第9話
門番の男たちが、泥まみれで血の匂いをさせた幼女を見て、言葉を失って道を開けました。
わたくしは彼らに一瞥もくれず、真っ直ぐにギルドへと向かいました。
まずは、報酬。
それから、お食事。
最後に、泥のようにお眠りすること。
ギルドの扉を、わたくしは残された全神経を動員して、力強く押し開けました。
バァァァンッ!!
「……あらあら、まあまあ。皆様。お待たせいたしましたわ。最高級の、薬草ですわよ」
わたくしの声は、自分でも驚くほど掠れていました。
カウンターに薬草の袋と、そして角うさぎの角を並べた瞬間、わたくしの膝が、ついに限界を迎え――。
――ガクンッ。
わたくしの膝が、石畳の冷たさを思い出したかのように折れ曲がりましたわ。
指先一つ動かすのが億劫で、背負った荷物が何十倍もの重力に捕まったかのようです。
ギルドの受付カウンターは、六歳のわたくしの視点からは見上げるような絶壁。
そこに泥だらけの腕を無理やり伸ばし、震える指で薬草の袋と、血の滲んだ布包みを押し上げました。
「……あら。……あらあら、まあまあ。……死んだような顔をなさって、どうされましたの? 受付嬢さん」
わたくしの掠れた声に、彼女は信じられないものを見るような顔で絶句していましたわ。
昨日よりもさらに酷い有様。
銀髪には枯れ葉と泥がこびりつき、革の胸当てには男の返り血が、まるで呪いのような赤黒い斑点となってこびりついております。
彼女はわたくしと、カウンターに並べられた「成果」を交互に見つめ、ようやく震える唇を開きました。
「……あんた、それ……。角うさぎの角だけじゃなくて、肉まで……。それに、このヒールグラス、予備まで含めて完璧に根から……」
「当然ですわ。わたくし、中途半端なことは大嫌いですの。……ただ、少しだけ『害虫』の駆除に手間取りまして……。森の入り口付近に、わたくしの荷物を勝手に運ぼうとする、不躾なナマコ……いえ、三流の男が転がっておりますわ。お節介でしたら、衛兵さんにでも通報して差し上げて?」
わたくしが努めて優雅に(実際にはカウンターに顎を乗せて今にも意識を失いそうになりながら)告げると、ギルドの中が水を打ったように静まり返りました。
男に襲われた。それを「害虫の駆除」と言ってのける幼女。
周囲の冒険者たちが、ゴクリと唾を呑み込む音が聞こえてくるようですわ。
「……男に、襲われたの? あんた、怪我は……」
「あんな鈍臭い生き物の牙が、わたくしに届くはずありませんわ。……それよりも、早くわたくしのお宝を、明日への活力……いえ、お小遣いに変えてくださらない? お腹が空きすぎて、わたくしの胃袋が反乱を起こしそうですわよ」
受付嬢さんは、複雑な表情を浮かべながらも、手際よく計算を始めました。
薬草の完品が十株。予備が五株。角うさぎの角、そして解体された肉。
それから、あの男の財布から「救出」した僅かな銀貨。
これらを合算した金額は、わたくしの想像を遥かに超えるものでした。
「……角うさぎの肉が、思いのほか状態が良いわね。この財布、これは正当防衛の戦利品として登録するわ。……全部合わせて、銀貨五枚と、銅貨十五枚よ。Fランクの仮登録期間にしては、異例の稼ぎだわね」
チャリン、と。
ずっしりとした重みのある布袋が、わたくしの目の前に置かれました。
銀貨五枚。
それは、昨日の泥水を啜るような絶望から、わたくしを天上の楽園へと引き上げてくれる魔法のコインですわ。
わたくしは震える手でその袋を握りしめ、周囲の羨望……あるいは下劣な視線を、サファイアの瞳で冷たく射抜きました。
「……あらあら、まあまあ。わたくしのお財布の中身が、そんなに気になりますの? お分けして差し上げてもよろしくてよ? もちろん、あのおじさまと同じように、泥の中に顔を埋めてくださるなら、ですけれど。オホホホ!」
わざと高く、傲慢に笑ってみせると、視線のいくつかが慌てて逸らされました。
隙を見せれば食われる。
それがこの世界のルールであることを、わたくしは短い冒険者生活で嫌というほど学びましたから。
わたくしは這いずるような足取りでギルドを出ると、真っ直ぐに向かったのは、以前から目をつけていた小さな屋台でしたわ。
香ばしいバターの匂い。
そして、それ以上にわたくしの理性を狂わせる、甘くとろけるような砂糖の香り。
そこには、ハチミツをたっぷりと塗って焼き上げた、黄金色の小さなタルトが並んでいました。
「おじさま。それを一つ。……いいえ、二つくださいな?」
わたくしは、泥だらけの指で銅貨を差し出しました。
おじさんは、わたくしのボロボロな姿に驚きながらも、温かいタルトを紙に包んで渡してくれました。
受け取った瞬間に、指先から伝わってくる確かな熱。
わたくしはたまらず、人目も憚らずその縁にかぶりつきました。
「…………っ!!」
サクッ、という軽やかな音。
その直後に、暴力的なまでの甘みが舌の上で爆発しました。
濃厚なバターのコク。
ハチミツの、喉が焼けるような、けれどどこまでも優しい芳醇な甘さ。
それが、疲れ果てたわたくしの脳髄を直撃し、視界の端々を白く染めていきます。
「……あ。……ああ……。……美味しい……。……美味しいですわ!!」
震える吐息と共に、言葉にならない感嘆が漏れ出しました。
前世では、いつでも食べられたはずの「甘み」。
それが、これほどまでに生命を震わせるものだったなんて。
泥を舐め、血を浴び、死の瀬戸際を歩いた後に味わうこの甘露は、どんな贅沢なフルコースよりも深く、わたくしの魂に刻み込まれました。
頬を伝うのは、熱いタルトの湯気のせい。
そう、決して、わたくしの心が折れかけていた証ではありませんわ。
二つのタルトを一心不乱に胃袋に収めると、ようやく身体の芯に、確かな熱が戻ってきました。
わたくしはベタつく口元を袖で拭い、ふらつく足取りで『黒い天秤亭』へと戻りました。
カラン、という気の抜けた鈴の音。
店の中に入った瞬間、鼻を突く鉄錆とカビの匂いが、不思議とわたくしの心を落ち着かせます。
「……へっ、また泥団子みたいな姿で戻ってきやがったか。お嬢ちゃん、その顔、ひでえ有様だぜ」
カウンターの奥で、ガレス様が呆れたように鼻を鳴らしました。
わたくしは何も答えず、カウンターの椅子に這い上がり、銀貨を一枚、コトリと置きました。
「ガレス様。……一晩の宿代と、それから。……相談ですわ」
「金は持ってるようだな。……相談? この店にあるガラクタを、また毟り取ろうってのか」
「失礼ですわね。毟り取るなんて。正当な取引ですわ。わたくし、今日、身の程を知らない男に絡まれまして。……やはり、この小さな身体では、接近戦だけでは手間ばかりかかって割に合いませんの」
わたくしは、自分の細い腕を見つめました。
角うさぎとの衝突で、筋肉は悲鳴を上げ、手首はまだ微かに痺れています。
ショートソードは心強い相棒ですが、それを振るうための「溜め」や「間合い」を作るには、わたくしはあまりにも非力。
「遠くから、相手の動きを止める道具が欲しいのです。それも、魔力を使わずに、確実に。何か、使い古しでもよろしくてよ?」
「……遠距離か。弓は無理だな。お前の腕力じゃ弦も引けねえ。……クロスボウも、このサイズに合う掘り出し物は今ねえな。だが、これならどうだ」
ガレス様がカウンターの下から取り出したのは、厚手の布に包まれた、ずっしりと重みのある束でした。
広げられた布の中から現れたのは、刃渡り十センチほどの、無骨な鉄の塊。
それは、飾り気の一切ない、投擲用のナイフ。投げナイフですわ。
「投げナイフ、ですの?」
「そうだ。バランスは最悪。刃もボロボロだ。だが、重心が偏ってる分、素人が適当に投げても回転の勢いがつく。……元は、どっかの三流暗殺者が使ってたもんだ」
わたくしは、その冷たい鉄を手に取りました。
指先に馴染む、粗末な柄。
これを【見習いシーフ】の技術で操れば、男の足首や顔面を、離れた場所から狙い撃つことができる。
手間を省き、わたくしの美しい肌を傷つけるリスクを減らすための、最高の「道具」ですわ。
「五本、ありますわね。……おいくらかしら?」
「新品ならそれだけで銀貨二枚はもらうが。……まあ、ガラクタだ。銀貨半分と、銅貨二十枚で持ってけ」
「……。銀貨半分、と、銅貨十枚にしてくださいな。わたくし、さっきタルトを二つも買ってしまって、お財布が少しだけ寂しいんですの」
「知るかよ! 食い意地張る前に装備を整えろ! ……チッ、わかったよ、間をとって銅貨十五枚だ。これ以上は、俺が野垂れ死ぬぜ」
交渉成立ですわ。
わたくしは代金を支払い、五本の投げナイフを布に包んで抱え込みました。
これで、わたくしの戦術に「幅」が生まれます。
「ありがとうございますわ。……ガレス様。それから、お水と。昨日のパンを、今日もいただけますかしら?」
「ああ。勝手にしろ。奥で死んだように眠りな、チビ」
わたくしは物置部屋へ戻り、泥だらけの服を脱ぎ捨てました。
湿らせた布で、全身の泥と返り血を拭い去ります。
肌がヒリつきますが、痛みは昨日の半分ほど。
レベルが5に差し掛かろうとしている恩恵でしょうか、身体の回復が、ほんの少しだけ速くなっている気がしますわ。
暗い物置部屋の隅。
わたくしは、手に入れたばかりの投げナイフを一本、月明かりの下で眺めました。
表面は傷だらけで、美しさの欠片もありません。
けれど、この鉄の冷たさが、今のわたくしには何よりも頼もしく感じられます。
(……ふふ。……待っていなさいな。わたくしをただの幼女だと思って侮る、すべての不躾な方々。次にお会いするときは、そのお顔に、この鉄の口付けをプレゼントして差し上げますわ。オホホホ……)
わたくしは、硬い床の上に丸まり、毛布を被りました。
全身の倦怠感が、心地よい眠りの波となって押し寄せてきます。
意識が遠のく中で、わたくしの脳内には、まだあのハチミツの甘みが鮮明に残っていました。




