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没落令嬢セレスティーナ様の冒険者生活  作者: TAC


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第13話

 …………。


 ………………。


 ……ち、……ちちっ。


 遠くで、鳥の囀りが聞こえますわ。

 いいえ、それは囀りというにはあまりにも下品で、濁った鳴き声でしたけれど。

 隙間風が、わたくしの鼻先を容赦なく撫で、冷やしていきます。

 わたくしは、こびり付いた目脂を指先で拭いながら、重たい身体を引きずり起こしました。


「……っ、……ん……っ……!!」


 身体が、まるで一枚の硬い板になったようですわ。

 節々がギシギシと音を立て、動かすたびに「止めておきなさい」という身体からの警告が、鋭い痛みとなって脳を刺します。

 喉はカラカラに乾き、口の中には嫌な苦味が残っておりました。

 わたくしは、壁に手をつきながら、ゆっくりと立ち上がります。


 視界が少しだけ揺れましたわ。

 昨日よりも、ずっと身体が重く感じられます。

 これがお肉を食べて、精をつけた結果だというのかしら。

 いいえ、これは身体が「本気で壊れかけている」という証拠ですわね。

 六歳の幼女に、地下水道の激闘はあまりにも重すぎたようです。


 わたくしは、床に転がっていた革のブーツを引き寄せました。

 中の湿り気は、一晩では完全には取れていないようです。

 ぐちょり、とした嫌な感触を想像して、わたくしは僅かに顔を顰めました。

 けれど、裸足で外へ出るわけにはいきません。

 わたくしは、ボロ布を丁寧に足に巻き直し、その上から無理やりブーツに足を突っ込みました。


「……ふぅ。身だしなみさえ整えられないなんて、本当に不愉快ですわ」


 鏡もありませんから、指先で髪を梳かし、顔の汚れを袖で拭うだけ。

 サファイアのような瞳は、寝不足のせいで僅かに赤みを帯びておりましたわ。

 わたくしは、物置部屋の扉を開け、静まり返った店の中へと足を踏み入れました。


 カウンターの奥では、まだガレス様が眠っているのか、大きないびきが聞こえてきます。

 その手前の机の上に、無造作に置かれた布包みがありました。

 わたくしは、それを手に取りましたわ。

 中には、研ぎ直されて鈍い光を放つショートソードと、十本の投げナイフ。

 そして、革の端切れを継ぎ接ぎして作られた、不恰好なホルダーが添えられておりました。


 ホルダーを腰のベルトに通してみると、驚くほどしっくりと馴染みましたわ。

 指を伸ばせば、すぐにナイフの柄に手が届く。

 ガレス様、口は悪いですけれど、仕事だけは一流のようですわね。

 わたくしは、新しくなった装備の感触を確かめながら、不敵な笑みを浮かべました。


「……これなら。緑色のゴミ屑どもを、少しは楽しくお片付けできそうですわ」


 カウンターの端に置いてあった、固くなったパンの欠片を一つ。

 断りもなくそれを口に放り込み、わたくしは店の外へと繋がる重い扉を押し開けました。


 キィィィィ……。


 朝の空気が、肺の奥まで冷たく突き刺さります。

 街の通りには、まだ人気はまばら。

 どんよりとした曇り空から、微かな光が差し込んで、水溜まりを不気味に照らしておりました。

 わたくしは、一歩。

 痛む脚を叱咤しながら、湿った地面を蹴り出しました。


 向かうのは、街の北側に広がる深い森。

 ゴブリンの斥候が目撃されたという、不吉な場所ですわ。

 背負ったショートソードが、歩くたびにカチカチと小さな音を立てます。

 その音が、まるで戦いへ向かう鼓動のように聞こえて、わたくしの胸を高鳴らせました。


 石畳を抜け、未舗装の泥道へと足を踏み入れます。

 昨晩の雨のせいで、道はドロドロにぬかるんでおりましたわ。

 一歩進むたびに、ブーツの底が泥に取られ、余計な体力を削り取っていきます。

 手間ですわ。本当に、手間ばかりかかって割に合いませんわね。


(……あら。……あんなところに、もう先客かしら?)


 街の門の近く、焚き火の跡を囲むようにして、数人の男たちがたむろしておりました。

 彼らの顔には、冒険者特有の荒んだ色が張り付いています。

 わたくしが横を通り過ぎようとすると、一人の男が嫌らしい笑みを浮かべて、こちらを指差しましたわ。


「おい、見ろよ。……昨日のガキじゃねえか。本当にゴブリンをやりに行くつもりか?」

「死に場所を探してるなら、もっと楽な方法があるぜ、お嬢ちゃん。ゴブリンに捕まったら、死ぬより辛い目に遭わされるからな」


 男たちの下卑た笑い声が、朝の静寂を汚していきます。

 わたくしは、足を止めることさえせず、ただ視線だけを彼らに向けましたわ。

 最高の、ゴミを見るような冷徹な瞳で。


「あらあら、まあまあ。朝から随分と元気な小鳥さんたちですわね。わたくしの死に場所を心配する暇があるのなら、ご自分のその、腐ったドブ水のような口臭をどうにかすることを考えたらいかがかしら? ……風下を歩くだけで、わたくしの美学が窒息死してしまいそうですわ」


 男の笑い声が、ピタリと止まりましたわ。

 顔を真っ赤にして立ち上がろうとする男を、わたくしは鼻で笑って置き去りにしました。

 関わっている時間は一秒だって惜しいのです。

 わたくしには、果たすべき高貴な目的があるのですから。


 ***


 門を抜けて街道を外れると、そこには湿った土と腐りかけた落ち葉の匂いが立ち込める、薄暗い森の入り口が口を開けておりました。

 わたくしの小さなブーツが、ぬかるんだ泥にズブズブと沈み込みます。

 一歩踏み出すたびに、粘り気のある泥が靴底を掴んで離しません。

 重い。あまりにも重いですわ。

 六歳の幼い身体にとって、この泥道を歩くだけで、将来のティータイムのための貯えが目減りしていくような、そんな無駄骨を感じずにはいられませんの。


 木々の隙間から差し込む光は弱々しく、周囲は不気味な静寂に包まれています。

 わたくしは立ち止まり、荒い息を整えました。

 肺の奥に流れ込んでくるのは、湿気と、それから……何かが腐敗したような、鼻を突く嫌な匂い。

 

(あらあら、まあまあ。……お出迎えの準備くらい、もっと芳しい香香で整えておいてほしかったですわね)


 わたくしは、全職業のレベルが「6」に到達したことで研ぎ澄まされた感覚を、さらに鋭く研ぎ澄ませました。

 【見習いシーフ】の『索敵』。

 意識を外側へと広げると、カサカサという木の葉の擦れる音の裏側に、粘りつくような「悪意」の気配が混じっているのが分かります。

 腐った生ゴミと、獣の体臭を混ぜ合わせたような、鼻を突く悪臭。

 ゴブリン。

 間違いなく、奴らの気配ですわ。


 わたくしは、腰のホルダーから投げナイフを一本、そっと引き抜きました。

 【見習いシーフ】の『索敵』スキルを、意識の端で発動させます。

 身体の奥底から、僅かな魔力が指先へと流れていくのが分かりました。


(……一、二、……三。いえ、四匹……かしら)


 茂みの奥で、カサリと葉の擦れる音がしました。

 それと同時に、ニチャリとした、下品な舌なめずりの音。

 わたくしは、ショートソードの柄を強く握り締めました。

 手汗で滑らないよう、ボロ布を巻いた柄を、自分の体の一部であるかのように。


「あら。……隠れているつもりなら、お里が知れますわね。汚らしい身なりで、わたくしの領域に土足で踏み込むなんて、万死に値する無礼ですわよ?」


 わたくしが言い放つと同時に、目の前の茂みが大きく揺れました。

 飛び出してきたのは、肌の色の濁った、醜い小鬼。

 その手には、錆びついたナタと、得体の知れない肉片が握られておりましたわ。


 ギィィィィッ!!


 耳を劈くような鳴き声と共に、ゴブリンがこちらへ突進してきます。

 わたくしは、冷徹にその動きを見据えました。

 【見習いモンク】の身のこなしで、重心を僅かに低く保ちます。

 心臓が、早鐘のように打ち鳴らされました。


 一歩、左へ。

 ナタが空を切り、わたくしの銀髪を僅かに掠めます。

 鉄錆の匂いが、鼻腔を通り抜けていきましたわ。

 わたくしは、その勢いを利用して、ショートソードを奴の脇腹目掛けて突き出しました。


 ガギィィィンッ!


 手応えが、右腕を痺れさせます。

 思っていたよりも、皮が厚い……!

 刃渡り五十センチの中古の剣では、致命傷を与えるには至りませんでした。

 ゴブリンは痛みに顔を歪めながらも、さらに執拗に迫ってきます。


「少しは歯応えがあるようですわね。ですが、わたくしのドレス……いいえ、この大切な防具を汚した罪、高くつきますわよ?」


 わたくしは、左手の投げナイフを逆手に持ち替えました。

 【見習い魔導士】の力を、その薄い刃へと込めます。

 パチ、パチッ。

 小さな、けれど確かな火花が、刃の表面を走り抜けました。


 奴が、再び大きく腕を振り上げました。

 隙だらけですわ。

 わたくしは、その胸元目掛けて、火花を纏ったナイフを一直線に放ちました。


 シュパァッ!


 ナイフは、ゴブリンの胸の真ん中に深く突き刺さり、その衝撃と共に小さな火花が爆ぜました。

 ギャァァァッ!! という悲鳴が、森の中に響き渡ります。

 けれど、まだ一匹。

 背後の茂みから、さらに三つの影が、嘲笑うような声を上げながら飛び出してきましたわ。


「あら。お仲間がいらっしゃったのね。……歓迎いたしますわ、まとめてお片付けして差し上げますから」


 わたくしは、残りのナイフを確認しました。

 あと四本。

 息を切らしながらも、わたくしの唇は、獲物を見定めた肉食獣のように吊り上がっておりました。

 一対三。

 六歳の幼女にとっては、絶望的な数字。

 けれど、わたくしの計算では、まだ勝算の二文字が鮮やかに輝いておりますの。

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