山からの便り
八月に入ると、海宮の朝は早かった。
海上渡御から一週間ほどして、にしさんが轟屋へ軍手の束を持ってきた。店の戸を開けたばかりの時間で、厨房では女将が味噌汁の火をつけている。
「日曜、空いてるか」
先生と茜は、揃って顔を上げた。
「何かあるんですか」
「宮川の手入れだ。上の方まで行く」
茜は軍手を受け取った。
「川の掃除ですか」
「掃除もする。山の道も見る」
にしさんは、棚へ鯵の干物を置いた。
「海の祭りが終わったら、次は山だ」
女将が、味噌汁の味を見ながら振り返った。
「お昼は持たせるよ。山で食べる方が、魚もおいしいからね」
「先生も行くのかい」
「行きます」
先生は、少し考えてから答えた。
「海の仕事を、まだよく知らないので」
「山の仕事も、海の仕事のうちだ」
にしさんはそう言って、軍手の束を茜へ押しつけた。
*
日曜の朝、二人はにしさんの車で山の入口へ向かった。
先には、道具を積んだたけさんの軽トラックが走っている。入口には漁協の若い人たちと、町の農家の人たちが集まっていた。山へ入る道の脇には、細い宮川が流れている。
海からは見えなかった川だった。
水は浅く、石の間を急いで流れている。ところどころに、雨で運ばれた枝や葉が溜まっていた。
「ここまで来るのは初めてです」
茜が言うと、にしさんは長靴の泥を落としながら答えた。
「海ばかり見てる町じゃねえからな」
集まった人たちは、川べりに落ちた枝や空き缶を拾い、詰まった落ち葉を熊手でどけた。先生は土のうを持ち上げようとしたが、にしさんがすぐに声をかけた。
「先生、そっちは二人で持て」
「持てます」
「持てるかどうかじゃない。足場が悪い」
先生は少し考えてから、近くにいた若い漁師へ声をかけた。
「一緒に、お願いします」
二人で持つと、土のうは思ったより軽かった。
茜は、その様子を見て何も言わずに笑った。以前なら、先生は一人で持ち上げていたかもしれない。今は、周りの手を借りることを覚え始めている。
先生の長靴が、ぬかるみに少し沈んだ。
「海の靴とは、歩き方が違いますね」
「靴のせいにするな。足を置く場所を見ればいい」
にしさんはそう言ったが、すぐに自分の手を差し出した。
「こっちの方が浅いぞ。ゆっくり来い」
先生は手を借りて、石の上へ移った。
「ありがとうございます」
「礼は、帰ってから飯を食わせてくれりゃいい」
「それは、女将さんに相談します」
近くで枝を集めていた農家の人が笑い、山の朝に少しだけ声が広がった。
*
昼近く、作業は山道の小さな橋の前で止まった。
橋の下に、古い木の枝が引っかかっている。雨が続けば、水があふれそうだった。
茜はしゃがみ込み、石積みの脇を見た。橋の手前で水の流れが狭くなり、枝が同じ場所へ集まっている。
「枝を取るだけでは、また溜まります」
たけさんが訊いた。
「どうすればいい」
「脇の土を少しだけ削って、水が逃げる道をつくった方がいいと思います。でも、石積みの下まで掘ると崩れるかもしれません」
茜は写真を撮り、橋の上からも流れを確かめた。
にしさんは、黙って川を見下ろしていた。
「町の土木に話してみるか」
「写真と、雨の後の水位を一緒に伝えます」
「頼む」
それだけ言われて、茜はノートを開いた。建物の修理と同じように、水の跡を見て、すぐに直せることと専門の人へ頼むことを分ける。
先生も橋のたもとに立ち、流れを見ていた。
「山の水が、ここを通って海へ行くんですね」
「そうだ」
にしさんはうなずいた。
「山の葉っぱが土になって、川に混じる。川の水が海へ流れて、魚の餌になる。海で獲った魚が、町の飯になる」
「山の仕事なのに、海の仕事でもあるんですね」
「最初から、分かれてねえんだ」
にしさんは、少し誇らしそうに言った。
「どこか一つを放っておけば、あとで別の場所が困る」
茜は、丘の家の土台を思い出した。見えない場所の水や土が、上にあるものを支えている。
「家も、同じですね」
先生が言った。
「見える部屋だけでは、できていない」
「そうです。土台と、水の道と、風の抜け方がある」
二人は川の流れを見ながら、しばらく黙っていた。
*
作業が終わると、農家の人たちが握ってきたおにぎりが配られた。梅と昆布の二つだった。
茜は川原の石に腰を下ろし、昆布のおにぎりを半分に割った。
「先生、こちらにしますか」
「では、梅を半分」
二人は取り替えた。
向こうでは、にしさんが若い漁師に、川へ下りる時の足の置き方を教えている。
先生はおにぎりを食べながら言った。
「海宮の魚は、海だけで育つわけではないんですね」
「魚だけじゃねえ」
にしさんが答えた。
「人間も、町だけで生きてるわけじゃねえよ」
先生は、返事をしなかった。茜はその横顔を見た。
海の見える丘に家を建て、一人で暮らしてきた先生が、山の水の流れを見ている。家も人も、見えない場所で何かにつながっている。
遠くで電車の音がした。山の中では、いつもより小さく聞こえる。
*
夕方、轟屋へ戻ると、女将が冷たい麦茶を出した。
「山はどうだった」
「川の水が、海へ流れていました」
先生が答える。
「当たり前のことを、見てきたんだねえ」
女将は笑った。
茜は、橋の写真をたけさんへ渡した。
「町の土木へ、明日相談します」
「写真だけじゃなく、何を心配しているかも書け」
たけさんが言う。
「枝が溜まる場所と、石積みが崩れる可能性です」
「なら、伝わる」
たけさんは、写真を一枚ずつ確かめた。
「土地は晴れた日に見ると、きれいに見えすぎる。雨の後に水がどこへ行くかまで見て、初めて人に勧められるんだ」
不動産の仕事でも、見えている景色だけで判断しない。茜は、山道で見た水の跡と、丘の家の畑に残った水の線を思い浮かべた。
先生は、茜のノートをのぞき込んだ。
「見たことを、次の人へ渡す仕事ですね」
「はい。建築でも、同じだと思います」
窓の外では、山から流れてきた水が、見えないところで海へ向かっていた。
その水が、いつかまた魚と一緒に町へ戻ってくる。
翌朝、茜は轟屋へ出る前に、丘の家の畑を見た。昨夜の雨で、畝の端に細い水の跡ができている。
先生が隣へ来た。
「宮川のように、ここにも水の道があります」
「畑の水が、家の方へ流れていますね」
「午後、溝を少し直します」
「僕も手伝います」
「今日は、町の土木へ写真を届けます」
「では、帰ってから」
茜はうなずいた。山の手入れが、家の小さな仕事へ続いている。
海宮では、山と川と海の仕事が、別の日の別の話ではなく、同じ暮らしの中にあった。




