったものね。あの行商人の話が事実なら、そうゆっくりやってられないのに……何やってんのかしらあの子達は」

 そう言ってレベッカは再び苦いため息をつく。

「事情が事情だからな。……だからといって手助けしてやるつもりはないが」

 同情した風に言ったかと思うと、ジェイクは突き放すように憎々しく顔を歪めた。それを見たレベッカが嘆息する。

「父さん……いい加減許してやってもいいのに。エセルだって反省してるんだし……」

「否、俺はあやつを認めるつもりはない。それはこれからも変わらん事実だ……あいつが本当の意味で自分の犯してしまった罪に気づくまではな」

 最後の言葉の意味を察し、レベッカは苦笑した。

「そう。……エセルは厳しい道を選んだものね。まぁ選ぶも何も、父さんが拾った時点で道は決まっていたのかもしれないけど」

「……あやつの過ちを俺の所為だとでも言いたいのか?」

「ち、が、い、ま、すっ。もう、勝手に被害妄想しないでよ。迷惑だから」

 ジェイクの不満たっぷりの目が凝視してきて、レベッカは呆れ気味にそれを撥ね退けた。知ったことかとでも言いたそうにジェイクは顔をしかめてレベッカから視線を外し、再び二人……今はチェリーが去って一人になったエセルを不服そうに眉をひそめて眺めた。

「……あやつ、力が落ちているな」

 不意にジェイクがぽつりと言った。赤い長髪を揺らしながらレベッカが振り返る。

「これほど近くに俺達がいるというのに、目も向けてこない。いくら俺達が気配を消しているとはいえ、以前のあやつならこの程度のことは気付けたはずだ」

 これほど近く、と厳つい顔は言うが、実際は二人がいる樹木からエセルのいる場所は直線距離でも二百メートル以上は離れている。普通の人間なら上葉に日光を遮られ、周囲より一段と暗いこの樹木は眼中にも入らない。……のだが、彼ら鳥使いには見える。たとえそれは頭文字に元が付くエセルであろうとも変わりはない。

 レベッカがジェイクを見て呆れたように首を横に振った。

「まったく父さんは……できるできないはエセルの今の心境を察すればわかることでしょ? ただでさえウェールズのことで精神が不安定な状態なのに、チェリーが平手打ちなんてするから尚更混乱してるのよ。……理解できる?」

「できん」

「だよね。少しでも父さんに期待した私が馬鹿だったわ」

 あまりにも早いジェイクの即答にレベッカは目を背け、再び遠くのエセルを見た。未だ硬直して動く気配のない彼を眺め、レベッカはジェイクに向き直る。

「……で。どうする? この問題。父さんに関わる気がないんだったら、私が勝手に蹴り着けちゃうけど?」

「む……」

 唸り声をジェイクが漏らす。レベッカは子どもをあやすように優しく目を細めた。

「少しくらい素直になったら? 父さんが素直になって咎める人なんて誰もいないんだから。ね?」

 心に直接語りかけてくるようなレベッカの温厚な言葉。が、そんな彼女の気遣いをも蹴退けるようにジェイクは厳つい顔を強張らせた。

「……あやつとは最早師弟の関係を捨てたのと同じ。これは部外者が口を出す問題ではない。方はお前がつけろ。……俺は仕事があるから行く。後は任せたぞ」

「こっちだって忙しんだけどー。ってもういないし。逃げたな」

 さっさと消えてしまったジェイクにレベッカは嘆息した。

「もう、両方素直になったらいいのに……エセルにも父さんの堅物が移ったのかしらね?」

 唖然としているエセルを見てレベッカは素直な感想を口にしてみる。元々エセルは正直者だったのだからジェイクよりは堅くないはずだ。やろうと思えばその堅さをほぐすことはできそうだが……どうやらそんな時間はなさそうだった。

「エセルのためにもウェールズの所に行かせてあげたいんだけどねぇ。当の本人がそのことに躊躇しているとなるとなぁ……もう強引にいっちゃおっか?」

 言ってみるものの、果たしてそれが本当にエセルのためになるのか? 正直不安なところだ。それにチェリーのこともある。先程のあの状態のままエセルを無理に旅立たせてしまえば、本人はもちろんチェリーも後悔するだろう。その時の彼らの顔は見たくない。

(私も母親ね)

 自嘲するつもりではないがそれでも薄笑いを浮かべてしまう。チェリーが生まれ、そしてエセルの養母になる前は何でも自分優先だった。それが今では過去の自分のその思考を思い出すこともない。性格とはここまで簡単に変わるものなのかと自分でも驚いている程だ。

「ってそうじゃなくて。あの子達よあの子達」

 外れた思考を頭の隅に追いやるために頭を振ると、レベッカは再び考えに耽り事を整理した。

 まずエセルだが、見るからして彼は未だ自分の気持ちを整理できていない。時間をかければいずれまとまることだろうが、今は彼にその時間を与える事は実現不可能だ。

 チェリーはエセルの思いがウェールズを助けることに向かうように、その心理に拍車をかけようとしている。以前からエセルとウェールズを見守ってきた彼女のその気持ちはわからないでもないが、だからと言って彼女の行動が正しいとは言い切れない。精神状態が不安定なエセルのことだ。完全にチェリーの思いを理解しているかどうかは怪しい。もしかすると彼女の思いは彼の中で一転して、結果的に裏目に出てしまうかもしれない。

 時間の方も問題だ。今すぐにでもグリードの森に向けて出発しなければ、折角の機会を棒に振ってしまうことになりかねない。

 そしてこれに更に付け加えると、この機会を逃してしまえばもういつチャンスが巡って来るかわからないということだ。三か月後か? それとも一年後? だが実際、ウェールズがさらわれてから二年経った今になって情報は伝わってきた。そうすると二年後なのか? いや、これは単純な憶測に過ぎない。あてにはできないだろう。そうなると何年後か……もしかするともう二度とこんなチャンスは回ってこないのかもしれない。その可能性は絶対には捨てきれない。

 そして一番悩むところは、今エセルを旅立たせてしまえば二人の関係は最悪な状態で時を止めてしまうことになる、ということだ。

「むぅ……これは難しいわねぇ……」

 思わず眉間にしわが寄ってしまう。問題は山積みだ。しかも一つを解決しようとすれば他の問題がそれを拒んでくる。まずはそれらの問題の死角を見つけ、そこをどう潜り抜けるか考慮しながら思考を展開していかなければならないのだが……もうそれを考えるだけで頭が痛くなってくる。

 ふと、一つの考えが頭をよぎった。

 果たしてこの難題達を全てクリアし、加えて円満での解決方法などあるのだろうか……と。

「むむぅ……」

 レベッカは頭を抱える。恐らくそんな都合の良い方法などないだろう。何かを犠牲にしなければそれは実現不可で、第一レベッカにはそんな高レベルの解決方法など思い付けられない。何しろ考えるよりは行動派なのがレベッカだ。円満の解決方法を思い付くのに最初から自分でも期待はしていない。

 だからこれらの無理難題の中から犠牲にできるものを探してみることにした。

「むむむむ……」

 顎に手を添え、レベッカは唸りをあげた。考え方の方向転換をしたところで難易度が劇的に下がる訳でもない。何かを犠牲にしないでの解決方法の難易度が10だとしたら、これは精々9か8程度だろう。

(犠牲にできるもの、犠牲にできるもの……)

「ああっもう! そんなのないに決まってんじゃん。まどろっこしいわねえ。いっそのこと最初の作戦でいっちゃおうか?」

 枝木という不安定な場所だという現実を頭の中に留めてはいたが、レベッカは自棄になって手足を投げ出した。同時に視線が一気に下がる。腰だけが枝に支えられ、手足はだらんと下げられた。傍から見れば面白い画になっているだろうなぁ、とレベッカは呑気に思いながら、重力で眼前に迫ってきた自らの巨大な胸の重みの所為で息がしずらくなっていることに気づいて不機嫌に顔をしかめた。だが特に何をするでもなく表情を戻し、今半ば投げやりに言った言葉に考えを巡らせてみることにした。

 詰まる所、それは強行突破ということだ。

(んー……でもあの子達の関係を壊しちゃうってのも無粋よねぇ)

 やはり胸が圧迫してきて言葉を発しにくかったこともあり、レベッカは内心で呟いた。だがいつ完了するかもわからない彼らの関係の修復を待つことは不死鳥一族の移動の問題があるためやはり実現は無理だ。

 そうなるとやはり、彼らの関係を崩してでもエセルを向かわせるべきなのか?

(でも……)

 レベッカは彼らの母親だ。エセルに関しては実の母ではないにしろ、育ての親であることに変わりはない。だからレベッカにとってはチェリーもエセルも大切な我が子だ。それなのにその子ども達が長年築いてきた関係を壊すだなんて真似……

(無理。この方法は確実に却下)

 書き間違えた書類を握り潰すような感覚で、レベッカはその案を空想のゴミ箱に投げ捨てた。肺が圧迫されている状態であることを一瞬忘れ、短く嘆息する。

(でもこれ以外に方法がないことは事実だし……)

 思い、再び考えに集中する。

(んー。でもひとつの考えに囚われっぱなしっていうのも発想の阻害になるしなぁ……気分転換に考えを逆転でもさせてみよっか)

 何事にも休憩が必要。そう思い立ったレベッカは思考を反対の事柄にへと発展させるため、一度頭を空っぽにして呆然と眼前の景色を眺めた。

 不意にやはりというか先程の光景が脳裏に躍り出てきた。

(さっきのは衝撃的だったなぁ)

 彼らの喧嘩など滅多にないのだが、今回のはその中でも一際大きい喧嘩だった。ジェイクの前ではおどけたように言っていたが、実を言うと結構ショックだった。

(んーでも青春してるよねー)

 だがそれも一瞬だけ。小さい頃から二人の行方を見守ってきた者としては欣快この上なかった。

(前からそんな気はしてたんだけど……まさか本当にそうだとはねえ。……突然のあの平手打ちには流石にビビったけど)

 感情のままにチェリーが放ったあの強烈な一撃を思い出し、レベッカは身震いした。だがすぐに震えは止まり、レベッカは昔を思い出すように目を細めた。

(あの子達、ちっちゃい頃からずっと仲良かったわよねぇ。チェリーもエセルも他の子とは絶交とかしてたのに。よくこんなに長く絶交もしないでこれたもんよね、感心するわ……でもその記録も今日で止まっちゃったしなぁ……)

 再び先程の光景が目に浮かぶ。昔から滅多に喧嘩をしなかった彼らがこんな激しい喧嘩をするとは想像もしなかった。レベッカが見た中だけなら、あれほど大きい喧嘩は二人とも初めてだっただろう。

(仲直りできるのかなぁ……)

 不意にそんな不安が頭をよぎる。

(でもあの子達が仲直りするまで待ってられないし……)

 内心で呟き、レベッカはあることに気づいた。

 彼らの関係を壊すのではなく、関係修復の手助けをやればいいのではないか?

「それよ!」

 レベッカは思わず体を起こして叫んだ。レベッカの突然の行動で枝木が激しく上下し、木の葉がはらはらと落ちてくる。

 彼らは今まで仲が良く、喧嘩など滅多にしなかった。そして今回のは二人に珍しく激しい大喧嘩だった。

 だからこそ。だからこそだ。

 仲直りの仕方がわからないに違いない。

 今まで喧嘩はしていたがどれも今回のと比べれば小規模なものだった。仲直りだってし易かったはずだ。

 だが今回は違う。

「こういうときこそ、母親の出番ね!」

 レベッカはやる気満々に両の拳を握り締め、胸の前に置いた。

「絶対に仲直りさせてみせるわ! うん、絶対に!」

 言葉こそ真剣だが、声に宿っているのは愉楽だけというのはレベッカも承知している。瞳とか爛々してるだろうなー、とどこか浮かれた気分で思いながら周囲に蔓延していた暗い雰囲気が明るいものに即座に変わっていくのを感じた。

「そうと決まったら早速支度しなきゃ。まずすぐに旅に出られるようにエセルの荷物をまとめて……」

 勢いよく言葉を紡いでいた口が不意に閉ざされた。そして拳もそれに連動するように力を失ってだらんと投げ出される。

「そうよ……エセル一人じゃ無理に決まってるじゃない……」

 その事実に今頃気付いて脱力した。

 彼一人ではウェールズの下へ辿り着くのは困難だということはわかり切っている。それはエセルの実力を侮っている訳ではない。グリードの森の知識は既にレベッカの中に大量にある。そして知識の中には、森に入った者はただでは済まないというものがあるのを承知していたからだ。

 だから、そうなると彼を支える仲間が必要なのだ。

 しかしレベッカもジェイクもガルンに信頼されているため、その厚意を裏切るようなこと、つまり村を離れるようなことはできない。未熟者のチェリーは村から出れたとしてもエセルの足手まといになるだけだろう。

 そうなると村の人々、つまり他の鳥使いに協力を乞うということになる訳だが……

「みんなあの事件以来、エセルを目の敵にしてるものねぇ」

 ウェールズがさらわれ、鳥使いを放棄したエセルをみんな鳥使いという一族を汚したと思い込んでいる。彼らに協力を仰いでも結果は目に見えていた。

 では、誰が彼について行くのか?

(いない……わね)

 その苦い答えにレベッカは苦笑した。だが、だからといってエセル一人を危険な旅に出す訳にはいかない。そうなると答えは一つしかない。

「外の人か……」

 要するに外部の人間。

 だが仕事に村外へ行ったことがあるとはいえ、この山に囲まれ外部との接触を封じられた土地で生まれ育ったエセルに、果たして仲間をつくるなんてことができるのか?

「んー……まぁ、人懐っこいし、人見知りはしたことがないし……元は性格いいからね、あの子は。ああでも、普段ならできないことはないんだろうけど……今はもうまるで別人みたいに性格が変化しちゃったからなぁ。本人にやる気があったとして、あれで仲間をつくろうとしても無理ね」

 となると性格を戻せれば一番いいのだろうが、生憎そんな芸当をレベッカは持ち合わせていない。だが自然に戻るのは不可能に近いし……

 ふと、視線が自らの手に落ちた。

「あ……」

 不意に打開策が雷の如く頭中を駆け抜けた。

「そっか。これなら……」

 右手を顔の前に移動させる。それは肌が少し黒いだけの何の変哲もない普通の手だ。

 だがそこに宿された力をレベッカは知っている。

「力は利用するものよね〜」

 思わず口元が引き上がるのを抑えられなかった。

(これが解決できれば後は簡単ね)

 後は、とは仲直りの仕方のことだ。

(そもそも喧嘩した理由がウェールズを中心とした考えの相違にあるんだもん。だったら単純♪)

 るんるん気分でレベッカは宙に投げ出されていた足を揺らす。

 つまりは、彼らにはその考えを改めるだけの要素を含めた出来事を与えてやればいいのだ。

「ふふふ。面白いことになってきた」

 レベッカは二人に訪れるこれからの展開を想像して僅かに笑みを浮かべ、その準備に取り掛かった。

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