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没落令嬢セレスティーナ様の冒険者生活  作者: TAC


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第12話

 掲示板に並んだ、煤けて端が丸まった羊皮紙の数々。

 わたくしのサファイアの瞳は、獲物を狙う猛禽のように鋭く光っておりましたわ。


 銀貨八枚。

 この幼い手のひらには余りあるほどの、確かな金属の重みと、鼻を突く特有の鉄錆の匂い。

 これが、わたくしが泥を啜り、汚泥にまみれて勝ち取った、自由への切符ですわ。


(あらあら、まあまあ。……次は何をして差し上げましょうかしら? ……あまり不潔なものは、わたくしの精神衛生上よろしくありませんけれど)


 掲示板の依頼を指先でなぞるたび、浴場でのガリガリとしたヘチマの痛みが、赤く腫れた肌を伝って脳を刺激します。

 一歩、足を踏み出すたびに、ブーツの中のまだ乾ききっていない湿り気が、グチョ、という不快な音を立ててわたくしの矜持を削り取っていきますわ。


 地下水道の記憶は、この鼻の奥にまだべったりと張り付いているようです。

 全職業のレベルが「5」に到達したことで、身体の芯に通った一本の細い芯のような感覚が、昨日よりもずっと明確に、わたくしの意志に即して脈動しておりました。


 身体が軽い。けれど、筋肉は悲鳴を上げている。

 この矛盾こそが、泥臭く這い上がる冒険者の醍醐味というものですわね。


 わたくしの指先が、一枚の依頼書の上で止まりました。


【ゴブリンの討伐:報酬、一匹に付き銀貨一枚】


 その瞬間、背後でガヤガヤと騒いでいた冒険者たちの空気が、ピシリと凍りつきましたわ。


「……おい、マジかよ。あのチビ、あれを選ぶのか?」

「嘘だろ。ゴブリンだぞ? 六歳のガキには早すぎる」

「誰か止めろよ、死なせる気か。……あんな綺麗な髪が緑のゲロまみれになるのは見たくねえぞ」


 ひそひそ、ガヤガヤ。

 あらあら、まあまあ。外野が随分とかしましいですわね。

 わたくしがこの程度で怯えるプランクトンだとでもお思いかしら?


「……セレスティーナ、あんた……。正気なの?」


 カウンターから身を乗り出したのは、先ほど銀貨を数えてくれた受付嬢さんでした。

 その顔は、呆れを通り越して、本気の不安に染まっております。


「あら。わたくしの正気を疑うなんて、受付嬢さんの審美眼も随分と曇ったものですわね。稼ぎどきを逃すのは、道端の石っころ以下の愚行だとは思いまして? ……それとも、わたくしにこれ以上の大金を持たせるのが、そんなに恐ろしいのかしら。オホホホ!」


「そうじゃないわよ! ゴブリンはスライムやネズミとは訳が違うの。あいつらは狡いし、群れるわ。……あんたみたいな小さな女の子を、あいつらがどう扱うか……想像しただけで吐き気がするわ」


「あらあら、まあまあ。ご心配なく。わたくし、ああいう不潔な害獣を掃除するノウハウは、たっぷりと詰め込んでありますの。ゴブリン一匹で銀貨一枚。わたくしのティータイムを少しだけ豪華にするには、ちょうどいい端金ですわ」


 わたくしは、周囲の「やめとけ」という視線をヒラリと受け流し、依頼書を叩きつけるようにカウンターへ置きました。

 ざわめきはさらに大きくなります。

 憐れみ、蔑み、そして僅かな期待。

 勝手に言ってなさいな。わたくしが這い上がるための踏み台に、貴方たちの評価など一銭の価値もありませんわ。


「……少しは休んだらどう? 六歳の子供が、下水道から上がった直後に次の獲物を探すなんて、見てるこっちの寿命が縮まるわ」


「受付嬢さんの寿命がどれほど残っているかは存じ上げませんけれど。……わたくしの未来を整えるには、まだまだ足りませんの」


 わたくしが指し示した依頼書を見て、受付嬢さんは露骨に顔を顰めました。

 大ネズミやスライムに比べれば、その危険度は数段跳ね上がりますわね。

 けれど、報酬欄に書かれた「銀貨二枚」という文字が、わたくしを誘惑してやまないのです。


「……無理よ。それは最低でもランクE以上の冒険者が数人で受ける依頼よ。……あんたはまだ、仮登録のFランクでしょうが」


「あら。実力が伴っていれば、ランクなんてただの飾りに過ぎないとは思いまして? それとも、わたくしがゴブリンに捕まって、干物になる姿を見物したいのかしら」


「……本気で言ってるのね。……わかったわ、でもこれは今日中には受けさせられないわよ。まずはその、湿った靴を乾かして、ちゃんとした食事を摂りなさい。お腹が鳴っているのが、ここまで聞こえてるわよ」


 ぐぅぅぅぅぅぅ……。


 情けない。あまりにも情けない生命の叫びですわ。

 わたくしの胃袋は、どうやら高貴な自尊心よりも、実利的な空腹感に忠実なようです。

 わたくしは、頬を僅かに朱に染めながら、ふんと鼻を鳴らしてギルドを後にしました。


「……あらあら、まあまあ。……胃袋の反乱には、わたくしも勝てませんわ。今日のところは、この街の経済に少しばかり貢献して差し上げようじゃありませんの」


 夕暮れの冷たい風が、濡れたままの銀髪を執拗に撫でつけてきます。

 身体がガタガタと震え始めます。

 興奮が冷めた後の疲労は、まるで冷え切った泥の中に再び沈められるような重苦しさですわ。


(まずは、段取り。……投げナイフの補充と、装備の調整。……そして、まともな保存食を確保しなくては……)


 わたくしは誘惑を断ち切り、重たい脚を引きずって、居候先である『黒い天秤亭』へと向かいました。

 デコボコの石畳に、革のブーツが叩きつけられるたび、足の裏の豆が潰れたかのような鋭い痛みが走ります。


 痛い。苦しい。お腹が空いた。

 けれど、懐にある銀貨の袋が、カチカチと音を立てるたび、その痛みが「将来への必要経費」だと思えるのです。


 店の扉を開けると、いつものようにカビと鉄錆の匂いが出迎えてくれましたわ。

 カウンターの奥で、ガレス様が古い天秤をいじりながら、わたくしを一瞥しました。


「……へっ、またずぶ濡れで戻りやがったか。お嬢ちゃん、その顔。なんだ、下水でスライムと心中でもしてきたか?」


「あらあら、まあまあ。心中だなんて、趣味の悪い冗談ですわ。わたくし、そのスライムさんたちをお掃除して、銀貨八枚を毟り取ってきましたのよ。ほら、受け取りなさいな。今夜の宿代と、それから、わたくしの武器の補充代ですわ」


 わたくしは、カウンターの上に銀貨を一枚、コトリと置きました。

 ガレス様は眉を跳ね上げ、その銀貨を指先で弾いて音を確かめました。

 チィィィィィン、という澄んだ音が、店の淀んだ空気を一瞬だけ切り裂きます。


「……マジかよ。あの下水の依頼、本当に一人でやりやがったのか。死に損ないの幽霊みてえな顔してるくせに、執念だけは化け物じみてんな」


「お褒めに預かり光栄ですわ。それで、ガレス様。……投げナイフを十本、用意していただけるかしら? それと、わたくしのショートソード。粘液で少し刃が傷んでしまいましたの。……研ぎ直してくださる?」


「十本か。銀貨一枚じゃ足りねえな。銅貨をあと二十枚出せ。砥石代も込みだ」


「あら、相変わらずお口が厳しいですわね。わかりましたわ、お支払いします。その代わり、わたくしにぴったりの、まともなホルダーを用意してくださらない? 懐に入れておくと、いつか自分の脇腹を刺してしまいそうですの」


「チッ、図々しいガキだ。まあいい、ちょうどいい端切れがある。明日の朝までには仕上げてやるよ」


 ガレス様は不愛想に銀貨を懐に収めると、奥の棚から汚れた布に包まれたナイフの束を取り出してきました。

 わたくしはそれを受け取らず、まずは物置部屋へと向かいましたわ。

 

 扉を開けると、埃っぽくて狭い、わたくしのお城。

 けれど、外の寒空や地下水道に比べれば、ここは天国のような安心感に満ちております。

 わたくしは泥だらけのブーツを脱ぎ捨て、裸足で床に座り込みました。

 冷たい。けれど、解放感が全身を駆け抜けます。

 

(……ああ。……やっと、座れましたわ……)


 足の指を丸め、血の通わない白い足先を、自分の手でさすります。

 幼女の小さな足は、ところどころ赤く腫れ、新しい豆ができておりました。

 本当は、高級なクリームを塗り込んで、シルクの靴下を履きたいところですけれど。

 今はただ、この痛みを噛み締めることしかできません。


 わたくしは、懐から残りの銀貨を取り出し、月の光が僅かに差し込む床の上に並べました。

 一枚、二枚、三枚……。

 全部で六枚と、銅貨が数十枚。

 これが、わたくしの命の値段ですわ。

 

「……あら。これで、何が買えますかしら」


 頭の中で、打算的な計算が止まりません。

 まずは、まともな食事。

 干し肉、硬くないパン、そして……ハチミツをたっぷりと。

 それから、今のショートソードを補強するか、あるいはもっと軽い、わたくしの身体に合った盾。

 防具も、この革の胸当てだけでは心許ないですわね。

 

 不意に、部屋の隅で何かが動く音がしました。

 カササッ。

 【見習いシーフ】の『索敵』が、瞬時に反応します。

 わたくしは反射的に枕元のナイフ……ではなく、そこに置いてあった木の棒を握りしめました。

 

 現れたのは、小さな、一匹のネズミ。

 地下水道の化け物とは違う、普通のネズミですわね。

 そいつは、わたくしの前に並べられた銀貨を、興味深そうにクンクンと嗅いでおりました。


「あら。……貴方も、お宝の重みが分かるのかしら? 残念ですけれど、これはわたくしの未来を整えるための大切なものですの。貴方にお分けする銅貨一枚、今のわたくしにはありませんわよ」


 わたくしは優しく、けれど断固とした拒絶を込めて、木の棒で床を軽く叩きました。

 ネズミは驚いて、壁の隙間へと消えていきましたわ。

 

(ネズミ一匹に、これほど過敏に反応するなんて。わたくしも、随分と冒険者らしくなりましたわね。……ふふ、笑えてきますわ)


 わたくしは銀貨を再び袋に収め、自分の太ももをそっと撫でました。

 スライムの酸で焼けた跡は、魔法で消したおかげで、今はもううっすらとした赤みを残すだけ。

 全職業レベル5の恩恵は、身体の回復速度にも僅かに及んでいるようです。

 呼吸を整えるたび、肺の奥に溜まった疲れが、少しずつ抜けていくのが分かります。

 

 ぐぅぅぅぅぅぅ……。


 再び、胃袋が抗議の声を上げました。

 わたくしは、よろよろと立ち上がり、扉を開けて再びカウンターへと向かいましたわ。


「……ガレス様。……何か、食べられるものを。わたくし、今日中に何かを胃袋にご褒美をあげないと、そのままここで干物になってしまいそうですの」


「へっ、金持ってる奴には、いつもの倍の値段で特製スープを出してやるよ。待ってな、今夜は肉の切れ端を入れてやる」


 ガレス様が、不器用な手つきで大きな鍋を火にかけながら、ボソリと呟きました。


「……で、明日はどうするんだ。その様子じゃ、一日休むなんて気はねえんだろ」


「ゴブリンの討伐ですわ」


 一瞬、ガレス様の手が止まりました。

 部屋の中に、重苦しい沈黙が流れます。

 

「……正気か。あんまり浮かれていると、足元を掬われるぞ。ありゃあネズミやスライムとは格が違う。小賢しいし、何より汚ねえぞ」


「あらあら、まあまあ。汚れ仕事は地下水道で慣れっこですわ。わたくしの将来の美肌と美食のためですもの。……あんな緑色のゴミ屑に、わたくしの歩みを止めさせる権利なんてありませんわよ」


「……勝手にしな。死んでも死体は回収しに行ってやらねえからな」


 そう言いながらも、ガレス様が用意してくれたのは、昨日までの泥のスープとは一線を画す、暴力的なまでに豊かなお肉の香り。


(あら。……あらあら、まあまあ。銀貨を払った甲斐がありましたわね)


 出されたスープは、琥珀色に輝き、表面には脂の粒がキラキラと浮かんでおりました。

 わたくしは、木のスプーンを震える手で持ち、まずはその熱い液体を一口、慎重に口に含みました。


「…………っ!!」


 旨い。

 震えるほどに、旨いですわ!

 お肉の旨味が、枯れ果てたわたくしの身体に、奔流となって流れ込んできます。

 一噛みごとに、生命の灯火が再び強く、激しく燃え上がるのが分かりますわ。


「……ふぅ。ご馳走様ですわ。とりあえずの、明日へのエネルギーとしては、合格点を差し上げますわね」


 お腹が温まると、今度は抗いようのない眠気が、泥のように重たくわたくしの瞼にのしかかってきましたわ。

 よろよろとした足取りで、わたくしのお城である物置部屋へと戻ります。

 扉を閉めると、再びあの埃っぽい匂いに包まれました。

 けれど不思議なことに、今はそのカビ臭ささえ、わたくしの神経を安らがせる香料のように感じられますの。


 床に敷いたボロ布の上に、小さな身体をそっと横たえます。


 「……っ、……あ痛たた……」


 横になった瞬間、背中や腰、太ももの筋肉が、一斉に悲鳴を上げましたわ。

 昨日の地下水道での無理が、今になってズキズキとした熱を伴ってぶり返してきたようです。

 特に右の太もも、スライムの酸で焼かれた場所が、衣類に擦れてヒリヒリと痛みますわ。

 魔法で治したとはいえ、六歳の柔肌には、この程度の傷でも十分に酷な刺激ですの。


 暗闇の中で、わたくしは自分の小さな手のひらを見つめました。

 指先はボロボロで、爪の間にはどんなに洗っても落ちない泥が薄く残っております。

 かつてのわたくしであれば、このような不潔な状態、発狂して失神していたかもしれませんわね。

 けれど今は、この汚れこそが、わたくしが今日を生き延びたという揺るぎない証拠。

 銀貨八枚という、確かな手応えを手にするための代償ですわ。


(……ゴブリン、……ですわね……)


 目を閉じると、受付嬢さんの怯えたような顔が浮かんできましたわ。

 小狡くて、群れて、不潔な緑色の害獣。

 スライムや大ネズミのような、ただ本能で動く生き物とはわけが違う。

 意思疎通など到底できない、けれど悪意だけは一人前にある、最悪の隣人。

 そんなものと、明日のわたくしは刃を交えなければなりませんの。


 怖くないと言えば、それは嘘になりますわ。

 この細い腕で、奴らの硬い肌を貫けるかしら。

 この短い脚で、奴らの執拗な追跡から逃げ切れるかしら。

 考え始めると、胸の奥がキュッと締め付けられるような、冷たい感覚が広がります。

 けれど。

 その恐怖よりもずっと強く、わたくしの胃袋を突き動かすのは、未来への執念ですわ。


 高級なシルクのシーツ。

 銀の食器に盛られた、色鮮やかな果実と甘いお菓子。

 湯気の立つ広大な大理石の浴場。

 それらを取り戻すためには、ここで足を止めるわけにはいきませんの。

 手間ばかりかかって、命の保証もない。

 そんな割に合わないお仕事かもしれませんけれど、それを積み重ねた先にしか、わたくしの楽園は存在しませんわ。


 カサッ、と部屋の隅で乾いた音がしました。

 先ほどのネズミかしら。

 わたくしは薄く目を開けましたが、身体を動かす気力はもう残っておりませんでした。

 冷たい床の硬さが、ボロ布越しに骨に響きます。

 意識が、ゆっくりと、けれど確実に、深い闇の底へと沈んでいきましたわ。

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