第十一話 震える高座、凍りつく寄席
新宿の片隅にある寄席「末広亭」の舞台の上で、目黒亭満腹は、芸人人生最大の窮地に立たされていた。
演目は、落語の定番中の定番『芝浜』。夫婦の情愛を描く、本来ならじわりと涙を誘い、笑いを届ける名作だ。しかし、今日の高座は、まるで針のむしろの上で正座しているような感覚だった。
(な、なんだ……この空気は。空気が重くて、喋ろうとすると喉に鉛が詰まったようになりやがる……!)
満腹の視線の先、客席のど真ん中に座る背広姿の男――毘沙門天の眼光は、もはや「熱視線」などという生温いものではない。それは物理的な質量を伴った神気の圧力となり、満腹の皮膚をチリチリと焼き、羽織の繊維一本一本を押し潰している。
「……えー、お前さん、いいか、よく聞きな……」
必死にセリフを紡ぐが、声が震える。
ふと斜め後ろに目をやれば、銀縁眼鏡の冥官が、懐から取り出した「閻魔帳」らしき手帳に、さらさらと何かを書き留めている。
「(……今のセリフ、噛みましたね。減点一。あ、今の間も少し甘い。地獄での懲役、三日追加……)」
そんな幻聴が聞こえてきそうな、冷徹極まる視線だ。
異変は、演者だけではない。
ごく普通の落語を楽しみに来た一般の客たちも、完全に戦意を喪失していた。
「なあ……今日の満腹師匠、なんか怖くないか?」
「それより、真ん中のあの人……見てるだけで涙が出てきた。なんだか拝みたくなってくる……」
客たちは、爆笑どころか、「ここで笑ったら不敬罪で消されるのではないか」という本能的な恐怖に支配されていた。客席全体が、まるで巨大な氷の塊の中に閉じ込められたように静まり返っている。
耐えられず、数人の客が途中退席しようと席を立った。
しかし、出口付近に陣取っている和服姿の美女――金吉の式神が、スッと細い指を唇に当て、
「あら……お帰りですの? まだ『審判』は終わっておりませんのに」
という、氷のように冷たくも艶やかな微笑を向けた。その視線に射すくめられた客たちは、幽霊を見たかのように顔を真っ白にして、這うように自分の席へと戻るしかなかった。
一言一言に刺さる冥官の視線は、満腹の文字通り魂と寿命を削ってしまいそうだ。
謎の男たちはクスリともせず、射るような目と、一文字に固く結んだ口で噺を聞いている。
崖っぷちの状態で、なんとか噺を続けていたその時。
満腹の口から、本人も気づかない、ほんの一言の「闇」が口をついて出た。
「……拾った財布の金を使い込んで、夢だったと嘘をつく。ああ、人間ってのは、『嘘をつく自分』に酔うのが一番の贅沢なんですなぁ……」
――ピタリ。
冥官のペンが、止まった。
そして、客席中央に座る背広の男の口の端が、ほんの数ミリ、上へと動いた。
舞台の幕の向こう。暗がりにいたこんぺい太には、なぜかその「微かな、しかし決定的な変化」が、スローモーションのようにはっきりと見えた。
「(……い、今、笑った? いや、違う。『食いついた』んだ!)」
それは「笑い」などという愉快なものではない。
深淵が、深淵を認めた瞬間の、ゾッとするような「闇の共鳴」。
満腹本人は、自分が何を言ったのかさえ気づいていない。
ただ、その一言をきっかけに、寄席の温度がさらに下がり、代わりに客席の怪物たちが、身を乗り出すようにして満腹の「業」を食らい始めた。




