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水平線が動かなかった日

作者: 絹ごし春雨

 戦線は動いていない。

水平線に並ぶ巨大な生き物のような黒影は動いていないからこそ、不吉だ。


 本隊から連絡が途絶えて、既に三時間が経っている。


「隊長、連絡は?」


若い部下が、不安げにこちらを見上げた。


「まだだ」


このやりとりは、もう何度目だろうか。斥候も戻らず、もう1時間が経過しそうだ。



じれたように動くもの。

動かない敵軍を、不安げに見るもの。


部隊の状況は、良くは、ない。

いや、確実に悪くなっている。


三時間前は、武者震いをしていた新兵達が、じわじわと補給路を断たれて消耗している。


命令は、前線を死守すること。

しかし、このままでは……。


撤退命令すれば、命令違反として、軍法会議にかけられる。


私の判断は、重い。


ここは地形が悪すぎる。

長く留まれば、ジリ貧になる。


指令を出した本部は、既にここを見ていない。大きな作戦でも、あるのかもしれない。


守るか、引くか。


私は、乾いた唇を噛み締めた。


ふと、敵軍が引いているように見えることに、気づいた。



「なにか、あるのか?」


新兵が不安げに、身を縮こませた。士気は一気に低くなり、ざわざわとざわめきが広がる。



斥候は、未だ戻らない。


私は、決断した。


「……撤退だ。一度退く」


凛とした声が響く。


部隊の空気が、引き締まったのが、わかった。


「でも、本隊は……」


「私の判断だ。お前たちを、無駄死にさせるために、率いている訳では、ない」


自然と、兵達は、私を見上げて、敬礼する。


「命令は、守るためにある。

だが、命は、命令のためにあるわけではない」


「責任はすべて、私が持つ」


速やかな撤退。

草を踏み分け、川を渡る。


背後で、戦闘音が聞こえてきた。


振り返る部下を鼓舞する。


「まだ、生きている。全てが終わった訳ではない」


「急げ」


肩を貸し、道無き道を行く。


山に入り、振り返る。

敵軍は、自軍の本隊を、包囲している。


「これが、正しかったのか……」


分からない。けれど、生き残った部下を見る。


この命が、失われてもいいとは、どうしても、思えなかった。


「この判断が正しかったのかどうかを決めるのは、私ではない」


部下を見渡す。


「生き残った者が、これからどう思うかだ」


私は死んでいった者達に、静かに黙祷を捧げた。



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