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没落令嬢セレスティーナ様の冒険者生活  作者: TAC


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第6話

 ザッ、ザッ……。


 森の暗がりに潜む金色の瞳が、わたくしの喉元を狙って細められました。

 闇に溶け込むような、禍々しい黒色の毛並み。

 大ネズミとは格が違う、本物の獣の威圧感に、わたくしの小さな背中を冷たい汗が伝いますわ。


(あらあら、まあまあ。わたくし、まだ装備も整えておりませんのに。神様は、本当に気の早いことですわね!)


 わたくしは足の震えを気合で抑え、握りしめた木の棒を低く構えました。

 身体の動かし方は理解していても、所詮は六歳の幼女の肉体ですわ。

 一撃でも食らえば、わたくしの輝かしい未来は、この薄暗い森の土に還ることになるでしょう。


「グルルル……ッ!」


 黒狼が、重たい泥を跳ね上げて突進してきましたわ。

 速い!

 わたくしは【見習いモンク】の直感に従い、紙一重で横へと転がりました。


 ドサッ!


(痛っ! あらあら。わたくしの滑らかな肌が、また汚れてしまいましたわ!)


 硬い地面に肩を打ち付け、肌が真っ赤に擦りむけました。

 ヒリヒリとした痛みが走りますが、立ち止まっている暇はありませんわ。

 わたくしは咄嗟に指先を敵へと向けました。

【見習い魔導士】の力。

 練り上げた魔力を、一気に火花に変えて放ちます。


 バチィィッ!


「キャウンッ!?」


 狼の鼻先で炸裂した激しい火花が、その視界を奪いましたわ。

 もがき苦しむ獣の隙を、わたくしは逃しません。


(今ですわ!!)


 わたくしは木の棒を両手で握り直し、足を踏み込みました。

 ただの幼女の力ではありません。

【見習い戦士】の重心、【見習いモンク】の瞬発力、そして【見習いシーフ】の急所への嗅覚。

 五つの見習い職業が重なり合い、細い腕に信じられないほどの重みが宿ります。

 わたくしの、明日を掴むための魂の一撃ですわ!


 ドゴォォォォンッ!!


 凄まじい音と共に、木の棒が真っ二つに砕け散りましたわ。

 狼の脳天を直撃したはず。

 けれど、黒狼は頭から血を流しながらも、狂戦士のような形相で再び立ち上がったのです!


「ガアアアァァッ!」


(あら! しぶといですわね! まるでわたくしの執念を見ているようですわ!)


 武器を失い、絶体絶命の瞬間。

 黒狼がわたくしの喉元へ食らいつこうと跳躍しました。

 わたくしは咄嗟に、ガレス様の店から救い出しておいた小さなナイフを抜き放ちましたわ。


 視界がスローモーションになります。

 牙が目の前に迫る中、わたくしは自身のすべてを一点に集中させました。


「そこですわ!!」


 グチャリ。


 黒狼の金色の瞳のすぐ下へ、全体重を乗せたナイフを深々と突き立てました。

 手応えがありましたわ。

 脳まで届いた衝撃に、狼の身体がビクリと硬直します。


「……ガ、ッ……」


 そのまま、黒狼の巨体がわたくしの上に崩れ落ちてきました。

 重い。

 鉄の塊を押し付けられたような圧迫感と、生暖かい血の匂い。

 わたくしは狼の死体を必死に押し退け、ようやく夜の空気を吸い込みましたわ。


【全職業:Lv.3 → Lv.4】


(……はぁ。はぁ。はぁ。死ぬかと、思いましたわ……)


 わたくしはその場に座り込み、折れた棒の切れ端を力なく手放しました。

 指先がガタガタと震えています。

 勝った。

 けれど、問題はここからですわ。

 この立派な毛皮を、ギルドへ持っていかなくてはなりませんの。


「さて。ガレス様の店から救出しておいた、このナイフの出番ですわね」


 わたくしは腰から小さなナイフを抜き、狼の死体に突き立てました。

 ところが、これがちっとも上手くいきませんの!


 ガリッ、ジャリッ。


「あら? 全然刃が通りませんわ。わたくしの腕力が足りないのか、このナイフがなまくらなのか……」


 令嬢だった頃のわたくしなら、お肉はすでに切り分けられた状態で運ばれてきましたわ。

 けれど今は、自らの手でこの生臭い獣を捌かなければなりません。

 皮と肉の間に刃を入れようとしても、ズルリと滑って、せっかくの黒色の毛皮をズタズタに切り裂いてしまいます。


「ああ! もったいない! ここ、穴が空いてしまいましたわ。あらあら、まあまあ。今度は肉まで削ってしまいましたわよ……」


 四苦八苦すること一時間。

 わたくしの顔や服は、狼の返り血でドロドロになりました。

 ようやく剥ぎ取れた毛皮は、穴だらけでガタガタ。

 まるで誰かが噛みちぎったかのような、無残な姿ですわ。


(もう限界ですわ。わたくしの命を守るための装備を、今すぐ手に入れなくては!)


 わたくしは、ボロボロになった毛皮と尻尾を袋に詰め、重たい脚を引きずって街へと戻りましたわ。


 ***


 ギルドの扉を、わたくしは力なく、けれど確かに押し開けました。

 バタン。


「……あら。あの子、また戻ってきたわよ」


 受付嬢が呆れたようにこちらを見ました。

 わたくしは黙って、血まみれの袋をカウンターに叩きつけましたわ。


「……な、何よこれ。まさか、また大ネズミ?」


 彼女が袋の中を覗き込んだ瞬間、その顔から血の気が引きました。


「……えっ。これ、黒狼……!? 黒狼の毛皮なの!?」


「な、なんだって!? 狼だと!?」

「あんなチビが一人で狩ったのかよ!」


 ギルド内が、爆発したようなどよめきに包まれましたわ。

 冒険者たちが席を立ち、わたくしを信じられないものを見るような目で見つめます。


「あらあら、まあまあ。そんなに驚かなくてもよろしいのに。……さて、受付嬢さん。これを引き取ってくださるかしら?」


 受付嬢は震える手で毛皮を取り出し、奥の鑑定士を呼びました。

 戻ってきた鑑定士は、苦虫を噛み潰したような顔をしていましたわ。


「……お嬢ちゃん。黒狼を仕留めたのは大したものだが、この剥ぎ方は酷すぎる。皮は穴だらけ、肉の脂も残ったままだ。これじゃ、本来の半分以下の値段しかつけられないな」


「あら……。それは残念ですわ。わたくしの努力の結晶が、そんなに安くなってしまうなんて」


「……それでも、黒狼だ。尻尾の討伐証明と合わせて……銀貨二枚と、銅貨二十枚ってところだな」


 わたくしの手のひらに、鈍く光る銀色のコインが二枚、そして銅貨の束が握らされました。

 昨日の五枚とは比べ物にならない重み!

 全部で銅貨に換算すれば二百二十枚分。

 今までのわたくしにとっては、目のくらむような大金ですわ!


「ふふ。ふふふ。オホホホホ! お財布が重たいというのは、なんて心地よい響きなのかしら!」


 わたくしは意気揚々とギルドを後にし、あの『黒い天秤亭』へと向かいましたわ。


 ***


 カランカランッ!


「ガレス様!! いらっしゃいますかしら! 特大の商談を持ってまいりましたわよ!」


 わたくしの威勢の良い声に、カウンターの奥で居眠りをしていた大男が、びくりと肩を揺らして目を覚ましました。


「……んだよ、またお前か。……げっ、その格好はなんだ。返り血と泥で、まるで幽霊だな」


 ガレスは顔を引き攣らせて、わたくしを上から下まで眺めました。

 確かに、今のわたくしは銀髪もボサボサ。

 顔にも泥が跳ね、令嬢の面影など塵ひとつ残っておりません。

 けれど、わたくしは不敵に微笑み、銀貨を二枚、カウンターに置きました。


「見て驚きなさいな。これが、わたくしが今日一日で稼ぎ出した、未来への投資金ですわ!」


「……ほう。銀貨か。一日でそこまで稼ぐたあ、お前、本当にただのガキじゃねえな」


 ガレスの目が、少しだけ真剣なものに変わりました。


「それで、このはした金で何が欲しいんだ? 言っておくが、新品の剣なんて金貨三枚はするぞ」


「あらあら、まあまあ。わたくしに、そんな法外なおねだりをする趣味はありませんわ。わたくしが欲しいのは、ガレス様のこの『ゴミ捨て場』に眠っている、掘り出し物ですわよ」


 わたくしは、店内の棚を指差しました。

 中古、型落ち、あるいは出処の怪しい品々。

 ガレスのような質屋には、安くて使い物になる「訳あり品」が必ず眠っているはずですわ。


「まずは、わたくしの足を救いなさいな。このままでは、わたくしの美しい足が、タコだらけの無骨な足になってしまいますわ!」


 わたくしは、泥だらけの素足をガレスに突き出しました。

 小石で切れた傷口が痛々しく光っています。


「……ふん。足元か。待ってろ」


 ガレスは奥の棚をがさごそと漁り、一足の、黒ずんだ革靴を放り出してきました。


「冒険者崩れが流していった、古ぼけた革靴だ。サイズは……お前には少しでかいだろうが、中にボロ布でも詰めりゃあマシになるだろ」


 わたくしは、その靴を手に取りました。

 革は硬く、使い込まれた匂いがしますが、底は厚く、しっかりと鋲が打たれています。

 木の棒で戦うようなわたくしには、これだけでも最高級の防具に見えますわ。


「次に武器ですわ。木の棒では、わたくしの手のひらが先に悲鳴を上げてしまいますの。もっとこう、真っ直ぐにゴミを貫けるものがよろしいわね。中古の『ショートソード』、ありますかしら?」


「ショートソードか。……お前にはまだ重いだろうが、これならどうだ」


 ガレスが奥から持ってきたのは、少し刃こぼれした、けれど重厚な鉄の剣でした。

 長さは五十センチほど。

 六歳のわたくしが持つと、まるで大剣のように見えますわね。


「それから、身を守るものも必要ですわ。昨日は地面に転がって、わたくしの肌に傷がついてしまいましたもの」


「……ったく、注文の多い贅沢なガキだ。ほらよ、サイズが合いそうな革の胸当てと、小手だ。どっちも中古だが、これでお前の薄っぺらい体も少しはマシになるだろ」


 わたくしはショートソードと、革の胸当て、さらに鋲打ちの小手を選びました。


「靴と合わせて、銀貨二枚と銅貨十枚だ。これでも相当負けてやってるんだぞ」


「あらあら。ガレス様ったら、この可憐な幼女からそんなに毟り取ろうとなさるの? 将来、わたくしが王妃様になった時に、このお店を買い取って差し上げる約束で、銀貨二枚になりませんかしら?」


「なるかバカ! だったら店を出て野垂れ死ね!」


「……ちぇ。ケチですわね。わかりましたわ。お支払いいたしますわ。……それからガレス様、一晩泊めてくださる?」


「……勝手にしろ」


 わたくしは、さっそく革靴の中にボロ布を詰め込み、小さな足を潜り込ませました。

 ぶかぶかとして歩きにくいですが、地面の冷たさを感じないだけで、世界が違って見えますわ。

 胸当ては少しぶかぶかですが、革の匂いが安心感をくれます。

 腰に下げたショートソードの重みが、戦う者の自覚を芽生えさせますわ。


(……はぁ。お財布が、あっという間にからっぽですわ。でも、これで戦いやすくなるはず……!)


「どうかしら? 似合っていて? どこからどう見ても、将来有望な冒険者に見えますわよね」


 わたくしは、泥だらけの顔でくるりと一回転して見せました。


「……ああ。どこからどう見ても、小汚いドブネズミだな。さっさと奥で体を拭いて寝ろ。明日も働かないと、飯は出さねえぞ」


 ガレスは呆れたように首を振ると、再びカウンターに突っ伏しました。


(ドブネズミ、ですって? 失礼な。わたくしは、泥の中から這い上がるダイヤモンドですわよ!)


 わたくしは物置部屋へと戻り、新しい「相棒」であるショートソードを枕元に置きました。

 硬い床。

 薄い毛布。

 けれど、昨夜よりも少しだけ、わたくしの心は強くなっている気がします。


(ふふ。これでわたくしも、一人前の冒険者に見えますわよね?)

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