第17話
わたくしの額に、青筋が浮かぶのが分かりました。怒りで視界が赤く染まります。
昨日、聖職者の魔法で無理やり塞いだ脇腹の傷が、激しい動きに伴ってズキリと熱を持ちました。完治していない肉体が、これ以上の無理は禁物だと、脳に警鐘を鳴らし続けています。
ですが、わたくしのプライドとお財布の痛みは、そんな警告を華麗にスルーいたしましたわ!
蜘蛛が、鋭い前脚を鎌のように振り下ろしてきました。わたくしはその軌道を一点に見定めます。
一歩、右へ。泥を跳ね上げ、地面を這うような低さで回避します。頭上を通り過ぎる、風を切る音。
そのまま、わたくしは左手のホルダーから、投げナイフを一本、逆手に引き抜きました。
「火花よ、わたくしの怒りに火をつけなさいな!」
わたくしの魔力が、細い指先を伝ってナイフの刃へと流れ込みます。
パチ、パチパチッ!
青白い小さな火花が、刃の表面を舐めるように走り抜けました。
わたくしは、蜘蛛が態勢を立て直すよりも早く、その巨大な単眼が並ぶ頭部目掛けて、火花を纏ったナイフを一直線に叩き込みましたわ。
シュパァッ!
ナイフは蜘蛛の複眼の一つを貫き、内側から小さな爆ぜる音を立てました。
ギギィィィィッ!!と、耳を劈くような悲鳴が、静かな森に響き渡ります。
蜘蛛は苦悶に身をよじり、長い脚をデタラメに振り回しました。わたくしはその隙を見逃さず、ショートソードを両手で握り直し、踏み込みます。
ドシュッ!
脚の付け根、柔らかい関節の部分に、全体重を乗せた刃を突き立てました。生温かい、粘り気のある体液が、わたくしの頬に飛び散ります。
鉄臭い。そして、たまらなく不快な感触ですわ。わたくしは、吐き気を令嬢としての気品で押し殺し、さらに剣を深く押し込みました。
(手間ばかりかかって、本当に割に合いませんわね。ただのウサギ狩りの予定が、……どうしてこんな重労働を!!)
蜘蛛が、最後の力を振り絞るように、残った脚でわたくしを弾き飛ばしました。
「きゃっ!?」
小さな身体が木の根に叩きつけられ、肺の中の空気が無理やり押し出されます。
肋骨が、ミシリと嫌な音を立てました。痛い。ああ、もう、本当に痛いですわ!
泥の中に顔を突っ込み、土の苦味を味わいながらも、わたくしは反射的に転がって距離を取りました。【見習いモンク】の受身ですわ。
身体が、悲鳴を上げています。昨日のゴブリン戦の疲れが、重鉛のように手足に絡みついているようです。ですが、わたくしのサファイアブルーの瞳は、まだ獲物を逃してはおりません。
蜘蛛は、脚を一本失い、片目を潰され、黄色い体液を垂らしながらも、まだわたくしを喰らおうと顎をカチカチと鳴らしております。その執念、少しだけ、わたくしに似ているかもしれませんわね。
ですが、勝つのは常に、未来の楽園を夢見るわたくしですわ。
「おやすみなさいな。不潔な、森の住人さん?」
わたくしは、最後の一滴の魔力を振り絞り、ショートソードの刃全体に火花を纏わせました。
パチィィィィンッ!
小さな幼女の手に握られた、青白く輝く凶器。
わたくしは、泥を蹴って、最後の一歩を。
ズブッ、ズブブブッ!!
蜘蛛の頭部の中心、急所へと、刃を深々と、そして無慈悲に突き立てましたわ。確かな命の灯火が消える感触。
巨大な蜘蛛の身体が、痙攣するように一度だけ跳ね、やがて力なく泥の上に崩れ落ちました。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
わたくしは、剣を杖代わりにして、なんとかその場に立ち尽くしました。
汗と泥と、蜘蛛の体液。もはや、どちらが怪物なのか分からないような、無惨な姿ですわ。水色のワンピースは、紫色の斑点模様がついて、見るも無残な状態に。
わたくしは、震える手で、懐の角うさぎの袋を確認しました。
無事ですわね。それから、採取した二十株のヒールグラスも。
この戦利品、命を懸けた報酬としては、あまりにも心許ないですけれど。
(あら。そういえば、……この蜘蛛)
わたくしの【見習いシーフ】としての経験が、死骸の腹部の膨らみに違和感を感じさせました。手間ですけれど、戦利品は、根こそぎ奪うのがわたくしの信条です。
わたくしは、ナイフを使って、蜘蛛の腹部を慎重に切り開きました。
ドロリとした内臓の中から転がり出てきたのは、小さな、半透明の、糸の塊のようなもの。
「あらあら、まあまあ。これは、……『粘糸の袋』かしら?」
丈夫で、加工すれば強力な糸になる、冒険者ギルドでそれなりの値段で取引される素材です。わたくしは、それを泥だらけの手で拾い上げ、布で丁寧に拭きました。
これで、少しは、今日の収支がマシになりましたわね。
ですが、喜びも束の間。身体の底から、抗いようのない倦怠感が、津波のように押し寄せてきましたわ。
魔力切れ。そして、病み上がりの身体を酷使した反動。視界が、ぐらりと揺れました。
「っ、あ、れ……?」
一歩、足を踏み出しそうとしましたが、膝に力が入りません。わたくしの身体は、そのまま、湿った苔の上に、糸の切れた人形のように倒れ込みました。
視界が、ぐるりと半回転しましたわ。
気づけば、わたくしは湿った苔の上に尻餅をついておりました。
足腰が、自分の体重さえ支えきれずに全面的なストライキを起こしたようですわね。
肺の奥からは、空気の抜けた笛のような情けない音が漏れ、喉を焼くような苦しみが襲います。
「……いけませんわ。この泥にまみれて無様に果てるなど。わたくしの誇り高き美学が、決して許しませんもの」
わたくしは、泥に汚れきった震える指先で、ワンピースの裾を強く握り締めました。
紫色の染みが、まるで敗北を嘲笑うかのように醜く主張しておりますわ。
悔しい。けれど、この身を焦がすような悔しさこそが、わたくしを突き動かす唯一の原動力なのです。
わたくしは、ショートソードを杖代わりにして、膝の震えを抑えながら立ち上がりました。
一歩。また一歩。
鉛のように重いブーツを引きずり、街への長い帰路につきます。
すれ違う冒険者たちが、魔物の返り血と汚泥にまみれたわたくしを見て、驚愕の表情で道を譲りますわ。
あら、当然の反応ですわね。
今のわたくしは、地獄の底から這い上がってきた執念深い亡霊そのものですもの。
ようやく辿り着いた冒険者ギルドの扉。
それを押し開ける腕力さえ残っておりませんでしたので、わたくしは身体の重み全てをかけて寄りかかり、強引に中へと雪崩れ込みましたわ。
ドォンッ!
大きな音と共に、店内の喧騒が冷水を浴びせられたように止みました。
荒くれ者たちの視線が、一斉にわたくしという一点に集まります。
その中を、わたくしは意識が遠のきそうな足取りを律し、一直線に受付へと向かいました。
「あらあら、まあまあ。皆様、そんなに熱い視線を送らないでくださるかしら? あまりの熱心さに、可憐な淑女が……照れてしまいますわよ」
精一杯の強がりを乾いた喉で吐き捨て、カウンターに辿り着いたわたくしは、腰袋の中身を隠さず全てぶちまけましたわ。
角うさぎの肉塊、ヒールグラス二十株、そして――毒蜘蛛の「粘糸の袋」。
受付のお姉様は、それらを目にした瞬間、言葉を失って固まっておりました。
「セレスティーナ、あんた……。角うさぎと薬草だけじゃなかったの? その袋、毒蜘蛛の素材じゃないの!」
「オホホ。ええ、少しばかり予定外の、不潔なお客様に絡まれまして……」
わたくしは、カウンターに肘をつき、崩れ落ちそうな身体を必死に支えました。
視界が、酷く霞んでおります。
受付のお姉様は、震える手で素材を一つ一つ確認し、まずは換金の算定を始めました。
角うさぎ一羽にヒールグラス二十株、そして――想定外の獲物である毒蜘蛛の粘糸袋。
カウンターの上に、チャリン、と硬質な音を立てて硬貨が並べられていきます。
角うさぎと薬草の端金に加え、毒蜘蛛の素材は希少価値が高く、全部で銀貨七枚という、今のわたくしには目の眩むような大金が支払われました。
「これで換金は終わりよ。……でも、セレスティーナ。あんた、自分が何をしたか分かっているの?」
お姉様は銀貨を渡した後、信じられないものを見るような真剣な眼差しでわたくしを射抜きました。
その瞳には、単なる驚きを超えた戦慄さえ混じっておりますわ。
「この依頼、普通の新人なら一週間はかかるはずなの。それをあんたは、わずか数時間で、しかも毒蜘蛛まで仕留めてくるなんて。……規定数、間違いなく達成よ。おめでとう。これで、あんたは正式に、Eランク冒険者への昇級よ」
受付のお姉様は呆れたように吐息をつき、カウンターの奥から一枚の、鈍く光る鉄製の小板を取り出しました。
そして、わたくしが持っていた木札と交換するように、それを差し出しましたわ。
「受け取りなさい。鉄札の重みは、今までの木札とは……違うわよ」
Eランク。鉄札。
その輝かしい称号が、わたくしの消えかかっていた意識を、一瞬だけ鮮明に引き戻しましたわ。
鈍い光を放つ鉄のプレートが、わたくしの手元へと差し出されます。
わたくしは、指先の感覚を確かめるようにして鉄札を受け取りました。
冷たい金属の感触が、皮膚を通じて全身へと伝わっていきます。
ずしり、とした確かな存在感。
それが、わたくしが泥を啜り、血を流して勝ち取った――紛れもない「成果」の重みでした。
目頭が、ほんの少しだけ熱くなりましたわ。
けれど、わたくしは令嬢としての気高い矜持で、その弱さをぐっと堪えました。
「ふん。当然の結果ですわ。わたくしを誰だと……お思いかしら?」
わたくしは、鉄札を宝物のように大切に懐に収め、報酬の銀貨を受け取りました。
角うさぎと薬草に加え、毒蜘蛛の追加報酬。
合わせて、銀貨七枚。
わたくしの寂しかったお財布が、ようやく少しだけ温かくなりましたわ。
六歳の幼女が鉄札を掲げるなど、このギルドの歴史でも前代未聞のことでしょう。
周囲の冒険者たちが静まり返り、わたくしという「化け物」の誕生を、言葉もなく見守っておりましたわ。
***
ギルドを後にしたわたくしは、足を引きずるようにして『黒い天秤亭』へと向かいました。
身体は悲鳴を上げておりますけれど、心は、大空を羽ばたく鳥のように軽やかでしたの。
店の扉を開けると、ガレス様がいつものように、カウンターで古びた道具を磨いておりました。
「おう、死に損ない。生きて戻りやがったか」
「あらあら、まあまあ。相変わらず、お口の悪い店主様ですこと。わたくしが、そう簡単にくたばると……お思いになって?」
わたくしは、カウンターへよろめきながら近づき、懐から鉄札を取り出して――これ見よがしに振ってみせましたわ。
「ほら、ご覧あそばせ。この鉄札の、鈍い輝き。最高級の宝石を欲するわたくしに、相応しいとは思いまして?」
ガレス様は手を止め、わたくしの差し出した鉄札をじっと見つめました。
その厳格な顔に、ほんの少しだけ驚愕の色が浮かんだのを、わたくしは見逃しませんでしたわ。
「ふん。まともな札だな。六歳のガキが、Eランクたぁ……世も末だぜ」
「オホホ! 最上級の褒め言葉として受け取っておきますわ。それで、ガレス様。わたくしへの……お祝いのスープは、もうできていましてよ?」
「うるせえ。さっさと座りやがれ。今日は、角うさぎの肉を……たっぷり入れてやるからよ」
ガレス様は、ぶっきらぼうにそう言うと、背中を向けて厨房へと消えていきました。
わたくしは、カウンターの椅子に、ようやく糸の切れた人形のように座り込みましたわ。
全身が、限界を超えた悲鳴を上げている。
けれど、厨房から漂ってくる香ばしいお肉の匂いが、わたくしの心臓を優しく満たしてくれましたの。
やがて供されたスープを、わたくしは獣のように夢中で啜りました。
旨い。
本当に、生きていることを全身で実感させてくれる味ですわ。
食べ終えた後、わたくしはいつもの物置部屋へと戻り、泥だらけの無惨なワンピースを脱ぎ捨てました。
「あら。本当に、見窄らしいお姿ですわね」
わたくしは、深いため息をつきながら桶に水を張り、冷たい水の中で生地を傷めぬよう必死にワンピースを洗い始めました。
紫色の染みは、強固な意志を持っているかのように、簡単には落ちそうにありません。
「手間ですわ。本当に、手間ばかり……かかって」
けれど、わたくしの手は決して止まりませんでした。
この泥臭い作業こそが、わたくしがこの過酷な世界で「生きて」いる証拠なのですから。
洗い終えたワンピースを丁寧に干し、わたくしはボロ布の布団に倒れ込むように潜り込みました。
明日は、Eランクの冒険者としての新しい、誇り高き一日が始まります。
「おやすみなさいな。わたくしの……輝かしい未来」
意識が、安らかな深い闇の底へと沈んでいきましたわ。




