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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

隠れノミ

作者: あがざぎ
掲載日:2026/02/04

一、終わりと始まりの雨


冷たい雨が降っていた。コンクリートの割れ目から染み出すような、粘着質で陰鬱な雨だった。


倉持誠一郎は、廃ビルの三階、崩れかけた壁にもたれかかり、自身の腹部から溢れ出る熱い液体を手で押さえていた。指の間から生命が滑り落ちていく。サイレンの音が遠く、そして近く響いている。それは彼を追い詰めた狩人たちの凱歌のようでもあり、彼という存在をこの世から抹消するための鎮魂歌のようでもあった。


「ここまでか」


掠れた声が喉から漏れる。三十五年の人生。その半分は逃亡と、自己正当化と、そして底なしの恐怖に費やされた。連続殺人犯。世間は彼をそう呼んだ。しかし、倉持にとってそれは「排除」だった。自分を脅かすもの、自分を蔑むもの、自分を追い詰めるものへの、過剰で不器用な防衛反応の結果だった。だが、誰も理解はしない。理解される価値もないと、彼自身が一番よく知っていた。


視界が霞む。雨音が遠のく。最後に感じたのは、濡れたコンクリートの冷たさと、自身の血の生臭さ、そして奇妙なほどの安堵だった。もう逃げなくていい。もう隠れなくていい。永遠の闇が、彼を優しく包み込もうとしていた。


しかし、闇は訪れなかった。


代わりに訪れたのは、強烈な腐臭と、肌を焼くような陽光、そして全身を襲う激痛だった。


「……う、あ……」


声が出ない。喉が焼け付くようだ。目を開けると、そこは廃ビルではなかった。見知らぬ天井、いや、天井ですらなかった。ボロボロの布切れが何重にも張り巡らされた、天蓋のようなものが風に揺れている。隙間から差し込む光が目に痛い。


体を起こそうとして、倉持は違和感に気づいた。手足が短い。視点が低い。そして何より、肌の色が違った。土気色をした肌には、短い剛毛が生えている。自分の手を見る。小さく、節くれ立ち、爪は鋭く尖っていた。これは人間の手ではない。


「おい、こいつ生きてるぞ」


頭上からしゃがれた声が降ってきた。言葉はわかる。だが、イントネーションが奇妙だ。


「捨て子か? 忌々しい。また『半端者』が増えたか」


覗き込んできた顔を見て、倉持は息を呑んだ。犬のような鼻面、長い耳。二足歩行をしているが、明らかに人間ではない。獣人。ファンタジー小説に出てくるような存在だ。


「……殺すか?」


「よせ。血が汚れる。どうせ放っておけば野垂れ死ぬ。ここは『半獣』の吹き溜まりだ。餌なんてありゃしねえ」


二つの影は興味を失ったように去っていった。


倉持は呆然と空を見上げた。死んだはずだった。だが、意識はある。記憶もある。ただ、器が変わっていた。そして、置かれた状況は前世よりもさらに悪化しているようだった。


喉の渇きに耐えかね、彼は這い出した。泥と汚物にまみれた地面。周囲には同じようなボロ布のテントが密集し、悪臭が漂っている。そこかしこにうずくまる影たち。彼らもまた、人間とは違う特徴を持っていた。角がある者、尻尾がある者、肌が鱗に覆われている者。


ここはどこだ。俺は何になったんだ。


水たまりに映った自分の顔を見て、彼は絶句した。大きな目、潰れた鼻、そして頭から生えた小さな突起。それは、かつて図鑑で見たことのある、あるいは顕微鏡で覗いたことのある、小さな寄生虫を彷彿とさせた。


「ノミ……?」


いや、違う。あくまで獣の特徴を持った子供だ。しかし、その卑小で、弱々しく、今にも踏みつぶされそうな姿は、まさにノミのようだった。


「おや、目が覚めたのかい」


不意に、優しい声がかかった。振り返ると、老婆が立っていた。彼女の顔には深い皺が刻まれ、背中には甲羅のようなものが背負われていた。亀の半獣人だろうか。


「運がいいのか悪いのか……。まあいい、これも縁だ。これを飲みな」


差し出されたのは、欠けた陶器に入った泥水のような液体だった。しかし、倉持にとってそれは甘露に見えた。彼は貪るようにそれを飲んだ。


「名前は?」


老婆が問う。


倉持は答えようとしたが、声帯が未発達なのか、言葉にならなかった。ただ「セイ……セイ……」という掠れた音だけが出た。


「セイか。いい名前だね。生きたい、と言っているようだ」


老婆は微笑んだ。その笑顔だけが、この地獄のような場所で唯一、人間的な温かみを帯びていた。


こうして、元連続殺人犯・倉持誠一郎の、異世界での二度目の生が始まった。名もなき半獣人の孤児「セイ」として。最も底辺の、最も忌み嫌われる場所から。


二、泥の中の呼吸


この世界には厳然たる階級が存在した。頂点に立つのは「純血種」と呼ばれる人間族。彼らは魔力を持ち、文明を築き、富を独占していた。彼らの住む都には高い城壁がそびえ、石畳の道が整備され、魔導灯が夜を照らしていた。そこには教会、学校、劇場があり、生まれついての「人間性」が保障されていた。


その下に、特定の獣の特徴を色濃く持つ「獣人族」がいる。彼らは強靭な肉体を持ち、兵士や労働力として重宝されていたが、人間族からは野蛮だと見下されていた。獣人たちは都の外郭に住むことを許されていたが、入城には通行証が必要で、日暮れまでに退去しなければならなかった。彼らは魔力を持たないが、その代わりに特化した身体能力を持っていた。狼の獣人は嗅覚が鋭く、熊の獣人は驚異的な力を持ち、鷹の獣人は優れた視力を誇った。


そして最下層に位置するのが、「半獣人」と呼ばれる存在だった。人間と獣人の混血、あるいは先祖返りによって生まれた彼らは、中途半端な存在として両種族から忌避された。魔力も持たず、獣人ほどの膂力もない。ただ醜く、不吉な存在として、都市から隔離されたスラムや辺境の村に追いやられていた。法的には「人」として数えられず、戸籍も持たず、契約も結べず、財産を持つことすら許されていなかった。彼らが都市に近づけば石を投げられ、兵士に追い払われた。彼らは「不浄」であり、「忌避すべきもの」であり、「神が見放したもの」とされていた。


セイが拾われたのは、そんな半獣人が集まる集落の一つだった。都から十キロほど離れた荒野の一角。かつては湿地だったらしく、土地は常に湿気を帯び、腐臭が漂っていた。ここには法も秩序もない。ただ、人間族が邪魔だと感じる存在が、まとめて放り込まれる吹き溜まりだった。


養母となった亀の半獣人の老婆、名はオトといった。彼女は集落の隅で、ボロ布を縫い合わせて衣服を作ることで生計を立てていた。背中の甲羅は年季が入って罅が走り、その隙間から白い膿が滲んでいることもあった。だが、彼女の目だけは澄んでいた。長い時間を生きてきた者だけが持つ、諦念と慈悲が混ざった眼差し。


オトには夫がいた。かつて。そして三人の子供も。しかし全員、人間族の「駆除作戦」で失われた。二十年前、感染症が都で流行した際、その原因が半獣人にあるという噂が広まった。根拠はなかった。だが、権力者たちは格好の口実を得て、集落を焼き払った。オトだけが、川に逃げ込んで生き延びた。亀の特性が、このときだけは彼女を救ったのだ。


「私はね、セイ」


オトは夜、針仕事をしながら語った。


「人間を恨んじゃいない。恨んだって仕方がない。彼らは彼らで、恐れているんだよ。自分たちと違うものを。自分たちの優位性が脅かされることを。だから、排除する。それが生き物の性だ」


セイは黙って聞いていた。前世で彼が犯した罪も、同じ理屈だったかもしれない。恐れ。不安。そして過剰な防衛。


「でもね、セイ。だからといって、死んでいいわけじゃない。隠れて、小さくなって、それでも生きるんだ。それがノミの生き方さ」


オトは笑った。彼女はセイの獣の特徴──小さく跳躍に優れた体──を見て、そう名付けたのだろうか。


セイの生活は、彼女のテントの中で息を潜めることから始まった。テントは三メートル四方ほどの空間で、支柱は折れた木材、覆いはつぎはぎだらけの布切れ。雨が降れば至る所から雫が落ち、風が吹けば布が舞い上がって外が見えた。床には藁が敷かれていたが、それも腐りかけで、時折虫が這い出てくる。しかし、セイにとってそれは「家」だった。安全な、戻る場所だった。


「外に出てはいけないよ、セイ」


オトは口癖のように言った。


「お前は体が弱い。それに、外には怖い人間たちが来ることもある。見つかったら、ただじゃ済まないよ。特にお前みたいな子供は……」


彼女は言葉を濁した。だが、セイは理解していた。半獣人の子供は、時折「商品」として攫われるのだ。富裕層の「見世物」として。あるいは魔術実験の「材料」として。


セイはその言いつけを忠実に守った。いや、守らざるを得なかった。前世での逃亡生活が染み付いている彼は、本能的に「隠れる」ことを選んでいた。テントの隙間から外の世界を覗き見るのが、彼の日課だった。


外の世界。それは混沌そのものだった。集落には百を超える半獣人が住んでいたが、誰もが飢えと病に苦しんでいた。子供は骨と皮ばかりで、大人は気力を失った目をしていた。喧嘩は日常茶飯事で、弱い者から食料が奪われ、女は暴力に晒され、老人は放置されて死んでいった。


セイはそれを、感情を殺して観察した。前世の彼は社会学を学んでいた。犯罪心理学にも興味があった。人間がどのような状況で規範を失い、獣になるのか。ここはその最たる実例だった。


(法がない。希望がない。明日がない。だから、人は人であることをやめる)


だが、セイは違った。彼には前世の記憶がある。知識がある。そして何より、「二度目の人生」という認識がある。


(俺は失敗した。前の人生で、俺は間違えた。だから今度は……)


今度は何だ? 正しく生きる? 贖罪する? 笑わせる。この環境で、そんなものが可能なのか?


セイは自問を繰り返した。答えは出なかった。ただ、一つだけ確信していることがあった。


(生き延びる。それだけは譲れない)


時折、立派な鎧を着た人間族の兵士が村を巡回に来る。「定期視察」と称した、実質的な略奪と暴力の行使だった。彼らは馬に乗り、槍を持ち、まるで害獣を駆除するかのような表情で集落に入ってきた。鼻をつまみ、蔑みの視線を投げかけながら、テントを蹴り飛ばしたり、食料を奪ったりした。


抵抗する者はいなかった。かつて、一人の牛の半獣人が兵士に掴みかかったことがある。その男は見せしめとして、集落の中央で火刑に処された。炎の中で絶叫する姿を、集落の者たちは見ることを強制された。それ以来、誰も逆らわなくなった。


半獣人たちは地面に頭を擦り付け、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。誇りを捨て、人としての尊厳を捨て、ただ生存のために屈服する。


(これが、この世界の正義か)


セイは布の隙間から、冷めた目でそれを見ていた。前世でも警察は権力を笠に着ていたが、ここではもっと露骨で、暴力的だ。法は人間族のためにあり、半獣人は法の保護の外に置かれていた。いや、法そのものが半獣人を「非人」と規定していた。


ある日、兵士の一人がオトのテントに入ってきた。セイは素早く布団に潜り込んだ。


「おい、婆。税を払え」


「はい、はい……これで」


オトが差し出したのは、一週間かけて縫い上げた服だった。兵士はそれを受け取ると、顔をしかめた。


「汚ねえな。お前らの手垢がついてる」


そう言って、彼は服を泥に投げ捨てた。そして、テントの中を物色し始めた。


「他に何かないのか? 隠してるんじゃないだろうな」


彼の視線がセイの隠れている布団に向いた。心臓が高鳴る。呼吸を極限まで浅くする。動くな。存在するな。ノミになれ。


「そこに何かいるな」


兵士が槍の先で布団を突いた。セイは必死に体を硬くした。


「やめてください! そこには病気の子が! 触れば感染します!」


オトが叫んだ。嘘だった。だが、その嘘は効果的だった。


「ちっ、気色悪い」


兵士は興味を失い、テントを出て行った。セイは布団の中で、こぶしを握りしめた。屈辱。無力感。そして、オトへの感謝。


「大丈夫だよ、セイ。もう行った」


オトの優しい声が聞こえた。セイは布団から這い出し、オトを見た。彼女は泥まみれの服を拾い上げ、川で洗おうとしていた。


「……ごめんなさい」


セイは初めて、この世界で謝罪の言葉を口にした。オトは微笑んだ。


「謝ることはないよ。お前は生きてる。それが何よりだ」


その夜、セイは自分に誓った。


「隠れろ、セイ。もっと小さく、もっと深く」


彼は自分に言い聞かせた。布団の中に潜り込み、膝を抱える。その姿はまさに、動物の毛の中に潜むノミのようだった。見つかれば潰される。だから、存在を消すのだ。気配を消し、音を立てず、影に溶け込む。


前世で培った逃亡技術が、ここでは生存技術として機能していた。皮肉なものだ。犯罪者としてのスキルが、ここでは最も有用な能力だった。


しかし、隠れているだけでは生きられないことも、彼は知っていた。オトの稼ぎだけでは食料が足りない日も多かった。特に冬。寒さで凍える夜、空腹で眠れない夜。そんな日々が続いた。


五歳になった頃、セイは初めて「仕事」をした。それは、村外れのゴミ捨て場から、使えそうなガラクタを拾ってくることだった。人間族の都市から廃棄されたゴミが、川を流れてこの村の近くに漂着するのだ。正確には、都市が上流にあり、排水路を通じて廃棄物が流れ着く。そこは「忌避地」と呼ばれ、半獣人たちですらあまり近づかない場所だった。毒性のある廃液や腐敗した動物の死骸も混ざっているからだ。


しかし、セイにとってそこは宝の山に見えた。前世での知識が役に立った。彼は化学を多少かじっていた。どの物質が危険で、どの物質が無害か。見分けることができた。


夜明け前、まだ薄暗い時間帯を選んで、セイはテントを抜け出した。体は小さく、動きは素早い。前世で培った「気配を消す技術」が、この幼い体でも有効に機能した。足音を立てず、影から影へ移動する。野犬の群れがいても、彼らに気づかれることはなかった。セイは自分が本当に「ノミ」になったような気がした。


ゴミ山は悪臭が凄まじかった。吐き気を催すほどだが、セイは鼻を押さえて丁寧に漁った。欠けたナイフ、まだ少しインクが残ったペン、布切れ、ガラスの破片、金属の留め具。一つ一つを検分し、使えそうなものだけを袋に詰めた。


途中、不意に気配を感じた。振り返ると、一匹の野犬が唸りながら近づいてきていた。大型犬ほどの大きさで、飢えた目をしている。セイは逃げようとしたが、足を滑らせた。犬が飛びかかってくる。


刹那、セイの体が反応した。前世の本能か。彼は手にしていたガラス片を振り上げ、犬の鼻先に叩きつけた。犬が怯む。その隙に、セイは持っていた腐った肉塊を投げた。犬の注意がそちらに向く。


セイは全力で走った。心臓が破裂しそうなほど鼓動が激しい。だが、走りながら彼は気づいた。自分の体が、前世とは違う。跳躍力がある。瞬発力がある。ノミの特性が、実際に彼の体に宿っているのだ。


彼は三メートル近くを一跳びで跳び越え、塀の上に着地した。背後で犬が吠えている。だが、もう追ってこない。セイは荒い息をつきながら、自分の手を見た。震えている。恐怖か。それとも興奮か。


(俺は……生きてる)


当たり前のことだが、それを実感した瞬間だった。前世では常に「追われる側」で、「死にたい」と思ったことすらあった。だが、今は違う。この世界で、この体で、生き延びたいと強く思った。


オトのテントに戻ると、彼女はまだ眠っていた。セイは静かに拾ってきたものを広げた。その中に、一つの小さな本があった。ボロボロで、ページの半分は破れていたが、まだ読める部分があった。


それは、子供向けの寓話集だった。人間族の子供が読むものだろう。セイは前世の記憶を頼りに、この世界の文字を解読しようとした。驚くべきことに、文字は前世のそれと似ていた。いや、完全に同じではないが、ラテン文字に近い体系だった。転生の際、何らかの形で言語能力が付与されたのかもしれない。


一つの物語が目に留まった。『ノミと象』というタイトルだった。


『昔、象が自慢げに言った。「私は世界で最も強く、大きい。誰も私に敵わない」。すると、象の耳の中からノミが言った。「では、あなたは私を見つけることができますか?」。象は怒って耳を振ったが、ノミは飛び跳ねて逃げた。そしてノミは言った。「大きさが強さではない。見えないことこそが力だ」』


セイは何度もそのページを読み返した。見えないことこそが力。隠れることは弱さではない。生存戦略なのだ。


「おや、起きていたのかい」


オトが目を覚ました。セイは素早く本を隠そうとしたが、彼女は優しく微笑んだ。


「本が読めるのかい? 賢い子だね」


「……これ、貰ってもいい?」


「ああ、お前が拾ってきたんだ。お前のものだよ」


それから、セイは夜ごと、その本を読んだ。繰り返し、繰り返し。ページが擦り切れるまで。


「おや、これは……」


ある日、オトはセイが拾ってきた金属片を見て驚いた顔をした。それは鋼鉄製の細い棒で、先端が鋭く尖っていた。おそらく、何かの工具の一部だろう。オトはそれを磨き、針として使った。それまで骨を削った針を使っていた彼女にとって、それは画期的な道具だった。


「よくやったね、セイ。お前は目利きがいい」


褒められたとき、セイの胸に微かな温かさが宿った。それは前世では決して味わうことのなかった感覚だった。誰かの役に立つ。誰かに認められる。それがこんなにも心地よいものだとは。


前世の彼は、常に拒絶されていた。家族からも、学校でも、社会でも。彼の存在は「邪魔」であり、「異質」であり、「排除すべきもの」だった。だから彼は、排除される前に排除した。殺される前に殺した。そう信じていた。


だが、ここでは違った。オトは彼を受け入れた。無条件に。理由もなく。ただ、「生きている」という事実だけで。


だが、その直後、冷たい理性が囁く。


(調子に乗るな。お前は指名手配犯だ。前世で七人を殺した。ここでは半獣人だ。目立てば死ぬ。忘れるな)


セイは表情を引き締め、再び影の中へと戻っていった。しかし、心のどこかに、小さな灯火が点ったことは否定できなかった。


三、小さき者の哲学


十年が過ぎた。セイは十五歳になっていたが、体格は十歳の子供ほどしかなかった。栄養失調のせいもあるが、彼の種族的な特徴なのかもしれない。しかし、その小柄な体躯は、隠れて生きるには好都合だった。


彼は村の誰よりも目立たなかった。集会にも顔を出さず、喧嘩にも加わらず、ただ黙々と働き、オトの世話をした。村人たちも、「オトのところにいる大人しいガキ」程度にしか認識していなかった。そして、それこそがセイの望むところだった。


十年の間に、セイは自分なりの「生存哲学」を確立していた。それは前世での失敗から学んだ、痛みを伴う教訓の結晶だった。


セイの生活には、確固たる哲学があった。


一、決して人間族の視界に入らないこと。

二、感情を表に出さないこと。

三、所有しないこと。

四、関係を持たないこと。

五、希望を抱かないこと。


何かを持てば、奪われる。才能を見せれば、利用される。感情を見せれば、弱みを握られる。人と繋がれば、裏切られる。希望を持てば、絶望に堕ちる。だから、何も持たない。何も求めない。ただ「いる」だけ。


ノミは、犬の血を吸うとき以外は存在しないも同然だ。吸うときですら、痛みを与えぬよう慎重に行う。掻かれれば死ぬ。だから、決して存在を主張しない。セイもまた、世界の「余り物」を少しだけ啜り、誰にも気づかれずに生きていた。


彼の一日は規則正しかった。日の出前に起き、オトのために水を汲み、薪を拾う。音を立てず、影のように。朝食は乾いたパンの端と、薄いスープ。味はないが、生きるには十分だった。


日中は日雇いの仕事だった。農場の草むしり、井戸掃除、建物の解体作業。最も危険で、最も安い賃金の仕事。半獣人に与えられるのは、そういう仕事ばかりだった。


ある農場での出来事が、セイの記憶に深く刻まれている。その日、人間族の地主が視察に来た。彼は馬に乗り、絹の服を着て、半獣人たちを家畜以下に扱った。


「おい、そこの奴ら! 動きが遅いぞ!」


彼は鞭を鳴らした。作業員たちは怯え、必死で手を動かした。炎天下、水も与えられずに働かされる。


隣で作業していた老いた熊の半獣人が、熱中症で倒れた。彼は地面に崩れ落ち、呻いた。しかし、監督役の人間はそれを見て笑った。


「おい、起きろ! 仮病は通用しないぞ!」


そして、鞭で老人を打った。一度、二度、三度。老人の背中に赤い線が走る。


セイは顔を伏せ、ただ黙々と草を抜き続けた。助けたいと思った。前世であれば、怒りに任せて暴力に訴えていたかもしれない。だが、今は違う。


(助けても無駄だ。俺が助ければ、俺も殺される。そして老人も結局は死ぬ。何も変わらない)


冷酷な計算。だが、それが生存の論理だった。


老人はその日の夕方、息を引き取った。遺体は集落の外れに捨てられ、野犬が貪り食った。葬儀もない。祈りもない。ただ、「また一人減った」という事実だけが残った。


その夜、セイは小さな声で呟いた。


(俺は石だ。俺は草だ。俺は塵だ。感じるな。考えるな。ただ、生きろ)


そう念じることで、屈辱と罪悪感をやり過ごした。しかし、心の奥底で何かが蝕まれていくのを感じていた。人間性が。倫理が。感情が。


(これが贖罪なのか? 前世で殺した七人のために、俺は今、自分を殺している)


問いに答えはなかった。ただ、月が冷たく地面を照らしていた。


ある日、作業中に一人の少年がセイに話しかけてきた。猪の半獣人、ガウという名の、セイと同い年の少年だった。彼は筋骨隆々とした体格で、牙が口から覗いていたが、目は不思議なほど人懐っこかった。


「お前、すげえ速いな」


ガウは感心したように言った。セイの手元を見ていたのだ。セイは無駄のない動きで、他の者の倍の速度で草を抜いていた。効率を考え、最小限の力で最大の結果を出す。それが彼の流儀だった。


「……別に」


セイは短く答え、距離を取ろうとした。関わり合いはリスクだ。目立つことになる。


「俺、ガウっていうんだ。お前は?」


「セイ」


「セイか。いい名前じゃん。よろしくな。終わったら一緒に飯食おうぜ」


ガウの屈託のない笑顔に、セイは戸惑った。半獣人同士でも、互いに警戒し合うのが常だった。奪い合い、騙し合いが日常の世界で、純粋な好意は毒よりも危険だ。裏があるに決まっている。


「……遠慮する」


セイは顔を背けた。しかし、ガウは諦めなかった。


「そう言うなよ。一人で食うより、二人の方が美味いだろ?」


「意味がわからない」


「え、マジで? お前、友達いないのか?」


セイは答えなかった。友達。その概念すら、前世では縁遠いものだった。


しかし、ガウはしつこかった。翌日も、その翌日も話しかけてきた。セイは無視を続けたが、ガウは気にした様子もなく、一方的に話しかけ続けた。


「俺さ、昔は結構荒れててさ。他の奴らと喧嘩ばっかりしてたんだ。でも、ある日気づいたんだよね。喧嘩してても誰も幸せにならないって」


「……」


「だから今は、できるだけ明るく生きようって決めたんだ。どうせ辛い人生なら、笑った方がいいじゃん?」


セイはその言葉に、微かな違和感を覚えた。この世界で、そんな楽天的な思考が可能なのか? それとも、ガウは単純なだけなのか?


ある日、仕事の休憩中、ガウが盗んできた芋を分けてくれた。まだ温かく、ほんのり甘い。


「ほら、食えよ」


「……なぜ」


「なぜって、お前腹減ってるだろ? さっきから腹の音鳴ってたぞ」


セイは恥ずかしさと困惑を感じた。気づかれていた。そして、それを利用されるのではなく、助けられている。


「……対価は」


「は? 対価って、お前……」


ガウは呆れたように笑った。


「何もいらねえよ。ただの友達だろ? 友達ってのは、助け合うもんだ」


友達。またその言葉。セイは芋を受け取り、小さく噛み砕いた。美味しかった。味覚が戻ってきたような気がした。


「なんで俺にかまう?」


セイは思わず聞いていた。


「んー、なんとなく? お前、なんか違う気がしてさ。他の奴らは目が死んでるけど、お前の目は……なんていうか、遠くを見てる。どっか別の場所を見てる感じ」


セイは驚いた。隠しているつもりだった内面を、この単純そうな少年に見透かされていたのか。


「お前こそ、なんでそんなに明るいんだ」


「明るいっていうか……俺、昔、親友を失ったんだ」


ガウの表情が一瞬翳った。


「人間族に殺された。理由もなく。ただ、道を歩いてただけで。俺はそのとき、こう思ったんだ。こんな理不尽な世界で、暗く生きたら負けだって。せめて笑って生きてやろうって」


セイは何も言えなかった。ガウは単純なのではなかった。痛みを知った上で、それでも前を向こうとしていた。


「お前も、何か抱えてるんだろ?」


ガウが聞いた。


「……話したくない」


「そっか。まあ、無理に聞かねえよ。でも、もし話したくなったら、いつでも聞くから」


それから、二人は行動を共にするようになった。もちろん、セイは常に警戒を緩めなかった。目立たない範囲で。裏切られる準備をしながら。しかし、ガウは裏切らなかった。むしろ、セイを守ろうとすることさえあった。


ある日、人間族の兵士が酔って村に乱入してきた。彼らは半獣人を蹴り、笑いながら暴力を振るった。セイはいつものように身を隠そうとしたが、一人の兵士が彼を見つけた。


「おい、そこの小僧! こっち来い!」


セイは凍りついた。逃げれば追われる。従えば辱めを受ける。どちらにしても、不利だ。


「聞こえねえのか!」


兵士が掴みかかろうとした瞬間、ガウが間に割って入った。


「すいません! こいつ耳が悪くて! 俺が代わりに!」


「は? お前が代わりだと?」


兵士は面白そうに笑った。


「よし、じゃあお前、この石を頭に乗せて五分立ってろ。落としたら殴る」


理不尽な命令だった。だが、ガウは素直に従った。石を頭に乗せ、じっと立った。兵士たちはそれを肴に酒を飲み、笑い転げた。


五分後、ガウは石を落とした。当然だ。そんな不安定なものを頭に乗せて五分も立っていられるはずがない。


「おら、約束だ」


兵士はガウを殴った。一発、二発。ガウは耐えた。笑顔さえ浮かべて。


セイはその光景を影から見ていた。胸に熱いものが込み上げてきた。怒りか。感謝か。それとも、もっと別の何かか。


(なぜだ。なぜ、こいつは俺のために)


兵士たちがようやく去った後、セイはガウに駆け寄った。


「……なぜ」


「なぜって、友達だからだろ?」


ガウは腫れた頬を押さえながら笑った。


「お前、体小さいし、目立つと危ないだろ。俺は図体でかいから、ちょっと殴られたぐらいなんでもねえよ」


セイは何も言えなかった。ただ、自分の中で何かが崩れていくのを感じた。鉄壁の防御が。孤立の壁が。


初めての「友人」。前世を含めても、心を許せる相手などいなかったセイにとって、それは新鮮で、むず痒く、そして恐ろしいものだった。ガウを失いたくないという感情と、いずれ裏切られるだろうという予感が交錯していた。


だが、ガウは裏切ることなく、ただそばにいてくれた。


数ヶ月が経ち、セイは少しずつ、ガウに心を開き始めていた。完全ではない。決して全てを話すことはない。だが、隣にいることが苦痛ではなくなった。むしろ、安心すら覚えるようになった。


ある夜、二人は村外れの丘に座っていた。星が綺麗だった。


「なあ、セイ」


「なんだ」


「お前、夢ってあるか?」


「……夢?」


「ああ。俺はさ、いつかちゃんとした家に住みたい。ベッドがあって、暖炉があって、飯が毎日食えるような。人間族みたいにはなれなくても、せめて獣人くらいにはなりたいんだ」


ガウの目は輝いていた。だが、セイにはそれが叶わぬ夢だとわかっていた。この世界の法は、半獣人が階級を上がることを認めていない。生まれた時点で、人生は決まっているのだ。


「……無理だ」


「え?」


「この世界の仕組みを変えない限り、お前の夢は叶わない」


「そんなの、わかってるよ」


ガウは笑った。


「でも、夢を見ることまで禁じられちゃいねえだろ? もしかしたらって思うことが、生きる力になるんだ」


セイは黙った。前世の自分は、夢を見ることすら諦めていた。ただ、恐怖から逃げることだけを考えていた。


「お前は?」


ガウが聞いた。


セイは少し考えた。


「……見えないように生きること」


「はあ? それって夢か?」


「ああ。目立たず、誰にも気づかれず、それでいて確かに生きること。ノミのように」


ガウは首を傾げた。


「よくわかんねえけど……まあ、お前らしいっちゃらしいか」


そして、彼は笑った。


「でもさ、お前。もう少し目立ってもいいんじゃねえか? せっかく生きてるんだから」


「……考えておく」


セイはそう答えたが、心の中では否定していた。目立つことは死ぬことだ。前世がそれを証明している。


しかし、同時に思った。


(でも……もしかしたら)


小さな、本当に小さな希望の種が、セイの心に芽生え始めていた。そして、それは同時に、新たな悲劇の種でもあった。


初めての「友人」。前世を含めても、心を許せる相手などいなかったセイにとって、それは新鮮で、むず痒く、そして恐ろしいものだった。


四、裏切りの代償


その日は、年に一度の徴税の日だった。人間族の役人が村を訪れ、なけなしの金や作物を根こそぎ奪っていく。払えない者は連行され、鉱山送りになる。帰ってくる者はいなかった。鉱山は「生ける墓場」と呼ばれていた。


オトが病に伏せていた。冬の寒さで肺を患い、咳が止まらなくなっていた。薬草を煎じて飲ませたが、効果は薄かった。本当に必要なのは、人間族が独占している魔法薬だった。だが、それを買う金はない。それどころか、徴税の金すらなかった。


「セイ……」


オトは苦しそうに咳き込みながら言った。


「お前は……逃げなさい。私のことはいい」


「何を言ってる」


「徴税が払えなければ……お前も連行される。若いお前を……鉱山に送りたくない」


セイは何も言えなかった。オトの手は氷のように冷たかった。このままでは、彼女は死ぬ。そして、自分も連行される。


(どうする。選択肢は?)


逃げる。一人で。それが最も合理的だ。オトは老いている。助けても長くは生きられないだろう。自分の命を優先すべきだ。


だが、足が動かなかった。


(なぜだ。前世の俺なら、躊躇なく逃げていた。他人を切り捨てることに何の痛痒も感じなかった。なのに)


オトの顔が浮かぶ。自分を拾ってくれた日。初めて笑いかけてくれた日。「生きていることが何より」と言ってくれた日。


(俺には……まだ、人間としての感情が残っているのか)


「セイ、いい話があるんだ」


その時、ガウが声を潜めて現れた。彼の表情は暗く、いつもの明るさがなかった。


「人間族の商人の馬車が、明日の夜、森の道を通るらしい。積み荷を少しだけ……な? 金目のものがあれば、オトさんの薬代と税金を払える」


強盗だ。普段のセイなら絶対に乗らない話だ。リスクが高すぎる。捕まれば死刑だ。しかし、オトの咳き込む姿が脳裏をよぎった。彼女を失えば、この世界での唯一の帰る場所を失う。唯一の、自分を「人」として扱ってくれる存在を。


「……わかった。でも、誰も傷つけない。見つかったら即逃げる」


セイは条件をつけた。前世で犯した罪を繰り返したくなかった。殺人は絶対に避ける。


「ああ、もちろん。俺たちはただ、生きるために必要な分だけ貰うんだ」


ガウはそう言ったが、その目は泳いでいた。だが、セイはそれに気づかなかった。いや、気づきたくなかったのかもしれない。


翌夜、二人は森の街道で待ち伏せをした。月は雲に隠れ、闇が深かった。セイは木の上に身を潜め、ガウは茂みに隠れた。


やがて、馬車の音が聞こえてきた。一台の荷馬車。護衛は二人。計画では、セイが木の上から飛び降りて馬を驚かせ、その隙にガウが荷台から荷物を掴んで逃げる。誰も傷つけず、素早く、静かに。


馬車が近づく。セイは呼吸を整えた。


(今だ)


彼が飛び降りようとした瞬間。


だが、罠だった。


馬車が突然止まった。そして、周囲の茂みから、松明を持った多数の兵士が現れた。十人以上。完全に包囲されていた。


「かかったな、薄汚いネズミどもめ!」


兵士の一人が笑う。セイは瞬時に状況を分析した。情報が漏れていた。この襲撃は予想されていた。いや、誘導されていた。誰が? なぜ?


ガウが茂みから引きずり出された。彼は抵抗せず、むしろ兵士に従うように歩いていた。


「ごめんな、セイ」


隣でガウが震える声で言った。彼は木の下を見上げていた。セイの居場所を知っていた。


「俺、妹が捕まってて……お前を売れば、返してくれるって……」


セイはガウを見た。怒りは湧かなかった。むしろ、あまりにも予想通りの展開に、奇妙な冷静さがあった。ただ、深い諦念と、納得があった。


(そうだ、これがこの世界のルールだ。弱者は弱者を食らう。友情など、生存の前では紙切れより軽い。俺が愚かだった。希望を抱いたのが間違いだった)


「……そうか」


セイは静かに言った。感情を押し殺して。


「妹は大切にしろよ、ガウ」


「セイ……」


「逃げろ、ガウ」


「え?」


「俺が囮になる。お前は足が速いわけじゃない。俺なら逃げられる」


ガウの顔が歪んだ。理解できないという表情だった。裏切った相手が、なぜ自分を助けようとするのか。


「なんで……なんでだよ!」


「お前には妹がいる。俺には誰もいない。計算が合わないか?」


セイは木から飛び降りた。いや、飛び降りたふりをして、空中で方向を変え、兵士の頭上を跳び越えた。ノミの跳躍力が爆発する。


「捕まえろ!」


兵士たちが反応する前に、セイは地面の砂を蹴り上げ、兵士の目に浴びせた。同時に、隠し持っていた煙幕玉(ゴミ捨て場で見つけた硝石と硫黄を調合して作ったものだ)を叩きつけた。


「今だ! ガウ、走れ!」


白煙が一帯を覆った。視界がゼロになる。セイはガウとは逆方向に走り出した。わざと大きな音を立て、兵士たちの注意を引きつける。体は軽い。ノミのように跳ね、木の幹を蹴り、障害物を越えて闇の中を疾走する。


背後で怒号が響く。「こっちだ!」「逃がすな!」。矢が頬をかすめる。一瞬、死の恐怖が襲う。だが、それ以上に奇妙な高揚感があった。


(俺はまた逃げている。また、人生から逃げている)


だが、違う。


(今度は自分のためだけじゃない。誰かを生かすために逃げている)


前世での逃亡は、罪からの逃避だった。ただ、自分の命を守るためだけの、卑怯な逃走だった。今回の逃亡は、誰かを生かすための選択だった。裏切った友を生かすために。


(これが贖罪なのか? 違う。これは単なる自己満足だ。偽善だ。だが……)


だが、それでもいい。偽善でもいい。自己満足でもいい。少なくとも、前世の自分よりはマシだ。


セイは村には戻らなかった。戻ればオトに迷惑がかかる。兵士たちは彼女を人質に取るだろう。それだけは避けたい。


彼はそのまま森を抜け、さらに深い闇へと身を隠した。数日間、木の実と川の水だけで生き延びた。追手の気配が消えるまで、ひたすら身を潜めた。


一週間後、夜陰に紛れて村の近くまで戻った。遠くからオトのテントを見た。中に明かりが灯っている。まだ生きている。それだけで、セイは安堵した。


テントの前に、小さな袋を置いた。中には、森で拾った薬草と、わずかな銅貨(かつてゴミ山で見つけて隠していたもの)が入っている。徴税には足りないだろう。だが、少しは足しになる。


去り際、オトの声が聞こえた気がした。


「セイ……」


振り返りたかった。抱きしめて欲しかった。だが、それはできない。彼は指名手配されているかもしれない。関われば、彼女が危険に晒される。


セイは闇に溶け込み、村を後にした。


(さようなら、オト。俺を人として扱ってくれて、ありがとう)


涙は流れなかった。もう、涙を流す機能すら失っていた。ただ、胸に重い石が沈んでいくような感覚だけがあった。


こうして、セイの「隠れノミ」としての生活は、新たな段階へと入った。孤独で、より過酷な、しかし自由な放浪の日々へ。もう、誰とも関わらない。もう、誰も信じない。ただ、見えないように生きる。ノミのように。


数年後、セイは風の噂でガウのことを聞いた。彼は妹と共に、別の村で暮らしているという。それを聞いて、セイは小さく笑った。


(良かった。あいつは生きてる。それでいい)


そして、オトの訃報も届いた。冬の寒さに耐えられず、静かに息を引き取ったという。


セイは一人、荒野に立ち、空を見上げた。星が綺麗だった。


(俺は一人だ。また一人になった。これでいい。これが俺の生き方だ)


そう自分に言い聞かせて、彼は歩き出した。次の隠れ家を求めて。見えない場所へ。


五、声なき者の叫び


数年が経ち、セイは二十三歳になっていた。彼は隣領の大きな街、グラナダのスラム街に流れ着いていた。グラナダは王国第二の都市で、貿易と魔法学の中心地だった。その栄華の影で、スラムは膨張を続けていた。


ここは以前の村よりもさらに混沌とし、腐敗していた。半獣人だけでなく、犯罪者、逃亡者、病人、あらゆる社会の「余り物」が集められた吹き溜まり。一日に何人もが死に、誰も気にしなかった。だが、人の数が多い分、紛れ込むのは容易だった。


セイは「掃除屋」として生計を立てていた。文字通り路地裏の掃除をすることもあれば、誰かの「不始末」を片付けるような裏の仕事の手伝いもした。死体の処理、違法物品の運搬、盗品の換金。犯罪の周辺で蠢く、影の中の仕事人。もちろん、決して表に出ず、目立たぬよう、影のように。


彼の隠れ家は、崩れた神殿の地下室だった。かつて異教の神を祀っていたらしいが、今は誰も近づかない。迷信深い人間たちは「呪われた場所」として避けていた。セイにとっては好都合だった。


地下室には最小限の物しかなかった。毛布一枚、水を入れた壺、乾パンの入った袋。所有は脆弱性だ。奪われれば困るものは、持たないのが鉄則だった。


ある雨の日、路地裏で一人の少女がうずくまっているのを見つけた。猫の半獣人。耳が半分ちぎれ、体中傷だらけだった。服はボロボロで、恐らく何日も食べていないのだろう、骨と皮ばかりだった。


素通りすべきだった。関われば面倒なことになる。セイは自分にそう言い聞かせた。だが、足が止まった。少女の瞳が、かつての自分と同じ色をしていることに気づいたからだ。絶望と、諦めと、ほんのわずかな生への執着が混ざった、濁った瞳。


(放っておけば死ぬ。それは自然の摂理だ。俺には関係ない)


そう思った。だが、オトの顔が浮かんだ。彼女は自分を拾ってくれた。理由もなく。


「……立てるか」


セイは自分でも驚くほど優しい声で声をかけていた。


少女はゆっくりと顔を上げた。セイを見る目は、警戒と希望が混ざっていた。


「……誰?」


「通りすがりだ。名前を聞いてもいいか?」


「……リーナ」


「リーナ。俺はセイだ。立てるか?」


少女は立とうとしたが、力が入らず崩れ落ちた。セイは躊躇した後、彼女を背負った。驚くほど軽かった。


「何を……」


「黙ってろ。俺の隠れ家に連れて行く。死にたくないなら、大人しくしてろ」


セイは彼女を自分の隠れ家――廃墟の地下室――に連れ帰った。毛布に寝かせ、水を飲ませ、わずかな乾パンを分けた。傷の手当てもした。前世で学んだ応急処置の知識が役に立った。


リーナは数日間、眠り続けた。体力を使い果たしていたのだ。セイは自分の食料を削って、彼女に分け与えた。


(なぜこんなことを? 俺は関わらないと決めたはずだ)


問いに答えはなかった。ただ、彼女を見捨てることが、どうしてもできなかった。


三日目、リーナは目を覚ました。最初は警戒していたが、セイが攻撃してこないことを確認すると、少しずつ話し始めた。


彼女は貴族の屋敷で使用人として働いていたという。だが、主人の息子が彼女に暴行を働こうとした。抵抗した彼女は「主人を傷つけた」という濡れ衣を着せられ、折檻の末に追い出されたのだという。


「誰も信じてくれなかった」


リーナは虚ろな目で言った。


「私は半獣人で、向こうは貴族。証言なんて意味がない。証拠もない。ただ、痛めつけられて捨てられた」


セイは何も言えなかった。それがこの世界の現実だった。弱者の言葉は言葉として認識されない。


「なんで……優しくするの?」


リーナは警戒心を解かずに尋ねた。


「優しくなんてない。ただの気まぐれだ。傷が癒えたら出て行け」


セイはそっけなく答えた。だが、本当は違った。彼は自分の中にまだ、人間性の欠片が残っていることを確認したかったのかもしれない。


リーナは少しずつ回復していった。そして、セイを手伝うようになった。掃除、洗濯、簡単な料理。彼女なりに恩返しをしようとしていた。


セイは最初、それを拒もうとした。だが、拒絶することが逆に彼女を傷つけることに気づき、黙って受け入れた。二人の間に、奇妙な共生関係が生まれた。


そんな折、スラム街で連続盗難事件が発生した。商店から貴重品が次々と消えるのだ。魔法の道具、宝飾品、薬品。被害総額は相当なものだった。


人間族の自警団は、まともな捜査もせず、スラムの半獣人たちを犯人だと決めつけた。彼らにとって、半獣人は犯罪者予備軍でしかなかった。


「犯人を出せ。さもなくば、この区画を焼き払う」


自警団長は、剣を抜いて宣告した。期限は三日。


理不尽な通告に、スラムはパニックに陥った。誰もが互いを疑心暗鬼の目で見るようになった。「お前が犯人だろう」「いや、あいつが怪しい」。弱者同士が互いを食い合う地獄絵図。


「このままじゃ、みんな殺される……」


リーナは怯えていた。


「俺たちには関係ない。逃げよう」


セイは冷静に言った。それが正しい選択だった。巻き込まれる前に、この街を出る。


「でも……」


「でも、何だ? ここにいる奴らは、お前を助けたか? 俺を助けたか? 誰も助けやしない。だから、俺たちも助けない」


セイの言葉は冷酷だった。だが、それが生存の論理だった。


しかし、その夜、セイの中で「何か」が疼いた。前世の記憶。犯罪者の心理。そして、矛盾を見抜く目。


(待て。おかしい)


彼は思い返した。盗難の被害状況、犯行時刻、目撃証言。前世で彼は、犯罪に関する書籍を読み漁っていた。犯罪心理学、法医学、捜査手法。それは自分を守るためだったが、同時に「犯罪を見抜く目」も養っていた。


(これは、半獣人の仕業じゃない)


直感がそう告げていた。セイは夜な夜な街を歩き始めた。現場を観察し、痕跡をたどった。盗まれた物のリスト、犯行時刻、侵入経路。断片的な情報が、彼の頭の中でパズルのように組み合わさっていく。


盗まれた品物には共通点があった。全て魔力を帯びた品々だった。そして、侵入の痕跡がない。鍵は壊されていないし、窓も破られていない。魔法による解錠だ。


(魔力を持たない半獣人には不可能だ。犯人は人間族、それも魔法を使える者)


さらに調べた。盗難のあった店の配置、自警団の巡回ルート、犯行時刻。全てを地図に書き出し、分析した。すると、あるパターンが浮かび上がった。


犯行は必ず、自警団の巡回直後に起きていた。そして、盗まれた品物は、数日後に別の街で売りさばかれていた。その情報を握っていたのは……。


セイは突き止めた。犯人は、自警団の副団長、ヴィクター・ブレイドだった。彼は押収品を横流しし、その罪をスラムの住人に押し付けていたのだ。完璧な犯罪。誰も疑わない立場を利用した、卑劣な手口。


真実は手の中にある。だが、それをどうする?


半獣人の言葉など、誰も信じない。証拠を突きつけたところで、逆に消されるだけだ。声を上げられない立場。それが「隠れノミ」の現実だった。


(だから、俺には関係ない。逃げよう)


そう決めかけた時、リーナの言葉が蘇った。


「どうしたの、セイ? ずっと考え込んでる」


悩み込むセイに、リーナが声をかけた。


「……真犯人がわかった。だが、俺には何もできない」


セイは苦渋に満ちた声で言った。真実を知っていても、正義を行使する力がない。これほど無力なことがあるだろうか。


「セイはすごいね」


リーナはまっすぐに彼を見た。その目は、初めて会った時とは違って、輝いていた。


「誰も気づかないことに気づける。それは、セイだけの力だよ」


「力だと? 何の役にも立たない知識だ」


「そんなことない。力がないなら、知恵を使えばいいんじゃない? セイは頭がいい。きっと、方法があるよ」


その言葉が、霧を晴らした。


そうだ。俺は正面から戦う英雄じゃない。俺はノミだ。小さく、卑小で、誰にも見えない存在だ。なら、見えない場所から噛みついてやればいい。影の中から、この腐った世界に一矢報いてやればいい。


セイは行動を開始した。副団長の不正の証拠を集めた。彼が横流しした品物のリスト、取引の記録、共犯者の名前。全てを密かに書き写し、匿名の密告状として、対立する派閥の貴族や、より上位の監査官のもとへ送りつけたのだ。もちろん、自分には絶対に足がつかない方法で。


セイは前世で学んだ「気配を消す技術」と、この世界で培った「影としての生き方」を最大限に活用した。誰にも見られず、誰にも気づかれず、情報を流した。


数日後、副団長は逮捕された。王国の監査官が直々に乗り込んできたのだ。証拠は動かせなかった。スラムへの焼き討ちは中止となった。


誰もセイがやったとは知らない。スラムの住人たちは「運が良かった」「神様が助けてくれた」と胸をなでおろしただけだ。彼らはセイの名前すら知らない。


だが、セイの胸には確かな達成感があった。


影の中から世界を少しだけ動かした。声を上げずに、正義を実現した。それは、彼が初めて感じた「人間としての尊厳」の欠片だったのかもしれない。


(俺はここにいる。誰にも知られずとも、俺は確かに生きている。そして、少しだけ、世界を変えた)


セイは地下室の暗がりで、小さく笑った。それは、転生してから初めての、心からの笑みだった。


「ね、セイ」


リーナが隣で言った。


「セイは隠れてるけど、私は知ってるよ。セイは優しい人だって」


「……気のせいだ」


セイはそっぽを向いた。だが、頬が少し緩んでいることに、自分でも気づいていた。


六、孤独という名の贖罪


副団長逮捕の騒ぎが収まった後、セイとリーナはグラナダを離れることを決めた。目立ちすぎた。たとえ匿名であっても、行動には痕跡が残る。それが人間族の捜査網に引っかかる前に、姿を消すべきだった。


「どこへ行くの?」


リーナが聞いた。


「わからない。とりあえず北へ。人の少ない場所へ」


二人は荷物をまとめた。といっても、持てるものは最小限だった。二人分の毛布、わずかな食料、水筒、そして前世から持っている寓話集の本。


北への旅は過酷だった。冬が近づき、山々は雪に覆われ始めていた。半獣人が旅をするには危険が多すぎた。人間族の街には入れず、野宿を繰り返した。


ある夜、セイは焚き火の前で、前世の記憶を反芻していた。殺した七人の顔。彼らには名前があった。家族があった。夢があった。それを全て、セイは奪った。


一人目は、会社の同僚だった。セイを馬鹿にし、孤立させた男。セイは彼を地下駐車場で刺した。


二人目は、大家だった。家賃を払えないセイを追い出そうとした老婆。セイは彼女を階段から突き落とした。


三人目、四人目、五人目……。


(どれも、正当化できない。どれも、俺の恐怖と怒りが生んだ、無意味な殺人だった)


「セイ、寝ないの?」


リーナが心配そうに声をかけた。


「……ああ、すぐ寝る」


だが、眠れなかった。前世の罪が、重い鎖となって彼を縛っていた。


(この世界で何をしても、あの罪は消えない。俺は贖罪などできない。ただ、隠れて生きることしかできない)


数週間の旅の末、二人は辺境の小さな村にたどり着いた。そこは山間の谷間にあり、人間族も獣人も半獣人も、区別なく暮らしていた。都市の法が届かない、吹き溜まりのような場所だった。


村長は老いた狼の獣人だった。彼はセイとリーナを見て、何も聞かずに頷いた。


「泊まるところが必要か?」


「……ああ。働く。何でもする」


廃屋は想像以上にボロかった。屋根は穴だらけ、壁は崩れかけ、床は腐っていた。だが、セイには前世での建築知識があった。彼は村人から木材と道具を借り、一から修繕を始めた。


リーナも手伝った。二人で働くことの心地よさを、セイは初めて知った。


「ねえ、セイ」


「なんだ」


「ここでずっと暮らせたらいいね」


「……かもしれない」


セイは素っ気なく答えたが、心のどこかで同じことを思っていた。ここなら、隠れながらも、少しだけ人間らしく生きられるかもしれない。


農場での仕事は過酷だった。朝から晩まで、土を耕し、種を蒔き、雑草を抜いた。だが、それは「生きるための労働」であり、「搾取される労働」ではなかった。その違いは大きかった。


村人たちは、よそ者であるセイとリーナに干渉しなかった。だが、敵意もなかった。ただ、淡々と共存していた。


ある日、セイは農場で働いていると、一人の少年が話しかけてきた。人間族の子供だった。


「おじさん、半獣人?」


「ああ」


「すごい。俺、半獣人と話すの初めて」


セイは警戒したが、少年の目には悪意がなかった。ただの好奇心だった。


「痛くないの? その角」


「……いや、痛くない」


「へえ。かっこいいね」


少年はそう言って走り去った。


セイは呆然とした。「かっこいい」。半獣人の特徴を、肯定的に評価する言葉。それを聞いたのは、生まれて初めてだった。


(この村は……違うのかもしれない)


数ヶ月が経ち、セイとリーナの家は住めるようになった。小さな暖炉、二つのベッド、簡素なテーブル。それだけで、セイには十分すぎた。


リーナは村の女性たちから裁縫を教わり、服を作るようになった。セイは農場の他に、村の修理仕事も請け負うようになった。壊れた家具、詰まった井戸、崩れた石垣。彼の器用さが評価され、徐々に仕事が増えた。


だが、セイは決して目立たないよう気をつけていた。必要以上に話さず、必要以上に関わらず、ただ黙々と働いた。


ある夜、リーナが尋ねた。


「ねえ、セイ。セイは何か、隠してることがあるの?」


セイは動きを止めた。


「……なぜそう思う」


「だって、時々、すごく苦しそうな顔をするから。夜、うなされてることもあるし」


セイは何も言えなかった。彼女の優しさが、逆に胸を抉った。


「話したくないなら、いいよ。でも、もし辛かったら、私が聞くから」


「……ありがとう」


だが、セイは決して話さなかった。前世の罪は、誰にも共有できないものだった。


七、前世の亡霊


村での生活が三年目に入ったある日、セイは深刻な問題に直面した。村に人間族の魔導師が訪れたのだ。彼は王国の「人口調査官」を名乗り、全ての住民の登録を義務付けると宣言した。


「これは王の命令である。拒否する者は反逆者とみなす」


登録には、名前、種族、生年月日、そして「魔力測定」が含まれていた。魔力測定とは、その人物の魔力量と適性を測るもので、同時に「前世の記録」も読み取れるという噂があった。


(まずい)


セイは冷や汗をかいた。もし前世の記録が読み取られれば、自分が連続殺人犯だったことがバレる。そうなれば、即座に処刑されるだろう。


「どうしよう、セイ……」


リーナも怯えていた。彼女にも過去があった。登録は、過去を暴くものでもあった。


「逃げるか」


「また? でも、どこへ……」


「わからない。だが、ここにいれば捕まる」


その夜、セイは村を出る準備をしていた。だが、村長が訪ねてきた。


「逃げるつもりか、セイ」


「……ああ」


「理由は聞かん。だが、一つだけ教えておく。あの魔導師は、金で買える」


「どういう意味だ」


「登録記録を改竄できる。過去を消すことも、別の名前をつけることもできる。もちろん、法に反する行為だが……この村には、そういう過去を持つ者が多い」


村長は静かに言った。


「お前は三年間、真面目に働いた。村に貢献した。だから、村がお前を守る。金は村が出す」


セイは言葉を失った。


「なぜ……」


「なぜ、か。難しいことは考えん。お前が必要だからだ。それだけだ」


翌日、セイとリーナは「登録」を受けた。魔導師は二人の手に魔法陣を描き、魔力を測定した。その際、村長が何かを魔導師に渡した。おそらく賄賂だろう。


数分後、登録証が発行された。そこには「セイ・ノミカ」「リーナ・フェリス」という名前と、簡単な情報だけが記載されていた。前世の記録は、何も記されていなかった。


「これで、お前たちは正式な村の住人だ」


村長は笑った。


セイは初めて、この世界で「身分」を得た。それは偽りの身分かもしれない。だが、それによって彼は「法的に存在する人間」となった。


その夜、セイは一人で外に出た。星空を見上げ、深く息を吐いた。


(俺は……逃げ切ったのか?)


だが、心は晴れなかった。前世の罪は、身分証で消せるものではない。それは永遠に、彼の心に刻まれたままだった。


八、沈黙の選択


セイが村で暮らし始めて十年が経った頃、彼は三十三歳になっていた。リーナは彼の隣で、穏やかな日々を送っていた。二人の関係は家族のようなものだった。恋人ではなく、兄妹でもなく、ただ互いを必要とする存在として。


村は相変わらず静かだった。季節が巡り、作物が育ち、人々は淡々と生きていた。セイにとって、それは最も理想的な環境だった。目立たず、隠れ、それでいて確かに存在する。


しかし、平穏は突然終わりを告げた。


ある日、村に見知らぬ男たちが現れた。彼らは「商人」を装っていたが、セイはすぐに気づいた。彼らの目つき、歩き方、隠し持った武器。人身売買組織の斥候だ。


彼らは村の子供たちを観察していた。特に、半獣人の子供たちを。王国では違法だが、辺境の闇市場では半獣人の子供が「商品」として高値で取引されていた。労働力として、見世物として、あるいは魔術実験の材料として。


セイは村長に報告した。


「あの連中、人攫いだ」


「……わかっている。だが、証拠がない。追い出せば、逆に村が標的になる」


「では、どうする」


「見張る。そして、動きがあれば対処する」


村長の判断は正しかった。だが、セイの胸には不安が渦巻いていた。彼らは必ず動く。そして、その時には既に遅いかもしれない。


数日後、セイの予感は的中した。夜中、村の外れで子供の悲鳴が聞こえた。セイは飛び起きた。リーナも目を覚ました。


「セイ、今の……」


「行ってくる」


「待って、危ない!」


「大丈夫だ。俺は隠れるのが得意だから」


セイは夜の闇に紛れて現場へ向かった。そこには、三人の男たちが半獣人の子供、二人を馬車に押し込もうとしていた。子供たちは泣き叫び、抵抗していた。


セイは木の陰から状況を観察した。男たちは武装している。剣と短剣。おそらく魔法の道具も持っているだろう。正面から戦えば勝ち目はない。


(見なかったことにすればいい。俺には関係ない。巻き込まれれば、俺も殺される)


理性がそう囁いた。それが正しい選択だ。隠れノミは、戦わない。ただ、隠れるだけ。


だが、足が動かなかった。子供たちの泣き声が、耳に突き刺さった。彼らの顔が、かつての自分と重なった。助けを求めているのに、誰も来ない。誰も助けてくれない。そんな絶望。


そして、オトの顔が浮かんだ。彼女は自分を拾ってくれた。理由もなく。見返りも求めず。


(……くそ)


セイは地面の小石を拾った。そして、男たちの背後に投げた。石が木に当たり、音を立てた。


「何だ!?」


男たちが振り返った瞬間、セイは別の方向から石を投げた。男たちが混乱する。その隙に、セイは子供たちに近づき、ロープを切った。


「走れ!」


子供たちは解放され、一目散に村へ逃げた。男たちはようやく状況を理解し、セイに向き直った。


「てめえ!」


男の一人が剣を抜いた。セイは即座に逃走した。ノミのように跳躍し、木から木へ移動する。男たちは追ってきたが、暗闇の中でセイの姿を捉えることはできなかった。


セイは村の反対側へ誘導し、森の奥深くへと男たちを引き込んだ。そこで、彼らの松明を消すための水を用意していた小川へ誘導した。


男たちが川を渡ろうとした瞬間、セイは上流から丸太を流した。男たちはバランスを崩し、川に落ちた。その隙にセイは逃げ切った。


翌朝、村人たちが森で濡れて凍えている男たちを発見した。彼らは村から追放され、二度と戻ってこないよう警告された。


誰もセイがやったとは知らなかった。子供たちは「暗闇の中で誰かが助けてくれた」と証言したが、顔は見ていなかった。


だが、リーナは知っていた。


「セイ……ありがとう」


彼女は静かに言った。


「……何のことだ」


「嘘つき。服が濡れてる」


セイは何も言えなかった。リーナは微笑んだ。


「セイは本当は優しいのに、認めたくないんだね」


「……うるさい」


セイはそっぽを向いた。だが、心の中で小さく笑っていた。自分でも不思議だった。かつての自分なら、絶対にこんな危険は冒さなかった。しかし、今は違う。守りたいものができた。守れる力もある。


(俺は……変わったのか?)


答えはまだわからなかった。ただ、胸の奥に温かいものが灯っていることだけは確かだった。


九、代償の重さ


しかし、人身売買組織は諦めなかった。セイが予想していた通り、彼らは報復に来た。それも、より大規模な組織として。


一ヶ月後、村に武装した集団が押し寄せた。二十人を超える傭兵たち。彼らは村を包囲し、「子供たちを引き渡せ」と要求した。


村長は拒否した。だが、村の戦力では太刀打ちできなかった。村人の多くは老人や女性、子供だった。戦える男は十人もいなかった。


「三日以内に子供たちを引き渡せ。さもなくば、村を焼く」


傭兵の頭目は冷酷にそう告げた。


村は絶望に包まれた。子供たちを守るべきか、村を守るべきか。誰も決断できなかった。


セイは黙って状況を分析していた。敵は二十人以上。武装は重装備。魔法使いもいる。正面から戦えば全滅だ。


(逃げるべきか)


それが最も合理的な選択だった。リーナを連れて、この村を出る。また新しい隠れ家を探す。それが「隠れノミ」の生き方だ。


だが、その夜、村の子供たちが集まってセイの家を訪ねてきた。


「おじさん、俺たち、どうすればいい?」


一人の少年が震える声で聞いた。彼はかつてセイが助けた子供の一人だった。


「……わからない」


セイは正直に答えた。だが、子供たちは諦めなかった。


「おじさんなら、何とかできるって、みんな言ってる。だって、前もおじさんが助けてくれたから」


「……違う。あれは偶然だ」


「嘘だ。おじさんは強い。頭がいい。きっと、方法を知ってる」


子供たちの目には、希望が灯っていた。その光が、セイの胸を抉った。


(俺は……英雄じゃない。ただの逃亡者だ。隠れノミだ)


だが、子供たちは信じていた。セイを。セイの力を。


その夜、セイは一人で考え続けた。どうすれば、傭兵たちを撃退できるか。どうすれば、村を守れるか。前世での知識、この世界での経験、全てを総動員して、策を練った。


そして、一つの計画が浮かんだ。危険で、成功率は低い。だが、他に選択肢はなかった。


翌日、セイは村長に提案した。


「俺に任せてくれ」


「……何をするつもりだ」


「言えない。だが、三日以内に解決する」


村長はセイの目を見た。そこには、決意があった。


「……わかった。お前に賭けよう」


最終章 静かなる証明

季節は冬。辺境の小さな村に、雪が静かに降り積もっていた。


村外れの古びた小屋で、一人の老人が椅子に座り、暖炉の火を見つめていた。白髪交じりの短い剛毛、節くれだった手。セイである。


七十歳を超えた彼の体は、もうかつてのように俊敏には動かない。膝は痛み、目は霞んでいる。だが、その瞳だけは、今も静かな光を宿していた。


「おじいちゃん、スープできたよ」


少女が湯気の立つ皿を運んできた。彼女は、かつてセイが救った孤児の一人の孫だった。この村には、セイが長い人生の中でひっそりと助け、逃がし、匿ってきた半獣人たちの家族が暮らしていた。ここは、地図には載っていない、彼らが作った小さな隠れ里だった。


「ありがとう」


セイは震える手でスプーンを持った。温かいスープが胃に落ちる。


世界は、少しずつだが変わり始めていた。都市部では半獣人の権利を主張する運動が起き、一部の国では法改正の動きもあった。セイがかつてスラムで撒いた「知恵」の種が、数十年という時を経て、芽吹き始めていたのかもしれない。


だが、セイ自身は最後まで表舞台には出なかった。彼は英雄になることを拒んだ。指導者になることも拒んだ。ただの「変わり者の老人」として、この村でひっそりと生きた。


なぜか。


それは、彼が前世の罪を忘れていなかったからだ。人を殺した手。逃げ続けた足。その罪は、どれだけ善行を積んでも消えることはない。彼はそう信じていた。だからこそ、彼は「隠れる身」として生きることで、自分なりの贖罪を続けたのだ。


目立たず、称賛されず、ただ誠実に、目の前の小さな命を守る。ノミのように小さく、しかし確かに鼓動する命として。


「ねえ、おじいちゃん。おじいちゃんは昔、すごい人だったんでしょ?」


少女が無邪気に尋ねる。村の大人たちが、セイに一目置いているのを感じ取っているのだ。


セイは微笑んで首を振った。


「いいや。わしはただのノミだよ。どこにでもいる、ちっぽけなノミだ」


「ノミ? 虫の?」


「そうさ。小さくて、嫌われ者で、隠れるのが上手な虫だ」


「ふうん。でも、ノミだって一生懸命生きてるんだよね?」


セイはハッとして少女を見た。そして、ゆっくりと頷いた。


「ああ……そうだ。一生懸命、生きている」


その夜、セイは夢を見た。


冷たい雨の降る廃ビル。血まみれの手。サイレンの音。かつての絶望の風景。だが、そこに恐怖はなかった。彼は自分の死体を見下ろしていた。そして、その傍らに、小さな花が咲いているのに気づいた。


目が覚めると、朝日が差し込んでいた。雪は止み、一面の銀世界が広がっていた。


体が軽い。痛みも消えている。


(ああ、そろそろか)


セイは悟った。お迎えが来たのだ。


彼は椅子に深く座り直し、窓の外を見た。子供たちが雪遊びをしている。その笑い声が聞こえる。


俺の人生は、隠れることばかりだった。逃げることばかりだった。誰かに誇れるようなものは何もない。


だが、彼らは生きている。俺が守った命が、次の命を紡いでいる。


それだけで十分じゃないか。


倉持誠一郎という罪人は死んだ。そして、セイという名の半獣人もまた、静かに役目を終えようとしている。


「……悪くない、人生だったな」


最期の言葉は、誰にも届かなかった。ただ空気の中に溶け、朝の光の一部となった。


数時間後、部屋に入ってきた家族が見たのは、穏やかな顔で永遠の眠りについた老人の姿だった。その表情は、長い逃亡生活の果てにようやく安息の地を見つけた旅人のように、満ち足りていた。


隠れノミの物語は、ここで終わる。その名は歴史には残らない。教科書にも載らない。だが、彼が愛し、守った人々の記憶の中で、その小さな命の灯火は、いつまでも消えることなく輝き続けるだろう。


(完)

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