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「あの子は俺がいないと駄目だから」と誕生日を断った彼氏へ。私はもう、あなたがいなくても大丈夫です

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/09

 四月最後の土曜日。イヤリングを片方つけたところで、電話が鳴った。


「ごめん。今日、行けなくなった」


 鏡の中の私は、まだ少し笑っていた。

 会社から急に呼ばれたのだろうか。三橋邦彦の仕事が忙しいことは知っている。大学時代の先輩だった彼と、卒業後に再会して付き合い始めて、もう二年になる。


「仕事?」

「いや、飯島さん。彼氏と喧嘩したらしくて、今、かなり落ち込んでる」


 指に挟んだもう片方のイヤリングを、机に置いた。


「電話で話すんじゃ駄目なの?」

「会って話したいって。一人でいたくないらしい」

「友達には頼めないの?」

「俺にしか話せないこともあるんだよ」


 飯島萌々子さん。二十二歳。邦彦の会社に昨年入社した若手社員で、彼が仕事を教えている。

 私は別の会社に勤めているから、顔を合わせたことはない。ただ、名前なら何度も聞いていた。

 映画に行くはずだった土曜日。家で夕飯を食べるはずだった水曜日。連絡がつかなくなって、翌朝になってから説明された金曜日。

 どれも、彼女の相談だった。


「この前、話したよね」

「分かってる。何度も悪いと思ってる。でも今日だけ」


 今日だけ、を聞くのは初めてではなかった。

 先月、私は伝えた。相談に乗ることを全部やめてほしいわけではない。でも、私との約束を取り消して、夜に二人きりで会いに行くのはやめてほしい。

 邦彦は、そうだよな、ごめん、と言った。


「来週、埋め合わせするから。もっといい店でもいいし」

「今日の店、二人で決めたんだけど」


 店の予約は私がした。邦彦が食べたいと言っていた料理があったから、何週間も前に。

 それから新しいブラウスを買った。二十五歳の誕生日に着ようと思った。


「誕生日は別の日でも祝えるだろ。あの子は今、つらいんだから」


 壁の時計の秒針が動く。

 今から出れば、予約の時間に間に合う。それをぼんやり考えた。


「……私が嫌だって言っても、行くんだね」

「あの子は俺がいないと駄目だから。千景、お前は一人でも大丈夫じゃん」


 私は携帯を持ち直した。


「分かった。お店には私から連絡する」

「助かる。じゃ、また連絡する」


 電話が切れた。

 邦彦は、私が分かってくれたと思ったらしい。


 店に電話をして、予約を取り消した。丁寧な声でキャンセル料の説明を受け、支払い方法を確認した。相手が悪いわけではないのに、途中で声が震えそうになった。

 イヤリングを外す。ブラウスを脱いで、いつもの部屋着を着た。

 冷蔵庫には、明日の朝に二人で食べるつもりだった卵とベーコンが入っていた。

 一人分だけ焼こうとして、結局、二人分ともフライパンに入れた。

 食べながら、携帯を見た。

 誕生日を祝うメッセージが母と友達から届いている。ありがとう、と返す。

 邦彦との画面を開くと、三日前の私の言葉があった。


『土曜日、楽しみにしてる』


 その下には、彼の『俺も』。

 私は画面を閉じた。


 翌朝、会って話したいと送った。邦彦からは、昨日はごめん、という返事と、来週はどうかという提案が来た。

 今日がいい、と返した。


     ◇


「別れたい」


 駅前の喫茶店でそう言うと、邦彦は砂糖の袋を破る手を止めた。


「昨日のこと?」

「昨日だけじゃない」

「だから、来週ちゃんと祝うって」


 声が少し大きくなった。隣の席を見て、彼も声を落とす。


「俺だって好きで予定変えてるわけじゃないよ。放っておけないだろ、泣いてる後輩」

「電話で話して、今日は約束があるって言うことはできたよね」

「それで何かあったらどうするんだよ」

「危ない状態だったの?」


 邦彦が視線をそらした。


「……そういうんじゃないけど」

「私、この前も同じ話をした」


 相談に乗ることではなく、私との約束を破ることが嫌なのだと。

 言い方が悪かったのかもしれないと思って、帰宅してから何度も会話を思い返した。責めすぎたのかもしれないと、翌日はこちらから普通の連絡をした。

 でも、邦彦は覚えていた。覚えていて、また同じことをした。


「分かった。もう二人で会わない。仕事以外の相談も断る。それでいい?」


 私はカップから手を離した。


「もう、付き合いたくない」

「そんな簡単に二年を終わらせるの?」


 簡単ではなかった。

 昨日、店の電話番号を押すだけで、あんなに時間がかかった。


「別の日に祝ってほしいんじゃないんだよ」


 邦彦は黙った。

 私は鞄から、小さな紙袋を出した。彼が私の部屋に置いていた充電器と、着替えのシャツ。


「私の本とマフラーも、返してほしい」

「千景」

「今日じゃなくていい。送ってくれれば」


 邦彦は紙袋を受け取らなかった。しばらくして、私が席を立ったときに、ようやく自分のほうへ引いた。


「少し時間置こう。今、怒ってるだけかもしれないし」

「別れるって、決めて来た」


 私のコーヒー代をテーブルに置いた。

 外は明るかった。二人で歩いていた道を一人で駅へ向かうと、後ろから呼ばれる気がして、何度も足を速めた。


     ◇


「日下部、土曜の店どうだった?」


 別れた翌日の月曜日の昼休み、黒田岳人が聞いた。

 同期入社で、同じ法人営業のチームにいる。私が店の予約について話したのは、黒田が近くの取引先を担当していて、行き方を聞いたからだった。


「行かなかった」

「あれ、休みだった?」

「ううん。彼と別れた」


 黒田が箸を止めた。

 私は自分の弁当の卵焼きをつついた。邦彦の分も焼く癖が残っていて、いつもより一切れ多い。


「そうか」


 少しして、それだけ返ってきた。

 聞かれなかったことに安心して、逆に、自分から少し話したくなった。


「また後輩の相談で、予定変わって。前に嫌だって言ったんだけど」

「前、金曜に早く帰るために、準備前倒ししてたやつも?」

「あれも」


 黒田は眉を寄せたが、邦彦のことを悪く言わなかった。


「今日の午後の打ち合わせ、俺が説明する?」

「そこは大丈夫。私がまとめたし」

「了解。俺の見積もりのほうは見てもらえる? どうも数字が合わん」


 画面に出された表を見て、私は思わず笑った。


「送料、二回入ってる」

「うわ。客に出す前でよかった」

「この行、先週も言った」

「二回助けてもらいました」


 いつもの会話だった。

 別れたと言ったからといって、私が急に何もできない人になるわけではない。黒田も、私を慰めるためだけの人にはならなかった。


 入社二年目、黒田が納期を間違えたとき、二人で取引先と仕入先に連絡したことがある。ようやく段取りがついた後、私は彼の机で管理表を開いた。

 次からここに日付を入れて、と言うと、黒田は素直に頷いた。

 その数か月後、私が苦手な取引先との交渉に詰まったときには、黒田が同行してくれた。私の説明を途中で奪わず、必要なところだけ補ってくれた。

 助けるのも、助けられるのも、どちらか一方ではなかった。


 水曜日、本とマフラーが届いた。

 メッセージには、考え直したら連絡してほしい、とあった。受け取ったことと、気持ちは変わらないことだけ返した。

 休日の予定は空いた。

 好きに使えるはずなのに、土曜の朝、起きてまず彼への連絡を考えた。もう送らないのだと気づくまでに、少し時間がかかった。


 別れて三週間ほど経った金曜日、黒田と二人で、翌週の提案資料を仕上げた。


「終わった。帰れる」


 大きく伸びをした黒田に、私は声をかけた。


「お腹すいてない?」

「すいてる」

「何か食べて帰らない?」


 彼が少しだけ黙った。


「行く。日下部、何食いたい?」

「餃子」

「即答だな」

「さっきからずっと考えてた」


 会社の近くの中華料理店に入った。

 黒田は私が頼んだ餃子とは別に、同じものを一皿注文した。


「分ければよかったのに」

「六個を三個ずつにしたら、絶対物足りない」


 確かに、と頷く。届いた餃子を一つ食べて、熱さに二人で黙った。

 仕事の愚痴を少し。それから、黒田が最近買った棚を組み立てるのに、板を裏返して一時間無駄にした話。

 笑いすぎて、途中で水を飲んだ。


「日下部もやりそうだろ」

「私は説明書読むから」

「俺も読んだ」

「じゃあ、もっと駄目じゃん」


 会計はそれぞれ払った。店を出たとき、金曜日の夜がまだ長く残っていた。

 黒田と駅まで歩いて、改札の前で別れる。


「今日、誘ってくれてありがと」

「こちらこそ。餃子おいしかった」

「また行こう」


 私は頷いた。

 帰りの電車で、もう一度笑いそうになった。裏返った棚の板を想像して。


     ◇


 六月に入って、黒田から休日の外出に誘われた。

 私が昼休みに話していた、駅前の期間限定の展示だった。


『俺も見たいんだけど、来週の土曜どう?』


 行きたい、と返した後で、携帯を伏せた。

 ただの同期との外出だ。それでも、何を着て行こうかと考えた。


 待ち合わせには黒田が先に来ていた。

 展示を見て、お互いに気になったものを教える。私は小さな器の前で長く止まり、黒田は古い機械の構造図をじっと見ていた。


「これ、よく分かるね」

「いや、動くところが見たかったなって」

「分かってる顔だったのに」

「顔だけです」


 昼食の店を決めるとき、私は蕎麦の看板を指した。黒田は少し先の洋食屋を見ていた。


「洋食でもいいよ」


 私が言うと、黒田は看板から目を戻した。


「蕎麦は?」

「黒田、こっちがよさそうだったから」

「昨日の夜も麺だったんで、できれば飯がいい。でも日下部、蕎麦食いたいんだろ」


 そう言われて、もう一度蕎麦屋のメニューを見た。


「ここ、天丼ある」

「ほんとだ。じゃ、ここにしよう。入ってから売り切れてたら笑ってくれ」


 小さなことだった。

 でも、椅子に座って注文したとき、自分の食べたいものを変えずに済んだことが妙に嬉しかった。

 黒田も天丼をうまそうに食べた。


 店を出て駅へ向かいかけたところで、黒田が足を緩めた。


「日下部、今日はこの後、予定ある?」

「ないよ」

「じゃ、お茶しない? もう少し一緒にいたいんだけど」


 返事をする前に、顔が熱くなった。

 昼食が終われば帰るものだと思っていた。まだ帰りたくない、と自分が思っていたことには、今気づいた。


「私も、もう少しいたい」


 黒田が笑った。

 その顔を見て、言ってよかったと思った。

 近くの喫茶店では、話している途中で目が合うたび、妙に落ち着かなくなった。いつも会社で見ている顔なのに、今日は見すぎないように気をつけていた。

 それでも、彼が窓の外へ目を向けると、また横顔を見てしまった。


 展示で買った器を、家で箱から出した。写真を撮って送ると、黒田から棚の写真が返ってきた。


『今度はちゃんとできてる』


 見れば、上の段にだけ何も置かれていない。


『まだ信用してない?』

『一週間様子見る』


 声を出して笑った。

 月曜日、仕事で会ったら何を話そう。そう思いながら、器を洗った。

 携帯が気になって、手を拭いては画面を見た。次の休日も誘ってくれないかな、と考えている。

 ただの同期との外出だと思っていた朝とは、もう違っていた。


     ◇


 千景と別れて一か月後、邦彦は萌々子と付き合い始めた。


 千景から断られた直後には、腹が立った。二年の交際を終わらせるほどのことなのかと、何度も考えた。

 萌々子は話を聞いてくれた。


「私のせいですよね。ごめんなさい」

「飯島さんが謝ることじゃないよ」

「でも、彼女さんとの予定を……」

「あの状況で放っておけなかった」


 彼女は泣きそうな顔で頷いた。

 千景の話をするはずだったのに、邦彦は萌々子を慰めていた。それでも、自分の選択を間違いだと言わない相手がいることに、ほっとした。


 萌々子も、恋人との関係に迷っていた。

 先輩との深夜の面会をやめてほしい。二人のことを話すなら、まず自分と話してほしい。そう言われた、と彼女は説明した。


「誰と会うかまで言われるの、嫌で」

「彼氏も心配なんだと思うけど」

「三橋さんは、私の話ちゃんと聞いてくれるのに」


 邦彦は、自分の前では笑う彼女を見た。


「俺だったら、そんなふうにはしない」


 言ってから、意味を考えた。

 萌々子は顔を上げた。


「それ、どういう意味ですか」


 邦彦は言葉を続けた。

 今の彼氏と別れて自分を選んでほしい、と。


 萌々子は数日考え、自分から恋人に別れを告げた。最後の話し合いで、彼は、別れるのは分かった、と言ったそうだった。

 その翌週、二人は初めて、相談以外の理由で食事をした。


「やっと普通に会えるね」


 邦彦が言うと、萌々子は嬉しそうに笑った。

 千景への連絡は、しなくなった。


 初めのうち、邦彦は毎日のように萌々子に会った。仕事を終えると迎えに行き、休日の予定も彼女に合わせた。

 会社では従来どおり業務を教え、交際の話はしなかった。彼に評価の権限はなかったが、ほかの社員の前で特別扱いしないよう、そこは気をつけていた。

 その分、会社を出てからはできるだけ希望を聞いた。


 しかし、二か月近く経つと、無理が出た。

 休日に放っておいた家事。断り続けていた友人との約束。仕事の繁忙期。

 萌々子が会いたいと言う夜に、翌朝が早いからと断った。


「付き合う前は、来てくれたじゃないですか」

「今日は本当に無理なんだ。明日なら」

「前は、明日じゃつらいの分かってくれたのに」


 邦彦は謝った。

 それが二度、三度と続いた。


     ◇


 七月の土曜日、邦彦は萌々子と夕食を食べる約束をしていた。

 昼過ぎに、予定を変えてほしいという連絡が来た。


『ちょっと話を聞いてもらいたくて、友達と会います』


 誰なのか聞くと、以前通っていた資格講座の知人だという。男だった。


『電話じゃ駄目なの?』

『会って話したいんです』


 邦彦は携帯を持ったまま、座り直した。

 最近、萌々子がその男の名前を出す回数は増えていた。平日の夜にも、食事をしながら相談に乗ってもらったという。

 一度だけではない。


『俺とのことを相談してるの?』


 返信は、しばらく来なかった。

 邦彦から電話をかけた。


「俺のことを、どう話してる?」

「最近、寂しいって。それだけです」

「俺、二人で会うのは嫌なんだけど」

「相談してるだけですよ」


 萌々子の声が硬くなった。


「つらいときに話を聞いてくれる人なのに、そんな言い方しないでください」

「俺だって聞くよ」

「会いたいときには、会ってくれないじゃないですか」

「仕事があるだろ。俺にだって予定がある」


 言いながら、邦彦は立ち上がった。

 来週行こうと思っていた店の予約画面が、机に置いたパソコンに残っている。


「今日は約束してただろ」

「別の日でもいいじゃないですか」


 邦彦は口を開き、何も言わずに閉じた。


「あなたは一人でも大丈夫でしょ」


 耳にした言葉は、自分の声で蘇った。

 千景がどんな服を着て、どんな顔で自分を待っていたのか、あの夜は考えもしなかった。


「……それ、千景に俺が言ったんだよ」

「誰の話ですか。今、私たちの話してるんですけど」


 邦彦は電話を切らなかった。萌々子も謝らなかった。

 結局、その夜の夕食はなくなった。


     ◇


 電話を終えた萌々子は、知人とのメッセージ画面を開いた。


 邦彦も、付き合う前はもっと優しかった。

 彼女との約束があると言われた夜でも、少しだけ会いたいと頼めば来てくれた。あの誕生日も、今すぐ来てもらわなければ困ることがあったわけではない。ただ、彼氏との喧嘩で嫌な気持ちのまま、一人で過ごしたくなかった。

 自分に好意があるのは分かっていた。それでも、先輩として頼っています、と言えば、彼はそれ以上の答えを求めずに相談に乗ってくれた。

 彼氏と仲直りした話や、二人で楽しく出かけた話は、邦彦にはしなかった。そんなことを話したら、もう自分の出番はないと思われそうだった。

 恋人になれば、もっと大切にしてもらえると思っていたのに。

 萌々子は画面に目を戻し、文章を打った。


『彼氏と揉めてしまって。迎えに来てもらえませんか。今日は会って話したいです』


 送信すると、すぐに返信が来た。場所を聞く言葉ではなかった。


『まだ付き合ってるの? もう話はついたって言ってたよね』


 萌々子は画面を見た。

 先日、もう別れ話をしている、話はついたも同然だ、と伝えた。実際には、邦彦に別れ話をしたことはなかった。ただ、あのときは別れようかと思っていたのだ。


『まだです。でも、今そういう話になってて』

『この前もそう言ってたよね』


 少し迷って、電話をかけた。知人は出た。


「ごめんなさい。うまく説明できなくて」

「彼氏には、別れたいって伝えたの?」

「まだ。でも、私の中ではそういう気持ちになってて」

「それなら、前に聞いた話と違うよ。まず二人で話したほうがいいと思う」

「でも、今一人でいたくないんです」

「友達に連絡してみたら。俺が迎えに行くのは違うと思う」


 以前は話を聞いてくれたのに。

 そう言いかけて、萌々子はやめた。相手の声には、もう親しげな調子がなかった。


「別れたら、また会ってくれますか」

「それを条件に別れられても、困るよ。しばらく二人で会うのはやめよう」


 電話が終わった。

 邦彦に送ろうと文章を打ちかけて、消す。知人に断られたことをどう説明すればいいか、分からなかった。


 翌日、邦彦から、これからどうするか話したいと連絡が来た。

 会っても、互いの言い分は変わらなかった。邦彦は夜の面会をやめてほしいと言い、萌々子は相談する相手を選ばせてほしいと言った。

 最後には、仕事で顔を合わせるからこそ、これ以上揉める前に別れようと邦彦が言った。

 萌々子も頷いた。頷けば、いつものように邦彦が折れて、引き留めてくれると思った。

 しかし彼は、互いの部屋に置いてある私物を返す日を決め始めた。萌々子が黙っていても、別れを撤回しなかった。


 会社では、必要な業務のやり取りが続いた。仕事の質問には答えてくれるが、退勤後の相談には応じない。その区別を、以前のように越えられなくなった。


 週末、萌々子は元の恋人に連絡した。


『会って話せないかな』


 何の話か聞かれて、邦彦と別れたことを伝えた。

 以前は、その日のうちに電話をくれた。今回は翌日まで返事がなかった。


『戻るつもりはないよ』


 萌々子は、もう一度送った。


『私が間違ってたって分かったのに?』

『うん。俺も、別れるときはまだ好きだった。でも、今は戻りたくない』


 その次の文章を、何度も読んだ。


『ほかの男とうまくいかなかったときだけ必要にされるのは、嫌だ』


 萌々子は電話をかけた。文章ではうまく伝わらなくても、声を聞けば、話を聞いてくれるかもしれない。

 呼び出し音が続き、やがて切れた。

 その後も、折り返しはなかった。

 返信欄を開いて、閉じた。もう一度説明したところで、彼が戻りたくないと言った答えは変わらない。

 元の恋人はもう、自分の話を最後まで聞くために待っている人ではなかった。


     ◇


 邦彦から連絡が来たのは、八月の初めだった。


『久しぶり。少し話せないかな』


 夕食の後、洗った食器を拭いていた私は、しばらく画面を見た。

 返事をしないうちに、長い文章が続いた。

 飯島さんと付き合ったこと。彼女が別の男にも恋愛相談をしていたこと。自分も予定を取り消されて、ようやく私の気持ちが分かったこと。


『相談に乗ってただけのつもりだったけど、あの子に頼られると断れなくなってた。今は別れてる』


 その文章の下に、もう一つ。


『千景が一番、俺のこと分かってくれてたんだと思う。もう一度やり直せないかな』


 付き合ったのだ、と初めて知った。

 少し胸が痛んだ。別れた後のことでも、平気ではなかった。

 それでも、今さら二人の間に何があったか、詳しく聞きたいとは思わなかった。


『私との約束を破ったのは、あなたでしょう』


 打って、読み直した。


『誰と付き合っても、そこは変わらないよ。私はやり直したくない』


 邦彦から電話がかかってきた。

 一度、出た。


「本当にごめん。言い訳するつもりじゃなかった」

「うん」

「分かってたつもりだったんだ。千景なら待っててくれるって」


 窓の向こうで、自転車のベルが鳴った。


「私、待ってたよ。付き合ってたときは」


 声が少し詰まった。

 それは、今の邦彦のためではなかった。


「でも、もう待たない」


 邦彦は、しばらく黙った。


「誰か、いるの?」

「それを聞いて、どうするの」


 答えは返ってこなかった。


「いなくても、戻らないよ」


 私物の返却は終わっている。ほかに連絡が必要なこともない。

 今後は連絡をしないでほしいと伝え、電話を切った。


 食器を拭く手を止めていたことに気づく。

 布巾を替えて、最後の一枚を片づけた。

 冷蔵庫に入れてある、明日の弁当の卵焼きを確認する。

 一人分の量は、もう間違えなくなっていた。


     ◇


 黒田と次に出かけた日、駅を出てすぐ道を間違えた。


「俺、こっちだと思ってた」

「私も。二人で自信持って曲がったね」


 目的の店は、線路の反対側だった。

 地図を開き直して、黒田が眉を寄せる。私は近くの歩道橋を指した。


「あそこから渡れそう」

「助かる。予約、まだ間に合う?」

「大丈夫。少し早めに着いてよかった」


 歩道橋の上を、二人で歩いた。

 昼食の後は書店を見て、喫茶店に入った。私の買った本を黒田がめくり、彼が気になっていた漫画の話を聞く。

 別のものが好きでも、話していると、見てみようかと思える。


 夕方、駅前の広場で黒田が足を止めた。


「日下部。ちょっといい?」


 私も立ち止まった。

 黒田が一度、鞄の持ち手を握り直す。


「今日みたいに、また二人で出かけたい」

「うん。私も」

「それと、友達としてだけじゃなくて」


 黒田の顔を見た。

 いつもより真面目で、いつもより困っていた。


「好きです。付き合ってほしい」


 通り過ぎる人の足音が、急に大きく聞こえた。


「……いつから?」

「気づいたのは、去年くらい。仕事の帰りに話すのが楽しみになってた」


 去年は、まだ邦彦と付き合っていた。


「だから、前は何も言わなかった。別れてすぐも、言うことじゃないと思った」


 黒田は少し息を吐いた。


「でも、最近は誘ってくれるし。期待していいのか、分からなくなって」


 私は笑ってしまった。

 期待してほしかった、と今なら言える。


「私、黒田と会うの楽しみにしてたよ。仕事の日も、休みの日も」


 彼の目が私から離れなくなった。


「会社だと、話が途中になるでしょ。あの続き聞きたいなって、帰ってから思ったり」

「棚の話?」

「あれも。あと、取引先で靴下濡らした話」

「もっといい話もあっただろ」


 また笑った。

 笑い終わってから、私は言った。


「私も好き。付き合いたい」


 黒田は、少し遅れて頷いた。


「よかった」


 その短い言葉を聞いて、私までほっとした。

 誰かの代わりではなく、黒田と一緒にいたい。それをようやく本人に伝えられた。


 手が触れた。

 黒田が私を見たので、私のほうから握った。彼の指が、ゆっくり握り返してきた。


「来週、私が行きたい店があるんだけど」


 歩きながら言うと、黒田がこちらを向いた。


「行こう。いつ?」

「土曜の六時。予定ある?」

「ない。店、どこ?」


 私は店の名前を言った。前に二人で通りかかって、窓から見えた料理がおいしそうだった店だ。


「あそこか。予約したほうがよさそうだったな」

「していい?」

「うん。楽しみにしてる」


 改札の前で手を離した。

 帰りの電車に乗り、店の予約画面を開く。土曜日、十八時、二名。

 申し込みを終えたところで、黒田からメッセージが来た。


『今日、ありがとう。まだちょっと緊張してる』


 私は画面を見ながら笑った。


『私も。来週のお店、予約できたよ』


 送ってから、カレンダーに店の名前を入れた。

 着て行く服は、あのブラウスにしようと思った。


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