「あの子は俺がいないと駄目だから」と誕生日を断った彼氏へ。私はもう、あなたがいなくても大丈夫です
四月最後の土曜日。イヤリングを片方つけたところで、電話が鳴った。
「ごめん。今日、行けなくなった」
鏡の中の私は、まだ少し笑っていた。
会社から急に呼ばれたのだろうか。三橋邦彦の仕事が忙しいことは知っている。大学時代の先輩だった彼と、卒業後に再会して付き合い始めて、もう二年になる。
「仕事?」
「いや、飯島さん。彼氏と喧嘩したらしくて、今、かなり落ち込んでる」
指に挟んだもう片方のイヤリングを、机に置いた。
「電話で話すんじゃ駄目なの?」
「会って話したいって。一人でいたくないらしい」
「友達には頼めないの?」
「俺にしか話せないこともあるんだよ」
飯島萌々子さん。二十二歳。邦彦の会社に昨年入社した若手社員で、彼が仕事を教えている。
私は別の会社に勤めているから、顔を合わせたことはない。ただ、名前なら何度も聞いていた。
映画に行くはずだった土曜日。家で夕飯を食べるはずだった水曜日。連絡がつかなくなって、翌朝になってから説明された金曜日。
どれも、彼女の相談だった。
「この前、話したよね」
「分かってる。何度も悪いと思ってる。でも今日だけ」
今日だけ、を聞くのは初めてではなかった。
先月、私は伝えた。相談に乗ることを全部やめてほしいわけではない。でも、私との約束を取り消して、夜に二人きりで会いに行くのはやめてほしい。
邦彦は、そうだよな、ごめん、と言った。
「来週、埋め合わせするから。もっといい店でもいいし」
「今日の店、二人で決めたんだけど」
店の予約は私がした。邦彦が食べたいと言っていた料理があったから、何週間も前に。
それから新しいブラウスを買った。二十五歳の誕生日に着ようと思った。
「誕生日は別の日でも祝えるだろ。あの子は今、つらいんだから」
壁の時計の秒針が動く。
今から出れば、予約の時間に間に合う。それをぼんやり考えた。
「……私が嫌だって言っても、行くんだね」
「あの子は俺がいないと駄目だから。千景、お前は一人でも大丈夫じゃん」
私は携帯を持ち直した。
「分かった。お店には私から連絡する」
「助かる。じゃ、また連絡する」
電話が切れた。
邦彦は、私が分かってくれたと思ったらしい。
店に電話をして、予約を取り消した。丁寧な声でキャンセル料の説明を受け、支払い方法を確認した。相手が悪いわけではないのに、途中で声が震えそうになった。
イヤリングを外す。ブラウスを脱いで、いつもの部屋着を着た。
冷蔵庫には、明日の朝に二人で食べるつもりだった卵とベーコンが入っていた。
一人分だけ焼こうとして、結局、二人分ともフライパンに入れた。
食べながら、携帯を見た。
誕生日を祝うメッセージが母と友達から届いている。ありがとう、と返す。
邦彦との画面を開くと、三日前の私の言葉があった。
『土曜日、楽しみにしてる』
その下には、彼の『俺も』。
私は画面を閉じた。
翌朝、会って話したいと送った。邦彦からは、昨日はごめん、という返事と、来週はどうかという提案が来た。
今日がいい、と返した。
◇
「別れたい」
駅前の喫茶店でそう言うと、邦彦は砂糖の袋を破る手を止めた。
「昨日のこと?」
「昨日だけじゃない」
「だから、来週ちゃんと祝うって」
声が少し大きくなった。隣の席を見て、彼も声を落とす。
「俺だって好きで予定変えてるわけじゃないよ。放っておけないだろ、泣いてる後輩」
「電話で話して、今日は約束があるって言うことはできたよね」
「それで何かあったらどうするんだよ」
「危ない状態だったの?」
邦彦が視線をそらした。
「……そういうんじゃないけど」
「私、この前も同じ話をした」
相談に乗ることではなく、私との約束を破ることが嫌なのだと。
言い方が悪かったのかもしれないと思って、帰宅してから何度も会話を思い返した。責めすぎたのかもしれないと、翌日はこちらから普通の連絡をした。
でも、邦彦は覚えていた。覚えていて、また同じことをした。
「分かった。もう二人で会わない。仕事以外の相談も断る。それでいい?」
私はカップから手を離した。
「もう、付き合いたくない」
「そんな簡単に二年を終わらせるの?」
簡単ではなかった。
昨日、店の電話番号を押すだけで、あんなに時間がかかった。
「別の日に祝ってほしいんじゃないんだよ」
邦彦は黙った。
私は鞄から、小さな紙袋を出した。彼が私の部屋に置いていた充電器と、着替えのシャツ。
「私の本とマフラーも、返してほしい」
「千景」
「今日じゃなくていい。送ってくれれば」
邦彦は紙袋を受け取らなかった。しばらくして、私が席を立ったときに、ようやく自分のほうへ引いた。
「少し時間置こう。今、怒ってるだけかもしれないし」
「別れるって、決めて来た」
私のコーヒー代をテーブルに置いた。
外は明るかった。二人で歩いていた道を一人で駅へ向かうと、後ろから呼ばれる気がして、何度も足を速めた。
◇
「日下部、土曜の店どうだった?」
別れた翌日の月曜日の昼休み、黒田岳人が聞いた。
同期入社で、同じ法人営業のチームにいる。私が店の予約について話したのは、黒田が近くの取引先を担当していて、行き方を聞いたからだった。
「行かなかった」
「あれ、休みだった?」
「ううん。彼と別れた」
黒田が箸を止めた。
私は自分の弁当の卵焼きをつついた。邦彦の分も焼く癖が残っていて、いつもより一切れ多い。
「そうか」
少しして、それだけ返ってきた。
聞かれなかったことに安心して、逆に、自分から少し話したくなった。
「また後輩の相談で、予定変わって。前に嫌だって言ったんだけど」
「前、金曜に早く帰るために、準備前倒ししてたやつも?」
「あれも」
黒田は眉を寄せたが、邦彦のことを悪く言わなかった。
「今日の午後の打ち合わせ、俺が説明する?」
「そこは大丈夫。私がまとめたし」
「了解。俺の見積もりのほうは見てもらえる? どうも数字が合わん」
画面に出された表を見て、私は思わず笑った。
「送料、二回入ってる」
「うわ。客に出す前でよかった」
「この行、先週も言った」
「二回助けてもらいました」
いつもの会話だった。
別れたと言ったからといって、私が急に何もできない人になるわけではない。黒田も、私を慰めるためだけの人にはならなかった。
入社二年目、黒田が納期を間違えたとき、二人で取引先と仕入先に連絡したことがある。ようやく段取りがついた後、私は彼の机で管理表を開いた。
次からここに日付を入れて、と言うと、黒田は素直に頷いた。
その数か月後、私が苦手な取引先との交渉に詰まったときには、黒田が同行してくれた。私の説明を途中で奪わず、必要なところだけ補ってくれた。
助けるのも、助けられるのも、どちらか一方ではなかった。
水曜日、本とマフラーが届いた。
メッセージには、考え直したら連絡してほしい、とあった。受け取ったことと、気持ちは変わらないことだけ返した。
休日の予定は空いた。
好きに使えるはずなのに、土曜の朝、起きてまず彼への連絡を考えた。もう送らないのだと気づくまでに、少し時間がかかった。
別れて三週間ほど経った金曜日、黒田と二人で、翌週の提案資料を仕上げた。
「終わった。帰れる」
大きく伸びをした黒田に、私は声をかけた。
「お腹すいてない?」
「すいてる」
「何か食べて帰らない?」
彼が少しだけ黙った。
「行く。日下部、何食いたい?」
「餃子」
「即答だな」
「さっきからずっと考えてた」
会社の近くの中華料理店に入った。
黒田は私が頼んだ餃子とは別に、同じものを一皿注文した。
「分ければよかったのに」
「六個を三個ずつにしたら、絶対物足りない」
確かに、と頷く。届いた餃子を一つ食べて、熱さに二人で黙った。
仕事の愚痴を少し。それから、黒田が最近買った棚を組み立てるのに、板を裏返して一時間無駄にした話。
笑いすぎて、途中で水を飲んだ。
「日下部もやりそうだろ」
「私は説明書読むから」
「俺も読んだ」
「じゃあ、もっと駄目じゃん」
会計はそれぞれ払った。店を出たとき、金曜日の夜がまだ長く残っていた。
黒田と駅まで歩いて、改札の前で別れる。
「今日、誘ってくれてありがと」
「こちらこそ。餃子おいしかった」
「また行こう」
私は頷いた。
帰りの電車で、もう一度笑いそうになった。裏返った棚の板を想像して。
◇
六月に入って、黒田から休日の外出に誘われた。
私が昼休みに話していた、駅前の期間限定の展示だった。
『俺も見たいんだけど、来週の土曜どう?』
行きたい、と返した後で、携帯を伏せた。
ただの同期との外出だ。それでも、何を着て行こうかと考えた。
待ち合わせには黒田が先に来ていた。
展示を見て、お互いに気になったものを教える。私は小さな器の前で長く止まり、黒田は古い機械の構造図をじっと見ていた。
「これ、よく分かるね」
「いや、動くところが見たかったなって」
「分かってる顔だったのに」
「顔だけです」
昼食の店を決めるとき、私は蕎麦の看板を指した。黒田は少し先の洋食屋を見ていた。
「洋食でもいいよ」
私が言うと、黒田は看板から目を戻した。
「蕎麦は?」
「黒田、こっちがよさそうだったから」
「昨日の夜も麺だったんで、できれば飯がいい。でも日下部、蕎麦食いたいんだろ」
そう言われて、もう一度蕎麦屋のメニューを見た。
「ここ、天丼ある」
「ほんとだ。じゃ、ここにしよう。入ってから売り切れてたら笑ってくれ」
小さなことだった。
でも、椅子に座って注文したとき、自分の食べたいものを変えずに済んだことが妙に嬉しかった。
黒田も天丼をうまそうに食べた。
店を出て駅へ向かいかけたところで、黒田が足を緩めた。
「日下部、今日はこの後、予定ある?」
「ないよ」
「じゃ、お茶しない? もう少し一緒にいたいんだけど」
返事をする前に、顔が熱くなった。
昼食が終われば帰るものだと思っていた。まだ帰りたくない、と自分が思っていたことには、今気づいた。
「私も、もう少しいたい」
黒田が笑った。
その顔を見て、言ってよかったと思った。
近くの喫茶店では、話している途中で目が合うたび、妙に落ち着かなくなった。いつも会社で見ている顔なのに、今日は見すぎないように気をつけていた。
それでも、彼が窓の外へ目を向けると、また横顔を見てしまった。
展示で買った器を、家で箱から出した。写真を撮って送ると、黒田から棚の写真が返ってきた。
『今度はちゃんとできてる』
見れば、上の段にだけ何も置かれていない。
『まだ信用してない?』
『一週間様子見る』
声を出して笑った。
月曜日、仕事で会ったら何を話そう。そう思いながら、器を洗った。
携帯が気になって、手を拭いては画面を見た。次の休日も誘ってくれないかな、と考えている。
ただの同期との外出だと思っていた朝とは、もう違っていた。
◇
千景と別れて一か月後、邦彦は萌々子と付き合い始めた。
千景から断られた直後には、腹が立った。二年の交際を終わらせるほどのことなのかと、何度も考えた。
萌々子は話を聞いてくれた。
「私のせいですよね。ごめんなさい」
「飯島さんが謝ることじゃないよ」
「でも、彼女さんとの予定を……」
「あの状況で放っておけなかった」
彼女は泣きそうな顔で頷いた。
千景の話をするはずだったのに、邦彦は萌々子を慰めていた。それでも、自分の選択を間違いだと言わない相手がいることに、ほっとした。
萌々子も、恋人との関係に迷っていた。
先輩との深夜の面会をやめてほしい。二人のことを話すなら、まず自分と話してほしい。そう言われた、と彼女は説明した。
「誰と会うかまで言われるの、嫌で」
「彼氏も心配なんだと思うけど」
「三橋さんは、私の話ちゃんと聞いてくれるのに」
邦彦は、自分の前では笑う彼女を見た。
「俺だったら、そんなふうにはしない」
言ってから、意味を考えた。
萌々子は顔を上げた。
「それ、どういう意味ですか」
邦彦は言葉を続けた。
今の彼氏と別れて自分を選んでほしい、と。
萌々子は数日考え、自分から恋人に別れを告げた。最後の話し合いで、彼は、別れるのは分かった、と言ったそうだった。
その翌週、二人は初めて、相談以外の理由で食事をした。
「やっと普通に会えるね」
邦彦が言うと、萌々子は嬉しそうに笑った。
千景への連絡は、しなくなった。
初めのうち、邦彦は毎日のように萌々子に会った。仕事を終えると迎えに行き、休日の予定も彼女に合わせた。
会社では従来どおり業務を教え、交際の話はしなかった。彼に評価の権限はなかったが、ほかの社員の前で特別扱いしないよう、そこは気をつけていた。
その分、会社を出てからはできるだけ希望を聞いた。
しかし、二か月近く経つと、無理が出た。
休日に放っておいた家事。断り続けていた友人との約束。仕事の繁忙期。
萌々子が会いたいと言う夜に、翌朝が早いからと断った。
「付き合う前は、来てくれたじゃないですか」
「今日は本当に無理なんだ。明日なら」
「前は、明日じゃつらいの分かってくれたのに」
邦彦は謝った。
それが二度、三度と続いた。
◇
七月の土曜日、邦彦は萌々子と夕食を食べる約束をしていた。
昼過ぎに、予定を変えてほしいという連絡が来た。
『ちょっと話を聞いてもらいたくて、友達と会います』
誰なのか聞くと、以前通っていた資格講座の知人だという。男だった。
『電話じゃ駄目なの?』
『会って話したいんです』
邦彦は携帯を持ったまま、座り直した。
最近、萌々子がその男の名前を出す回数は増えていた。平日の夜にも、食事をしながら相談に乗ってもらったという。
一度だけではない。
『俺とのことを相談してるの?』
返信は、しばらく来なかった。
邦彦から電話をかけた。
「俺のことを、どう話してる?」
「最近、寂しいって。それだけです」
「俺、二人で会うのは嫌なんだけど」
「相談してるだけですよ」
萌々子の声が硬くなった。
「つらいときに話を聞いてくれる人なのに、そんな言い方しないでください」
「俺だって聞くよ」
「会いたいときには、会ってくれないじゃないですか」
「仕事があるだろ。俺にだって予定がある」
言いながら、邦彦は立ち上がった。
来週行こうと思っていた店の予約画面が、机に置いたパソコンに残っている。
「今日は約束してただろ」
「別の日でもいいじゃないですか」
邦彦は口を開き、何も言わずに閉じた。
「あなたは一人でも大丈夫でしょ」
耳にした言葉は、自分の声で蘇った。
千景がどんな服を着て、どんな顔で自分を待っていたのか、あの夜は考えもしなかった。
「……それ、千景に俺が言ったんだよ」
「誰の話ですか。今、私たちの話してるんですけど」
邦彦は電話を切らなかった。萌々子も謝らなかった。
結局、その夜の夕食はなくなった。
◇
電話を終えた萌々子は、知人とのメッセージ画面を開いた。
邦彦も、付き合う前はもっと優しかった。
彼女との約束があると言われた夜でも、少しだけ会いたいと頼めば来てくれた。あの誕生日も、今すぐ来てもらわなければ困ることがあったわけではない。ただ、彼氏との喧嘩で嫌な気持ちのまま、一人で過ごしたくなかった。
自分に好意があるのは分かっていた。それでも、先輩として頼っています、と言えば、彼はそれ以上の答えを求めずに相談に乗ってくれた。
彼氏と仲直りした話や、二人で楽しく出かけた話は、邦彦にはしなかった。そんなことを話したら、もう自分の出番はないと思われそうだった。
恋人になれば、もっと大切にしてもらえると思っていたのに。
萌々子は画面に目を戻し、文章を打った。
『彼氏と揉めてしまって。迎えに来てもらえませんか。今日は会って話したいです』
送信すると、すぐに返信が来た。場所を聞く言葉ではなかった。
『まだ付き合ってるの? もう話はついたって言ってたよね』
萌々子は画面を見た。
先日、もう別れ話をしている、話はついたも同然だ、と伝えた。実際には、邦彦に別れ話をしたことはなかった。ただ、あのときは別れようかと思っていたのだ。
『まだです。でも、今そういう話になってて』
『この前もそう言ってたよね』
少し迷って、電話をかけた。知人は出た。
「ごめんなさい。うまく説明できなくて」
「彼氏には、別れたいって伝えたの?」
「まだ。でも、私の中ではそういう気持ちになってて」
「それなら、前に聞いた話と違うよ。まず二人で話したほうがいいと思う」
「でも、今一人でいたくないんです」
「友達に連絡してみたら。俺が迎えに行くのは違うと思う」
以前は話を聞いてくれたのに。
そう言いかけて、萌々子はやめた。相手の声には、もう親しげな調子がなかった。
「別れたら、また会ってくれますか」
「それを条件に別れられても、困るよ。しばらく二人で会うのはやめよう」
電話が終わった。
邦彦に送ろうと文章を打ちかけて、消す。知人に断られたことをどう説明すればいいか、分からなかった。
翌日、邦彦から、これからどうするか話したいと連絡が来た。
会っても、互いの言い分は変わらなかった。邦彦は夜の面会をやめてほしいと言い、萌々子は相談する相手を選ばせてほしいと言った。
最後には、仕事で顔を合わせるからこそ、これ以上揉める前に別れようと邦彦が言った。
萌々子も頷いた。頷けば、いつものように邦彦が折れて、引き留めてくれると思った。
しかし彼は、互いの部屋に置いてある私物を返す日を決め始めた。萌々子が黙っていても、別れを撤回しなかった。
会社では、必要な業務のやり取りが続いた。仕事の質問には答えてくれるが、退勤後の相談には応じない。その区別を、以前のように越えられなくなった。
週末、萌々子は元の恋人に連絡した。
『会って話せないかな』
何の話か聞かれて、邦彦と別れたことを伝えた。
以前は、その日のうちに電話をくれた。今回は翌日まで返事がなかった。
『戻るつもりはないよ』
萌々子は、もう一度送った。
『私が間違ってたって分かったのに?』
『うん。俺も、別れるときはまだ好きだった。でも、今は戻りたくない』
その次の文章を、何度も読んだ。
『ほかの男とうまくいかなかったときだけ必要にされるのは、嫌だ』
萌々子は電話をかけた。文章ではうまく伝わらなくても、声を聞けば、話を聞いてくれるかもしれない。
呼び出し音が続き、やがて切れた。
その後も、折り返しはなかった。
返信欄を開いて、閉じた。もう一度説明したところで、彼が戻りたくないと言った答えは変わらない。
元の恋人はもう、自分の話を最後まで聞くために待っている人ではなかった。
◇
邦彦から連絡が来たのは、八月の初めだった。
『久しぶり。少し話せないかな』
夕食の後、洗った食器を拭いていた私は、しばらく画面を見た。
返事をしないうちに、長い文章が続いた。
飯島さんと付き合ったこと。彼女が別の男にも恋愛相談をしていたこと。自分も予定を取り消されて、ようやく私の気持ちが分かったこと。
『相談に乗ってただけのつもりだったけど、あの子に頼られると断れなくなってた。今は別れてる』
その文章の下に、もう一つ。
『千景が一番、俺のこと分かってくれてたんだと思う。もう一度やり直せないかな』
付き合ったのだ、と初めて知った。
少し胸が痛んだ。別れた後のことでも、平気ではなかった。
それでも、今さら二人の間に何があったか、詳しく聞きたいとは思わなかった。
『私との約束を破ったのは、あなたでしょう』
打って、読み直した。
『誰と付き合っても、そこは変わらないよ。私はやり直したくない』
邦彦から電話がかかってきた。
一度、出た。
「本当にごめん。言い訳するつもりじゃなかった」
「うん」
「分かってたつもりだったんだ。千景なら待っててくれるって」
窓の向こうで、自転車のベルが鳴った。
「私、待ってたよ。付き合ってたときは」
声が少し詰まった。
それは、今の邦彦のためではなかった。
「でも、もう待たない」
邦彦は、しばらく黙った。
「誰か、いるの?」
「それを聞いて、どうするの」
答えは返ってこなかった。
「いなくても、戻らないよ」
私物の返却は終わっている。ほかに連絡が必要なこともない。
今後は連絡をしないでほしいと伝え、電話を切った。
食器を拭く手を止めていたことに気づく。
布巾を替えて、最後の一枚を片づけた。
冷蔵庫に入れてある、明日の弁当の卵焼きを確認する。
一人分の量は、もう間違えなくなっていた。
◇
黒田と次に出かけた日、駅を出てすぐ道を間違えた。
「俺、こっちだと思ってた」
「私も。二人で自信持って曲がったね」
目的の店は、線路の反対側だった。
地図を開き直して、黒田が眉を寄せる。私は近くの歩道橋を指した。
「あそこから渡れそう」
「助かる。予約、まだ間に合う?」
「大丈夫。少し早めに着いてよかった」
歩道橋の上を、二人で歩いた。
昼食の後は書店を見て、喫茶店に入った。私の買った本を黒田がめくり、彼が気になっていた漫画の話を聞く。
別のものが好きでも、話していると、見てみようかと思える。
夕方、駅前の広場で黒田が足を止めた。
「日下部。ちょっといい?」
私も立ち止まった。
黒田が一度、鞄の持ち手を握り直す。
「今日みたいに、また二人で出かけたい」
「うん。私も」
「それと、友達としてだけじゃなくて」
黒田の顔を見た。
いつもより真面目で、いつもより困っていた。
「好きです。付き合ってほしい」
通り過ぎる人の足音が、急に大きく聞こえた。
「……いつから?」
「気づいたのは、去年くらい。仕事の帰りに話すのが楽しみになってた」
去年は、まだ邦彦と付き合っていた。
「だから、前は何も言わなかった。別れてすぐも、言うことじゃないと思った」
黒田は少し息を吐いた。
「でも、最近は誘ってくれるし。期待していいのか、分からなくなって」
私は笑ってしまった。
期待してほしかった、と今なら言える。
「私、黒田と会うの楽しみにしてたよ。仕事の日も、休みの日も」
彼の目が私から離れなくなった。
「会社だと、話が途中になるでしょ。あの続き聞きたいなって、帰ってから思ったり」
「棚の話?」
「あれも。あと、取引先で靴下濡らした話」
「もっといい話もあっただろ」
また笑った。
笑い終わってから、私は言った。
「私も好き。付き合いたい」
黒田は、少し遅れて頷いた。
「よかった」
その短い言葉を聞いて、私までほっとした。
誰かの代わりではなく、黒田と一緒にいたい。それをようやく本人に伝えられた。
手が触れた。
黒田が私を見たので、私のほうから握った。彼の指が、ゆっくり握り返してきた。
「来週、私が行きたい店があるんだけど」
歩きながら言うと、黒田がこちらを向いた。
「行こう。いつ?」
「土曜の六時。予定ある?」
「ない。店、どこ?」
私は店の名前を言った。前に二人で通りかかって、窓から見えた料理がおいしそうだった店だ。
「あそこか。予約したほうがよさそうだったな」
「していい?」
「うん。楽しみにしてる」
改札の前で手を離した。
帰りの電車に乗り、店の予約画面を開く。土曜日、十八時、二名。
申し込みを終えたところで、黒田からメッセージが来た。
『今日、ありがとう。まだちょっと緊張してる』
私は画面を見ながら笑った。
『私も。来週のお店、予約できたよ』
送ってから、カレンダーに店の名前を入れた。
着て行く服は、あのブラウスにしようと思った。




