第16話
翌日。
わたくしは、身体中の軋むような音で目を覚ましました。
動くたびに、筋肉が「止めておきなさい」と悲鳴を上げております。
ですが、わたくしは横になったままではありませんわ。
【見習いモンク】と【見習い聖職者】の力を、僅かずつ、身体の奥へと浸透させていきます。
一ミリ、また一ミリと、傷が埋まっていく感覚。
ぐぅぅぅぅぅぅ……。
胃袋が、朝の挨拶を盛大に告げましたわ。
わたくしはよろよろと立ち上がり、扉を押し開けました。
カウンターには、いつものように、見た目は最悪、けれど栄養だけは一人前の謎の煮込みが置かれておりました。
「……あら。今日も、……この、……色彩センスの欠片もない食べ物ですのね」
「文句を言うなら食うな。病人用に、少しは柔らかく煮込んでやったんだ。感謝しやがれ」
わたくしは、不格好な木のスプーンを手に取りました。
一噛みごとに、お肉の旨味が身体の隅々まで染み渡ります。
美味しい。
悔しいですけれど、今のわたくしの身体には、この泥のような煮込みが、何よりも必要な特効薬なのです。
それから三日間、わたくしはひたすら、食べて、眠り、癒しの力を自分にかけ続ける生活を送りました。
時折、ガレス様の工房から聞こえてくる、槌を打つ金属音。
カン、カン、カン、という一定のリズム。
それが、わたくしの新しい防具が形作られていく音だと思うと、不思議と心が安らぐのです。
四日目の朝。
わたくしは、物置部屋の隅で、ゆっくりと柔軟体操を始めました。
【見習いモンク】の修練の一環ですわ。
脇腹の痛みは、もうほとんど残っておりません。
聖職者の魔法と、わたくしの執念の賜物ですわね。
「……あらあら、まあまあ。随分と、身体が軽くなりましたわ。これでまた、お仕事に戻れそうですわね」
わたくしは、鏡代わりに磨き上げたショートソードの腹に、自分の顔を映しました。
額の傷は、薄いピンク色の線になっておりますが、髪で隠せば気になりません。
瞳には、休息を経て、さらにギラついた野心が宿っております。
部屋を出ると、ガレス様がカウンターの上に、黒く光る「何か」を置いて待ち構えておりました。
「……できたぞ。……銀貨三枚分、たっぷりと手間を込めてやった」
それは、硬く鞣された黒い革をベースに、要所を薄い金属板で補強した、特製の胸当てでした。
前のものより、ずっと引き締まって見え、何より、六歳のわたくしの体型に完璧に合わせられております。
わたくしは、それを手に取りました。
軽い。
それでいて、指で叩くと、コン、という頼もしい硬質な音が響きます。
「……あら。……意外と、……まともな仕事をするではありませんの。……ガレス様、少しは見直しましたわよ?」
「うるせえ。……さっさと装備しな。それから、その投げナイフのホルダーも、少し改良してやった。引き抜く時に、引っかからないようにな」
新しい装備を身に纏うと、わたくしの背筋が、ピン、と伸びました。
黒い胸当てと、水色のワンピース。
アンバランスな格好かもしれませんけれど、今のわたくしにとっては、これこそが、この泥臭い世界で戦い抜くための、最高のドレスですの。
「さあ。……お仕事の、再開ですわ……」
わたくしは、ショートソードを腰に差し、店の扉へと歩み寄りました。
一歩。
二歩。
足元の泥道を踏み締める感覚が、数日前よりもずっと、確かで、力強い。
向かう先は、再び冒険者ギルド。
掲示板に並んだ依頼の中から、次なる「踏み台」を選ぶために。
***
わたくしは、ギルドの扉を、力一杯押し開けましたわ。
キィィィィ……!!
喧騒の中に足を踏み入れると、再び、冒険者たちの視線がわたくしに集まります。
ですが、今のわたくしの瞳にあるのは、死線を超えた者だけが持つ、冷徹なまでの輝き。
わたくしは、真っ直ぐに掲示板へと歩み寄り、この間も受けた、地道な依頼を受けます。
【角うさぎの狩猟と、薬草の採取】
これですわ。
森の入り口付近での作業なら、今の病み上がりの身体でも、手間をかけずに進められますわね。
わたくしは、その依頼書を掲示板から剥ぎ取ると、カウンターで待つ受付嬢さんの元へ、一歩ずつ優雅に歩み寄りました。
背負ったショートソードが、新しい黒い胸当てに当たって、カチ、カチと小気味よい音を立てます。
この音、わたくしが再び戦場へと戻る、祝砲のようですわ。
「あら。またその顔。わたくしが生きているのが、そんなに不思議かしら?」
「……いえ、驚いただけよ。まさか、あんなにボロボロだったのに、もう復帰するなんて」
受付嬢さんは、わたくしの水色のワンピースと、その上に重ねた黒い胸当てを交互に見て、溜息をつきました。
呆れているのか、感心しているのか。
どちらにせよ、わたくしを止める権利は、お釈迦様にもございませんわ。
「……角うさぎと薬草ね。前に受けたはずだから、勝手はわかってるわよね?……それと、わかってると思うけど、深追いは厳禁よ?」
「あらあら、まあまあ。……ご忠告、痛み入りますわ。わたくし、自分の命の値段は誰よりも高く見積もっておりますの。お肉も薬草も、わたくしが根こそぎ手に入れて差し上げますわよ!」
わたくしは、ショートソードの重みを感じながら、ギルドの扉を力強く押し開けました。
キィィィィ……。
朝の空気が、鼻腔を通り抜けます。
先日の雨が嘘のように、空は抜けるような青。
石畳を叩くブーツの音も、今日はどこか軽やかですわ。
街の門へと続く大通りを、わたくしは真っ直ぐに歩きます。
周囲の冒険者たちが、わたくしの新しい装備を見て、ひそひそと囁き合う声が聞こえてきますわ。
「おい、あのチビ。……昨日のボロ着はどうしたんだ?」
「新しい装備、……ガレスの店のやつだな。……いい金持ってるじゃねえか」
勝手に言ってなさいな。
この装備は、わたくしが泥を啜り、血を流して勝ち取った、血と汗の結晶ですのよ。
それを、安っぽい好奇心の種にされるなんて、不愉快極まりありませんわね。
わたくしは、顎を僅かに上げ、令嬢としての高貴な歩みを崩さずに門を抜けました。
街の外に出ると、草木の匂いが一気に濃くなりました。
街道を外れ、森の入り口へと足を踏み入れます。
一歩。
二歩。
柔らかな土が、ブーツの底を優しく受け止めます。
数日前の、あの泥に塗れた戦場とは、同じ場所とは思えないほど静かですわ。
ですが、油断は禁物。
わたくしは、全職業レベル6の感覚を、周囲に張り巡らせました。
【見習いシーフ】の『気配察知』。
森の呼吸、木々の揺れ。
その中にある、微かな生命の鼓動を探ります。
(……あら。……あんなところに、……さっそくお宝が……)
大きな倒木の影、湿った地面に、特徴的な白い斑点のある葉が揺れておりました。
ヒールグラス。
傷薬の原料となる、冒険者の必需品ですわ。
わたくしは、周囲の安全を確かめながら、静かに腰を落としました。
ギザギザとした葉に、指をかけます。
ひんやりとした、植物特有の体温が伝わってきましたわ。
根を傷つけないよう、土を少しだけ掻き分け、慎重に引き抜きます。
土の匂いが、ふわっと広がりました。
「あら、それなに生えてますわね」
わたくしは、布製の採取袋に薬草を収め、再び立ち上がりました。
その時。
背後の草むらで、カサッ、という小さな音がしました。
わたくしの背筋に、冷たい戦慄が走ります。
振り向くよりも早く、わたくしは身体を横に倒しました。
【見習いモンク】の反射神経。
シュパァッ! という風を切る音と共に、白い閃光がわたくしの頭上を通り過ぎました。
「…………あら。……ご挨拶ですわね」
着地し、ショートソードの柄に手をかけます。
そこにいたのは、雪のように白い毛並みを持った、一匹のウサギ。
ですが、その額には、長さ二十センチはある鋭い一本角が、槍のように突き出しておりました。
角うさぎ。
つぶらな瞳には、わたくしを邪魔者として排除しようとする、野生の敵意が宿っています。
キィッ! という短い鳴き声と共に、ウサギが再び跳躍しました。
速い。
受付嬢さんの言葉に、嘘はございませんでしたわ。
まるで放たれた矢のように、一点を目指して突進してきます。
わたくしは、ショートソードを引き抜く暇さえ惜しみ、右手の拳を強く握り締めました。
【見習いモンク】の型。
重心を低く、相手の力を受け流し、その勢いを利用する。
角がわたくしの胸元へ迫る、その瞬間。
「……そこですわ!」
わたくしは、身体を僅かに捻り、迫り来る角を紙一重でかわしました。
角が黒い胸当てを掠め、キィィィン、と硬質な音が響きます。
ガレス様の仕事、……早速役に立ってくれましたわね。
すれ違いざま、わたくしはウサギの柔らかな脇腹目掛けて、渾身の裏拳を叩き込みました。
ドカッ!!
小さな、けれど確かな衝撃が、わたくしの拳を伝って脳を刺激します。
ウサギは地面を数メートル転がり、キィギィッ! と苦しげな声を上げました。
ですが、奴はすぐに態勢を立て直し、再び角をこちらに向けます。
なかなかの根性ですわね。
ですが、わたくしの夕食のメインディッシュになるという運命からは、逃げられませんわよ。
わたくしは、腰のショートソードを静かに引き抜きました。
鉄の重みが、右腕に心地よい負荷を与えます。
肩の傷跡が、僅かに熱を持ちました。
昨日の恐怖を、わたくしは忘れてはおりません。
だからこそ、今、この瞬間のわたくしは、以前よりもずっと冷徹で、……そして、……鋭い。
「あらあら、まあまあ。……そんなに、わたくしの胃袋を満たしたいのかしら?」
わたくしは、一歩。
泥臭く、けれど確実に、獲物との距離を詰めました。
ウサギが、再び地面を蹴る。
わたくしは、その軌道を見定め。
ズバッ!!
確かな、肉を断つ感触。
白い毛並みに、鮮やかな赤が広がります。
わたくしは、剣の血を振り払い、その場に崩れ落ちた獲物を冷めた瞳で見下ろしました。
「お肉、確保ですわね」
わたくしは、獲物を袋に収めようと手を伸ばしました。
その時、ふと、視界の端に。
先ほどよりも、さらに濃い、……澱んだような魔力の気配を捉えましたの。
『気配察知』が、最大級の警告を鳴らしています。
草むらの奥。
暗い影の中から、こちらを見つめる、幾つもの……紅い、瞳。
「……あら。連戦なんて、わたくしの……スケジュールには入っておりませんわよ?」
わたくしは、ショートソードを構え直し、奥歯を強く噛み締めました。
一歩。
後ろへ下がる足に、力がこもります。
肺の奥が、冷たい緊張感で焼けるようですわ。
カサッ、カサササッ……。
影の中から現れたのは、角うさぎではございませんでした。
それは、……黒い。
まるで闇をそのまま形にしたような、巨大な蜘蛛の姿。
その脚の一本一本が、鋭い鎌のように研ぎ澄まされ、湿った地面を音もなく這い回っております。
「……毒蜘蛛。……あらあら、……まあまあ。森の入り口にいらっしゃるなんて、不衛生極まりありませんわね」
わたくしは、左手の指先に魔力を集中させました。
【見習い魔導士】。
パチ、パチッ。
小さな火花が、剣の刃をなぞるように走り抜けます。
相手は、ランクE相当の魔物。
六歳のわたくしには、格上の相手ですわ。
ですが、逃げ道は、すでにあの長い脚に塞がれております。
手間ですわ。
本当に、手間ばかりかかって割に合いませんわね。
「ですが、わたくしの美学は、背中を見せて逃げるなんて、許可しておりませんのよ!!」
わたくしは、火花を纏った剣を横に薙ぎました。
熱風が、わたくしの頬を叩きます。
蜘蛛が、カチカチと顎を鳴らし、飛びかかってくる……。
…………っ!!
ガギィィィンッ!!
蜘蛛の脚と、わたくしの剣が激しく火花を散らしました。
重い。
ゴブリンの比ではありませんわ。
腕の骨が、ミシリと嫌な音を立てました。
「……あら、まあ!!」
わたくしの、新しいワンピースに、毒液の飛沫が。
その瞬間、わたくしの中で、何かが、—―ぷつり、と。
「この、不潔な――害虫がぁっ!!」
わたくしは、痛みを忘れ、地面を爆発させるように踏み込みました。
【見習いモンク】の瞬発力と、【見習い戦士】の闘志。
蜘蛛の節くれた脚を、真っ向から叩き潰すつもりで振り下ろしました。
ガギィィンッ!と、昨日研ぎ直したばかりのショートソードが、硬い外骨格に弾かれて甲高い音を立てます。右腕に伝わってくるのは、鉄の棒で岩を叩いたような、痺れるような激震。
六歳の細い手首が、衝撃に耐えきれず、嫌な角度に曲がりそうになります。わたくしは奥歯を強く噛み締め、【見習いモンク】の重心移動で、その反動を無理やり地面へと逃がしましたわ。
「あら、あらあら。なんて可愛げのない硬さかしら!」
毒蜘蛛は、わたくしの一撃をものともせず、八本の脚をカチカチと鳴らして間を詰めてきます。その巨大な体躯から放たれるのは、饐えたカビの匂いと、ねっとりとした殺意。
さっそく、わたくしの新しい水色のワンピースに、ドロリとした紫色の液が飛び散っておりますわ。
あ。ああ……。
これ、銅貨八枚もした、わたくしの虎の子の「勝負服」ですのよ!?
「この無礼な害虫、……ミンチにして、森の肥やしにして差し上げますわ!!」




