あとはおまつり、楽しみましょう
『早川名人さん、天元、十段に続いて本因坊位まで獲得してしまうwwwwww』
1:名無しの碁打ちさん
早川九段の獲得タイトル一覧
女流棋聖、女流名人、女流立葵杯、女流本因坊、名人、天元、十段、扇興杯、本因坊←New!
どうすんの、これ
2:名無しの碁打ちさん
バケモン過ぎて草
3:名無しの碁打ちさん
>>1
新人王戦も追加で
6:名無しの碁打ちさん
これのどこが早碁女王だよ
10:名無しの碁打ちさん
>>6
むしろ竜星戦も阿含桐山杯もNHK杯も優勝は逃してるからな
23:名無しの碁打ちさん
それでも年間勝率8割超えはやば過ぎる
25:名無しの碁打ちさん
>>23
女流棋戦でほぼ無敗なだけだから・・・(震え声)
30:名無しの碁打ちさん
>>25
ヤバさが増した件について
44:名無しの碁打ちさん
これだけ強けりゃ国内には敵なしだよな
やっぱ噂通り韓国棋院に移籍するのかな
56:名無しの碁打ちさん
日本の棋士がだらしなさ過ぎるんだよ
10代の女の子にここまでやられて恥ずかしくないの?
60:名無しの碁打ちさん
中国リーグや韓国リーグでも五分くらいには戦えてるし・・・
75:名無しの碁打ちさん
マジで誰かこいつを止めてくれ
他に有望な奴いないの? 関西棋院とかに
80:名無しの碁打ちさん
いたら、とっくに活躍してるんだよなあ
88:名無しの碁打ちさん
歴史を遡ったとしても日本最強棋士でしょ
92:名無しの碁打ちさん
>>75
雨宮かさねがいる
93:名無しの碁打ちさん
>>92
はあ?
95:名無しの碁打ちさん
雨宮かさねって、今年プロになったばかりの?
98:名無しの碁打ちさん
>>92
こいつ横山八段じゃね?
101:名無しの碁打ちさん
>>92
雨宮かさねがいるwwww
あの成績見て、どうしたらそう思えるんだよwww
104:名無しの碁打ちさん
そもそも公式戦じゃ、まだ1勝しかしてなくない?
107:名無しの碁打ちさん
>>92
横山八段、おすすめのプロテイン教えて
110:名無しの碁打ちさん
でも非公式の特別対局では早川名人に勝ってたよね
115:名無しの碁打ちさん
>>110
あれは名人が手を抜いてたんだろ
逆コミ6目半のハンデありだし、幼馴染に花を持たせたんだろ
121:名無しの碁打ちさん
つーか、あの対局の打ち方めちゃくちゃ過ぎん?
あれで負けた早川名人のほうもどうかしてるよな
125:名無しの碁打ちさん
解説の瀬川七段もずっと困惑してて駄目だった
130:名無しの碁打ちさん
やっぱこれからは早川一強時代になっちゃうのかな
メディアが取り上げてくれるのはいいけど、それじゃ面白くないよな
134:名無しの碁打ちさん
天才はもうひとり必要なのじゃよ、もうひとりな
――――――――。
あいつと出会った日のことを思い出していた。それはもう忘れたはずの、遠い記憶。
……いや、忘れるために何度も努力した。でも忘れられなかった。
知り合いの伝手で関西のプロ棋士にも師事し、関西棋院の院生になって本気でプロになろうと思ったのだから。
だけど、そんな想いは高校1年生の冬に捨てた。関西棋院では院生手合での成績によってプロ入りできるが、その道は俺には2歩も3歩も届かなかった。
それから高校を卒業し、もう大学生になった。そろそろ将来のことを真剣に考え始めないといけない時期だ。
それでもなお、あの頃に思い描いた夢を捨てられない。
そして、それ以上に、俺に初めて挫折の気持ちを味合わせた雨宮かさねという女のことが忘れられないのだ。
あいつがプロ棋士になったとインターネットで知ったのは、ほんの2、3ヶ月前のことだ。
だけど、それ以来、あいつの動向は可能な限り追っている。早川名人との対局も、俺にはなんとなく意図が分かる。
乱戦狙いの名人に対して、何がなんでも戦いを封じ込めようという戦い方だ。
別にあいつはふざけてそんな打ち方をしたわけじゃないし、名人だって手を抜いていたわけじゃない。
つまりお互い本気で打ったうえで、あいつの、――雨宮の3目半勝ちだったのだ。
俺には分かる。俺(と横山八段)だけには分かる。あいつは間違いなく天才だということが――。
「翔ちゃあぁあああああああん!!!」
「うわぁ!? なんだなんだ!!」
ソファーで横になりながら微睡みに落ちていた俺を、物理的に床に落とす女がひとり。
この無駄に身長が高くて短い茶髪の女の名前、宮田まなみ。
高校の頃の同級生で、今は同じアパートで暮らしている、俺の彼女だ。
俺が夢破れてもなお、大阪に留まっているのはこいつがいるからでもある。
少々騒がしい奴だが、普段はこんな乱暴な起こし方はしない。床に寝転がったまま、俺は何事かと彼女を見上げた。
「もう、翔太! 翔ちゃんってば! やっと起きた!!
さっきから揺さぶってんのに、全然起きへんねんもん。
そんなに、かさねって女との、楽しい夢でも見てたん!?」
「はあ? お前一体何言ってんだよ。
つーか、腰打ったじゃねえか。いてててて……」
雨宮のことは、こいつには一度も話したことはない。だから『かさね』という名前が出てきたことには少々驚いた。
だが、今はそれよりも、この腰の痛みをどうにかするほうが先のようだった。
俺はこれ以上、腰を痛めないように押さえながらゆっくりと立ち上がった。
「だって、翔ちゃん、ずっと寝ながら『かさね、かさね』って呻いてたんやもん!
浮気なんて許さへんで!? 一体どういうことなんか説明してもらうで!?」
「かさね……? ああ、そういうことなら――」
俺はリモコンを手に取ってテレビの電源を入れる。そして、すぐさま録画していた昨日のテレビ番組を再生する。
そこには『夏休み囲碁スペシャル。新人女流棋士VS囲碁YouTuber!』というタイトルが表示されている。
「ちょっと! また囲碁!?
もうほんまに、翔ちゃんは囲碁のことばっか! 大事な話の途中やで!?」
「いいから黙って観てろよ。すぐに分かるから」
喚くまなみの顔を右手で押さえながら、無理矢理テレビのほうに顔を向けさせてやる。
録画が始まってしばらくすると、それぞれ浴衣を着た男性の棋士がひとり、女性の棋士がふたりが現れ、視聴者に向けた挨拶をした。
日常的でどうでもいいくだらない話を交えたあと、今回の企画の説明をするということで、同じく浴衣を着たゲストの女性ふたりを呼んだ。
ひとりは囲碁のインストラクターをするとともにYouTuberもしているとかいう女で、もうひとりはプロ入りしたばかりの雨宮かさねだった。
つまりは、このふたりが囲碁の対局をする様子を見ながら、他のプロ棋士たちが好き勝手なことを言い合うという企画である。
「今回、雨宮初段はテレビ出演も初めてだということで。
どうですか、緊張されていますか?」
「うーん、緊張はしていますけど、囲碁を打つだけなので。
対局が始まったら全然平気だと思いますね。ふふっ」
「雨宮初段は生まれたときから東京住まいで、早川名人とは小学生の頃からの――」
そこで俺は録画を停止した。ここまで見せれば十分だと思ったからだ。
「な? 分かっただろ?
かさねってのはプロ棋士の名前。ソファーで横になる前にこの番組を観てたんだよ。
それで変な名前だと思ってたから、多分寝言で呟いてたってわけ」
「そ、そういうことやったの? でも、この女が浮気相手かもしれんやん!」
「おいおい、相手はプロ棋士だぞ? それに中学の頃に関西のプロに弟子入りしてから、俺はずっと大阪住みだっての。
東京の女と知り合う機会なんてねえよ。いくら囲碁ってつながりがあるって言ってもな」
そこまで言ってやると、ようやくまなみは納得してくれたようで、泣きながら抱きついてきた。
「ごめんな、翔ちゃん! 堪忍してや!
翔ちゃんは私一筋やもんな? 信じられへんくて、ほんまにごめん!」
「どうどう。分かってくれたならいいって。愛してるよ、まなみ」
「うん、私も翔ちゃんのこと、愛してる!」
やれやれ、まるで犬みたいな女だな。まあ、そういうところがかわいいんだが、少し厄介だ。
この前だって部屋に日焼け止めクリームがあったくらいで、別の女を連れ込んだと勘違いしやがって。
それは単純に俺の持ち物だっての。メンズ用って書いてあるのが読めないのかよ。
そんな感じで、まなみが訳の分からないことを喚き散らかすのは、いつものことだった。
……ただ一点、俺は嘘を吐いた。俺は、この雨宮かさねという女のことをずっと前から知っている。
やましいところは何もないが、変な勘繰りを入れられたくなくて、知り合いではない風を装ったのだ。
実際は向こうも多分、ぼんやりくらいには俺のことを覚えているのではないだろうか。
それから俺たちはお詫び(?)ということで、商店街にデートをしに行くことになった。
まなみが言うには、今日は商店街のほうでお祭りか何かがあるらしい。
それにしても、まなみは機嫌が悪くなるのが早ければ、直るのも早い。
すっかりウキウキな様子で、どの服を着ていくか迷っているようだった。
「お互いの部屋着まで知ってるのに、今更服なんか気にする必要あんのか?」
「こういうのは気分やねん! 翔ちゃんは黙っといてや!」
俺はやれやれと肩を竦めるばかりであった。
「――それにしても、かさちゃんって浴衣がよく似合うよね。
昨日テレビで観たときも思ったけどさ」
「昨日?」
「昨日出てたじゃん! NHKの囲碁番組に!」
「ああ、囲碁YouTuberの三浦ジュリアンヌさんと対局したときの。
あれって昨日が放送日だったのね」
大阪の町をさきちゃんと浴衣姿で歩きながら、そんな話をした。
どうやら日本棋院は私を『美人過ぎる囲碁棋士』として売り出したいらしく、プロ入りしたばかりの私に囲碁番組への出演を勧めてきたのだ。
初めは断ろうかとも思ったが、まあ水着姿になってくれとか言われてるわけではないし、別にいいかと思った。
それに正直なところ、まだ対局数も少ない新人の私にとってはテレビ出演は貴重な収入源だった。少し悩んだあとに、私は出演を決めた。
「本当はかさちゃんに電話しようかとも思ったけど、今まさにテレビに出てるところだしなーと思って」
「……うん、あの番組は録画放送だけどね?」
「それで必死に応援しちゃったよ。『かさちゃん、頑張れー!』って」
「録画だけどね?」
「そうしたら見事かさちゃんの大勝利! 私の想いが届いたんだね!」
「録画だってば」
……まあ電話をしてきたらしてきたで、「ネタバレしないでね!?」とか騒がしかったに違いない。
そういう意味では貴重な休日のお昼に、ゆっくりと休んでいられたのは幸運なことだったのだろう。
今日は大阪のお祭りにゲストとして参加する日だから、体力が温存できたのはありがたい。
「なあなあ、あれって早川名人ちゃう!?」
「え、囲碁棋士の? コーラのCMに出てる子!?
ってか、隣の子もめっちゃ美人やん!!」
さっきからすれ違う人々がちらちらとこちらを気にしているようだったが、明確に意識している人はこれが初めてだった。
女子高生とみられる女の子たちが遠巻きに騒いでいる。やれやれ、さきもすっかり有名人ね。
ニュースでも大々的に取り上げられて、有名飲料水のCMにも出ていれば、仕方のないことなのだろうけれど。
「さき、噂されてるわよ」
「うん、そうみたいだね。
こんにちはー、囲碁棋士の早川さきでーす! ご声援ありがとうございまーす!
美味しさ爽快、コケ・コーラ!!」
さきは声がするほうに向き直って、満面の笑みでCMと同じようにコーラを飲むような仕草をしている。
CMを企画した人も、まさかここまでノリノリでやってくれるとは思っていなかったに違いない。
「きゃー! 本物やー!」
「めっちゃかわいー! 応援してますー!!」
……はあ。囲碁棋士ってミーハーの相手もしなくちゃならないのかしら。
どうせあいつら囲碁のルールすら知らないでしょ。
「あ、いたいた。しげちゃん、おっはよー!
スタッフの皆さんもおはようございますー!!」と、さきちゃん。
そして私もさきちゃんとともに、スタッフ(――おそらく商店街の人だろう)の皆さんに「おはようございます」と挨拶をする。
そこに聞き馴染みのある不愉快な声が返ってきた。
「おはよう、さき! ……あとついでにかさねも」
「ついでって何よ。私がついでなら、あんただってついででしょ。
今日の主役はさきちゃんなんだから」
商店街の片隅に、私たちの控室としてイベント用のテントが設営されていて、そこには倉橋茂美とかいう不愉快な女がいた。
彼女もまた、私と同じくプロ1年目の新人囲碁棋士だ。ただ、院生として一緒にいた頃から、どうにもこいつは気に食わない。
言動も仕草も、すべてにおいて腹が立ってくる。……そりゃまあ、なんだかんだ付き合いは長いし、友達だとは思ってるけど。
「会って早々、喧嘩しないでよ、ふたりともー。
それに別に私が主役とかないって。今日はただ、商店街で指導碁をするだけなんだから」
「でもさー、こんなしょうもないイベントに、今や女流タイトル五冠、七大タイトル四冠のさきまで、どうして出なくちゃならないのかしら」
「し・げ・み? 周りでスタッフが作業してるから。多分聞こえてるから」と、私。
「聞こえてたっていいのよ。もう二度とこんなイベントに呼ばないようにしてもらわなくっちゃ。
ただでさえ、さきは対局で忙しいのに。こんなところで体力消耗しちゃって、どうすんのよ」
やっぱり茂美はお子様だ。少しくらいは体面を気にしたらいいのに。周りのスタッフも苦笑いを浮かべている。
まあ、私としても『囲碁界の仲良し3人組』という扱いで、茂美と一緒に呼ばれたらしいことには不満があるけれど。
ともかく今回のイベントの趣旨はこうだ。
この大阪の商店街を中心に、町内会が納涼夏祭りを行うのだが、例年人の集まりがどうにもよくない。
河川敷のほうで行われている花火大会と時期が被っているせいもあるのだろうけれど、町内会としてはどうにか商店街に人を呼び込みたい。
ということで、最近メディアでの露出も増えてきているさきに、盛り上げ役としての白羽の矢が立ったのだ。
そして、そのついでに仲のいい囲碁棋士も連れてきて欲しいとのことで、町内会の指名で私と茂美が参加することになった。
さきちゃんは普段からインタビューなどで、仲のいい相手として私と茂美の名前を出してくれているから、それで町内会も知っていたのだろう。
そんなわけで私とさきちゃんは、公民館の一室を貸してもらって浴衣に着替えてきた。
そして、先に現地入りしていた茂美(もちろんこいつも浴衣姿だ。妙に似合っているのがむかつく)と合流したところである。
企画の内容としては、このアーケード商店街、つまり天井のある商店街で私たち囲碁棋士がお客さんを相手に指導碁を行うということだ。
指導碁というのは読んで字の如く、上手が下手を指導するための対局である。つまり普通は本気で勝ちに行くことなどせず、相手が上達できるように上手く導く。
また、それだけではなく、お客さん同士で囲碁の対局ができるスペースも用意されている。
商店街の真ん中にずらりと並べられた碁盤は圧巻だが、企画の内容としてはなんとも地味だと思う。
第一、実際に指導碁を受けるのは最低でも囲碁のルールが分かる人だけだし、集客効果もそれほどないのではないか。
なんというか、あまりにもさきちゃんのスター性に頼り切りではないかと思う。でも、それを口にするほど私は子供ではないつもりだ。
とは言え、さきちゃんはかわいいからなあ。自分で言うのもなんだけど、私と茂美も一部では美人棋士とか言われてるし。
浴衣を着た若い女性が商店街の入口のほうにいるだけでも、十分華になるという判断なのだろう。
……あとは町内会のお偉いさんの趣味か。なんにせよ謝礼という形でお金ももらえるし、仕事のつもりで頑張らないと。それに――、
「私たち囲碁棋士の本分は、ただ囲碁を打つことだけではないわ。囲碁の魅力をより多くの人に伝え、囲碁を普及させることも求められているの。
週刊碁の休刊や本因坊戦の縮小も決まって、囲碁界は今後さらに衰退していくと予測されているわ。
いくらさきのような、今を煌めくスター棋士がいても、それだけではどうにもならないこともある。
私たち囲碁棋士がひとりひとり思いを込めて、囲碁界を支えていかなくてはならない。
茂美、もちろんあんたもその一員なんだから棋士としての自覚を持って――」
「あーもう、うるっさーい!! 同期同段同い年!!
上から目線で説教するのはやめてよー!!」
耳を両手で塞いで喚く茂美。本当に子供っぽい。
「同期って言っても、あんたは女流試験での採用でしょ。
私は男女混合のプロ試験を通ってきてるのよ?」
「それ今関係ありますぅ? プロ試験さえ受かれば、おんなじ囲碁棋士ですぅー!!」
同期がどうとか言い出したのはそっちじゃないのよ。あと私はあんたに公式戦でも勝ってるし。
……って、いけないいけない。こんなこと言い出したら、大人げないのは私のほうね。
「まあまあ、そのへんにしておこうよ、ふたりとも」
間に割って入ったさきちゃんが、私を諭すように人差し指を立てる。
「それに、かさちゃんの言ってることも分かるけどさ、あんまり気を張り詰め過ぎるのもよくないと思うよ?
真剣試合じゃない場ではさ、私たちも全力で楽しんだほうがいいと思うんだ。
私たちがあんまりピリピリしていると、きっとお客さんも十分に楽しめないんじゃないかな。
囲碁の楽しさを知ってもらうためには、まずは私たちが楽しまないとね?」
「「さき……」」
と、私と茂美の声が不意にハモった。
「ま、私にとってはいい気晴らしになるしね! 対局続きでふたりと遊ぶ時間もなかなか取れないし、いい機会だよ。
かさちゃんもしげちゃんも、私と一緒に夏祭りを楽しもうよ!!」
……最近のさきはまるで肩の荷が下りたような顔をよくしている。
プロ試験本戦の前に打ち明けてくれたように、ずっと孤独を恐れていたのだろう。
今にして思えば、随分と長い間、さきを待たせてしまったような気もする。……私の人生をめちゃくちゃにしたことは、まだ許してないけど、ね。
だけど、私も茂美もようやくプロになれたのだ。これから先は、今まで一緒にいられなかった分、彼女と一緒にいてあげるべきなのかもしれない。
「あっ! あかん、財布家に忘れてきた!」
商店街に向かう道すがら、まなみが突然そんな素っ頓狂な声をあげた。
おいおい、服装のことばっか気にしてるから忘れるんだろ。
まあ、こいつのおっちょこちょいは今に始まったことではない。俺は努めて冷静に応える。
「なんだよ、別にいいよ。今日は俺がなんでも奢ってやるよ」
そう優しく言ってやれば、まなみも素直に納得してくれるだろう。そう思ったのだが、
「何言うてんねん! 翔ちゃんの金で払ったらポイント付かへんやん!!
関西人はポイント稼ぎに命懸けてるねんで! 知らへんのか!?」
「知らねーよ。俺、関西出身じゃないし」
呆れるように苦笑いする俺。別に怒ってるわけじゃねえぞ。
これはただ関西人のボケに対するツッコミであって――、
「もうええわ! 家まで財布取りに行くから、翔ちゃんは先行ってて!」
そう言い終わる前に、まなみはすでに今来た道を全速力で引き返していく。
「ええ……」
取り付く島がないとはこのことだ。しかも、あいつでかいくせに体力ないから、あの調子じゃ絶対途中で息切れするだろ。
ここから家まで往復20分くらいだが、まあ30分は帰ってこないな。さあて、ひとりでどうやって時間潰すか……。
そこからさらに5分ほど歩いて、ようやく商店街につく。
普段は近所のスーパーに行っているから、このあたりに来るのは久しぶりだった。交通の便もあまりよくないしな。
それにしてもいつ見ても、昭和の臭いを感じる古ぼけた商店街だな。普段は年寄りしか立ち寄らない場所だ。
しかし、今日はお祭りということもあってか、浴衣を着た若いカップルなども見かける。
商店街の入口のほうには、学生やサラリーマン風の姿もあって、人だかりができており――。
……いや、待て。いくらなんでも人が多過ぎないか?
しかも、本当に商店街の入口付近だけが大きく膨れ上がっているような感じだ。
遠目にはそこで何をやっているのかは分からない。お客同士で楽しそうに会話している様子が見えるだけだ。
もしかして何か見世物でもやっているのだろうか。そうであれば、時間潰しにちょうどいい。
俺はその人混みをかき分けて、その中心で何をやっているのか見に行くことにした。
そこには商店街のど真ん中で碁盤を囲んでいる人たちがいた。
……え。まさか、あれは早川名人か……? いや、見間違いなんかじゃない。
なんで名人がこんなところで碁を打っているんだ? それに少し離れたところにはいくつも別の碁盤が並べられていて――。
ひ、暇だわ……。めちゃくちゃ暇だわ。
私のような新人棋士が指導碁をしたって、人が集まるはずないだろうとは思っていたけれど、予想以上に誰も来なかった。
イベントが始まってから30分、本当にただ座っているだけだった。
見れば、茂美のほうも同様であった。……こんなことで、あんたと思いを共有したくはなかったわね。
その一方で、数十メートル離れた席で指導碁をしているさきちゃんのほうは大盛況だ。
対局コーナーで打っているお客さんたちでさえ、さきちゃんのほうをちらちらと見ている有様だ。
「ほっほう、ノゾキにつながず出の選択ですか。
いい手ですねぇ、後藤さん。気合入ってます。それじゃあ、こちらも遠慮なく攻めさせていただいてっと。
……あ、サインですか? もちろんいいですよ! どうしましょう、お名前入れさせてもらったほうがいいですか?
はいはい、それじゃあ鈴木さんへっと。……お、またまたいいところに打ちましたね、後藤さん。じゃあ、こう返したらどうします?
あ、サイン希望の方は一列に並んでくださーい! お祭りの邪魔にならないよう、ご協力お願いしまーす!!」
……え、すご。あの子、指導碁打ちながらサイン会開いてるじゃない。
なんなの、あの対応力。ふざけてるの? あいつのアイドル力には勝てる気しないわね。
いや、私たちは棋士なんだから、別に碁盤の上で勝てればいいのだけれど――、
「あ、雨宮ッ!?」
「は、はいッ!?」
突然、男の人に大声で名前を呼ばれた。そのうえ、見上げればすぐそこの距離でだ。
と思ったら、その人は急にトーンダウンして呟くように続けた。
「――っ、しょ、初段……」
「あ、はい……。私は雨宮かさね初段ですが……」
その男の人はどうやら、さきちゃんのほうの人だかりのほうから歩いてきたみたいだった。
な、何かしら。知らない顔だけど、多分囲碁ファンの方よね。でなければ、私の名前を知ってるわけないし。
でも、それにしてはやけに驚いたような顔をしているのが気になる。何よ、幽霊に会ったみたいな顔して。
その声の主は、ちょっとスポーツ少年みたいな気が強そうな男の子だった。
年齢は私と同じか、あるいは多くても3歳差くらいだろう。……って、あれ? 前にもこんなこと思ったことあるような???
記憶の深淵を探ってみるが、どうにもすぐには思い出せそうにはなかった。
いずれにしても、ちょっと怖い。急に大声出すし、見た目は結構いかついし……。
でも、プロ棋士として、ちゃんと対応しないといけないわよね。……うん、笑顔笑顔。
「ええっと、指導碁希望の方、ですよね?
どうもこんにちは。今空いてますので、どうぞ席におかけください」
「なるほど、イベントで指導碁をやってるのか……。
あ、いや、俺はたまたま通りがかっただけですし……。
それに受付とかも済ませてないんで、その、」
「今回のイベントでは参加費は無料なんです。受付も必要ありません。
お急ぎでしたら無理にとは言いませんが、またとない機会だと思いますよ」
実際、プロ棋士の指導碁が無料のイベントというのは結構珍しいと思う。
その分、今回は町内会の人たちにお金をもらっているわけだけど、普通はそれでも有料だろう。
だけど、私の勧めに対して、その男の人、――いや、男の子はなんでもないかのように言った。
「俺、関西棋院の元院生で、プロ棋士にも師事してたんで、プロとは数え切れないほど打ったことありますよ」
「あら、これは失礼しました。お会いしたことはないですよね?
私は日本棋院の院生でしたし、それに――」
プロ試験でも見たことがない。……と言いかけたけど、それは失礼になるかもしれないと思って口を噤んだ。
『関西棋院の院生をやめたあと、日本棋院の外来予選を受けたが、本戦には進めなかった』という可能性もあったからだ。
ただ、日本棋院と関西棋院は別組織であり、プロ試験の仕組みも全然別で、基本的には面識がなくても当然のことのはずだ。
……なのに、私はどうして、彼のことを見たことがあるような気がするのだろう。
「でも、いい機会ってのは確かですね。
連れを待ってて暇なんで、一局お願いしてもいいですか?」
彼はそう言いながら、私の目の前の席に座った。
「あ、はい……。分かりました。
関西棋院の元院生なんですよね。それじゃ、二子置いてください」
指導碁は基本的にはハンデありで打たれるものだ。
とは言え、もし彼が院生のトップクラスだったのなら、正直なところ二子では厳しいかもしれない。
でも、指導碁なのだからハンデをつけないわけにはいかない。だから、それは私としては当然の判断だったのだけど、
「互先じゃ駄目ですか?」と返された。
「す、すみません、あくまでこれは指導碁ですので……」
「じゃあ、間取って定先で。俺、置き石なしで黒が持ちたいんです」
定先の対局とはつまり、先番の黒が盤上で有利であるにもかかわらず、後番の白に与えられるコミ6目半がないということだ。
コミとは盤面での後番の不利を解消するためのものだ。それがないということは、現代の囲碁においては、確かにハンデ戦という扱いにはなる。
定先か……。一瞬悩んだが、お客さんがそれを望むなら、私はそれに応えるべきなのかもしれない。
それに彼の目はまるで真剣勝負に挑むかのように、熱がこもったものだった。
しかし、何故だろう。その真剣な表情には、私への執着のようなものも感じる。……まさか私のファン? なんてね。
「そうですね、分かりました。
正直なところ、私の力もプロになってまだ1年目ですし、ほとんど院生と変わらないくらいだと思います。
院生クラスのお力があるなら、定先で行きましょうか。あ、それから、もしよろしければ、お名前を――」
「よろしくお願いします!」
「えっ、よ、よろしくお願いします!」
その男の子は対局の挨拶をするなり、すぐさま一手目を打った。
こちらの話をあまり聞いていないような気がするし、やっぱりちょっと怖い。
でも、指導碁が始まったからにはそんな恐怖心なんてゴミ箱行きだ。
個人的な感情に振り回されるようでは、一人前のプロ棋士だなんて言えない。気持ちを切り替えろ。
彼の一手目は、右上隅小目。おそらくプロ棋士が最も好んで打つ一手だ。
星よりも隅に近い分、地を作りやすいのがメリットだ。一方で、星よりも複雑な展開になりやすいのはデメリットとも言える。
私はそれに対して、左下隅の星に打つ。すると、彼は左上隅の小目に打ってきた。いわゆる向かい小目というやつだ。
プロの手合でもよく出てくるスピード重視の有力な布石だが、やはり複雑な展開になりやすい。
対して私は右下隅の星に打つ。それから黒が右上隅に二間ジマリを打って、白が左上隅に一間高ガカリを仕掛ける。
これに対し、ツケヒキ定石で進行し、白の私は黒の二間ジマリにケイマの手を打った。
このツメが白にとっての絶好点だ。しかし、もちろん黒が悪いわけではなく、ここまでは五分の展開だ。
ここで黒は左上隅白に対して、三々に入る。ダイレクト三々と呼ばれる、今ではもう珍しくないAI流の一手だ。
だけど、私は初めて、この一手を見たときに酷く驚いた記憶がある。あれは一体いつのことだっけ。
……ああ、そうだ。あれは少年少女囲碁大会に出場したときのことだ。
東京都予選の1回戦にいきなりそんな手を打たれたものだから、余計に記憶に残っていたのだ。
懐かしいな。確かあのとき打った相手も、今目の前にいるスポーツ少年のような男の子で……?
あれ……? 左下隅の地を黒に取られた代わりに、下辺に白の模様ができる。
あれ……? 私が右下隅にケイマで構えると、黒は上辺に打ち込む。
あれあれ……? そこから激しい戦いが始まって、右上隅には黒の地が、上辺には白の地がついて……。
あ、れ……? この碁、どこかで、見たことが、ある、ような気が……。
い、いや、別にさほど珍しい布石じゃない。これまで何千何万局と打ってきた中で、一度くらいは打ったことがあっても不思議じゃない。
だけど、この布石……、どこかとんでもないところで、打ったことがあるような……?
そう、これはまさにあのときの布石と完全に一致しているのだ。
互先と定先というハンデの差はあれど、石の並びは全く同じ。
あのときの、少年少女囲碁大会東京都予選の1回戦のときと、全く一緒の展開なのだ。
私の手が止まる。別に悩むような場面じゃない。私は必死に思い起こそうとしているのだ。
あのときの、対局相手の彼の名前ってなんだっけ……?
そうだ、私は確実に見ているはずなのだ。学年までは書かれていなかったけど、あのとき確かに名札は見た。
確か「岡」で始まる名字だった気がする。岡部、岡村、岡島、岡崎……。
いや、違う。そんな名字じゃなかった。もっとシンプルな漢字だった気がする。
思い出せ、思い出せ……! 彼の名前はなんだった!? 頑張れ、私! あともう少しで思い出せるはずよ!!
そう、彼の名前は――、
「岡田、翔太くん……?」
記憶が、口から零れ落ちていた。私ははっとなり口を押さえたが、その声はしっかりと彼の耳にも届いているようだった。
彼もまた、はっとしたような表情を浮かべて、じっと私の顔を見つめていた。
「あ、すみません! なんだか昔、大事なところでこんな碁を打ったような気がして!
そのときの対局相手の名前が、ついポロリと……!!」
慌てて顔を伏せる。一体何を言っているんだろう、私は。
いくらあのときの男の子の面影があるからって、いくらあのときと全く同じ布石だからって、あのときの彼が目の前にいるなんて、そんな偶然あるわけない!
そう、これはただの偶然なんだ。それなのに、私ったら変な混乱を起こして取り乱して――、
「雨宮初段……。いや、雨宮……。俺のこと、やっぱり覚えていてくれたんだな。
そうだよ、俺はお前が小学6年生のとき、少年少女囲碁大会の東京都予選の1回戦で対局したスポーツ少年だよ。
……はは、あのときは囲碁に必死でスポーツなんか全然やってなかったんだけどな。周りからはよくそう見られてた。
お前、プロになってたんだな、雨宮。2、3ヶ月前まで、そんなこと知らなかったよ」
「え……、まさか本当に、あのときの……?」
「ああ……」
驚いた、……なんてものじゃない。開いた口が塞がらなかった。
こんな偶然、――いや、奇跡が現実に起こるだなんて。
道行く人々は、私たちのことなど見向きもせずに通り過ぎていく。
私たちの声も喧騒にかき消され、お互いの耳以外には届かない。
まるで盤を挟んだふたりの周りだけ、空間が切り取られたかのようだ。
茹だるような夏の暑さも、賑わう人々の声も、今は何も感じられなかった。
俯いた岡田くんの声だけが、私の耳に入ってくる。
「お前に負けたあと、しばらくして俺は知り合いの伝手を頼って、関西棋院のプロに師事することにした。
武者修行なんて言えば聞こえはいいかもしれないが、今にして思えば多分、逃げたんだ。お前のいる東京からな。
それくらいお前に与えられた敗北は、俺の自信をへし折るのに十分だったってことだ。
だけど、プロになる夢は諦められなかった。だから同時に関西棋院の院生にもなった。
関西棋院なら院生成績で上位になることだけを考えればいいからな。プロ試験で見知らぬ強敵と戦わなくても、プロになれる。
けどよ、そんな逃げみたいな理由で、関西を選んだ奴がプロになんてなれるわけないんだよな。
結局、そんな夢は高校1年生の冬に捨てたよ。俺にとってプロは、夜空に煌めく星みたいに、遠い目標だった」
岡田くんがつらそうに語るそんな過去に、私は相槌ひとつ打てなかった。
もしかしたら私は彼の人生を大きく変えてしまったのかもしれない。
だけど、私は私に負けた人がどうなったのかなんて気にしたことすらなかった。
『たった一度の敗北で心が折れてしまうような人なら、最初からプロになんてなれなかった』
そんな冷たい言葉で切り捨ててしまうのは簡単だ。現に、私は諦めなかったから、今ここにいるのだ。
だけど、その違いなんて、本当は些細な差なんじゃないだろうか。
だって私も高校2年生の冬には完全に心が折れていたのだ。そこで立ち直れたのは決して私の力なんかじゃない。
すべてはさきちゃんがいてくれたからだ。私と岡田くんの違いなんて、きっとそれだけのこと。
何かのきっかけが少しでも違えば、私と岡田くんの立ち位置は真逆だったのかもしれない……。
「あのね、岡田くん」
私は意を決して口を開く。
「私もずっと、何年もプロになれなくて、苦しい日々を過ごしていたの。
その数年の間に、何度も諦めようと思った。私がそれでも諦めなかったのは、さきちゃんっていう煌めく星を追いかけていたからなの。
さきは私を置いて、さっさとプロになっちゃって。悔しかった。彼女のことが憎らしいとすら思った。
だけど、彼女は女流タイトルをいくつも取るようになっても、変わらず私のことを待ち続けてくれていた。
そんな期待に、絶対に応えなくちゃって、そう思った。でもね、それだけのことなの!
私はプロになるための真剣な覚悟も、絶対に折れない鋼の心も持ち合わせてなんかいなかった!!
だからね、私は岡田くんのつらさが、とてもよく分かる。私は本当は、ただの弱い人間でしかなかったから!
だから、その、こんなことを言うのは烏滸がましいかもしれないけれど! こう言わせて欲しいの!!」
気が付けば、涙が溢れていた。でも、私はそれを決して拭わない、隠さない。
だって、それは私が弱い人間だったってことの証だから。……ううん、私は今だって弱い人間だ。
代わりに私は、その両手を顔の前で合わせて、彼を祝福するように言葉を紡いだ。
「よく、頑張ったね、岡田くん……!!」
彼の目にも一粒の雫が零れる。私の言葉に深く感じ入ることがあったのだろう。
「ありがとう、雨宮。……だけどな、俺にだって諦めちゃいけない理由はいくらでもあったんだぜ。
それなのに、諦めてしまったのは、俺が弱かったからだ。そして、お前が諦めなかったのは、強かったからだ。
俺はお前の強さを誰よりも信じている。そんな自信がある。早川さきなんて目じゃねえよ。
第一、ちょっと才能があって、ひょいひょいと簡単に壁を乗り越えて行っていった奴に、本当の強さなんて宿るもんか。
いいか、雨宮。お前は強い! 誰よりも強い! だから早川さきなんて、さっさとぶっ飛ばしてやれ!!
お前の本当の強さを見せてくれ!! 俺の願いはもう、ただそれだけだから……。だから、頼んだぜ、雨宮……」
彼はその慟哭とともに、私に想いを託してくれた。
プロになるという夢と、その先にあるプロの頂点に立つという夢を、私に託してくれたのだ。
「岡田くん……。あなたの想いはよく分かったよ。
私もさきに、いつまでも得意な顔をさせておくつもりなんてない。そのために、プロになってからも、いろんな打ち方を試している。
今は負けが続くのは承知の上だよ。だけど、5年後、――いや、3年後にはさきに追い付ける。そんな自信が、今はある。
相手の棋風によって、こちらの棋風も変える、このカメレオン戦法さえ完成すれば……!!」
私はまだ、さきを追いかけ続けている。プロになった今でも、まだ追い付いたわけじゃない。
彼女といつかタイトル戦で争って、そのタイトルを奪取する。少なくとも、それが実現できない限り、私はさきの背中を見ているだけだ。
これはまだ、追いかけっこの途中。途中、途中、途中……!
私は煌めく星を追いかけて、いつか絶対にそれを捕まえる。そんな想いを改めて、岡田くんが奮い立たせてくれた。
だから私は、そんな彼の真剣な眼差しに、全力で応えることにした! 白石をひとつ、強く掴みあげる。
「岡田くん、ここから先は指導碁なんかじゃないよ。
今の私の本気の強さを、見せてあげる。覚悟はいい?」
「ああ、望むところだぜ、雨宮!!
来いよ、全力でかかってきやがれぇえええええええぇ!!!」
――熱い戦いだった。夏の太陽なんかよりもずっと。
すべてを忘れそうになるくらいに、没頭した。
だけど、勝ち負けなんてどうでもいい、――わけがない。
私は絶対に岡田くんに勝たなきゃいけなかったから、本気で勝ちをもぎ取った。
結果としては私の中押し勝ちだったけど、一瞬たりとも油断のできない戦いだった。
それはプロの手合と変わらないくらい、大事な一戦だったからだ。
しばしの余韻のあと、岡田くんがぽつりと呟いた。
「……あのとき以上の短手数での投了か」
「素直に守りたくない気持ちは分かるけど、この断点を放置するのは無理だったんじゃない?
カタツギかカケツギか……、カタツギのほうがいいかな。それで守っておけば味残りだし、まだ戦える形勢だったと思うよ」
「そりゃヨセまでいく前提の話だろ。力量差があるなら、乱戦狙いじゃないと勝てねえよ」
「乱戦狙いなら、ここの交換は不要じゃない? 利き筋を残しておいたほうが、のちのちの戦いで有利だったよ。
たとえば、ここをこんな風に打ってから――」
私はひょいひょいと思い付いた図を並べていく。それに岡田くんは心の底から感心しているようだった。
「これがプロの力ってわけか」
「でも、岡田くんも強くなってるよ。あのときよりもずっと」
「それ以上に、お前のほうが強くなってるってことだろ? 言われても、あんまり嬉しくねえな」
負けて悔しいと言うよりも、これまでの人生を振り返るような表情で、岡田くんは眉尻を下げた。
私はもしかしたら、彼の努力を、苦しみを、そして情熱を否定するような碁を打ってしまったのだろうか。
そんな不安に駆られたとき、岡田くんはふっと笑ってくれた。
「でも、今日偶然お前に出会って、この碁が打ててよかった。
やっぱりお前はすげえよ、雨宮。お前なら本当に、早川も倒せるかもな」
「……うん、私もおかげさまで成長を実感できたかな」
すると、突然岡田くんは何かを思い出したかのように、はっとした。
「でも、そういや早川って韓国棋院に移籍するとかって噂があるけど――」
「え、何それ。そんなの一度も聞いたことないよ」
「そうか。ならよかった。やっぱり噂は噂か。
そうでなくっちゃ、お前と早川の戦いが見られなくなっちゃうもんな」
うーん、でも意外と私たちの間でも隠し事ってあるからなあ。
さきちゃんが私に黙って、韓国棋院への移籍を考えてるという可能性も、ないとは言えない気がする。
……なんて思ったことは、黙っておこう。あんまり適当なこと言えないもんね。
いや、もしそんな大事なこと黙ってたらブチギレるけどね? 今度こそ絶交するかもしれないけどね?
それをやりかねないのがさきちゃんなんだよなあ……。うーん、信用がない。
「あーーーっ!! 翔ちゃん、こんなところにおったー!!」
突然の女の人の声。それは岡田くんに向けられたものだった。
その人はいつの間にか、岡田くんの傍に寄り添っていた。知り合い、――いや、彼女だろうか。
「なんだ、まなみか。財布は見つかったのか?」
「財布はすぐ見つかったけど、翔ちゃんが見つからへんかったんやん!
先行ってて言うたら、普通入口で待ってると思うやんか! なんでこんな入り込んだ先に――。
って、あれ? この女の人は? というか、なんでこんなところに碁盤があるん!?」
まなみと呼ばれたその人は、私をびしりと指差してそう言った。
関西人のノリ苦手だなあ……。声はでかいし、早口だし、圧が強い……。
「ええっと、私はプロ棋士の雨宮かさねと言います。
本日はこのお祭りのゲストとして呼ばれて――」
「あーっ! 思い出した!! テレビに出てた人やん!!
なんたらYouTuberと対局してた人! なんでこんなところにおるん!?」
いや、だから、お祭りのゲストだってば。話聞いてるのかな、この人。
「いいからあっち行ってろよ、お前。いちいちうるせえんだよ。
悪いな、雨宮。うちの彼女が騒がしくして」
「なんで雨宮って呼び捨てなん!? やっぱり翔ちゃん――、むぐっ!?」
岡田くんに口を押さえられて、強制的に商店街の入口のほうに連れていかれるまなみさん。
元気な彼女さんだけど、岡田くんも大変そうだなあ。その岡田くんはすぐに戻ってきた。……疲労困憊といった状態で。
「ぜぇはぁ……、どうにか大人しくさせてきたぜ。つってももう、お前と話すこともあんまりないけどな。
とにかく今日は会えてよかったよ。やっぱり俺にはプロになれるだけの力はなかったんだなって、改めて気持ちの整理もできたし。
お前に言いたいことも全部言えたからな。すっきりしたよ」
「そっか。それならよかったよ」
そして私たちはもう会うことはないし、会わないほうがいいのだろう。
私はプロとして、岡田くんはアマチュアとして、それぞれこれから先の人生で囲碁と付き合っていく。
そのほうがなんていうか、きっと収まりがいい。お祭りの楽しみ方は、きっと人それぞれだ。
碁石を碁笥に片付けて、改めて終わりの挨拶を交わすと、岡田くんは立ち上がりまなみさんがいるほうへと歩いていった。
「じゃあな、雨宮」
「うん、それじゃあね、岡田くん」
私はその背中をじっと見つめて想いに耽る。彼にはこの先、どんな人生が待ち受けているのだろうか。
そして、私は彼の期待に恥じない人生を歩んでいけるのだろうか。そんなことを考えていると、彼は2、3歩歩いたあとに、何故か引き返してきた。
「ああ、そうだ、雨宮。……いや、雨宮初段。
最後に一言だけ言ってもいいですか? やっぱりこれだけは伝えておこうかなって」
「は、はい……。なんでしょうか……? なんでも言ってください」
一体なんだろう。わざわざ戻ってきてまで伝えたいことって?
だけど、私は彼がなんと言おうとも、その言葉を深く深く心に刻みつけようと思った。
それがきっと彼に対しての最大の敬意であり、賞賛であったからだ。だから、私は彼のどんな言葉も受け入れるのだ――。
「俺の名字、岡田じゃなくて岡林です」
「えっ!!???」
新幹線に乗るといつも思う。この乗客たちにも、それぞれの人生があり、それぞれ別の目的で生きているのだということを。
それぞれ別の理由があって新幹線に乗った人々が、同じ時間、同じ空間を共有していると思うと不思議な気持ちになる。
それからこうも思う。――静岡は長過ぎる。いつまで経っても静岡だ。でも、これだけ長いからこそ余暇を楽しむ時間があるわけで……。
「なんかかさちゃん、変なこと考えてない?」
「……なんで分かるの?」
「遠い目をしていたから」
こほん。移動時間って訳分かんないこと考えてしまいがちよね。
しかし、それをさきちゃんに悟られるなんて。随分と疲れが溜まっているのかもしれない。
ともかく私とさきちゃんは公民館で私服に着替え直し、今は大阪から東京へ帰る途中だ。――茂美をひとり大阪に置いて。
「それにしても、茂美も意外と元気っ子よね。
あいつだって疲れてるでしょうに、ついでだから一泊して大阪観光していくって」
「私も明日の対局がなければ、一緒に残ったんだけどね」
「若いっていいわねえ……」
「同い年だよ、かさちゃん!」
でも、これから先、関西での対局なんていくらでもあるでしょうに、わざわざ観光していく気にはなれないわ。
年寄りの発想なのかしらね、これ。そんなこと言いながら、一度も観光せずに人生終了しそうよね。
「私はイベントだけでも十分楽しめたわ。
なんとかお客さんも数人来てくれて、いろんな打ち手と打ったことで、カメレオン戦法の研究にもなったし」
「かさちゃん、最近それよく言ってるけどさ。
カメレオンって名称どうにかならない?」
「じゃあ、井の中の蛙大海を知らず戦法で」
「カメレオンでいいです」
カメレオンみたいに相手の棋風に合わせて自分の色を変え、気配を消して相手を捉える。いい名称だと思うけれど。
「それに私、運命の人とも再会できたから」
「え、何それ。変な男の人に引っかからないでよ、かさちゃん?」
「大丈夫よ、その人彼女いるから」
「余計駄目だよ!?」
何よ、さっきからツッコミばかりね。私、そんなに変なこと言ってるかしら。
「まあ、詳しくはあとで話すわ。今はまだ、余韻に浸っていたいの。
それくらい今日は熱い日だったのよ」
「よく分からないけど、かさちゃんが心から楽しめたのならよかったよ。
ねえ、知ってる? プロになると楽しいことがいっぱいあるんだよ?
プロになることはゴールじゃない。むしろそこからスタートなんだよ。
だからさ、これからいっぱい楽しもうね、かさちゃん」
左隣に座るさきちゃんの頭が、こつんと私の頭に当たる。
寄り添うように私にもたれかかってくるさきちゃんが愛おしい。
「そうね。私には、あなたからタイトルを奪取するという楽しみもあるしね」
「だったら、私には、それを阻止するという楽しみがあるよ」
「楽しみがいっぱいね」
「ね」
肩の荷が下りたのは、私も同じだ。少なくともこれからはもう苦しみながら碁を打つ必要はない。
ただ、もちろんそれは、勝ち負けにはこだわらないという意味ではない。
一手一手の重さに悶え苦しむのではなく、むしろそれを楽しんでいけるという意味だ。
そんな茨道のようでいて案外愉快な道を、私は歩き出した。その先には"さき"がいて、その横には"さきちゃん"がいる。
それに、私がそんな道を進むのを応援してくれる人だっているのだ。だからこそ私は全力で楽しまなくちゃいけない。
だって、囲碁を打つのってとっても楽しいんだから。それを忘れたら、私はプロ失格だ。
楽しみながらも真剣な気持ちも忘れない。矛盾しているようにも思えるけど、それこそが道を歩むということだ。
そして、そんな道があることを示すのはプロとしての役目でもあり――。
「すー……、すー……」
「さきちゃん?」
彼女は私にもたれかかったまま、いつの間にか寝息を立てていた。
今日はたくさんのお客さんに囲まれて、誰よりも忙しかったものね。無理もないわ。
彼女を労うように、私のほうからもそっと頭を寄せる。
「かさちゃん……、すき……」
むにゃむにゃとさきちゃんはそんな寝言を言ってくれた。
照れ臭くなるけど、嬉しい。だって、私も同じ気持ちだから。
「ふふっ、私も大好きよ、さきちゃん……」
そうして私たちは寄り添いながら、東京へ戻る。すべての始まりである、あの東京という町に――。
「焼き食べたい……」
「あ゛あ゛っ!?」