第4話
カチ、カチ。
規則正しい時計の音が、わたくしの意識を引き戻しました。
鼻をくすぐるのは、埃っぽい匂いと、微かなパンの焼けるような香りですわ。
「……あら。わたくし、生きていますのね」
わたくしは、ゆっくりと上体を起こしました。
身体は昨夜よりもずっと軽くなっていますわ。
どうやら、熱は引いたようですわね。
わたくしの身体には、清潔とは言えませんが、暖かい毛布が掛けられていました。
周りを見渡せば、そこは品物が山のように積み上げられた、奇妙な部屋。
錆びた剣に古びたランプ。
どこのものとも知れない、不思議な道具が所狭しと並んでいますわ。
「……起きたか、口の悪いお嬢ちゃん」
扉の影から、昨夜の大男……ガレスが現れました。
彼は木のお盆を、わたくしの目の前にあるガタついた机に置きました。
「……食えるか? 固いパンと、具のないスープだがな」
お盆の上にあったのは、茶色の、お世辞にも美味しそうとは言えないパン。
そして、僅かに湯気が立っている澄んだスープですわ。
「……あらあら、まあまあ。これが、わたくしへの『おもてなし』ですの?」
わたくしは、ジト目でガレスを見上げました。
けれど、お腹は正直ですわ。
ぐぅぅぅぅぅぅ、と、昨日よりもさらに盛大に鳴り響きました。
「……へっ、文句があるなら食わなくていい。だが、その銀の髪と宝石みたいな目……。昨夜、丘の上の屋敷が騎士団に囲まれたって聞いたぜ。お前、あそこの家のガキだろ」
(あら、わたくしの名前は教えていませんのに、鋭いことですわね。羽虫よりは知能があるようですわ)
「わたくしはセレスティーナですわ。あんな沈みかけの泥船、こちらから願い下げですわよ」
わたくしは木のスプーンを手に取り、まずはスープを一口、口に含みました。
「…………っ!!」
味が……しませんわ!
いえ、僅かに塩の味がするだけです。
前世で食べていた、あの旨味たっぷりのスープとは、天と地ほどの差がありますわ。
(いけませんわ。こんなものを食事と呼ぶなんて、文化への冒涜ですわよ!)
けれど、喉を通る温かい液体が、凍えていたわたくしの身体に染み渡ります。
わたくしは不格好なパンを千切り、スープに浸して、必死に口へと運びました。
もぐもぐ、もぐもぐ。
リスのように頬を膨らませて。
「……はぁ。ご馳走様ですわ。とりあえずの命のつなぎとしては、認めて差し上げますわよ」
わたくしはスープを飲み干すと、上品に口元を拭いました。
ボロボロの毛布の端で拭っただけですが、気分は貴族の晩餐会ですわ。
「……それで、お嬢ちゃん。これからどうする。帰る場所なんて、もうねえぞ」
「あらあら。そんなこと、百も承知ですわ。わたくし、決めましたの。ガレス様。わたくしはこれから、この街で『冒険者』として生きていきますわ」
「……ははっ! 冒険者!? お前みたいな、風が吹けば飛ぶようなガキが、何ができるってんだ」
「あら、失礼ですわね。わたくし、こう見えて才能の塊ですのよ」
わたくしは不敵に微笑みました。
すでに身体には、五つの見習い職業が馴染んでいますわ。
ガレスは呆れたように鼻を鳴らすと、カウンターの奥から汚い紙の切れ端を取り出し、さらさらと何かを書きつけました。
「……いいだろう。おもしれえ。ギルドにこれを持っていけ。質屋のガレスの紹介だと言えば、門前払いはされねえはずだ」
「あら。話が早くて助かりますわ。お礼は、わたくしが有名になった時のサインでよろしいかしら?」
「へっ、いらねえよ。さっさと行け」
わたくしはガレスから受け取った紹介状を握りしめ、店を飛び出しました。
外は、昨夜の嵐が嘘のように、澄み渡るような青空。
水溜まりに反射する太陽の光が、わたくしの銀髪を眩しく照らしますわ。
「さあ。わたくしの伝説、その最初の一歩ですわよ!」
***
ギルドの大きな扉の前に立つと、中からは荒々しい男たちの声や、金属がぶつかり合う音が漏れてきました。
わたくしは、深呼吸を一つ。
そして、小さな足で、力強くその扉を蹴り開けました。
バァァァンッ!!
「あらあら、まあまあ! 皆様、お静かになさって? 今、この街で一番可憐な冒険者が到着いたしましたわよ!」
ギルド中の視線が、一斉にわたくしへと集まりました。
酒を飲んでいた男たちや、不機嫌そうな顔をした受付嬢。
「…………なにかしら、このガキ」
受付嬢が、低くて冷たい声を上げました。
わたくしのことを、迷い込んだ野良猫か何かのように見ていますわ。
「あらあら。ガキなんて、失礼な呼び方ですわね。わたくしは、冒険者登録に来た、セレスティーナですわ。さあ、手続きを始めなさいな」
「はぁ? 登録? お嬢ちゃん、ここは遊び場じゃないのよ。お家にお帰り。パパとママが心配してるわよ」
受付嬢は、鼻で笑い、再び書類に目を落としました。
周りの冒険者たちからも、クスクスという嘲笑が漏れ聞こえます。
「パパとママなら、今頃、王都の冷たい石畳の上で反省会をしていますわ。わたくしには、もう帰る場所も、頼る親もおりませんの。あるのは、この身一つと、あふれんばかりの才能だけ」
わたくしは、カウンターに身を乗り出し、受付嬢を真っ直ぐに見つめました。
サファイアの瞳が、狂気的なまでの輝きを放ちます。
「年齢制限なんて、この世界にはありませんわよね? 実力さえあれば、誰でも冒険者になれる……。そう、ギルドの規約には書かれていたはずですが?」
「……っ。規約、ね。よく知ってるじゃない。でもね、あんたみたいなガキを登録させるなんて、ギルドの信用に関わるのよ」
わたくしは、ガレスから貰った紹介状をカウンターに叩きつけました。
「これを、お読みになって?」
受付嬢は怪訝そうにそれを手に取り、内容を確認すると、一瞬だけ目を見開きましたわ。
「……質屋のガレスからの紹介? あの偏屈オヤジがねぇ。わかったわ。規約上、紹介状があるなら登録は拒めないわね。それで、あんたの職業は何なの?」
わたくしは、心の中で考えましたわ。
わたくしが持つ『五位一体』の力。
けれど、ここで正直に「五つありますわ」なんて言えば、面倒なことに巻き込まれるのは目に見えています。
目立つのは、もう少し力をつけてからでよろしいですわね。
「……【見習い戦士】ですわ。まずは基本から、ですわね」
わたくしは、最も無難な職業を一つだけ告げました。
「見習い戦士ね。……いいわ。でも、ここは遊び場じゃないのよ。どうしてもと言うなら、試験を受けてもらうわ」
受付嬢が、意地の悪い笑みを浮かべました。
「試験? あらあら、まあまあ。望むところですわ。どんな難題でも、片付けて差し上げますわよ」
「……いいわ。じゃあ、街の外にある『枯れ井戸』に住み着いた大ネズミを三匹、仕留めてきなさい。証拠に尻尾を持ってくること。それができたら、仮登録を認めてあげる」
「大ネズミ、三匹? あらあら。そんな簡単なことでよろしくて? お昼寝の時間までに終わらせて差し上げますわ」
わたくしは、踵を返しました。
背後で「死にに行くようなもんだぜ」と笑う声が聞こえますが、無視ですわ。
(ネズミ三匹。昨夜、一匹倒したばかりですわ。あと二匹増えるだけ……。なんて手間のかからない試験なのかしら!)
わたくしは街の門を抜け、再び荒野へと踏み出しました。
やっぱり、素足は痛いですわね。
早く、ふわふわの靴を買わなくては。
枯れ井戸は、街から歩いて十五分ほどの場所にありました。
石造りの、崩れかけた古い井戸。
そこからは、あの不快な獣の匂いが漂ってきますわ。
(あら。三匹どころか……五、六匹はいそうですわね。ふふ、ご馳走ですわ!)
わたくしは井戸の影に身を潜めました。
【見習いシーフ】の感覚が、井戸の中に潜む気配を捉えます。
(まずは一匹ずつ……。それが、賢い令嬢の戦い方ですわ!)
わたくしは、小さな石を拾い、井戸の中に投げ込みました。
ポチャリッ。
「……ギギィッ!?」
すぐに反応がありましたわ。
一匹の大ネズミが、鼻をピクピクさせながら這い出してきました。
昨夜の個体よりも、さらに一回り大きいですわね。
「てぇぇいっ!!」
わたくしは、拾った太い木の枝を、渾身の力を込めて振り下ろしました。
バキィィッ!!
「……ギェッ!?」
大ネズミの後頭部を、枝が的確に捉えました。
レベルが上がったおかげで、身体のブレが少なくなっていますわ。
ネズミは短い悲鳴を上げて地面に転がりました。
(あら、いい調子ですわ! このまま全部片付けて差し上げますわよ!)
けれど、その叫び声が仲間を呼んでしまいました。
井戸の中から、次々と大ネズミが這い出してきます。
全部で五匹!
(一対五ですの? 神様、貴方は本当に、わたくしを飽きさせませんわね!)
わたくしは枝を構え直しました。
五匹のネズミが、わたくしを囲むように距離を詰めてきます。
【見習いモンク】の直感が、背後からの攻撃を警告しました。
(右……いいえ、左ですわ!)
わたくしは飛びかかってきた一匹を、僅かな身のこなしで避けました。
そして、その勢いのまま、隣の一匹の横腹を蹴り上げましたわ。
「痛ッ……!」
自分の足の甲が痛みますが、ネズミも大きなダメージを負ったようです。
けれど、残りの三匹が同時に襲いかかってきました。
(魔力よ……。昨夜よりももっと強く、燃え上がりなさいな!)
【見習い魔導士】の力。
わたくしの指先から、バチバチッという音と共に、小さな火花が放たれました。
それは昨夜よりもずっと鋭く、速い!
「……ギャァァァッ!!」
火花がネズミの鼻先に直撃しました。
ネズミはパニックに陥り、地面をのたうち回りますわ。
(隙ありですわ!)
わたくしは混乱したネズミたちの中心に飛び込み、木の枝を振り回しました。
右へ! 左へ!
【見習いモンク】の体術と、【見習い戦士】の打撃。
二つの力が、幼女の小さな身体の中で噛み合います。
パキィッ! ボキッ!
乾いた戦いの音が、荒野に響き渡ります。
わたくしの銀髪が風に舞い、頬に少しだけ汚れがつきましたわ。
けれど、その表情はどこまでも楽しげです。
「オホホホ! あら、もう終わりかしら? もっと、わたくしを楽しませてくださってもよろしくてよ?」
最後の一匹の首を枝で叩き折った時、わたくしの周りには五匹のネズミが転がっていました。
【全職業:Lv.1 → Lv.2】
(ふぅ、はぁ。あら、まあ。案外、あっけなかったですわね。わたくし、才能がありすぎて怖いくらいですわ)
わたくしは、ネズミの尻尾をナイフで手際よく切り落としました。
……ええ、このナイフはガレスの店から、こっそり救出してきたものですわ。
彼には内緒ですわよ?
尻尾を五本、布袋に詰め込むと、わたくしは街へと引き返しました。
足取りは、昨夜とは比べ物にならないほど軽やかです。
レベルが上がって、身体の芯に力が宿っていくのが分かりますわ。
わたくしは胸を張り、サファイアの瞳を輝かせました。
さあ、これからが本当の始まりですわ!




