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没落令嬢セレスティーナ様の冒険者生活  作者: TAC


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第18話

 まぶたの裏側が、じりじりと焼けるような熱を感じましたわ。


 深い闇の底から、意識の断片が、泥の中に浮く泡のようにぷかぷかと浮上してまいります。

 わたくしを包んでいるのは、ガレス様の店の、あのカビ臭くて湿り気を帯びた空気。

 そして、身体の至るところから発信される、全力の拒絶反応ですわ。


「っ、つ……」


 指先をほんの少し動かそうとしただけで、腕の筋肉が「これ以上は無理ですわ!」と絶叫を上げました。

 昨日の毒蜘蛛との死闘、そして無理な魔力の酷使。六歳の幼い肉体にとって、それは分不相応な負荷だったのでしょう。

 身体が、まるで巨大な岩に押し潰された後のように、重くて、硬くて、言うことを聞きませんの。


 わたくしは、薄暗い天井を見つめたまま、ゆっくりと息を吸い込みました。

 肺が広がるたびに、あばら骨のあたりがズキズキと痛み、昨日の蜘蛛の脚に弾き飛ばされた感触を思い出させます。

 不快ですわ。本当に不快極まりありません。優雅な寝目覚めとは、ほど遠い現実ですわね。


 ですが、わたくしはそのまま横たわっているわけにはまいりませんの。

 将来、ふかふかのソファに座って、最高級の茶葉で淹れた紅茶を楽しむためには、今ここで止まるわけにはいかないのですわ。

 わたくしは、喉の奥で「んんっ」と気合を入れ、身体の奥底に眠る魔力の滴をかき集めました。


 【見習い聖職者】の力。

 昨日の戦いで空っぽになった魔力の器に、一晩の眠りでようやく溜まった、ほんの僅かな輝き。

 それを、自分の身体の痛む箇所へと、そっと流し込んでいきます。


 じわぁっ。


 氷の塊が溶けていくような、微かな温もりが全身を巡りました。

 劇的に治るわけではありませんけれど、重鉛のような身体が、ようやく「動かせるレベル」まで軽くなっていくのが分かります。

 わたくしは、ガリガリと音を立てる関節をなだめすかしながら、ゆっくりと上半身を起こしました。


 バサリ、とボロ布の布団がずり落ちます。

 冷たい空気が、肌に触れて、わたくしは思わず身震いしました。

 視線を、部屋の隅に干しておいた、あのワンピースへと向けます。


「あら、あらあら、まあまあ」


 わたくしの、精一杯の洗濯の結果が、そこにありましたわ。

 昨日、必死に洗った水色のワンピース。

 乾いた生地には、やはり、あの毒蜘蛛が吐き散らした紫色の体液の跡が、薄いシミとなって残っておりました。

 まるで、わたくしの冒険者生活の泥臭さを象徴するような、呪わしい汚れですわね。


 わたくしは、膝をつき、這うようにしてそのワンピースを手に取りました。

 生地を指先でなぞると、まだ少しだけ湿り気が残っているような気がします。

 けれど、着替えるための予備なんて、今のわたくしにはございません。


 わたくしは、それを頭から被り、小さな腕を袖に通しました。

 生地が肌に触れるたび、昨日味わった恐怖と、それ以上の屈辱が蘇ります。

 このシミ一つにつき、将来は銀貨百枚分のドレスを買ってやりますわ。

 わたくしは心の中で、不敵なまでの決意を新たにいたしました。


 次に手に取ったのは、ガレス様が作ってくださった黒革の胸当てです。

 表面には、蜘蛛の脚が激突した際の、細かな傷跡が幾つも刻まれておりました。

 これがあったからこそ、わたくしは今、こうして生きて呼吸ができているのですわね。

 わたくしは、その硬い革の感触を確かめ、背中の紐をぎゅっと締め上げました。


 ぐっ、と胸が圧迫される感覚。

 それが、戦場へと向かうためのスイッチになります。

 わたくしは、壁に立てかけてあったショートソードを腰に差し、その重みを右腰に感じながら、立ち上がりました。


 がたっ、と膝が笑いましたが、わたくしは壁に手をついてそれを制しましたわ。

【見習いモンク】の呼吸。

 深く、長く。痛みを意識の外へと追いやり、肉体を支配下に置くためのリズム。

 数分後、わたくしは凛とした表情を鏡のない空間で作り上げ、部屋の扉を開けました。


 ギィィ。


 扉の軋む音が、静かな店内に響きます。

 一階へ続く階段を下りると、そこにはすでに、鉄を打つ金属音。

 ガレス様はすでに一日の仕事を始めているようですわね。


 カウンターに目を向けると、いつものように茶色い汁の入った木のお皿が置かれておりました。

 見た目は相変わらずドロリとして不衛生な泥のよう。

 けれど、立ち上る湯気からは、昨日よりも少しだけ多めに入っているであろう、お肉の匂いが漂ってまいりましたわ。


「起きたか。死に損ないのガキにしては、早いお目覚めだな」


 ガレス様は、槌を振るう手を止めずに、背中でそう吐き捨てました。

 わたくしは、スカートの裾を軽くつまみ、淑女としての優雅な一礼を捧げました。

 膝が震えるのを必死に隠しながら。


「オホホ! わたくしの輝かしい未来を、寝坊で無駄にするわけにはまいりませんの。それに、このお肉の匂いに誘われてしまいましたわ」


 わたくしは椅子に座り、不格好なスプーンを手に取りました。一口、スープを口に含みます。

 どろりとした液が喉を通るたび、昨日削り取られたエネルギーが、じわじわと補填されていくのが分かりました。

 塩辛い。けれど、その刺激こそが、今のわたくしには必要なのですわ。


「今日は、どうするつもりだ」


 ガレス様が、手を止めてこちらを振り返りました。

 その鋭い視線が、わたくしのワンピースに残った紫色のシミを、一瞬だけ捉えたのをわたくしは見逃しませんでしたわ。


「決まっております。わたくしは、Eランクの冒険者ですのよ? 昨日のような、不潔な害虫にワンピースを汚されたままにしておくほど、お人好しではありませんわ」


 わたくしは、スープを飲み干し、口元を布で拭いました。そして、懐から、あの鈍く光る鉄札を取り出しましたの。鉄の冷たさが、指先に心地よく伝わってまいります。


「手間ばかりかかるお仕事は、もうたくさんですわ。次は、もっとお財布の紐が緩むような獲物を」


 言いかけたところで、胃の奥がキュウ、と鳴りました。空腹は満たされましたけれど、将来への不安は、まだ一枚の鉄札では拭い去れません。わたくしは、スプーンを置いて、立ち上がりました。


「行ってまいりますわ、ガレス様」


「おい、チビ」


 呼び止める声に足を止めると、ガレス様は棚の奥から、くたびれた茶色の布包みを投げてよこしました。

 わたくしは、それを咄嗟に両手で受け止めました。重い。中身を確認すると、それは昨日わたくしが失ったのと同じ、安物の投げナイフが三本。

 そして、カチカチに硬くなった保存用のパンの欠片でした。


「昨日の素材のおまけだ。さっさと行け。道具の使い方が悪いから、そんなに消耗すんだよ」


 わたくしは、そのぶっきらぼうな贈り物を見つめ、少しだけ、口角が上がるのを抑えきれませんでした。不器用な優しさ。没落したわたくしが、この街で唯一手に入れた、確かな支えですわね。


「あら。ガレス様にしては、少しは気が利くようになりましたわね。この恩は、わたくしが大金持ちになった時に、銀貨一枚くらいで返して差し上げますわ」


「ケチなガキだな。さっさと消えろ」


 わたくしは、ナイフを腰のホルダーに差し込み、パンを袋に押し込みました。

 一歩、店の外へ足を踏み出すと、ラスティ・ローズの不快な朝の匂いが鼻を突きましたわ。

 馬糞の匂い、腐ったゴミの匂い、そして生きるために必死な人々の、汗の匂い。


 石畳を叩く、わたくしのブーツの音。

 カツン、カツン。

 それは、昨日の泥にまみれた足取りとは、明らかに違うリズム。

 鉄札を懐に忍ばせた、一人のプロとしての歩みですの。


 目指すは、冒険者ギルド。

 掲示板に並んでいるであろう、Eランクの依頼たち。

 そこには、昨日のような偶然の遭遇ではない、明確な狙いを持って挑むべき壁が待っているはずですわ。


 ギルドへの道を歩いていると、すれ違う人々の中に、見慣れない顔が混じっていることに気づきました。

 少しだけ上質な装備を身に纏い、鼻を突く街の悪臭に顔を顰めている連中。

 おそらく、他の街から流れてきた、中堅クラスの冒険者でしょう。

 彼らの冷ややかな視線が、六歳のわたくしを通り過ぎていきます。


 あらあら、まあまあ。わたくしをただの子供だと思って見くびるなんて。

 前世はナマコか何かで、脳みそまで筋肉でできているのかしら?

 わたくしは心の中でそう毒づきながら、ギルドの重厚な扉の前に立ちました。


 ぐいっ、と力を込めて。昨日は寄りかからなければ開かなかったその扉が、今日はわたくしの腕力だけで、ゆっくりと口を開けましたわ。


 キィィ。


 店内に充満している、安酒と煙草、そして荒くれ者たちの熱気。わたくしが入った瞬間、幾つかの視線が突き刺さりましたが、わたくしはそれを柳に風と受け流し、真っ直ぐに掲示板へと歩み寄りました。


 昨日のような薬草採取のコーナーではありません。

 鉄札、すなわちEランク以上の者だけが手を伸ばすことを許される、一段高い位置にある掲示板。

 そこに貼られた依頼書の一枚一枚に、わたくしの鋭いサファイアブルーの瞳が滑ります。


(ゴブリンの集落調査、これは手間ばかりかかって報酬が見合いませんわね。巨大ナメクジの駆除、論外ですわ。わたくしの服をこれ以上不潔にするつもりかしら?)


 一つ一つの依頼を、わたくしは将来の贅沢なティータイムへの先行投資として、シビアに選別していきます。

 わたくしが必要なのは、今の身体で確実にこなせ、かつ、お財布がずっしりと重くなるお仕事。

 その時、一枚の、少し古ぼけた依頼書が目に留まりました。


【農園を荒らす兵隊蟻の駆除】


 兵隊蟻。

 一体一体は、毒蜘蛛ほどではありません。

 けれど、奴らは群れで動き、その顎は鋼鉄をも噛みちぎると言われています。

 農園の土を掘り返し、作物を台無しにする、まさに目障りなゴミですわね。


 報酬は、成功報酬として銀貨十枚。

 さらに、持ち帰った蟻の顎の数に応じて追加の報酬が出る。

 悪くありませんわ。

 手間はかかりますけれど、群れを相手にするということは、それだけ自らを鍛え上げるための絶好のチャンスでもあるということですのよ。


 わたくしは、その依頼書を迷うことなく剥ぎ取りました。

 紙のざらついた感触が、指先に残ります。

 そのまま、わたくしはカウンターへと歩み寄りました。

 そこには、昨日の驚愕の表情をまだどこかに残している、あの受付のお姉様が座っておりましたわ。


「あら、おはようございます。お姉様。今日も、お仕事が山積みのようですわね」


 わたくしは、優雅な手つきで依頼書をカウンターに置きました。

 お姉様は、その依頼書の内容を見た瞬間、目を丸くしてわたくしを見つめました。


「セレスティーナ!? また!? あんた、正気なの? これ、兵隊蟻よ? 数は多いし、連携もしてくるの。昨日みたいに一対一でなんとかなる相手じゃないわ」


「オホホ。ご心配、痛み入りますわ。ですが、わたくしのお財布事情は、心配よりも現金を求めておりますの。それに、ゴミはまとめて片付けたほうが、気持ちが良いとは思いませんこと?」


 わたくしは、懐から鉄札を取り出し、お姉様の目の前で、ことん、と、カウンターの上に置きました。

 その音が、ギルド内の喧騒を一瞬だけ静めましたわ。

 昨日、居合わせなかった周囲の冒険者たちが、信じられないという顔でこちらを見ています。


「本当に、鉄札になったのね」


 お姉様は溜息をつき、震える手で受付の印を依頼書に押しました。

 そして、厳しい表情でわたくしを睨み据えましたの。


「死なないでね。あんたみたいな生意気な新人が、すぐにいなくなるのは、寝覚めが悪いのよ」


「あら。わたくし、死ぬ予定はあと百年ほどございませんわ。それでは、お仕事に行ってまいります」


 わたくしは、鉄札をひったくるようにして懐に戻し、踵を返しました。

 背中で聞こえる、冒険者たちのひそひそ話。

「あのチビ、本当に蟻に行くのかよ」「死にに行くだけだろ」「知らねえのか?やるぜ、あのガキは」

 勝手に言ってなさいな。わたくしが戻ってきた時、その間抜けな口を塞がせて差し上げますわ。


 ギルドを出たわたくしは、まず市場へと足を向けました。銀貨七枚。これが、今のわたくしの全財産。将来のための種銭ですけれど、命を守るための準備を渋って、その将来を失っては元も子もありません。


 わたくしは、不潔な香辛料の匂いが漂う露店を幾つか巡り、目的のものを見つけました。

 使い古された、厚手の布製のマント。

 色は薄汚れた灰茶色で、お世辞にも淑女に相応しいとは言えません。

 けれど、これがあれば、蟻の酸性の唾液や、茂みでの擦り傷から、わたくしの唯一のドレスを守ることができますわ。


「これ、おいくらですの?」


「お、お嬢ちゃん。そいつは銅貨三十枚だ。丈夫さだけは保証するぜ」


 わたくしは、鼻をつまみたくなるようなマントの臭いを我慢し、銅貨を支払いました。

 ずっしりと重かった小銭入れが、少しだけ軽くなる。

 胸の奥がチクリと痛みますわ。

 これが、先行投資の痛み。いいえ、ただの、貧乏の切なさですわね。


 わたくしは、そのマントを肩に羽織り、前の留め具を締めました。

 六歳のわたくしには、マントの裾が地面に届きそうですが、今は実利を優先しますわ。

 これで、少しは冒険者らしく見えるかしら? いいえ、ただのゴミ捨て場の妖精のような。


「いえ、考えないことにしますわ」


 わたくしは、自分にそう言い聞かせ、街の西門を目指しました。

 目的地であるミレー農園は、街から徒歩で一時間ほどの場所にあります。

 今のわたくしの足では、もう少し時間がかかるかもしれません。


 門を抜けると、昨日までの森とは違う、開けた田園風景が広がっておりました。

 けれど、のどかな景色とは裏腹に、街道のあちこちには、不自然な土の盛り上がりが点在しております。

 蟻の、坑道ですわね。


 わたくしは、【見習いシーフ】の感覚を鋭く研ぎ澄ませました。地面の下から伝わってくる、微かな、カサカサ、という不気味な音。数千、数万の脚が、土を掻く音。想像しただけで、お肌に鳥肌が立ってしまいます。


「あらあら、まあまあ。本当に、不衛生極まりないお相手ですわね」


 わたくしは、マントの裾を泥で汚さないよう少し持ち上げ、一歩ずつ、農園への道を歩み続けました。

 太陽が、じりじりとわたくしの後頭部を焼きます。

 汗が、額から一筋流れ落ちました。

 喉が渇き、呼吸が少しずつ荒くなっていく。

 見習いモンクの修練の一環だと思わなければ、今すぐにでも投げ出して、どこかの木陰で昼寝をしたい気分ですわ。


 ようやく農園の入り口に辿り着いた頃には、わたくしの小さなブーツの中は、汗と泥で不快なことになっておりました。

 農園の柵はあちこちが壊され、本来なら豊かな緑が広がっているはずの畑は、赤茶色の土が剥き出しになって無惨に掘り返されています。

 その中央。ボロボロの作業着を着た、一人の農夫が、絶望したような表情で座り込んでおりました。


「あなたが、依頼主の、ミレー様かしら?」

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