第七話 須弥山(しゅみせん)の神々の視線
遥か高天原を超えた、世界の中心、須弥山。
忉利天にある善見城の広間。仏教を守護する最高位の神、帝釈天が、穏やかだが威厳のある面持ちで玉座に座っていた。
彼の目の前には、四天王の一人であり、武神である毘沙門天が控えている。
毘沙門天は、分厚い報告書を捲りながら、低い声で言った。
「帝釈天様。最近、下界の人間界でブイブイ言わせてる闇落語についての報告が、とうとう冥界の最高権力者である閻魔大王の会議録にも登場いたしました」
毘沙門天は、信じられないという口調で続けた。
「『閻魔大王まで、体調不良を口実に聞きに行くとか』……正直、神仏の権威に関わる事態かと存じます」
帝釈天は、静かに目を閉じていたが、ゆっくりと目を開いた。
「毘沙門天よ。興味がお有りですか?」
毘沙門天は、一瞬たじろいだが、すぐに威厳を取り戻した。
「滅相もございません。ただ、あの『闇落語家』が巻き起こしている混乱は、あまりにも甚大です。鬼の首領と陰陽師が手を組み、彼を巡業させている。その噺の内容は、人間を救うどころか、人間が自ら作り出す『精神的な地獄』をネタにしている。これは、我々が下界に設定した『因果応報』や『輪廻転生』のシステムに、致命的な『ブラックジョーク』を突きつけていることになります」
帝釈天は、柔和な笑みを浮かべた。
「ふむ。つまり、あの前座見習いの噺家は、我々が用意した『地獄』よりも、人間自身が構築した『自滅のコメディ』の方が、よほど面白いと、神々や仏たちに、訴えかけているわけですな」
「その通りです。これでは、我々が下界の衆生を救済する意義が……」
帝釈天は、毘沙門天の言葉を、静かに遮った。
「毘沙門天よ。その『闇落語家』は、『笑い』という、最も強力な力を使って、人間の本質を白日の下に晒している。そして、その『笑い』は、『悪意』ではなく、『純粋な困惑』から発せられている。それが面白い」
「純粋な困惑、ですか」
「うむ。彼はただ、師匠に命じられて始めた落語を、聴衆に合わせて懸命に演じているだけ。聴衆が妖怪であれば、彼らは人間にとっての恐怖に笑う。聴衆が鬼であれば、彼らは人間同士の非道徳性に笑う。彼はただ、『相手が笑うツボ』を、落語家として真摯に探り当てているに過ぎません」
帝釈天は、玉座から立ち上がり、窓の外の遥か下界を見下ろした。
「毘沙門天よ。おぬしは、その『闇落語家』が、下界の秩序を破壊する『悪』だと見ているのでしょう。しかし、私には、彼は『世の理の綻び』を見せる、稀有な『道化』に見える」
帝釈天は、優しく、だが確信に満ちた声で命じた。
「閻魔大王が、『下界視察係』を送るのであれば、我々も追随する義務がある。おぬしが行きなさい」
毘沙門天は、武神としての厳格な表情を崩さなかった。
「私が、ですか。彼の落語を?」
「うむ。そして、もしおぬしが、彼の噺を聞いて腹の底から笑うことがあれば……その時は、彼の『闇巡業一座』に、神仏側の代表として加わりなさい」
「し、しかし、帝釈天様! 私が下界の噺家の追っかけなど……」
帝釈天は、穏やかに笑いかけた。
「よろしい。もし、彼の噺が、おぬしの『武神としての威厳』を崩すことがあれば、それは『人間の喜劇性』が、我々の想像を超えて深まっている証拠。その時こそ、我々神仏は、下界の救済方法を根本から考え直す必要がある。それが、この目で確かめる神聖な使命ですよ」
毘沙門天は、額に汗を浮かべながらも、その命を固く受け入れた。
「……かしこまりました。四国の『一本だたら』の隠れ里へ、『下界の秩序を監視する』という名目で、向かいます」
こうして、目黒亭こんぺいの「闇落語巡業一座」は、鬼の頭目、陰陽師、閻魔の部下に加え、とうとう仏教の守護神までをも巻き込む、壮大すぎる旅となっていくのだった。




