第10話
翌朝。
またしてもガレス様の容赦ない足音が、物置の薄い床を激しく揺らしましたわ。
「おい、いつまでも寝てやがるなチビ! 稼ぎのない居候に食わせるパンはねえぞ。さっさとギルドへ行って、小銭でも拾ってきやがれ!」
「……っ。あら。あらあら、まあまあ。……朝から雷鳴のような怒鳴り声、目覚まし時計代わりには少しばかり刺激が強すぎますわね、ガレス様……」
わたくしは跳ね起き、全身の節々がズキズキと悲鳴を上げるのを無視して、昨日手に入れた装備を身に纏いましたわ。
革の胸当てを締め直し、ショートソードを腰に。
そして、五本の投げナイフを布に包んで懐に忍ばせます。
鏡……なんて素敵なものはありませんけれど、水瓶に映った自分を覗き込めば、寝癖のついた銀髪が風に揺れておりましたわ。
(ふふ。よろしいわ。わたくしという存在が、どれほど高貴な結果を叩き出すか、今日もしっかりお見せして差し上げますわよ)
ガレス様から投げ渡された、昨日よりもさらにカチカチに乾燥したパンの端切れを齧りながら、わたくしは意気揚々と店を飛び出しましたわ。
目的地は、冒険者ギルド。
朝日を浴びて輝く銀髪が、わたくしの新たな決意を象徴するように風に舞います。
ギルドに入ると、昨日よりもさらに多くの視線がわたくしに注がれましたわ。
昨日の「お片付け」の結果を聞いているのか、その視線には明確な困惑と、ほんの少しの恐れが混じっておりますわね。
わたくしは彼らを一瞥もせず、真っ直ぐに依頼が張り出された掲示板へと歩み寄りました。
(さて。わたくしの今日一日の働きに見合う、最高のお宝はどこかしら……?)
並んだ依頼書を、指先で一枚ずつなぞっていきます。
薬草採取はもう飽きましたわ。銅貨数枚のために一日中腰を曲げるなんて、わたくしの腰が曲がってしまいますもの。
角うさぎの討伐は……あら、今日は競争率が高いようですわね。汗臭い男たちが群がっておりますわ。
そこでわたくしの目に留まったのは、掲示板の隅、誰からも見向きもされずに色褪せている一枚の依頼書でした。
「『地下水道に発生した粘着生物の駆除』……。五匹倒して、報酬は、銀貨八枚?」
わたくしのサファイアの瞳が、一瞬でダイヤモンドのような輝きを取り戻しましたわ。
Fランクの冒険者が受けられる仕事としては、異例の好条件ですわね。
けれど、周囲の冒険者たちはその依頼書を一目見るなり、嫌なものでも見たかのように顔を顰めて通り過ぎていきます。
「……おいおい、あのお嬢ちゃん、あの依頼を見てるぜ」
「やめときな。下水の臭いは一度ついたら三日は取れねえし、あのドロドロは剣も通らねえ。手間ばかりかかって割に合わねえクソ仕事だ」
野次馬たちのヒソヒソ声が耳に届きます。
なるほど、悪臭と粘液。
冒険者という名の荒くれ者たちですら拒絶する、不潔極まりないお仕事ということですわね。
わたくしの美学が全力で「やめておきなさい」と警鐘を鳴らしておりますが。
(……銀貨、八枚。八枚あれば、ガレス様への支払いを済ませても、余りあるお菓子とお風呂が待っていますわ!)
背に腹は代えられませんわ。
わたくしは迷わず、その依頼書を力任せに引き剥がしました。
そして、目を丸くしている受付嬢さんのカウンターへと歩み寄ります。
「あらあら、まあまあ。受付嬢さん。今日のわたくしは、この『地下のお片付け』をさせていただくことに決めましたわ」
「……本気なの、セレスティーナ? そこ、本当に酷い臭いなのよ。女の子が一度入ったら、お嫁に行けなくなるって言われてるんだから」
「あら。わたくしの美しさは、下水の匂い程度で損なわれるほど安っぽくありませんわ。さあ、手続きを」
わたくしは、受付嬢さんが渋々押したスタンプの跡を確認すると、鼻歌を歌いながらギルドを後にしましたわ。
目的地は、街の北側にある汚水溜まりの入り口。
一歩、また一歩と近づくにつれ、空気の中に腐った卵と泥が混ざり合ったような、耐え難い悪臭が混じり始めました。
「……あら。ここですの? 想像以上に、お鼻が曲がりそうな香りが漂っておりますわね……」
石造りの古い入り口。
そこからは冷たく湿った風が吹き抜け、内側には真っ暗な闇が口を開けておりました。
わたくしは、大切に持ってきたハンカチを顔に巻き、ショートソードを抜き放ちましたわ。
そして、指先に集中します。
【見習い聖職者】、発動ですわ。
「『微光』」
ポウ、と。
わたくしの周囲三メートルほどを照らす、頼りないけれど確かな光が灯りました。
わたくしは、暗闇の奥へと、小さな第一歩を踏み出しました。
ズブリ、という、湿った嫌な感触が足の裏に伝わり――。
ひんやりとした泥水の感触が、革のブーツを越えてふくらはぎのあたりまで染み込んできましたわ。
冷たい。そして、ぬめりとしています。
一歩進むごとに、汚泥が「グチャッ、グチャッ」と下品な音を立てて、わたくしの歩みを阻みます。
暗闇を照らす『微光』の範囲外からは、ネズミの鳴き声や、何かが水面を叩くような不気味な音が響いてきました。
(あらあら。神様。わたくしの銀髪が、下水の湿気でチリチリになってしまいましたら、絶対に許しませんわよ……!)
壁には、何年も積み重なった黒いカビがびっしりとこびりつき、天井からは絶えず正体不明の滴が「ポタリ、ポタリ」と肩に落ちてきます。
そのたびにわたくしの身体がビクリと震え、吐き気が喉元までせり上がってきました。
けれど、わたくしはショートソードを構え直しました。
足元を注意深く見つめながら、暗い通路をさらに奥へと進みます。
カチャ、カチャ。
腰に下げた投げナイフが、歩くたびに小さな音を立てます。
それが、この静寂と悪臭の支配する世界で、唯一わたくしを現実に繋ぎ止めてくれる音でした。
さらに十メートルほど進んだところで、通路の先が大きく開けた広場のような場所に出ましたわ。
そこには、街中の汚水が集まってくる巨大な溜め池がありました。
そして。
「……あら、まあ。……いらっしゃいましたわね、本日の主役さんが」
光の中に浮かび上がったのは、巨大な、鼻を突くような酸っぱい臭いを放つ粘着生物。
スライムですわ。
透明感など微塵もない、濁った緑色の液体が、意思を持っているかのようにウネウネと蠢いています。
大きさは、わたくしの腰のあたりまでありますわね。
スライムがゆっくりとこちらに向き直り、その身体の中央にある、核と呼ばれる核の部分を不気味に脈動させました。
「—―ギィィッ」
鳴き声ともつかない、粘着質な音が地下水道に反響します。
わたくしは、剣を両手で握りしめました。
まずは、様子見ですわ。
わたくしは一気に間合いを詰め、ショートソードをその胴体目掛けて振り下ろしました!
グニィィィッ!!
「……あらっ!?」
衝撃がありません。
鉄の刃は、まるで泥の中に突っ込んだかのように、ズルリとスライムの身体の中に吸い込まれてしまいましたわ。
しかも、引き抜こうとしても、強い粘着力が刃に纏わりついて離しません。
わたくしの細い腕力では、まるで大地の底から何かを引き抜こうとしているような、絶望的な抵抗を感じます。
「離しなさいな、この不潔なナマコさん!!」
わたくしは必死に足を踏ん張り、顔を真っ赤にして剣を引き抜こうとしました。
けれど、スライムは逆にわたくしの剣を飲み込もうと、その身体を大きく膨らませました。
さらに、スライムの一部が鞭のようにしなり、わたくしの肩を目掛けて飛んできましたわ!
ビチャッ!!
「……っ、熱っ!?」
肩を掠めた粘液が、革の胸当てを僅かに焦がし、その下の肌に焼けるような痛みをもたらしました。
酸。
この生物の身体は、触れるものを溶かす猛毒でできているのですわね。
わたくしは、必死の思いで剣を強引に引き抜き、後方へと転がりました。
ドサッ!
汚水の中に背中から倒れ込み、全身がさらにドロドロになりましたわ。
銀髪が汚泥を吸って重くなり、鼻を突く悪臭がいっそう激しさを増します。
痛い。汚い。苦しい。
けれど、わたくしのサファイアの瞳には、冷徹な怒りの炎が灯っておりました。
(……よろしいわ。わたくしの自慢の胸当てを傷つけた罪。……銀貨八枚分、たっぷりとお支払いしていただきますわよ!)
わたくしは、立ち上がりながら懐に手を伸ばしました。
ショートソードでは、物理的な打撃が通りにくい。
ならば、中から壊して差し上げるまでですわ。
わたくしは五本の投げナイフのうち、一本を手に取りました。
そして、指先に集中します。
【見習い魔導士】。
魔力の泉から、僅かな「火花」をナイフの刃先に纏わせます。
バチバチバチッ!!
小さな火花が、鉄の刃の上で激しく弾けました。
わたくしは、スライムが再び突進してくる瞬間を、じっと待ちましたわ。
一秒、二秒。
スライムが、その全身をバネのように撓ませて、わたくしに飛びかかろうとした、その刹那!
「……そこですわっ!!」
シュパァァッ!!
わたくしの小さな手から放たれた投げナイフが、火花を散らしながら暗闇を切り裂きました。
狙うは、スライムの中央で怪しく光る核。
ナイフは、狙い違わずスライムの身体を貫き、その奥深くにある弱点へと突き刺さりました!
ドォォォォンッ!!
激しい閃光と、肉が焼けるような嫌な臭い。
火花を纏ったナイフが核の中で爆発し、スライムの巨体が内側から激しく揺れ動きました。
緑色の粘液が、花火のように周囲に飛び散ります。
「ギ、ギギギィィィッ……!!」
断末魔のような叫び声を上げ、スライムは急速に形を崩していきました。
やがて、ただの動かない汚泥の塊となって、地下水道の流れの中に消えていきましたわ。
わたくしは、震える手でスライムの残骸から現れた、濁った緑色の魔石を拾い上げました。
「……まずは一つ。銀貨八枚への、確かな一歩ですわ……」
そう自分に言い聞かせた、その時ですわ。
チャプン、ズリュッ……。
暗闇の奥、わたくしの『微光』が届かない境界線から、複数の湿った音が重なって聞こえてきました。
波打つ汚水。
一つ、二つ、三つ……。
さらに奥から這い出してきたものも含めて、四体のスライムが、わたくしを包囲するようにじわじわと距離を詰めてきたのですわ。
「……あら。あらあら、まあまあ。……本日の主役さんは、どうやら劇団員をたくさん連れていらしたようですわね」
わたくしの顔から、余裕が完全に消え失せましたわ。
相手はたかがスライム。けれど、こちらは六歳の非力な幼女。
先ほどの一体だけでも、剣が吸い込まれ、酸で胸当てを焼かれるという醜態を晒したのです。
四体同時に飛びかかられれば、わたくしの高貴な銀髪は、ドロドロの粘液の中で溶けて消えるしかありませんわ。
(……一対複数は、今のわたくしにはあまりにも手間ばかりかかって、命の保証がございませんわ。……段取りよく、一匹ずつ『お片付け』して差し上げなくては!)
わたくしは泥にまみれた革のブーツを必死に動かし、背後の狭い通路へと後退しました。
地下水道の壁に背を預け、敵が一度に一体ずつしか来られない「絞り込み」を行います。
迫りくる二体目のスライム。
わたくしは懐から二本目の投げナイフを抜き、指先に意識を凝らしました。
【見習い魔導士】の火花。
バチィィィンッ!!
「……いらっしゃいませ!」
シュパァァッ、と放たれた鉄の刃が、一番槍の核を正確に貫きました。
内部で弾ける火花。
グシャリと形を崩したスライムが汚泥に還るのを確認し、わたくしはすぐさま三本目のナイフを構えます。
止まる暇なんてありませんわ。呼吸を乱せば、それだけでこの不潔な闇に飲み込まれますもの。
三体目が、崩れた仲間の残骸を乗り越えて跳躍してきましたわ。
わたくしは【見習いモンク】の身のこなしで、狭い通路の壁を蹴り、無様に、けれど確実にその突進を回避。
空中でナイフを投げつけ、その核を射抜きます!
ボシュゥゥゥッ!!
酸っぱい異臭がいっそう激しく立ち込め、わたくしの鼻を執拗に攻め立てます。
残るは二体。
わたくしの魔力は、もうマッチの火を灯すのすら危ういほどに枯渇しかかっておりました。
肺が焼けるように熱く、心臓が肋骨を突き破らんばかりに暴れていますわ。
(……痛い。苦しい。……けれど、あと二つですわ……!)
四体目は、あえてナイフを使わず、ショートソードで迎え撃ちました。
物理が効かない相手でも、全職業レベルが底上げされた今のわたくしなら、刃の重さを一点に集中させることができますわ。
スライムがわたくしの足首を狙って触手を伸ばした瞬間、わたくしは剣を力任せに振り下ろすのではなく、核の位置を予測して「置く」ように突き出しました。
グチャリッ!
手首が折れるかと思うほどの衝撃。
けれど、刃先は確かに硬い核を捉え、粉々に粉砕しましたわ。
そして最後の一体。
逃がしませんわ。わたくしの銀貨八枚を完成させるための、大切な最後の一石!
わたくしは最後の一振りのナイフに、絞り出すような魔力を込め、その身を揺らしたスライムの懐へと叩き込みました。
ドォォォォンッ!!
最後の粘着生物が、水飛沫を上げて消滅しましたわ。
静寂。
ただ、わたくしの荒い息遣いと、遠くで聞こえるネズミの声だけが響いています。
わたくしは、朦朧とする意識を繋ぎ止めながら、泥水に手を突っ込みました。
一つ。二つ、三つ、四つ……五つ。
濁った、けれど確かな感触を持つ五つの魔石を、わたくしは泥だらけの袋に押し込みましたわ。
その瞬間。
身体の芯から、熱い奔流が湧き上がってきました。
ドクン、ドクンと、幼女の小さな細胞が、新しい力を得て活性化していく……。
昨日までの自分が、まるで遠い過去の自分のように思えるほどの、確かな成長の感覚。
【全職業:レベルが5に到達しました】
「……ふふ。……ふふふ。……オホホホホ! やりましたわ! 五つ揃って全職業レベル5ですわよ!」
わたくしは泥だらけの顔で、暗い地下水道に高笑いを響かせましたわ。
けれど、高笑いした瞬間に鼻に飛び込んできた悪臭に、すぐに我に返りました。
(……はぁ。……あら、まあ)
わたくしはその場に座り込み、激しく上下する肩を落ち着かせようと努めました。
手足はガタガタと震え、全身はドロドロのぬめりまみれ。
前世のわたくしが見れば、悲鳴を上げて卒倒するような姿ですわね。
「銀貨、八枚。……これで、最高のお風呂に……入れますわね……」
わたくしは、朦朧とする意識の中で、それだけを心の支えにして立ち上がりました。
地下水道を這いずるようにして抜け、地上へと戻った頃には、太陽はすでに中天に差し掛かっておりました。
光が眩しい。
そして、自分の体から漂う、鼻を突くような悪臭に、改めて絶望しましたわ。
(いけませんわ……。このまま地上に出れば、わたくし、不審なゴミの塊として通報されてしまいますわ……!)
わたくしはふらつく足取りで立ち上がり、通路の壁に手をつきました。
このまま外に出るのは、流石のわたくしも躊躇われます。
街の人々に「動くゴミの塊」だと思われて石を投げられたら、美学への大罪ですからね。
わたくしは【見習い魔導士】の力を使い、指先から僅かな水を生成しました。
本当に少量の水。
それで顔の泥を少しずつ拭い、目元の汚れを落とします。
さらに、レベル5になって発現した【見習い聖職者】の光を、全身に纏わせました。
「……癒しと、清めを」
淡い、月明かりのような光がわたくしの身体を包み込みます。
未熟な力ゆえに、こびりついた汚れを完全に消し去ることはできません。
けれど、鼻を突く下水の匂いが、春の草原……とまでは到底いきませんが、ほんの少し和らぎましたわ。




