第8話
「……おいおい。こんなところで、何をしてるんだ? お嬢ちゃん」
わたくしは泥だらけの指を止め、ゆっくりと振り返りました。
そこに立っていたのは、くたびれた革鎧を身に纏い、腰に大剣を下げた三十代ほどの男。
顔には数本の傷跡があり、ギラついた目つきでわたくしの足元……袋に入った角うさぎの角を眺めていました。
(あらあら、まあまあ。……羽虫よりは少しだけマシな、三流の冒険者さんですわね)
わたくしは立ち上がり、泥がついた膝を軽く払いました。
胸当てに小手、そして腰にはショートソード。
六歳の幼女がそんな装備を揃えていることが、彼の警戒心と、それ以上の下劣な欲を刺激しているのが手に取るように分かります。
「見ての通り、薬草を採取していますわ。……何か、わたくしにご用かしら? サインなら、今は持ち合わせておりませんけれど」
「はっ、口の減らないガキだな。その装備……それにその角。いい稼ぎをしてるじゃねえか。……なあ、お嬢ちゃん。その袋、重いだろ? おじさんが運んでやってもいいんだぜ?」
男がニヤリと下品な笑みを浮かべ、一歩近づいてきました。
手のひらを広げ、わたくしの獲物を奪い取ろうとする露骨な仕草。
なるほど。
街の外では、魔物よりも人間のほうが醜悪だというのは、本当のことでしたのね。
(あらあら。わたくしの苦労を、横から掠め取ろうというのかしら。……前世はナマコか何かでしたの?)
わたくしはショートソードの柄に手をかけ、冷ややかに男を見つめ返しました。
全身の神経が、戦いの余熱でまだ熱いままです。
確かにわたくしは小さくて未熟ですが。
今のわたくしをただの幼女だと思っているなら、その浅はかな考えを、根底からひっくり返して差し上げなくてはなりませんわね。
「……お断りしますわ。わたくし、ガラクタを預かる趣味はありませんの。……それに、その汚い手でわたくしのお宝に触れないでいただけます? 指紋がついたら、お値段が下がってしまいますもの」
「……あ? てめえ、今なんと言った?」
男の顔から笑みが消え、眉間に深い皺が刻まれました。
右手が腰の大剣へと伸びます。
周囲の空気が、ピリピリとした殺気に染まり始めました。
(ああ。……面倒ですわね。せっかくお腹が満たされて、優雅な気分でしたのに……)
わたくしは、指先に微かな魔力を集めながら、一歩後ろへ下がりました。
ぬかるんだ地面。
滑りやすい足元。
背後には、まだ採取していないヒールグラスの群生。
一秒の遅れが、わたくしの小さな命を奪うことになります。
「……最後通告ですわよ。……その足、今すぐ引かないと、明日の太陽を拝めなくなりますわ。……わたくしの、美容の時間を邪魔した罪は、重いですからね」
わたくしの言葉に、男が吼えるように剣を抜き放ちました。
鉄が空気を裂く鋭い音。
その巨体が、わたくしに向かって倒れ込むように迫ってきます。
わたくしは身体を沈め、全神経を指先に、そして剣の刃先に集中させました。
(……来なさい。……お掃除の時間は、まだ終わっていないようですわね……!)
男の剣が、わたくしの脳天目掛けて振り下ろされたその瞬間。
わたくしは、その軌道を、吸い込まれるように見つめていましたわ。
心臓の音が、――ドクン、ドクンと、耳の奥で激しく脈打つ音が、加速するわたくしの時間を引き延ばしていきます。
振り下ろされる鉄の塊。
それは、わたくしの頭蓋を割るには十分すぎるほどの重さと、殺意に満ちていましたわ。
けれど、その動きはあまりにも、そう、あまりにも鈍臭いのです。
前世で見ていた動画の格闘家や、昨日の黒狼の神速に比べれば、止まって見えると言っても過言ではありませんわね。
(あらあら、まあまあ。……そんな大振り、わたくしに当てるつもりでいらして?)
わたくしは【見習いモンク】の身のこなしを最大限に発揮し、右足を泥に滑り込ませるようにして、身体を真横へとずらしました。
直後。
ドォォォォンッ!!
わたくしの鼻先をかすめた大剣が、湿った地面に深く突き刺さりました。
飛び散る泥がわたくしの頬を叩き、鼻を突く土の匂いがいっそう強まります。
男が目を見開き、信じられないものを見るような表情で硬直しました。
隙だらけですわよ、おじさま。
「……てぇいっ!!」
わたくしは渾身の力を込め、ショートソードを逆手に持ち替えて、男の無防備な手首を目掛けて振り抜きました。
けれど。
キンッ!!
「……っ、あら!?」
手応えは、硬い金属の感触。
わたくしの剣は、男が身につけていた汚らしい籠手にはじき返されてしまいました。
六歳の細い腕では、どんなに急所を狙おうとも、決定的な打撃を与えるための重さが足りませんの。
痺れる手のひらを必死に抑え、わたくしは低く飛び退きました。
「……この、クソガキがぁっ! ちょこまかと動きやがって!」
男が顔を真っ赤に染め、地面に埋まった大剣を力任せに引き抜きました。
荒い鼻息と共に、安酒の臭いが風に乗って漂ってきます。
不潔ですわ。
不衛生ですわ。
わたくしの神聖な薬草採取の時間を、このような腐ったナマコみたいな男に邪魔されるなんて、屈辱以外の何物でもありませんわね!
(……いい加減になさいな。……わたくし、もうお腹の減り具合が限界なんですのよ?)
足元の泥が、わたくしの革のブーツに纏わりついて自由を奪おうとします。
角うさぎとの死闘を終えたばかりの身体は、すでに鉛のように重く、肺の奥が焼けるように熱い。
一歩動くごとに、全身の関節がギチギチと悲鳴を上げ、視界が僅かに揺れます。
けれど、ここで弱気を見せれば、この男はわたくしを「お宝」ごと踏みにじるでしょう。
そんなこと、没落したとはいえ令嬢の誇りが許しませんわ。
「あら。……当てる自信がなくなったからといって、そんなに怒鳴らなくてもよろしいのに。……声の大きさだけは一流ですわね。……前世は吠えることしか能がない駄犬でしたの?」
「てめえ、殺してやる……! ぐちゃぐちゃにしてやるぞっ!!」
男が再び突進してきました。
今度は、なりふり構わない体当たり。
剣を振るうのではなく、その巨体そのものを凶器にして、わたくしを押し潰そうという腹積もりですわね。
泥を撥ね上げ、獣のような形相で迫る男。
わたくしは咄嗟に左手を突き出し、指先に意識を集中させました。
【見習い魔導士】。
残された僅かな魔力の泉から、最後の一滴を絞り出すように。
「……お熱いのは、お好きかしら?」
バチィィッ!!
わたくしの指先から、掌サイズの火の玉が放たれました。
それは男の顔面を直撃する……のではなく、その足元の枯れ葉の山へと吸い込まれました。
ボォォォッ!!
湿っていたはずの葉が、わたくしの魔力によって一瞬で激しく燃え上がり、濃い煙と火柱を上げました。
「うわあああっ!? あちち、熱いっ!!」
不意の炎に男が足を止め、顔を覆って後退しました。
わたくしは、その目晦ましを逃しません。
【見習いシーフ】の『隠密』。
立ち上る煙に紛れ、わたくしは音もなく、低い姿勢で男の死角へと回り込みました。
ぬかるんだ地面が、わたくしの足音を消してくれる味方になります。
(……一撃。……確実に、動きを止める一撃を……!)
わたくしはショートソードを、両手でしっかりと握りしめました。
狙うは、男の膝の裏。
どんなに鎧で固めていようとも、関節の裏側まで鉄で覆うような余裕は、この三流冒険者にはないはずです。
わたくしは息を殺し、炎の揺らめきに目を奪われている男の背後から、矢のように飛び出しました。
「……そこですわっ!!」
ザシュッ!!
「……ぎゃああああああああっ!!」
鉄の刃が、肉を断つ確かな手応え。
男の右膝裏から鮮血が吹き出し、泥だらけの地面を赤く染めました。
男は力なくその場に崩れ落ち、泥の中に顔を突っ込みました。
ショートソードを握るわたくしの手には、男の体温と、命の重みが嫌なほどに伝わってきます。
けれど、ここで手を休めるほど、わたくしはお人好しではありません。
「……いかがかしら? ……少しは、頭が冷えたのではないかしら?」
わたくしは肩で激しく息をしながら、這いつくばる男を見下ろしました。
男は泥を吐き出しながら、恨みがましい目でわたくしを睨みつけています。
けれど、膝をやられた彼に、もうわたくしを追いかける力はありません。
「……おぼえてろよ、クソガキ……。……俺の仲間が、黙っちゃいねえぞ……」
「あら。……仲良しさんがいらっしゃいますの? ……それはよろしゅうございましたわね。……けれど、その仲間とやらに助けてもらう前に、その傷をどうにかしないと、出血多量で素敵な週末を迎えられなくなりますわよ?」
わたくしは冷たく言い放つと、男が落とした大剣を、わざと遠くの茂みへと放り投げました。
チャリン、という音と共に、男の腰についていた小さな袋が地面に落ちるのが見えました。
わたくしは迷わず、それを拾い上げます。
(あらあら、まあまあ。……これは、わたくしの精神的苦痛に対する、正当なお詫び料ですわよね?)
袋の中身は、僅かな銀貨と、数枚の銅貨。
そして、なぜか半分に割れた安物の宝石らしき石。
全部合わせても大した金額ではありませんけれど、今のわたくしの「城」を整えるには十分な補填になりますわ。
「……さて。……お掃除の続き、ですわ」
わたくしは男をその場に残し、再びヒールグラスの群生地へと戻りました。
手が震えています。
足の力が抜け、今にも倒れ伏してしまいそうです。
けれど、わたくしは泥だらけの手で、一株、また一株と、薬草を丁寧に摘み取っていきました。
十株。
十一株。
予備も含めて、袋がいっぱいになるまで。
(……痛い。お腹が、空きましたわ。……もう、一歩も、動きたくありませんの……)
視界の端で、全職業の経験値が微かに上昇したのが見えました。
けれど、そんなことよりも今は、一刻も早くこの不潔な森を抜け、ガレス様の店で温かい……いえ、まともな食事を摂りたい。
わたくしは泥だらけの袋を背負い、よろめく足取りで森の出口を目指しました。
背後からは、まだ男の苦悶の声が聞こえています。
放っておけば死ぬかもしれませんし、運が良ければ誰かに拾われるでしょう。
わたくしの知ったことではありませんわ。
わたくしを害そうとした者に、情をかけるほど、わたくしの人生は安売りしておりませんので。
一歩、ズブり。
一歩、ズルり。
森を抜ける道は、行きよりもずっと長く感じられました。
太陽はすでに傾き始め、周囲には夕暮れの不気味な影が伸びています。
風が冷たく、濡れた服が体温を奪っていきます。
六歳の幼女の身体には、あまりにも酷な一日ですわ。
(……あらあら。……わたくし、今日だけで、どれほど徳を積んだのかしら。……カミ様、明日の朝食には、せめてジャムくらい付けてくださってもよろしくてよ?)
街の門が見えてきた頃には、わたくしの意識は半分ほど朦朧としていました。
それでも、腰のショートソードだけは離さない。
これが、わたくしを「令嬢」から「冒険者」へと繋ぎ止める、唯一の楔なのですから。




