第11話
向かう先は、以前下見しておきました、あの大衆浴場ですわ。
わたくしは街の路地裏、迷路のように入り組んだ細い道の突き当たりにある、傾いた看板が目印の建物へと足を向けました。
煤けた壁はところどころ剥げ落ち、湿った木材が腐ったような匂いが漂っておりますけれど、今の泥まみれのわたくしにとっては、ここが伝説の聖域か何かに見えますわ。
番台には、人生のすべてを恨んでいるような不機嫌な顔のお婆様が鎮座しておりました。
わたくしは泥だらけの指先で、貴重な銅貨を三枚、カウンターへと並べましたわ。
「あら。あらあら、まあまあ。……三枚ですわよ。このお城へ入るための通行料としては、なかなかの強気なお値段設定ですわね?」
お婆様はわたくしの毒舌を無視して、汚れた手で銅貨をひったくるように受け取りました。
わたくしは鼻を鳴らすと、破れかけた女湯の暖簾を潜りましたわ。
中は薄暗く、立ち込める湯気すらどこか灰色に濁っているように感じられました。
安っぽい石鹸の香りなんて、一欠片もいたしません。
代わりに鼻を突くのは、何日も放置された雑巾のような匂いと、大勢の男たちが流した泥が発酵したような、もわっとした饐えた臭気ですわ。
(……絶望的ですわ。前世の家畜小屋のほうが、まだ清潔な香りがしたかもしれませんわね。けれど、あの下水の汚物まみれでいるよりは、数倍マシですわ!)
洗い場を見渡せば、そこには浮浪者一歩手前の冒険者さんや、その日の日銭を稼ぐために泥を被った労働者さんたちが、黙々と身体を擦っておりました。
わたくしは、下水とスライムの粘液でガビガビになった装備を、嫌悪感を堪えながら一つずつ剥ぎ取っていきましたわ。
小さな、けれど泥に汚れた身体を、冷たい風が吹き抜ける洗い場へと運びます。
「……あらあら。わたくしの滑らかな肌が、こんなに真っ赤に……」
木桶に汲んだのは、お湯と呼ぶにはあまりにも情けない、ぬるま湯ですわ。
おそらく、一度沸かしたものを何度も追い焚きして使い回しているのでしょう。
その証拠に、桶の中の水すら微かに濁っておりますわね。
わたくしはそれを、覚悟を決めて一気に頭から被りました!
ジャバァァァッ!!
冷たっ! ……いいえ、ぬるいですわ!
温度が中途半端すぎて、心臓が変なリズムを刻みそうですわよ。
お湯が泥を溶かし、わたくしの足元には瞬く間に黒い川が出来上がりました。
さて、ここからが本当の地獄……いえ、正念場ですわね。
ここには、高貴な香りのする石鹸なんて贅沢品は存在いたしません。
置かれていたのは、砂利が混じっているのではないかと疑いたくなるほど、ガリガリに硬いヘチマの束。
わたくしはそれを手に取り、小さな手で全身を力一杯に擦り始めましたわ!
ゴシゴシ、ゴシゴシッ!!
「……っ! 痛っ、痛いですわ! これ、本当にお肌を洗うための道具ですの? 拷問器具の間違いではありませんこと?」
硬い繊維が、容赦なくわたくしの繊細な肌を削り取っていきます。
けれど、こうして無理やり擦り落とさない限り、スライムの粘着質な汚れは落ちてくれませんの。
肌が真っ赤に腫れ上がり、ヒリヒリとした激痛が全身を走ります。
それでも、わたくしは歯を食いしばり、何度も、何度も、濁ったお湯ですすぎ流しましたわ。
ようやく身体の表面を覆っていた「下水の記憶」が剥がれ落ちたところで、わたくしは中央にある大きな湯船へと足を向けました。
けれど、その光景に再びわたくしの美学が拒絶反応を起こしましたわ。
「……あら。あらあら、まあまあ。……お湯が、……お湯が真っ黒ですわよ?」
湯船の中には、底が見えないほどに濁った、黒ずんだ液体が溜まっておりました。
大勢の労働者たちが一日の汚れをそのまま持ち込んだ、まさに「泥の煮込み」とでも呼ぶべき惨状。
しかも、追い焚きばかりで新しくお湯を足していないせいか、表面には正体不明の脂が浮いておりますわ。
(……いけませんわ。ここに入るのは、ある意味で下水に戻るのと変わらないのではないかしら。けれど、身体を温めないと、熱がぶり返してしまいますわね。……ええい、ままよですわ!)
わたくしは意を決して、その真っ黒な「沼」へと身体を沈めました。
ザバァァ、という音が重たく響きます。
温度はやはり、お風呂としては致命的にぬるいですわ。
けれど、冷え切った幼女の身体には、その僅かな温もりが、呪いのようにじわじわと染み渡ってきますの。
「……ふぅ。……極楽、というには……あまりにもお粗末ですけれど。…身体が、……溶けそうですわ……」
わたくしは、湯船の縁に頭を預け、濁った水面を見つめました。
前世で楽しんだ、名湯巡りの温泉旅行。
あの透明な、硫黄の香りがする美しいお湯が、まるで遠い異世界の幻覚のように思い出されますわ。
「……痛っ。あら、こんなところに、切り傷が」
ふと見れば、右足の太ももに、スライムの酸で焼けた小さな跡がありましたわ。
そこからじわじわと、黒いお湯の汚れが入り込もうとしているのが分かります。
わたくしは、湯船の中でそっと胸の前で手を合わせました。
【見習い聖職者】の、清らかな光。
「癒えなさい。わたくしの美貌に、こんな汚らしい跡は必要ありませんわ」
ポウ、と。
濁ったお湯の中で、淡い月明かりのような光がわたくしの足を包み込みました。
お湯のぬるさと、魔法の温かさが混ざり合い、疲れ切った細胞の一つ一つが蘇っていくような感覚。
ヒリヒリとした痛みが引き、酸で焼けた肌が、光と共に元の陶器のような白さを取り戻していきます。
「……ふぅ。……少しは、人間に戻れましたかしら……」
わたくしは、これ以上浸かっていたら逆に病気になりそうな気がして、早々に湯船から這い上がりました。
仕上げに、比較的一番マシな(それでも濁っておりますが)桶のお湯を被り、不快な匂いを強引に洗い流しましたわ。
脱衣所へ戻り、水で軽く洗っておいた、まだ湿ったままのボロボロの服を再び身に纏います。
濡れた銀髪を、お婆様から借りた(また銅貨一枚毟り取られましたわ!)不衛生な布で乱暴に拭きながら、わたくしは浴場を後にしました。
外の空気は、下水道よりも、あの濁った浴場よりも、ずっと澄み渡って感じられます。
足取りは、先ほどよりもずっと軽い。
わたくしは、意気揚々と冒険者ギルドの扉を蹴り開けましたわ。
足取りは、先ほどよりもずっと軽い。
わたくしは、意気揚々と冒険者ギルドの扉を蹴り開けましたわ。
バァァァンッ!!
「お待たせいたしましたわ! ラスティ・ローズの美しき冒険者、セレスティーナ様のお帰りですわよ!」
ギルドの中が、一瞬で静まり返りましたわ。
入口に立つ、濡れた髪で、けれどどこか清々しい表情を浮かべた幼女。
わたくしは、カウンターへと堂々と歩み寄り、濁った魔石の山をジャラジャラと広げて見せたのです。
「……これ……。本当に、一人で全部やってきたの?」
受付嬢さんが、絶句しながら魔石を手に取りました。
その目は、わたくしの強靭な精神力……いいえ、お金への執着心に対して、深い畏敬の念を抱いているようでしたわ。
「ええ。お片付けいたしましたわ。さあ、約束の銀貨八枚。早く、わたくしの努力の成果を、お支払いになってくださる?」
チャリン、チャリン、チャリン……。
カウンターに並べられた八枚の銀貨。
わたくしはそれを、愛おしそうに指先でなぞりました。
泥臭い冒険の果てに掴み取った、冷たくて硬いお宝の感触。
わたくしは銀貨を袋に収めると、不敵に微笑みました。
全職業レベル5。
昨日よりも少しだけ高くなった視線で、わたくしは新たな掲示板へと目を向けました。




