第1話_雨宿りが導いたシャッター音
梅雨空の金曜、午後六時。浅草寺の境内は観光客の傘で賑わっていたが、本堂の軒下だけは不思議と静かだった。
雷鳴が遠くに響く中、智哉は濡れた石畳にしゃがみ込み、手にしたミラーレスカメラで本堂の彫刻を切り取っていた。黒いカメラバッグを肩に、レンズに滴がつかぬよう傘代わりに自分の体を傾けるその姿は、職人のような集中力に満ちている。
その時、風にあおられた傘が境内を転がってきた。続いて、急ぎ足の女性が小走りに駆けてくる。
「す、すみません、それ私の傘で——!」
振り返った智哉の目に、白のパンツスーツに濡れた髪をかき上げる女性が映る。口元に浮かぶ小さな笑み。声をかけるべきか一瞬迷い、彼はシャッターを押した。
「……今の、撮りました?」
女性が驚いたように尋ねると、智哉は正直に頷いた。
「ええ。すごく……自然な表情だったので」
「え……でも、私、ずぶ濡れで……」
「それでも、いい写真になる顔でした」
そう言って、智哉は撮った写真を背面モニターに映し出す。雨粒がフィルターのように画面を覆い、その向こうに照れたように笑う女性がいた。
「……なんだか、ちょっと恥ずかしいけど、嬉しいです。あ、私、愛乃といいます。フリーマガジン『すみだ日和』の臨時広報で、今日は撮影に来てたんです」
「智哉。実家の町工場を継いだばかりで、写真はただの趣味だったんですけど、ひょんなことで記事写真を頼まれてて」
「偶然……ですね。実は、地域の笑顔を特集してて、写真が足りなくて困ってたんです。もしよかったら、使わせてもらえませんか?」
愛乃はバッグから名刺を差し出す。紙がほんのり湿っていたが、差し出す手は迷いがなかった。智哉は名刺を受け取り、ポケットからスマホを取り出す。
「じゃあ、データは送ります。これ、僕の連絡先」
スマホを交換する間、ふたりの視線が交わる。雨音の中、少しだけ時間がゆっくり流れた。
「……あ、これ、よかったら」
愛乃が小さな紙袋を差し出す。中には、個包装の雷おこしが数個入っていた。
「撮影のお礼です。おこし屋さんがくれた分、余ってて」
「雷おこしって……意外と好きなんですよ、これが」
くすっと笑う智哉の表情に、愛乃もつられて頬を緩めた。
小雨になったのを見計らって、ふたりは並んで本堂の階段を降りる。別れ際、愛乃がふと思い出したように言った。
「そうだ。来週月曜、墨田区の工場特集の取材があるんです。よければ……その、またシャッター、お願いできませんか?」
「こちらこそ。晴れでも雨でも、いい表情が撮れそうな気がします」
そう言って、智哉は再びカメラを構えた。軒下からの逆光の中、愛乃が傘を差し上げ、ふわりと笑う。
その一瞬を逃さず、智哉は指を動かす。
——カシャ。
音が、雨音に溶けて消えた。