人間の尊さ
一クラス分の小学生が、若い女性教師や警備員と共に走っていた。
指定されている避難経路がまだ通行可能な状態であったことは救いだが、それでも子供と一緒ということで逃げることは簡単ではない。
もっと速く走って、泣いちゃダメ、ヘルメットもマスクもそのまま。
子供たちは合理的に動いてくれない。ダメと言ったことをすぐ破ろうとする。
警備員も女性教師も、コンプライアンスに違反しそうな言葉が口から出そうになる。
だがそれでも必死に走っていた。
その背後から、怪人が現れた。
たった一人の怪人が、子供たちが走るより早く近づいてきている。
「……!!」
ここで大人たちの脳内で葛藤があったことを誰が咎められるだろうか、
職務から言えば、警備員も教員も、身を呈して子供たちを守らなければならない。
いや、小学生という子供を守ることは、大人の義務なのだろう。
だがそれでも、老年に差し掛かった警備員と女性教師は葛藤した。
脳内には自分の給与明細と家族や友人がいた。
彼らには仕事だけではなく私生活がある。
他人の子供を守るために命を捨てるべきなのか?
この状況で子供たちを見捨てれば、社会からバッシングを受けるだろう。
だがそれでも死刑になるわけではない。
社会もそれなりの同情をしてくれるだろう。
なにより、自分たちの家族は自分の死を望むまい。
仕事なんて放りだして帰ってきて。そういうに違いない。
そのうえで、泣きながら走っている子供たちを見る。
ああ、ちくしょう。見捨てられるほどの悪人であればよかったのに。
「みんな、いい? 床に緑の矢印が描いてあるでしょう? これをたどって走りなさい。そうすればヒロインの人が助けに来てくれるわ!」
「もういいよと言われるまで、ヘルメットとマスクは外しちゃいけないよ!」
警備員と教師は互いを観る。
いっそこいつが人でなしで見捨ててくれれば、自分もそれに続くことができたのに。
互いに恨めしく思いながらも、二人は怪人に向かって決死の覚悟で組み付こうとした。
「うわああああああ!」
二人とも目を閉じながら悲鳴を上げつつ突っ込んだ。
何の意味もない行動だと悟ったうえでの突撃だった。
案の定、二人は一撃で、まとめて吹っ飛ばされていた。
通路の壁に頭を打ち、出血しながら倒れていく。
意識はあるようだが体は全く動かない様子だ。
「せんせい~~!」
衝突音を聞いた生徒たちは、足を止めて振り向いてしまった。
大人が倒れて、怪人が迫ってくる。
絶望的な状況を直視して、全員の腰が抜けてへたり込んでしまった。
ここで生徒たちが合理的に動けるのならば、何人かが犠牲になったとしても、多くの子供が逃げ切れたかもしれない。
だが子供にそんなことを求めることは、あまりにも酷だ。
「にげな、さい」
大人は最後まで最善の行動をしていた。
しかしそれでもこの状況では、一秒の時間を稼げたのかも怪しい。
その一秒の間に、避難経路の先から、にょろりと蛇が現れた。
一般人が想像する大人の蛇の大きさであり、この状況でなければ逃げたペットとしか思われまい。
だがその蛇は全身の筋肉を使って跳躍しながら前進する。
その大きな口をあけながら怪人に襲い掛かった。
膨張するように巨大化しながら、である。
その異様な光景を、その場の全員が見ていた。
何が何だかわからないまま、蛇は一般的な成人男性の平均値よりも大きい怪人を丸呑みにする。
「ギリギリセーフねえ」
普通の大きさから一気に巨大化した蛇は、ここからさらに裸の人間の女性に変身した。
その全身にはおびただしい量の、動物を模したタトゥーが刻まれている。
タトゥーはアニメーションのように体の表面を動いており、それら一つ一つが活きているかのようだった。
「要救助者ね? 私は……」
その女性は、高校生ぐらいだろうか。
とても落ち着いた様子で、子供や大人に話しかけようとした。
その直後、彼女の体の内側から爆発が生じ、上半身が肉片になりながら四散した。
幸いにして爆発の威力で子供や大人に被害が及ぶことはなかったが、人間の半分の血肉を彼らは浴びることになった。
「……あ~~、びっくりした。何かと思った」
論理的に矛盾しているかもしれないが、彼女は一切傷を負っていないまま立っていた。
ダメージ相応分の肉片がばらまかれたのに、彼女の肉体は無傷だったのである。
特殊なバフにしてHP回復の上位互換、最大HP上昇。
彼女はダメージを受けると相応にHPが削られて、相応に血肉がぶちまけられる。
だが最大HP上昇分が削られない限り、彼女自身の肉体はダメージを受けないのだ。
さながら身代わりの人形を自分の体に内蔵しているようなものだろうか。
理屈はどうあれ、周囲からすれば異様に見えたに違いない。
「あ、えっと、ごほん。安心してちょうだい、私は五等ヒロイン須原紅麻よ。ほら、階級章」
彼女は身分証明書である階級章を口の中から取り出した。
胃液で汚れているそれを、安心させるために提示している。
子供たちも大人も目の前の彼女からぶちまけられた血肉を浴びたまま、パニックが極まって何も言えなくなっている。
「五等ヒロインだからって心配しないでね。私は何を隠そう、スーパーヒーロー、李広の相棒なんだから……あら」
おかわりのように、怪人たちがさらに現れた。
その場の人間たちを一人も逃がすまいと、前方にも後方にも五人以上いる。
倒すと爆発する、拘束しても爆発する。そのまま放置すれば一般人を殺す。
恐るべき脅威に対して、須原は不敵に笑う。
「みんな、安心してちょうだい。私が来たからには、貴方たちにケガ一つさせないわ」
彼女の両腕が、毛むくじゃらになりながら肥大化する。
手や指、腕だった部位が首や頭に変身していく。
「究極猛獣呪紋……食道!」
シルエットは蛇であった。
須原の両腕がネコ科肉食獣の頭部と首に変わり、その首が一気に伸びて怪人たちに襲い掛かったのである。
先ほどと同様に圧倒的なスピードで怪人たちに食いついていく肉食獣は、あっというまに平らげていた。
そして、その口や鼻から爆風がわずかに漏れる。
だがそれ以上は何も起きず、しっかりと消化吸収しているようだった。
「被捕食者も進化している。毒草や毒魚と同様に、自己を爆発させることで同種を襲わせないように献身する種も存在する。でもね捕食者はそれにも対応して進化してきた」
究極猛獣呪紋は多くの地方をめぐって、その土地の頂点捕食者を倒し実績を重ねなければ到達できない力である。
その強みは応用力。
敵に合わせて再現する捕食者の肉体を選択できる。
そして消費者のクラスである彼女は、怪人や怪物を捕食することで体力や魔力を回復しつつバフを得るのだ。
「爆発する獲物を食らうライオン、ハゼジシ。その力をもってすれば、爆発する怪人なんてただの餌よ」
あまりにも鮮やかに怪人から人々を守った彼女は、自分の助けるべき要救助者を勇気づける。
「非常事態に備えて力を蓄えて、必要に応じて使用する。これが人間の力、人間の知恵、人間の強さよ!」
大人も子供も、彼女が何を言っているのかわからなかった。
だが事態は切迫している。
彼らに理解させている場合ではない。
「それじゃあみんな、ここから逃げるわよ!」
ここで彼女の体がさらに膨張する。
今度の変身は大きな口を持つカエルであった。
「みんな、私の口の中に入りなさい!」
彼女の胴体がまるまる巨大なカエルになっていた。
巨大なカエルに彼女の手足が生えている、そんな形態である。
入りなさいとは言ったが、彼女は胴体から生えているカエルの口を大きく開けて、その舌を伸ばした。
そのまま歯のない口の中へぺろりと飲み込んでいったのである。
口内保育。
地球でも魚やカエルが行う、己の子供を自分の口の中に隠す生態。
須原は攻撃のためではなく保護のために、己の体内へ要救助者を匿ったのである。
そしてそれを終えると自分の体を通常の状態に戻し、けふうと息を吐いてから走り出した。
「早いところ要救助者を確保して、アイツに合流しないとね…!」
ベテランである彼女は人命救助も手慣れている。
だからこそ表に出すことはなかったが、それでも慌ててはいた。
「アイツは絶対に無茶をする!」




