第3話_見えない綻び
火曜の午後一時、墨田区商工会議所のホールには、地元の経営者たちが集まっていた。補助金説明会という地味な催しのはずだが、意外と参加者は多い。
航平はスーツのネクタイを緩め、資料を小脇に抱えて席に着く。智哉の兄代わりであり、工場経営の実務を担う彼の顔には疲労が滲んでいた。
隣に座った悠大が声をかける。
「航平さん、大丈夫ですか? 最近ずっと寝不足ですよね」
「平気だ。今は数字と格闘する時期だからな」
悠大は苦笑する。彼は経営コンサルタントで、智哉たちの工場再建を手伝っている。
説明会の壇上では、補助金担当者が書類申請の条件を説明していたが、航平の視線はどこか遠い。資金繰りが限界に近いことを、彼だけが知っていた。
その時、背後から明るい声が響く。
「Hey, everyone! この街は本当に面白いですね!」
振り向くと、金髪碧眼の男性がホールに入ってきた。ジェレミー——大手出版社から派遣された編集者で、外国人視点で下町を紹介する特集を企画している人物だ。
彼は場の空気を意に介さず、スライドを表示した。そこには「Tokyo Downtown Spirit」と大きく書かれている。
「この街の魅力を、もっと世界に伝えたいんです。特にこの工場群——技術は世界トップレベルなのに、知られていない。だから特集を組むんです!」
拍手が起こったが、航平は苦い表情を浮かべる。
智哉もその場にいた。ジェレミーの話に耳を傾けながらも、航平がやけに口数少ないことに気づく。
「航平さん、何かあったんですか?」
「いや……別に。お前は写真を頑張ってくれ」
その返しはどこかぎこちない。智哉は眉をひそめた。
説明会が終わった後、悠大が耳打ちする。
「智哉くんの写真、展示会に出してみないかって話が来てる。でも……正直、今は経営が厳しいから出展費用は……」
その言葉を遮るように航平が言った。
「後で考えよう。まずは今日の申請が先だ」
智哉は小さく頷きながらも、胸の奥に小さな違和感が残った。自分は工場の窮状を全く知らされていなかったのではないか——。
ホールの外に出た時、ジェレミーが声をかけてきた。
「あなたが智哉? 聞いてますよ、面白い写真を撮る人だって」
「ええ、まあ、趣味ですけど」
「今度、一緒に取材しませんか? 外国人目線で見ると、もっと違う景色が見えるかもしれない」
ジェレミーは人懐っこい笑みを見せたが、その奥に競争心のようなものを感じた。智哉は曖昧に笑い、心のどこかで波風の予感を覚えた。