十石翼の衣食住
十石翼という少女が赤点を取ったと聞いて、周囲のヒロインはとても驚いていた。
普段の彼女はとても礼儀正しく、身なりもきちんとしている。ホテルマンのような高級接客業についているかのように子供離れした所作を欠かさない。
特に寮での食事はマナーがしっかりしている。食べこぼしも食べ残しも出さない、二重の意味でキレイに食べているのだ。
これで赤点を取ったと聞けば『人は見た目に寄らない』どころの騒ぎではないだろう。
記入漏れや一段ミスなどの間違いがあったに違いないと噂していた。
それほど彼女の所作は美しかったのである。
彼女が人生二週目と言われても誰でも信じるだろう。
そして実際そのような身の上であった。
※
初めての補修を終えた後、十石翼は教育棟の寮にある自分の部屋に入った。
そこは普段の彼女の所作通り、整理整頓、無駄なものもゴミもない綺麗な部屋であった。
そのような部屋に入った彼女は、ようやく赤面する。人様の前で赤面するなどありえないと思っていたからこそ、今の今まで赤面しないよう努めていたのだ。
「旦那様になんと申し上げればよいのだ……」
両親ではなくスキルツリー世界の雇用主にこのことが伝わることを恐れていた。
もちろんどう頑張っても伝えられないのだが、それでも雇用主の名誉に泥を塗る状況であると認識していた。
十石の普段の所作は訓練によるものであり、同時に意識してのものである。
それもスキルツリー世界に入ってからのことであった。
「大恩ある旦那様より全幅の信頼を預けられていたはずがこのざまとは」
ーーー中学生の身でいきなり異世界に飛ばされて、主人公のようになにもかも上手く行く者などそうそういないだろう。
スキルツリー世界に飛んだ当時の彼女は本当に普通の少女であったため、ストリートチルドレン同然の生活を送ることになった。
今まで何不自由のない生活をしていた彼女にとって、その日々はとても辛いものだった。
満たされていたからこそ飢えが辛く苦しかった。
一か月。それだけの日々を過ごして生きていたのは一種の奇跡かもしれない。
そしてそれ以上の奇跡は、彼女がヌカーイという豪商に拾われたことだろう。
珍しい人種の娘が死にかけていたので、ちょっと興味を持った。その程度の理由で拾われた時。彼女のメンタリティはある意味で最適化されていた。
見放されたら自分は死ぬ。
奇跡のような出会いを得たからといって、ここから物語の主人公のようにシンデレラストーリーが始まるなど思っていなかった。
むしろ継母にいじめられていた時のシンデレラのように、滅私奉公しなければならないと理解していた。
男尊女卑とか女尊男卑とかそういう価値観はとっくにそぎ落とされていた。
ヌカーイは男性であったが、媚びを売ること、へつらうことに抵抗はなかった。
彼の機嫌を損ねてはいけない。自分の上司に逆らってもいけない。
規則正しく、礼儀正しく。ノーと言ってはいけない、ハイ分かりましたと言って全力で実行しなければならない。
衣食が足りて礼節を知ると言うが、彼女の場合は順番が逆だ。
まず飢えを知り、その後で衣食を与えられたからこそ、礼節を実行している。
礼節が欠ければ衣食を失う。
ヌカーイへ感謝を覚えたのは、礼節がしっかり身についた後のことである。
そしてその感謝は忠義に変わり、彼女はすっかり忠犬となっていた。
そうなればヌカーイも悪い気はしない。
自分が拾ってやった娘が礼儀正しく成長し、自分に忠義を尽くしている。
因果関係がしっかりしているので不気味さを覚えることもない。
彼は彼女にスキルツリーに触れること、スキルビルダーになることを許した。
裏切るはずがない忠犬を強力な番犬に育てようとした。
それはだいたい成功する。
番犬というには補助的なクラスだったが、成長した彼女の実力はヌカーイにとって満足のいくものであった。
二人の関係に誤解はなく、不均一でもない。
この関係に変化は必要なく、その兆しもなかった。
つまり……彼女がここにいるのは、ヌカーイとの関係が変化したからではないのだ。
※
ヌカーイには娘がいた。
それもただの娘ではなく自慢の娘、トップパーティー『レオン』のメンバーであり、スキルビルダーとしても彼に多大な利益をもたらしていた。
名誉、富、希少な素材。
ただでさえ可愛い娘が、どんどん可愛くなっていった。
そのレオンに事故が起きた。
普段から潜っている超危険地帯に踏み込み、何日経過しても戻ってこなかったのである。
それこそ女尊男卑社会でヒロインに事故が起きるのと同じ理屈である。
どれだけ実力があっても絶対に安全というわけではない。
何かのかみ合わせによって最悪の事態に発展するというのは珍しくないことだ。
きっとヌカーイの娘も覚悟はできていただろう。だがヌカーイには覚悟はなかった。
彼は大金をギルドに持ち込み、救出部隊の編成を願った。
「レオンを……娘を救出する部隊を編成してくれ! 金に糸目はつけない!」
「金額の問題じゃないんですよ。レオンがトップレベルのパーティーであることはご存じのはず。そのレオンですら未帰還の超危険地帯に突入できるのは、同じトップパーティーだけ。もちろんすぐ連絡しても来てくれませんよ」
「それじゃあ娘が今生きていたらどうするんだ!? もしも助けを待っていたら!?」
普段の上品さや余裕は一切ない。自分の娘が死んでいるかもしれないという状況で取り乱す一人の父親そのものだった。
翼は彼に失望しなかった。
彼女の価値観からしてもヌカーイの振舞はまっとうであった。
むしろ彼のために自分が何もできないことを悔やむほどだ。
もしも自分に力があれば。その危険地帯に踏み込んで生還できるだけの能力があれば。
可能性を生じさせる力があれば、迷わず突っ込んでいただろう。
だが彼女にその可能性はなかった。
どう対策を積んでも無意味に死ぬだけだった。
それは余りにも客観的で、だからこそヌカーイも彼女に何の指示も出さなかった。
「なんでもいい、なんとかしてくれ!」
「一人だけ、一人だけ、この救助任務を達成できるかもしれない男がいます。ただ、その、本人の性格的に請け負うとは思えないのです」
「ソイツを呼んでくれ!」
そうして呼び出されたのが、狂気のソロ殴りヒーラー李広だった。
ギルドの職員が呼びたがらなかったことが納得なほど、彼の態度は悪かった。
同郷だからこそ、十石には彼の粗野さが信じられなかった。
そして恩人であるヌカーイを罵倒することには激怒すら覚えていた。
「なんで俺がお前の娘を助けに行かないといけないんだ! そんなの俺の仕事じゃねえ! 俺はな! 状態異常を得意としているモンスターをぶっ殺すのが大好きなんだよ! それ以外の仕事は受けてないの!! わかる!? 金にも困ってねえの! なんでそんな仕事を引き受けると思うんだ!!」
冷静になれば彼の主張は間違っていない。
彼には仕事を選ぶ権利があるのだし、能力的にも達成が困難であることは明白だ。
態度はともかく断られても仕方のないことである。
「お願いします、お願いします! いくらでもお支払いしますので! なにとぞ、なにとぞ!」
「ん~~……ま、まあしょうがねえな。いいぜ、遺品ぐらいは回収してきてやるよ」
だが当時の広はとても調子に乗っている時期だった。
同郷の女子を従えている自分よりも年上の男性が惨めに乞う姿を見て気分が良くなったのだろう。
なんとも最低な理由であったが、それでも彼は救出任務に赴いたのである。
それから三日後。
トップパーティーであるレオンとともに広は帰還した。
広はソロ時代の経験を活かし、スカウト系さながらのスニーキング移動で危険地帯を通過していた。
強大なモンスターに発見された時は他のモンスターとぶつけたり、その強大なモンスターでも近づかないような汚染区域に篭ることで難を逃れた。
そして強力な石化モンスターと刺し違えていたレオン……石化していたパーティーメンバーへ回復アイテムを使用し復活させた。
レオンに合流した後は彼らに護送される形で生還を果たしたのだ。
そこまで聞けば彼の優秀さが分かるだろう。幸運も手伝っただろうが、彼以外に達成できたとは思えない。
しかし彼からすれば、苦い思い出の再演に他ならない。
「お、おお! ありがとう、ありがっ!?」
「よくも下らねえ仕事をさせやがったな!」
苦難の末に圧倒的な強者になったはずだった。
今の自分は連戦連勝、無人の野を行くが如し、危険なモンスターを鎧袖一触に蹂躙していく強者のはずだった。
それが逃げて隠れて潜んで、あげく女に護送されてしまった……と。まるで以前のまま、弱いままのようではないか。
「ち、父上になにを!?」
「うるせえ! 俺を守って気分は良かったか!? 俺はただただ不愉快だったぞ! こんな仕事を受けるんじゃなかった!」
当時の彼は自分の能力を認め切れずにいた。
だからこそ激怒し、依頼人に当たり散らしていた。
任務を達成した後で暴力を振るい、感謝の言葉も聞かず、頭から湯気を出しながら去っていった。
※
当時のことを思い出して、十石はやはり納得する。
(自分の接客態度が悪かった、感謝などされているわけがない……と思うのも無理はない。当時の私も恩人だからこそこらえたが、正直怒鳴りつけたかった)
この女尊男卑世界では、人命救助する側に極端なほど健全さが強いられている。
その基準で考えれば広の振舞は炎上に値し、功績がなかったことにされ業界を追放されるほどだった。
今の広が自分を省みるだけの余裕を持っているのなら、昔の自分が感謝されるようなものではないと考えても不思議ではない。
だがヌカーイはそうではなかった。
本当の本当に感謝していたのだ。
その気持ちを伝えられないことに罪悪感を覚えるほどだった。
【冷静になって考えれば……彼に依頼すること、それ自体がどれだけ迷惑なのかわかる。それを成し遂げるために死線をくぐり続けたことも……】
【私は殴られて当然だ。娘が大事ならば危険な場所に向かうこと自体を止めるべきだったのだ】
【翼。私はお前に多くの投資をした。お前は私の持つ戦力の中で、もっとも価値が高い。そのうえお前は同郷だ。彼の傍にいるのならもっとも都合がいいだろう】
【お前に命令する。彼の傍で彼を守れ。私を守るように彼を守れ。私の代わりに彼を守れ。彼の手足になってくれ。そして恩を返してくれ】
ヌカーイからの請願に彼女は応じた。
ヌカーイの役に立てるのならばと、迷いなく彼の元を離れた。
彼がスーパーヒーローになり接近することに時間を要してしまった。
だがこれからは主命を順守できる。
(旦那様……これから、必ず、彼と共に戦いまする。どうかご安心を)
あくまでも礼儀正しく、彼女はヌカーイに誓いを捧げていた。




