第19話
「あなたが、依頼主の、ミレー様かしら?」
わたくしの声に、男がゆっくりと顔を上げました。泥に汚れ、深い皺が刻まれた顔。その瞳に、わたくしの姿が映った瞬間、驚きよりも先に、深い溜息が漏れましたわ。
「なんだ、ギルドがよこしたのは、こんなガキ一人か。俺の農園もおしまいだな」
あら。あらあら、まあまあ。初対面の、可憐な淑女に対して、ずいぶんと無礼なご挨拶ですわね。わたくしは、腰のショートソードの柄を軽く叩き、精一杯の気高く、そして冷ややかな微笑みを浮かべました。
「あら、おじ様。見かけの大きさと、お仕事の質が比例するとお思いなら、その立派なだけの……お髭を……毟って差し上げましょうか?」
わたくしは、一歩。男の前に踏み込み、その鼻先で、鈍く光る鉄札を見せつけました。
「わたくし、Eランクの冒険者ですの。そのへんの図体ばかり大きなのらくら者よりは、ずっとお掃除の心得がございますわよ」
男は、わたくしの手の中にある鉄札を見て、驚いたように目を見開きました。それから、信じられないというように、何度もわたくしと札を交互に見比べ。
「鉄札。こんなチビが。ああ、いや、すまねえ。もう、俺には後がねえんだ。助けてくれ。あの化け物どもに、俺の一生かけた畑が」
男の目から、一筋の涙が溢れました。手間ですわ。わたくし、泣いている人間を慰めるなんて、そんな高尚な趣味は持ち合わせて。その時。わたくしの足元で、地面が、ぐらり、と揺れました。
ドォォォンッ!!
畑の端、大きな盛り土が爆発したように弾け飛び、中から。わたくしの背丈ほどもある、巨大な、黒光りする顎。
カチカチ、カチカチッ!!
金属を擦り合わせるような、不快な音が周囲に響き渡りました。
「あら。ご挨拶ですわね、お客様」
土の中から這い出てきたのは、一匹ではありませんでした。二匹、三匹。次々と、闇の中から、兵隊蟻たちがその鎌のような顎を突き出し、這い出してまいります。わたくしは、ショートソードを引き抜き、重心を低く落としました。昨日よりも、魔力は少ない。けれど、わたくしには、この一晩で得た自信と、何より。この新しいマントを、汚されたくないという強い執念が。
「そこ。わたくしのパーソナルスペースを汚さないでくださるかしら?」
わたくしは、一歩。泥を蹴り上げ、最初の蟻目掛けて、火花を纏った刃を。
ズバッ!!
蟻の硬い外骨格を、ショートソードが切り裂きました。けれど、手応えが重い。蟻特有の、ぎっしりと詰まった筋肉の抵抗。わたくしは、すれ違いざま、蟻の側面を通り抜け、次なる敵へと視線を向けました。蟻たちは、一体を斬られたことに動じる様子もなく、統制された動きで、わたくしを包囲するように散らばり始めました。連携。お姉様の言葉が、脳裏を掠めます。奴らは、個の力ではなく、群れの意思で動いている。
(面倒ですわね。一匹ずつ相手にしていては、わたくしの体力が先に底を尽きますわ)
わたくしは、左手で投げナイフを一本、引き抜きました。そして、[見習い魔導士]の力を、その小さな刃に。
パチッ。
小さな火花が散った、その瞬間。背後の地面が、爆ぜました。
「っ、きゃああ!?」
足元から突き上げられた衝撃に、わたくしの小さな身体が宙を舞いました。不意打ち!? 蟻は、地上だけではなく、地下からも攻めて。わたくしは、空中で強引に身を捻り、[見習いモンク]の受身を取ろうとしました。けれど、そこには、すでに口を大きく開けた別の蟻が、わたくしの落下地点を。
カチカチカチッ!!
絶体絶命。わたくしの視界に、蟻の巨大な顎が迫ります。その、内側の。湿った、茶褐色の肉壁までもがはっきりと。
「なめるなと言っていますわよ!!」
わたくしは、空中で、右手のショートソードを強引に横へと一閃。
キィィィィィンッ!!
蟻の顎と、わたくしの剣が激しくぶつかり合い、その反動で、わたくしの身体はさらに別の方向へと弾き飛ばされました。
ドサッ!!
泥だらけの畑に、背中から叩きつけられます。マントがあったおかげで、背中へのダメージは最小限で済みましたが、肺から空気がすべて絞り出されました。
「は、はぁ、はぁ!!」
わたくしは、顔を上げ、すぐに立ち上がろうとしましたが、視界に入ったのは。円陣を組み、じりじりと距離を詰めてくる、十匹以上の兵隊蟻の群れ。数で勝る敵を前に、わたくしの心臓が、激しく警鐘を打ち鳴らしました。昨日とは違う。これは、本当の消耗戦。
「あらあら、まあまあ。これほどの歓迎、わたくしのスケジュールには入って」
言いかけた言葉が、蟻の鋭い突進によって遮られました。わたくしは、泥を転がり、紙一重でその顎をかわしました。頬をかすめた風が、鋭いナイフのように肌を裂きます。一匹、また一匹。わたくしの小さな身体を、黒い津波が飲み込もうと。わたくしは、奥歯を強く噛み締めました。【見習いモンク】の型。【見習い戦士】の闘志。【見習い聖職者】の。
(待ちなさい。聖職者の魔法を攻撃に転用できるかしら?)
わたくしの脳内に、前世の柔軟な発想が閃きました。聖なる光。それは本来、癒しのためのもの。けれど、暗い地底で暮らす蟻たちにとって、その強烈な光は。
「眩しすぎて、お目々が潰れてしまうのではなくて?」
わたくしは、左手の掌を天へと向け、残った魔力をすべて、一点に凝縮。
「光りなさい!!」
次の瞬間、わたくしの手の中から、爆発的な白い光が、周囲を。
ギギィィィィッ!!
蟻たちの統制が、一瞬で崩れ去りました。強烈な光に曝された彼らは、視界を奪われ、狂ったように顎を振り回し、互いを傷つけ始めましたわ。今ですわ。わたくしは、痛む身体を無理やり突き動かし、目潰しを喰らった蟻たちの間を、縫うようにして駆け抜けました。ショートソードが、迷いなくその急所を。
ズバッ、ズブッ、ドシュッ!!
確かな手応え。一匹、また一匹と、黒い塊が泥の上に崩れ落ちていきます。けれど、わたくしの足取りも、一歩ごとに重くなっていく。魔力は、もう底をつきかけて。その時。畑の端、ひときわ大きな坑道の中から、これまでの兵隊蟻とは比べ物にならない。巨大な、そして赤い。
「あら、親分さんのお出ましかしら?」
這い出てきたのは、全身が血のような赤色に染まった、蟻の戦士。その体躯は、小さな馬ほどもあり、顎からはドロリとした強烈な酸の匂いのする液が。わたくしは、荒い呼吸を整え、ショートソードを構え直しました。腕が、小刻みに震えています。視界が、僅かに滲んで。
「手間ばかり、本当に」
赤い蟻の戦士が、地響きを立てて突進してまいります。わたくしは、泥を蹴り、その巨大な赤い影の側面へと跳ねましたわ。
ドチャッ、という不快な音が足元で弾けます。跳ね上げた泥が、わたくしの頬を叩き、あろうことか口の中にまで入り込んできましたわ。苦い。砂利の混じった土の味が、舌の上でざらつきます。不潔ですわ。不潔極まりありませんわ! 淑女の口にするものが、よりによって農園の泥だなんて、前世のわたくしが知ったら卒倒してしまいますわね。
赤い蟻の戦士は、その巨体に似合わない俊敏さで、わたくしの動きに追随してきましたわ。
カチカチカチッ!
顎を鳴らす音が、まるで死神の時計の秒針のように鼓膜を震わせます。奴は巨大な頭部を低く下げ、わたくしの細い足首をまとめて噛みちぎろうと、地を這うような角度で突進を再開いたしました。
(重いですわ。身体が、昨日の疲れを引きずって、思うように跳ねませんの!)
【見習いモンク】の身のこなしでなんとか致命圏を逃れますが、右足の指先に走る痺れが、肉体の限界を冷酷に告げていますわ。わたくしはショートソードを逆手に持ち替え、突進してくる頭部の複眼を目掛けて刃を突き出しました。
ガギィィンッ!
鉄と岩がぶつかり合ったような衝撃。わたくしの手首が、ミシリと嫌な悲鳴を上げました。刃は赤い外骨格を僅かに削っただけで、無情にも弾かれましたわ。硬い。昨日の毒蜘蛛よりも、さらに密度の高い殻に守られています。わたくしは衝撃を殺しきれず、泥の上を数メートル後退いたしました。
「あらあら、まあまあ。そんなにわたくしとお近づきになりたいのかしら? ですが、あいにくとわたくし、真っ赤な顔をした殿方は好みではありませんの!」
精一杯の煽りを口にしながら、わたくしは左手でマントの裾を強く握り締めました。その瞬間、赤い蟻の口元が不自然に歪みましたわ。
ジュボォッ!
嫌な音と共に、奴の口からどす黒い液体が噴射されました。わたくしは反射的にマントを盾のように振りかぶり、身体を丸めました。
ジジジ、ジジィィッ!!
鼻を突く、鼻腔が焼けるような強烈な酸の匂い。わたくしが羽織ったばかりの、銅貨三十枚もした灰茶色のマントから、白い煙が立ち上りました。布地が、見る見るうちにドロリと溶け、穴が開いていくのが分かります。
「っ、わたくしの、わたくしの虎の子の唯一の防具が!!」
お財布の痛みが、恐怖を上書きいたしましたわ。このマントを買うために、わたくしがどれだけ断腸の思いで銀貨を支払ったと思っているのかしら! 将来の優雅なスローライフのために貯めておくはずだったお金が、この目の前の不潔な虫けらによって、泡となって消えていくのですわよ? 許せませんわ。決して、決して許しはいたしません!
わたくしは溶けかかったマントを地面に脱ぎ捨て、泥を蹴って前に出ました。見習い戦士のスキルは、まだひよっこレベル。けれど、怒りに燃えるわたくしの執念は、どんな英雄の剣術よりも鋭く研ぎ澄まされておりますのよ!
赤い蟻の戦士が、再び顎を大きく広げました。わたくしは逃げるのではなく、あえてその懐へと、滑り込むように飛び込みましたわ。地面に膝をつき、泥に塗れることも厭わず、奴の頭の下。柔らかい節の隙間を目指して。
「食らいなさいな、この害虫っ!!」
わたくしは、残り少ない魔力を右腕に集中させました。【見習い魔導士】の火花。ショートソードの根元から、パチパチと青白い電光が走り抜けます。それを、蟻の首の付け根、外骨格の継ぎ目に、力任せに突き立てましたわ!
ドシュッ!!
これまでにない、確かな手応え。刃が、ぬるりとした体内組織へと、深く沈み込んでいきました。直後、剣を通じて伝わってくるのは、沸騰した油のような熱さ。
ギィィィィィィィィッ!!
鼓膜を直接針で刺されるような絶叫。奴は狂ったように巨体を震わせ、わたくしを振り払おうと暴れ狂いました。わたくしは剣を離さず、必死にしがみつきます。視界がぐわんぐわんと揺れ、上下の感覚さえ消失しそうになるのを、奥歯を噛み締めて耐え抜きました。
「離しませんわよ。わたくしのマントの代金、その命で、きっちり精算していただきますわ!!」
わたくしは剣をさらに深く抉り込み、火花を奴の体内で爆ぜさせました。
パキィィィィィンッ!
殻の内側で、小さな爆発。赤い蟻の戦士の動きが、一瞬、完全に静止しましたわ。そして。
ドォォォォンッ!!
地面を揺らす音と共に、巨体が力なく崩れ落ちました。わたくしは、蟻の下敷きになる寸前で、なんとか横へと転がって逃げ出しましたわ。仰向けに倒れ、荒い呼吸を繰り返すわたくしの視界に、抜けるような青空。
その瞬間でしたわ。
バチバチッ、と全身の細胞が沸騰するような、心地よい衝撃が脳内を駆け抜けました。昨日の蜘蛛、そして今日の兵隊蟻の大群。さらにはこの蟻の戦士との死闘。それら全てが、わたくしの内なる器を溢れさせ、新たなステージへと押し上げたのです。
(あら。身体の奥が、温かいですわ。指先の震えが止まり、視界が以前よりも鮮明に……)
肉体の奥底で、見習い剣士、モンク、シーフ、魔導士、聖職者。五つの力が共鳴し、一段高い場所へと昇る感覚。
【全職業:Lv.6 → Lv.7】。
確かな成長の手応えが、泥だらけのわたくしを優しく包み込みました。
「はぁ、はぁ、はぁ!!」
心臓が、喉のすぐ裏側で跳ねているようです。指一本動かす気力さえ、今のわたくしには残っておりません。けれど、横を向けば、そこには物言わぬ肉塊と化した蟻の戦士の姿。わたくしの、勝利ですわ。
静寂。光を奪われた他の兵隊蟻たちは、リーダーを失ったことで混乱しているのか、遠巻きにカチカチと顎を鳴らすだけで、こちらへ近づこうとはいたしません。わたくしは、震える手で泥を掴み、無理やり上体を起こしました。視界が霞み、周囲の農園の景色が二重、三重に重なって見えます。貧血かしら。いいえ、ただの極度の空腹ですわね。
ふと、視線を足元に落とすと。そこには、酸でボロボロになり、見る影もなくなった灰茶色のマントが転がっておりました。わたくしの、銅貨三十枚。
目頭が熱くなりましたけれど、泣きませんわ。泣いても、お金は戻ってきませんもの。わたくしは、よろよろと立ち上がり、死骸へと歩み寄りました。そして、その巨大な顎の根元に、ショートソードの刃を当て。
「あら、ミレー様。ぼんやりと見ていないで、収穫のお手伝いをしてくださいな」
農園の隅で腰を抜かしていた農夫へと、わたくしは精一杯の冷徹な令嬢の微笑みを向けました。泥だらけの顔、ボロボロの服。けれど、その瞳には、獲物を決して逃さない執念が宿っておりますわ。
農夫は、幽霊でも見たかのような顔でわたくしを見つめていましたが、やがて、おそるおそる立ち上がりました。
「あ、ああ。すまねえ。あんた、本当に仕留めたのか。あの赤い化け物を」
「当然ですわ。わたくしを誰だとお思いになって? さあ、この顎を切り離すのを手伝ってくださいな。これが、わたくしの新しいマント代になるのですから」
わたくしは、農夫から古びた鉈を借り、素材を剥ぎ取り始めました。ねっとりとした、蟻の体液の匂い。不快ですけれど、今はこれが、金貨への道標に見えますわ。
作業を終えた頃には、日は少しだけ西へと傾いておりました。他の蟻たちは、いつの間にか坑道の奥へと退散していったようですわね。ひとまずの任務完了ですわ。わたくしは、切り落とした顎を、重そうに引きずりながら農園の入り口へと向かいました。農夫のミレー様は、わたくしの後ろを、申し訳なさそうについてまいります。
「お嬢ちゃん。助かった。本当に、助かったよ。これ、少ないが受け取ってくれ」
差し出されたのは、依頼書に書いてあった銀貨十枚。そして、それとは別に、古びた、けれど丁寧に手入れされた、小さな革製のポシェット。
「これは?」
「俺の死んだ娘が使っていたもんだ。丈夫な魔物の革でできてる。あんたみたいな腕のいい冒険者に使ってもらえた方が、あいつも喜ぶだろう」
わたくしは、そのポシェットを手に取りました。使い込まれた、独特の艶。中には、小さな仕切りが幾つもあり、薬草や小銭を入れるのに丁度良さそうですわ。あら。意外な、掘り出し物ですわね。
「あらあら、まあまあ。おじ様にしては、ずいぶんと趣味の良いものをお持ちですのね。わたくしのマントの代金の一部として、ありがたく頂戴しておきますわ」
わたくしは、ポシェットを腰のベルトに通しました。銀貨をその中へ放り込むと、チャリン、という心地よい音が響きます。空腹も、痛みも、この音を聴けば少しだけ和らぐというものですわ。
けれど、わたくしの仕事は、まだ終わってはおりません。この赤い蟻の顎をギルドへ持ち帰り、正式に追加報酬として認めさせてこそ、プロの冒険者ですわ。わたくしは、農園を後にし、再び街へと続く道を歩き始めました。行きの時よりも、足取りはさらに重く、一歩ごとに膝がガクガクと震えます。
「さむ。本当に、割に合いませんわ」
マントを失った肩には、夕方の冷たい風。汗を吸ったワンピースが体温を奪っていきます。街道の脇に咲いている、名もなき野花。普段なら、それを愛でる余裕くらいはありましたけれど、今のわたくしの脳内にあるのは、ただ一つ。ガレス様の店の、あの泥のようなスープ。熱々のお肉が、たくさん入ったあの。
ぐぅぅぅぅぅぅぅぅ。
静かな街道に、わたくしの胃袋の絶叫が響き渡りました。恥ずかしい。けれど、誰も聞いていないのが幸いですわ。わたくしは、ポシェットの中から、ガレス様からもらったカチカチのパンの欠片を取り出しました。
それを、前歯で力任せに噛みちぎります。硬い。まるで石を噛んでいるようですわ。けれど、噛み締めるほどに、穀物の僅かな甘みが口の中に広がり、わたくしの身体に活力を与えてくれました。
「ふん。これくらいの苦難、わたくしの輝かしい未来へのスパイスに過ぎませんわよ」
パンを飲み込み、わたくしは再び前を向きました。遠くに、ラスティ・ローズの街を囲む、灰色の壁が見えてまいりましたわ。門を抜け、ギルドへ辿り着くまで、あとどれくらいの体力が残っているかしら。




