後編
「次は××駅、××駅。お降りの方はお忘れ物のないように――」
ぼんやりとし過ぎたのか、いつの間にか私は電車の中で眠りこけていたらしい。
駅員さんのアナウンスで温かな夢の世界から抜け出した。
そろそろ自宅からの最寄り駅につく頃合いだと思うけど、確か××駅って――。
あれ……、ちょっと待って……? 最寄り駅もう過ぎてない? ――嘘、寝過ごした!?
電車が駅に到着し扉が開くと、私は慌ててホームに出た。駅の案内を見ると、やはり一駅先まで来てしまったようだ。
……でもまあ、いいか。ここから歩いて帰ったって、それほど距離は変わらないはずだ。
ついでに本屋に寄って参考書を買おう。今から必死に勉強すれば、きっと大学受験にはなんとか間に合う。
「あれ……? 本屋ってこのあたりになかったっけ?」
中学の頃よく通っていた本屋がどうしても見つからない。久しぶりに来るとは言え、道を間違えたとは思えないんだけど……。
もしかして閉店しちゃったのかな。だとすると、この近くで他に本屋ってどこにあったかな。
別にまた今度にすればいいのに、私は意固地になってスマホで地図案内を見ながら別の本屋を探して歩き出す。
どうせ急いで帰ったってもう囲碁の勉強をやるつもりもない。適当にぶらついて帰ったって罰は当たらないだろう。
気が早いもので、街に並ぶお店のいくつかはすでにクリスマスムードになっていた。
……そう言えば、このあたりって小学生の頃、さきと一緒に登下校した通り道だったっけ。
暑い夏にはソフトクリームを食べながら並んで歩いたこともあるし、寒い冬にはふざけながら雪をぶつけ合って遊んだこともある。
潰れたお店や新しくできたお店があって、思い出の中の街並みとは少しだけ違うけれど、私は懐旧の念に駆られながらのんびりと歩いた。
しかし、私は本屋を探し求める途中、ある場所にたどり着くとぴたりと立ち止まった。
「ここって哲さんの碁会所があった……」
忘れるはずもない雑居ビルには、囲碁カフェ『哲千』の看板が取り付けられていた。
それは千鶴子さんが4年ほど前に開いたお店の看板だ。碁会所の頃のお客さんだけじゃなく、若い人にも人気で大変賑わっていると聞いている。
伝聞系なのは、私はプロになるまではここには足を踏み入れないようにしようと考えていたからだ。
千鶴子さんと喫茶店で会ったとき、さきの言葉につられて遊びに行くと宣言していたから申し訳ないけれど、一度でもここに来ていたら居心地が良過ぎて居座ってしまっていたかもしれない。
一方、さきは院生の頃からよく遊びに来ているらしく、楽しそうにお店の様子を私に話してくれたのを覚えている。
……それは過去形にする必要はないか。さきとはすっかり疎遠になってしまったけれど、もう全く連絡を取り合っていないというわけではない。
彼女とはまだ親友のはずだ。まだ……。
「かさちゃん……?」
どこからか微かな声がする。それは聞き覚えのある懐かしい声だった。
だけど、周りを見回してもその声の主は見つからない。しかし、やがてコンクリートの階段から誰かが降りてくる。
空耳かと思ったその声は頭上の窓から聞こえてきたものだったのだ。
その動きはゆっくりしていたけれど、私は不意にかけられた声に戸惑って逃げそびれてしまった。
「やっぱり! あなた、かさちゃんよね? 大きくなったわねえ」
「千鶴子さん……、お久しぶりです」
「ええ、ええ……、本当に……」
そこにいたのはお団子頭の優しそうなおばあさん、千鶴子さんだった。
相変わらず背中は少し曲がっているけれど、思ってた以上に元気そうだった。
4年半も会っていなかったから身体を壊していないかは心配していたけれど、むしろ前より若返ったような気がする。
どうしよう……。今からでも逃げ出してしまおうか。
この数年間何をしていたのか訊ねられても困ってしまう。さきと違って私は何もしてなかったのと同義だ。
「おーい、かさちゃん! こっちに上がってきなー!」
今度はおじいさんの声。見上げると囲碁カフェの窓の向こう側におじいさんたちが集まっていた。
みんな哲さんの碁会所の常連客だった人たちだ。千鶴子さんが私に気付いてから、すぐに彼らも私の存在に気付いたのだろう。
はあ……、仕方ないか……。こうなるともう観念してお店に入るしかなさそうだった。
「お、お邪魔します……」
千鶴子さんに案内されて、囲碁カフェの扉を通り抜ける。その先には懐かしい顔が揃っていた。
碁会所から囲碁カフェに変わっても、相変わらずここはおじいさんたちの溜まり場になっているようだった。
もちろん他にも知らないお客さんもいて、一体何事かとこちらの様子を窺っている人もいた。
「よう、かさちゃん! 随分とべっぴんさんになったなあ!」
「寂しいじゃねえかよ! たまには顔見せに来てくれなきゃよお」
「かさちゃんは俺たちのアイドルだからよ、心配してたんだぜ!」
「コーヒーでも飲むか、かさちゃん! 千鶴子さん、俺の奢りでコーヒー出してやってくれよ!」
「あ、ええっと、すみません……!」
私がお店に入った途端、いっぺんに話しかけてくるものだから、頭が混乱してしまった。
それに、ただでさえむさくるしいおじいさんたちが密集していると、なんとも圧力が凄いというか……。
「ほれほれ、そんな一気に話しかけても応えられるわけないがね。
こっちに座ってゆっくりしていきなさい、かさちゃん」
「あ、ありがとうございます……」
千鶴子さんの助け舟のおかげで、なんとかテーブル席の椅子に腰かけることはできた。
だけど、それでのんびりさせてもらえるわけもなく、また別のおじさんがやってきた。
この人は碁会所の中でもかなり強かった。一応、六段の免状を持っていると聞いたことがある。
「久しぶりだなあ、かさちゃん。元気にしとったか?」
「あ、ええ……、おかげさまで」
「なんだなんだ、言葉のわりには表情が固いなあ!
よっしゃ、ここは景気づけに俺と一局打つか!
おーい、千鶴子さん、碁盤出してくれよ! こっちだこっち!」
「はいはい、ちょっと待っててちょうだい」
おじさんは私の返事も聞かず、テーブルの向こう側の席に腰かけた。――と同時に、ギャラリーも何人か集まってきた。
強引だけど、余計なことは訊かないでくれているのはありがたい。単に一局打つくらいなら、なんの問題もない。
「置き石はいくつ置きますか? 三子? それとも四子?」
「おいおい、大きく出たな、かさちゃん。
俺の実力を忘れちまったのかい? そりゃてっちゃんやさきちゃんほどじゃないけどよ」
「そりゃ今じゃさきちゃんは雲の上の人だもんな。
おっと、てっちゃんもある意味もう雲の上か!」
「いやいや、てっちゃんは地獄行きじゃねえか? わっはっは!」
「あ、あはは……」
おじいさんたちのブラックジョークには正直なところついていけない。私は渇いた笑いをするのが精一杯だった。
「しかし、俺のことを甘く見てもらっちゃ困るな、かさちゃん。
どれほど強くなったか知らねえが、俺の腕だって鈍っちゃいねえぞ。
ということで、そうだな……。よし、五子置かせてもらうか!!」
「っておい! 置き石増やすのかよ!
それにいくら天下の院生様でも五子の置き碁なんてのは――」
ああ、こういうおふざけのノリも懐かしいな。でも――、
「別に。いいですよ、五子でも」
私の一言で空気ががらりと変わった。
最初おじいさんたちは私が冗談を言ってるとでも思ったらしいが、すぐに弛緩した雰囲気が一気に引き締まった。
「おいおい、冗談だよ冗談。
現実四子でもかなりきついだろう? 三子でいいよ」
「あなたこそ、私のこと甘く見ないでもらえますか?
三子なら楽勝、四子でもまず勝てます。五子局ならまあどうにか五分ってところだと思いますよ」
「……ほほう。変わっちまったな、かさちゃん。
もちろんいい意味でだぜ? だがな、そこまで言われちゃこっちも手加減なしだ。
大口叩いた以上、負けたら恥ずかしいぜえ?」
「いいですよ、望むところです!」
そうしておじさんとの対局が始まったが、私は自分の神経が研ぎ澄まされるような感覚を感じていた。
私の中に冷静な私もいて、本当に勝てるつもりでいるのかと問いかけてくる。だけど、私は迷いなくこう答えた。
「大丈夫。今なら勝てる」
その言葉は、現実に存在するものしか見えていない人たちの耳には届かない。
今の私に見えているのは目の前の碁盤じゃない。――宇宙だ。
肉の檻から解放された私は精神体となって、そこへ飛び込む。
星々が煌めく空間の中、私はこの上なく冴えた一手を打ち続けた。
読むべきは次の一手じゃない。この宇宙がどんな結末を迎えるのかだ。
それを理解すればおのずと正着は導き出される。私は宇宙の真理を解き明かしながら、勝利までの道を逆算した。
故にその決着は勝負の結果じゃない。たどり着くべくしてたどり着いた必然の帰結であった。
「こ、ここまでか……」
おじさんが途中で取った白石のアゲハマを盤上に置きながらそう言った。それは投了の合図だ。
「ありがとうございました……!」
宇宙空間から帰ってきた私が頭を下げると、ギャラリーから歓声が上がった。
「おいおい、本当に五子で勝っちまったよ……」
「こ、こんなに強くてもプロ試験ってのは受からないものなのかい……?」
「こら! かさちゃんの前ではプロ試験の話は――」
ひそひそ声で話すおじいさんたちもいたけれど、研ぎ澄まされた私の聴覚はすべてを捉えていた。
別に何を言われても気分は悪くない。むしろこの上なく爽快だ。
ただ実際のところ、普段の私なら四子でも危なかったかもしれない。今回勝てたのはたまたまゾーンに入っていたからだ。
でも、さすがに疲れたし、喉も乾いたな……。気付けば碁盤の横にコーヒーが置かれていたが、すっかり冷めてしまっていた。
「千鶴子さん、これ温め直すことってできますか?」
「ああ……、それなら新しく淹れてあげようかね。
そこのコーヒーは男どもの誰かに飲ませるから。そのままにしといていいよ」
「すみません、お願いします……」
店内で他のお客さんの注文を取っていた千鶴子さんを呼び止めお願いをすると、私は立ち上がって伸びをした。
そう言えばじっくりとお店の様子を見る暇なんてなかったな。内装も工事したみたいで、ところどころに碁盤と碁笥が置かれていること以外は普通の喫茶店に見える。
いや、どちらかと言うと喫茶店のなかでもおしゃれなほうかもしれない。碁会所の頃にはなかったペンダントライトがシックな雰囲気を仕立て上げていた。
さすがに哲さんの掛け軸はどこかにしまってあるようだ。あれが今ここにあったら、あまりの場違いさに苦笑していただろう。
当たり前だけど、椅子だってパイプ椅子じゃなくて木製の硬い椅子になっている。
だけど、あの壁側の棚は……。そうだ、あれは碁会所の頃にもあった。懐かしく思った私はなんとはなしに棚に近付いていった。
その棚に一体何が置かれているのかは、すっかり忘れていたのだ。
「これって……」
そこにあったのは、フォトフレームだった。そして、一枚の写真が大事そうに入れられていた。
「……っ!」
私は思わず息を呑む。そこに写っていたのは、嬉しそうに微笑むさきと、緊張で顔が強張っている小学生の頃の私。
それから1位の子と4位の子も写っていて……、そうだ、それは少年少女囲碁大会で表彰されたときの写真だ。
この頃は、楽しかった。さきの隣に並んでいられるだけで、幸せだった。
欲しいものなんか、他になかった。ただずっとこんな日々が続けばいいと、そう願っていた。ただ、それだけだったのに……。
私は今、どうしてこんなにも苦しんでいるんだろう。どうしてこうなってしまったのだろう。
私は一体どこで何を間違えてしまったのだろう。プロになんかならなくていいと、彼女を説得していれば何か変わっていたんだろうか。
それとも彼女はそんな私の言葉も無視して、ひとりで旅立ってしまったのだろうか。私には分からない。
だけど、もし時を戻す魔法が使えたとしても、何度繰り返したとしても、きっと似たような結果になっていたのだろう。……どうせ。
「お待たせ、かさちゃん。
……どうしたの、泣いているのかね?」
「え……、あ……」
新しいコーヒーを持ってきてくれた千鶴子さんに声をかけられて、私は初めて自分が涙を流していることに気が付いた。
「す、すみません……! なんでも、なんでもないんですっ……!
すみません、本当にすみません……!!」
私はコートの袖で涙を拭きながら、写真から目を逸らす。
そのとき誰かと目が合ったような気がして、はっと驚いた。
――鏡だった。壁に取り付けられた、ジオメトリック柄のフレームのおしゃれな丸い鏡。
そこにボロボロの顔をした私が映し出されていたのだ。亡霊にとりつかれたみたいにぐしゃぐしゃに潰れた、本当に酷い顔だった。
表情が固いとか、そんなレベルじゃない。写真写りが悪いと思っていた写真の中の私のほうがよっぽどマシな顔をしていた。
「うあ……、ああ……! うわぁあああん……!!」
涙はもう止まらなかった。私の感情はダムが決壊したように溢れ出し、まるで制御がきかなくなっていた。
「かさちゃん……!? 本当に大丈夫かね……!?」
「どうした、かさちゃん! 何があったんだ!?」
「なんだなんだ、なんの騒ぎだあ!?」
心配そうに声を上げる千鶴子さんと、おじいさんたち。
それを無視して、私は泣きじゃくりながらお店を飛び出した。
「すみません、すみません……!」
ただ、その言葉を呪文のように唱えながら。
私はすっかり暗くなっていた夜の街を駆け抜けた。
どうしてこうなってしまったのだろう。
私はただ、あなたと一緒にいられれば、それで幸せだったのに。
翌日の研修手合。大林先生はプロ棋士としての対局予定が入っているらしく、代わりに常任理事のひとりが先生としてやってきていた。
こういうことはよくあることだ。大林先生ともしばらく顔を合わせたくなかった私としては、そのほうが助かる。
……そう言えば、バッグを囲碁カフェに忘れてきた。まあいいや、スマホと財布はスカートのポケットに入っていたから、それほど困ることはない。
ほとぼりが冷めた頃にそっと取りに行こう。さすがに昨日の今日でもう一度あそこに行くのは恥ずかしい。
それより今日の最初の相手はBクラス1位の子だ。気を引き締めてかからないと、あっさりやられてしまうだろう。
だけど、もし昨日のおじさんとの一局みたいな碁が打てたら、逆に私のほうがあっさり勝つということもあるかもしれない。
そんな淡い期待を込めながら、私は碁盤の前に向かった。その結果――、
「酷い碁だな……」
昨日の私が見る影もない。お昼休みの前に、私の大石が死んでしまった。
逆転できる場所も他に残されてはいない。せいぜい投げ場を求めて無茶な手を打っておしまいだ。
……別にいいさ。私はもうプロを諦めたんだから。そうは思っても悔しさは抑えられない。
しかし、この碁が駄目でも、今日はあと2局打つ予定がある。気持ちを切り替えないと。
お昼は外に食べに行こう。この近くに新しくできたレストランでもいいけど、ちょっと混み合うかな。
そう思いながら時間を確認するためにスマホを見ると、LINEに1件のメッセージが入っていた。
頻繁に連絡を取り合う友達もいない私は、緊急の連絡かと思いアプリを開いたが、送り主の名前を見ただけで心臓がどくんと跳ね上がった。
「さき……、ちゃん……」
スマホに映し出された名前は「さきちゃん」だった。別にそれだけなら驚くことじゃない。
今でもたまに彼女とは連絡を取り合っているのだから。だけど、一体どうして今……?
昨日一日だけでもいろいろあった。大林先生にプロを諦めることを打ち明け、囲碁カフェであんなことがあって……。
正直なところ、これが偶然のタイミングだとは思えなかった。メッセージはこう書かれていた。
『急にごめんね。今日は研修手合かな? 忙しいところごめんね』
要件も何もない。とりあえず緊急性はそれほど高くないようだ。
私はレストランに向かう前に投げやりなメッセージを返しておいた。
『何? なんか用?』
『用ってわけじゃないけど、最近お話もできてないし、元気かなーって』
その返事はすぐに来た。スマホの前に張り付いてるわけ?
それにしても多分この感じは、千鶴子さんか、あるいはおじいさんたちの誰かが囲碁カフェでの私の様子を心配して、さきに連絡を入れたということだろう。
それでさりげなく何があったのか聞き出してくれと頼まれたか、メンタルケアをしてやってくれと頼まれたか、……まあおそらくはそんなところだろう。
私はエレベーターの中で続きのメッセージを返した。
『私は別に元気だけど。それより、あんたこそ名人戦リーグ入りまでして忙しいんじゃないの』
『今日はお休みだし。なんにも予定ないの久しぶり』
嫌味? いや、彼女に限ってそんなつもりはないだろう。
そう言えば、名人戦リーグ入りのお祝いの言葉はまだだった。一応一言言っておいたほうがいいだろう。
『まあ、なんにしても。名人戦リーグ入りおめでとう』
『ありがとう、かさちゃん』
エレベーターはちょうど1階に到着した。
私はそこで話が終わったと思い、エレベーターを出ながらスマホをスカートのポケットにしまおうとしたが、その前にもう一度振動を感じた。
『研修手合頑張ってね。私、ずっと待ってるから』
………………はあ? 待ってるって、何を。
あんたが私を待っててくれたことなんて、一度でもある?
私は思わず足を止めた。それと同時に沸々と怒りが湧いてくる。
あんたはかけっこで「一緒に走ろう」って言って、ひとりだけ先に行ってしまうような女でしょ?
振り返って足を止めてくれたことも、私のペースに合わせて走ってくれたことも決してない。
あんたにとって私は別に置き去りにしたって構わないちっぽけな存在なんでしょうが!
別にあんたがひとりで先に進んでいくのは勝手よ!? そんなの好きにすればいい!!
だけど、あんたは一度だって待ってくれやしなかった!! それなのに、待ってるなんてふざけたことを言うんじゃない!!
私はそんな怒りをさきにぶつけてやろうと思った。だけど、興奮で指が震えて文字が上手く打てなかった。
通話をかける? 口下手な私はきっとただ怒鳴りつけるだけで、さきには何も伝わらないだろう。
「はぁ……、はぁ……」
結局私は、そのまま何も言わずにアプリの画面を閉じた。そこには荒い呼吸の私だけが取り残された。
私の周りには心配して手を差し伸べてくれる人も、私の歩みを待っててくれる人も誰もいない。
そこにはただ、ひとりぼっちの私がいるだけだった。――そして、その日の研修手合は全敗に終わった。
結局、今日の私はなんにもいいところなしだ。3局すべて惨敗と言っていい内容だった。
だけど何より胸が苦しい。苦しくて苦しくて仕方がない。
胸の内をすべて吐き出さないと、苦しくてはち切れそうだった。
本日の院生研修がすべて終わり、帰宅の時間になると同時に私は女子トイレに駆け込んだ。
洗面台の鏡に映る私は昨日と同じ、あるいはそれ以上にみすぼらしい姿だった。……私はこの数年間で一体何を得たんだ?
こんなにも苦しんでボロ雑巾みたいな姿になって、結局私は何も成し遂げることができなかった。
それどころか、得意だったはずの学校の勉強もまるで駄目になってしまった。
囲碁の勉強に充てた時間を他の何かに使っていれば、もっと別のことにも挑戦できたかもしれない。
もっとたくさん友達もいたかもしれない。もっと自分に自信を持てていたかもしれない。
そう考えると私はこの数年間で何も得られなかったどころか、本来得られるはずだったものを失ってしまったんじゃないだろうか。
もし私があのとき、あの公園で、さきの頼みを断っていたのなら……。
そこで私は大きく息を吸い込み、そして吐き出した。
「何が女性初よ! 何が史上最年少よ!
私はただ、あんたと一緒に碁を打っていたかっただけ! あんたはそれを裏切った!
親友のちっぽけな願いも叶えられなくて、それのどこが囲碁界のスターだっての!?
嘘つき嘘つき、大嘘つき!! あんたは一度も私のことを待っててなんてくれなかった!!
私をこんなにもボロボロにしておいて、それをあんたは見て見ぬ振りをしているだけ!!
あんたは良かったわねッ!? みんなから持て囃されて、すっかり天狗になってるんでしょう!?
ふざけないでふざけないでふざけないでッ!! さきちゃんなんか、大っ嫌い!!」
私は思いの丈を全力で絞り尽くした。好きだった。いや今でも大好きだ。
だからこそ私はさきのことが許せなくって――、
「へっけちゅ!」
突然、トイレの個室からへんてこなくしゃみが聞こえてきた。え、今のくしゃみ……?
知っている。私はそんなへんてこなくしゃみをする子のことを知っている。
私は恐る恐るその個室の扉の向こうに問いかける。まさかあの子にすべて聞かれていたなんてことは――。
「さき、ちゃんなの……? そこにいるの……?」
私はその返事を待つ。もしかしたら人違いかもしれない。あるいは私の空耳かもしれない。
この個室にいるのがさきではないのであれば、驚かせてしまってごめんなさいと謝ればいいだけのこと――。
「にゃ、にゃあーん……」
「トイレで猫の鳴き真似して誤魔化せるわけないでしょ、さっさと出てきなさいよ!!」
やがてゆっくりと個室の扉が開く。そこには真っ赤な顔で俯いているさきの姿があった。
「ごめん……、全部聞いちゃった」
「……でしょうね。これで聞こえなかったら難聴を疑うところだわ。
それよりあんた、今日は休みじゃなかったの?」
私は謝るつもりはなかった。先程叫換したことはすべて本心だったからだ。
「や、休みなのは嘘じゃないよ……! ただ研究会とかいろいろあるから……」
「どっちにしても棋院に来てるなら直接私に会いに来ればよかったじゃない。
何? あのお昼のメッセージ?」
「それは、かさちゃんも忙しいだろうから……。ごめん、嘘。
本当はかさちゃんに会うのが怖かった。だって全部私のせいだもんね。
私のわがままで、こんなにもかさちゃんを頑張らせちゃった。本当にごめんなさい……」
さきは私に向かって深々と頭を下げた。と思いきや、そのまま私に向かって土下座をしてきた。
それは決していいかげんな土下座じゃなくて、頭まで床に擦り付けたこれ以上にない惨めな姿だった。
「ちょ、ちょっとあんた!? ここトイレよ!?
一体何してんのよ、汚いでしょ!?」
「だって私が悪いから……! ごめんなさい、ごめんなさい……!」
「もういいから……! こんなんじゃ話もできないでしょ!?
というか、もうあんたと話すことなんてないわ! だからさっさと顔を上げて!!」
そこまで申し訳なさそうにされると、まるで私のほうが悪かったような気さえしてくる。
だけど、そうじゃない。悪いのはさきだ。そして、私はそれを決して許さない。
しかし、もう彼女を責め立てるつもりはなかった。もうすべては済んだことなのだ。
私が彼女の肩を掴んで身体を起こさせると、ようやく彼女は私の瞳を見つめてくれた。
「かさちゃん、許してくれるの……?」
懇願するような目の彼女に、私はもみあげをかきあげながら答えた。
「許したわけじゃない。私は何があっても、あんたを恨み続ける。
だからこそ、こんなことしても無意味よ。もうやめて」
「そっか……。こんなんで許してもらおうなんて、虫が良過ぎるよね……」
さきは立ち上がり、もう一度「ごめんね」と呟いてトイレの出入り口から出ていこうとする。
その背はあまりに小さくて、『囲碁界の新星』とか『早碁女王』とか言われる天才少女の姿だとは思えなかった。
そんなちっぽけな彼女の右腕を、私は思いっ切りの力を込めて掴んだ。
「待ちなさいよ」
「か、かさちゃん……?」
驚いたように振り返る彼女に、私は言い放つ。
「話すことはないとは言ったけど、もう用はないとは言ってないわよ」
「え……? それってどういう……?」
「私たちの青春は、モノクロだった。そうでしょう、さき?
言葉を交わすよりもずっと深く互いの想いを伝えられる方法が私たちにはあるんじゃないかしら。
それをしないで終わりになんてさせないわよ。今から私と一局打ちなさい! もちろん互先で!!」
「う、うん……! 分かったよ、かさちゃん!!」
彼女の表情がぱっと明るくなる。久しぶりにさきの笑顔を見た気がする。
私たちは、今でも親友だ。だからこそ今ここで戦わなくっちゃ、一生後悔する!!
「……あと、ちゃんと手を洗っていきなさいよ。ついでに顔もね。
というか、あんたトイレ流してないでしょ。そのまま行ったらまずいでしょ」
「あ、はい、ごめ……。顔怖いよ、かさちゃん!」
諸々の用事を済ませて、私たちはお客さん用の対局室に足を踏み入れた。
そして受付を済ませると私は周りの目を気にすることもなく、堂々と真ん中あたりの席に陣取った。
「ここでいいの? 他にも使える部屋はあると思うけど」
「ここであんたをボコボコにすれば、お客さんがその証人になってくれるでしょう?」
「えっ!?」
先程の笑顔はどこへやら、さきの顔は一気に青ざめた。……今のは冗談のつもりだったんだけど。
面白いから、とりあえずそのままにしておく。それよりもひとつ釘を刺しておかなくちゃいけないことがある。
「戦う前にひとつだけ言っておくわ」
「う、うん……」
「もしこの一局であんたが手を抜いたら、……いいえ、手を抜くのはギリギリ許してやるわ。
手を抜いたうえで負けたら私はもう二度とあんたのことを親友だとは思わない。それは覚悟してちょうだい」
「……つまり今は親友だと思ってくれてるってこと?」
「そんな風に考えられるなら、問題なさそうね」
「そうだね……。私はこの一局で手を抜くつもりなんて一切ない。
むしろ私はこれをタイトル戦の挑戦手合だと思って打ってみるよ」
「ありがとう、さき。それでこそ私の親友だわ」
私はお礼を言いながら、そっと微笑んだ。
日本棋院の営業終了時間まで、それほど余裕はない。
私は対局時計の持ち時間を30分切れ負けの設定にする。それを使い果たせば、その時点で時間切れ負けということだ。
「いいの? 私、早碁女王だよ?」
「ここぞというところで長考されるほうが厄介だわ。
時間に追われてミスしてくれれば、私にもチャンスはある」
「あはは、計算高いなあ、かさちゃんは」
お互い笑顔を見せるのはここまでだ。ここから先は真剣勝負の世界なのだから。
ニギリの結果、さきが黒番、私が白番になった。――さき相手に私が白を持つのは何年振りのことだっけ。
いや、細かいことを考えるのももうやめよう。雑念に捉われた状態で勝てる相手では決してないのだから。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
ぱちり! 対局の挨拶を終えた直後、景気のいい石音が室内に響き渡る。
さきが放った初手は右上隅小目だった。すでに彼女の中にはいくつかの想定図が浮かんでいることだろう。
彼女はその中から自分の勝率が高い図を選んで、そこに行きつくようにどうにかして私の手を誘導しようとするだろう。
……でもね、さき。私はあんたの手の内は知り尽くしている。あんたがどういう展開を好むのかは分かっている。
小さい頃から院生になるまでずっと打ち続けてきたし、プロになってからのあんたの棋譜も何百回も何千回も並べてきた。
それはいつか、あなたとプロの世界で戦うときのため……。こんな形で戦うことになるとは思っていなかった。
でも、こんな形だからこそ、私は絶対にあんたに負けたくないと強く思う。この碁は絶対に、あんたの好きな展開にはさせない!
●●●●●●●●
打ち始めて少し経ってから、どうにも違和感がある。私の狙いがすべてかさちゃんに潰されてるような気がする。
まさかすべて研究済みだと言うの? そもそも私の知るかさちゃんの棋風はこんな感じではなかったはずだ。
本来のかさちゃんはもっと堅実で確実に地を稼いでいくスタイルだ。
でも、これはただただ私の好む布石にはさせないための打ち方だ。かさちゃんがこんなにもいやらしい打ち方をしてくるのは初めて見る。
私が打ちたい場所に先回りして手を入れる。あるいは、そこに打つ意味が薄くなるように打ち回している。
これは何が何でも私を困らせたいということだ。……なるほどね。いいよ、かさちゃん。
あなたが全力で勝ちに来るのならば、私はその一歩上を行く!!
○○○○○○○○
『けどよ、手の内を知り尽くした相手と打っているばかりじゃ、井の中の蛙ってもんだぜ』
私は哲さんの言葉を思い出していた。
私にとってさきは、手の内を知り尽くした相手だ。そんな彼女に勝つためだけに、私はこんな無茶な打ち回しをしている。
普段の私ならば、絶対に選ばないような手ばかりを打って、さきを困らせることだけを考えている打ち方だ。そんなのは、分かってる!
……すみません、哲さん。私は井の中の蛙でいい。今ここで、さきを倒せればそれでいい!!
●●●●●●●●
甘いね、かさちゃん。私の狙いを潰すだけじゃ有利な碁にはならないよ。
あなたの打つ一手一手は少しずつ最善手とはズレている。
確かに私は思惑通りの展開にできないでいるけれど、そんな風に打ったところでかさちゃんが得をしているわけではない。
盤面をよく見なよ。結局のところ、形勢は徐々に私のほうに傾いていっているよ?
○○○○○○○○
それでいい。この打ち方はあくまで序盤に大きく離されないようにするためのもの。
私は別に形勢がこちらに有利になるように打っているわけじゃない。多少の不利は覚悟の上だ。
「おい、あれ早川プロじゃないか?」
「本当だ。ありゃ誰と打ってるんだ? 知らない顔だな」
ギャラリーも徐々に集まってきた。気にせずそのまま打ち続けていると、いつの間にか人だかりになっていた。
●●●●●●●●
いいね、最高の舞台が整ってきた。こんな熱い戦いは私たちふたりだけで楽しむのは勿体ない。
かさちゃんはどんな気持ちかな? さっきは「お客さんがその証人になってくれる」なんて言っていたけれど、本当はふたり占めにしたかった?
そう思ってるなら、お生憎様。ここで奮い立つくらいでなければ、プロとして大舞台に立つなんて夢のまた夢ってやつだよ。
○○○○○○○○
馬鹿ね、さき。ギャラリーを背負って打つくらいなんでもないことよ。
私はどれだけ大勢に見られていようと、冷静に打ち続けるだけ。
熱くなるのはあんただけで十分。そのまま燃え尽きてちょうだい。
●●●●●●●●
いずれにしても、この碁は大きな争いもないまま中盤戦。
ここまで来れば形勢ははっきり黒の、――私の優勢だ。
ここからかさちゃんが勝つには上辺の黒地を荒らしつつ、中央で自分の陣地を増やすしかない。
だけど、それを両立するのは至難の業だし、私がそうはさせない。今度はかさちゃんが苦しむ番だ!
…………どうしたの、かさちゃん? 長考?
確かにここは大事なところだけど、持ち時間はたったの30分しかないんだよ?
ここで手を止めていたら終盤には考える時間なんてない。さあ、早く覚悟を決めて上辺に――。
ぱちり。長考の末、かさちゃんが着手したその手を見て私は驚愕した。
……え? 嘘でしょ……? 下辺への打ち込み!?
その手は全く読んでいなかった。完全な想定外ってやつだ。
確かに下辺はまだ完全に囲んだわけじゃない。だけど、この黒模様の中で生きられるって言うの!?
○○○○○○○○
――この白石は、私だ。敵の砦に単身で乗り込んだ孤独な兵士。
周りは敵に囲まれ、いつ殺されてもおかしくない状況。
だけど、八方塞がりだとしても、私はここで生きてみせる!
さあ、覚悟を決めるのはあんたのほうよ! 早川さき!!
私を殺してみなさいよ。
●●●●●●●●
打たれてみると、この白石を殺すのは容易ではないことが分かる……。
これだけ黒石で囲んでいても、案外壁は薄い。下手をすると、内から食い破られてしまう。
ただ抑え込むだけなら難しいことではない。しかし、それでも内側で生きる道が残されている。
私がするべきことは壁を守りながら、この白石の眼を潰すことだ。
仮に一眼できても二眼さえできなければいい。両立する手は必ずどこかにあるはずだ!
○○○○○○○○
さき、あんたはまだ気が付いていないのね。私は序盤からずっとこの手を読んでいた。
――この白石が生きる道は、ある。ずっとずっとそうなるように打ち回してきたんだから。
それに気付かず、あんたはまんまと私の策略にハマってくれた。
ありがとう、さき。あんたが本気で打ってくれたおかげで、私はこの一手にたどり着いたのよ。
●●●●●●●●
駄目だ! 見合いにされてしまった!
壁を守れば、この白石は内側で生きる。しかし、この白石の眼を潰しにいけば、壁を食い破られる。
……この白はどうやっても殺せない。私は一切手を抜かず、最善手を打ち続けていたはずなのに。
かさちゃん、あなたは最初からこうなることが分かっていたの? ……その瞳はそういうことなんだね。
これで下辺の攻防は大損……。ここまでに築き上げた陣地が一気に奪われた……。
だけど、ここで壁を守ることで、代わりに中央に向けての厚みはより厚くなった。
形勢もまだ私のほうが有利! ここから先も、最善手を打ち続ければ勝てるはず!
○○○○○○○○
そう、その石が生きてもまだ足りない。ここまでに生まれた差がそれだけ大きかったということだ。
あんたは囲碁界の新星。簡単に勝てる相手じゃないのも分かってる。
ここはもう一度勝負手を放つしかない!
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上辺をここまで深く荒らしに来るのか……。
一見無理手のようだけれど、これはおそらく中央を捨てる作戦だ。
私からしてみると中央に大きく陣地を築ける代わりに、上辺の陣地をほとんど失うことになる。
その差し引きで白の、かさちゃんが少し得をするという計算なのだろう。
そして、私はそれに抵抗する手段が思い付かない……。中盤の終わり頃にもなって、私の碁がここまで封じられているなんて……。
「これは宇宙流か……?」
「早川プロがこんな碁を打つなんて初めて見たな……」
違う! 私はこの碁を打っているんじゃない……。打たされているんだ、かさちゃんに!
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苦しい? 苦しいわよね、さき?
もっと苦悶の声を漏らしてちょうだい。
私の苦しみは全然こんなものじゃなかったのよ。
もっともっと情けない声を私に聞かせて? ほらほら、ギャラリーの耳にも届き始めてるわよ?
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「くっ……、うぅ……」
思うような碁がまるで打てない。持ち時間も残り少なくなってきた。
苦しくても苦しくても、ここはとにかく耐え抜くしかない我慢のときだ。
終盤まで崩れなければ、まだまだ勝敗は分からない!
「これは……、早川プロが苦しんでいるのか……?」
「あの囲碁界の新星、彗星の如く現れた早川七段が……」
「一体対局相手のこの子は何者なんだ!?」
この子が何者かって!? そんなの決まってる!
かさちゃんは私の大切な親友。――そして、私の最高にして最強のライバルだ!
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残すは小ヨセのみ。残り時間はともに2分を切っている。そして形勢はほとんど拮抗している。
ここから先はまるで綱渡りだ。少しでもバランスを崩せば、あっという間に奈落の底に落ちていく。
この勝負はどれだけ余裕がなくても、冷静かつ正確無比に打ち続けることができる者が制する。
それなら、私にだって勝機はある!!
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細かい……。あまりに細かい……。数えている時間はない。
これは最後まで打ってみないとどちらが勝っているのかは分からない。
だけど見せてあげるよ、かさちゃん。これが早碁女王の実力だ!!
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ボンッ! さきが最後の一手を打ったとき、まるで目の前でビッグバンが起きたように錯覚した。
これで終局……、あとは駄目を詰めて整地をするだけだ。勝ってる? 負けてる?
時間さえあれば目算できていたかもしれないけれど、この持ち時間の中ではそれは難しいことだった。
整地が終わり互いの陣地を数え終わって、それでようやく勝敗がはっきりした。
その結果は、――黒番のさきの1目半勝ちだった。
「ま、負けたかと思ったぁあああぁあ!!」
さきは、――さきちゃんは、咆哮するとともにそのまま盤に覆い被さるように頭を倒し、両腕を伸ばした。
はしたないというか、それはちょっとマナー違反だ。プライベートの碁とは言え、気を抜き過ぎだろう。
「こほん。さきちゃん」
「あ、ごめん! ありがとうございました!」
「……ありがとうございました」
私たちが互いに礼をすると、見守っていたギャラリーの人たちも一斉に拍手をしてくれた。
「いやあ! すごい碁だったねえ! こんなに迫力のある碁は初めて見たよ!」
「早川プロ、この子は一体何者なんです?」
色めき立つギャラリーに気圧されてか、さきちゃんは言葉に詰まりながら答えた。
「あ、えーっと、私の、友達です……」
なんでよ、違うでしょ。
「親友でしょ、さきちゃん」
私の中に彼女へのわだかまりはもう何もない。……と言えば嘘になるが、なんだかすっきりした気分だった。
勝ち負けなんて別にもうどうでもよかった。私の一手一手に彼女が本気で応えてくれたこと、それが何よりも嬉しかった。
だけど、それにしても……、盤上に目を落としながら、私は呟いた。
「酷い碁ね。……本当に酷い」
「あはは……、いやあ、プロとしてお恥ずかしい……」
「あんたのこと言ってんじゃないわよ」
本当に、この子は妙なところが抜けてるんだから。私はこの碁の中に自分自身を見たのだ。
「こんな風にもがいて、もがいて、もがき続けて……。
それでも結局あと一歩が届かなかった。その一歩の差は小さいように見えて、とても大きい。
ほんの少し足を大きく開いたくらいでは、きっと届かないくらいに」
さきちゃんはその言葉にフォローするように言ってくれた。
「あのさ、かさちゃん……。なんて言ったらいいか分からないけど……。
その一歩は絶対に届かないってほど大きな一歩ではないんじゃないかな」
「そうね……。夜空の星にだって手を伸ばせば届くかもしれないものね。
それに、私小学生の頃に比べたら大きくなったと思わない?」
さきちゃんは少し驚いたような、それでいて嬉しそうな顔をしてから、こう返してくれた。
「……はあ? そりゃ当たり前だよ。
さっきから何言ってんのさ、かさちゃん」
「なんで分からないのかしら。
だから大きくなったから、星に手が届くかもしれないって話でしょ」
そんな言葉を交わすと、私たちは顔を見合わせて笑い合った。
そして次の瞬間、背後からぱちぱちと別の拍手の音が聞こえてきた。
「素晴らしい碁だったね、かさねくん、さきくん」
そこにいたのは、大林先生だった。その脇には何か新聞を挟んでいた。
「せ、先生……! いたんですか……!?」
「す、すみません……、全然気付かなくて」
背後の死角だった私はともかく、さきちゃんは大林先生と向かい合う形になっていたはずだから気付いてもよさそうなものだけど。
……なんて意地悪なことを言うのはやめておこう。お互いそれだけ盤上の戦いに集中していたということだ。
「大林先生も対局が終わったところですか?」と私が訊ねる。
「ああ、そのあとすぐ君を探しに来たんだが、もう君は研修部屋にいなくってね。
それで念のために他の階も見て回っていたら、ここでさきくんと打っている姿を見かけたというわけさ」
「……何か御用でしたか? 私がプロを諦めるという話の続き?」
「へっ!? かさちゃん、それ本気!?」
私はなんでもないことのように言ったつもりだけど、さすがにさきちゃんも驚くか。
それはつまり大林先生は私が打ち明けた意向を誰にも話さないでいてくれたということだ。本当に誠実な人だ。
「……そうだと言っても間違いではないが、その前に見て欲しいものがある。
せめて君にはこの記事を読んでから決断をして欲しかったのさ」
大林先生はそう言って、脇に挟んでいた新聞を私に手渡してきた。それは先月の日付の週刊碁だった。
『早川女流四冠、女性初の名人戦リーグ入り決定!』という大々的な見出しが目に付く。
「この記事が何か? 棋譜のところは見てますけど」
「見て欲しいのはそこじゃない。局後のインタビュー記事のところさ」
「え、あ、大林先生、それは――」
何故かさきちゃんが焦り出す。……一体なんだろう?
大林先生が私に見て欲しいと言い、さきちゃんが私に見て欲しくないと思うような記事って?
私は立ち上がり、暴れ始めたさきちゃんから距離を取って、その記事に目を通していく。
最初に書かれているのは、碁の内容に関する感想でしかない。なんの変哲もないインタビューに見える。
だけど、途中からは名人戦リーグ入りを決めたことについての感想を求める内容になっていた。
『ところで、これで名実ともにトップ棋士の仲間入りと言えるところまで来たわけですが、何か今後の目標とする棋士や棋戦などはありますか?』
『いえ……! 私なんてまだまだ未熟者で。プロ棋士の方は全員が目標です。
棋戦も……、がむしゃらに頑張ってきただけなので、特にどれがどうというのは……』
『それでは質問を変えましょう。何か今後夢として叶えたいことはありますか?』
『夢……、夢ですか……。ずっとずっと今より強くなりたいという気持ちだけは持っています。
……でも、夢というのは違うかもしれませんけど、ひとつだけ私が望んでいることを言ってもいいですか?』
『ええ、どうぞ』
『私、幼馴染で大好きな親友がいるんです。碁を始めたのもその子と一緒のタイミングで。
その子はまだプロになれなくて、ずっと院生をやっているんですけど、それでも私ずっと待ってるんです。
いつか、いつの日か、彼女と同じプロ棋士として対局すること、それが私の叶えたい一番の望みです!』
「読まないでーーーっ!!!」
さきちゃんが顔を真っ赤にしながら叫ぶ。しかし時すでに遅しだ。
私はもうその記事をすべて読み終えていた。確かにこれは赤面するのも仕方ない。
というか、ヤバい。めちゃくちゃにやけてきた……。私もこんな顔、さきちゃんに見られたくない……。
嬉しい嬉しい嬉しい……! そんな気持ちを背を向けて誤魔化すことにする。
「ち、違うんだよ、かさちゃん……! いや、なんにも違わないけど!
それはちょっと熱戦のあとで興奮して、ちょっと臭いこと言っちゃったみたいな感じで!」
「いいじゃない、さきちゃん。あなたの気持ち、ちゃんと伝わったわよ」
「うぅううううぅう、でも恥ずかしいよぉ……」
まったくもう。素直なんだか恥ずかしがり屋なんだか。
私は振り返り、彼女の身体を優しく抱き寄せた。
「うわっ!? かさちゃん!?」
そして、私は彼女にだけ聞こえるように言った。
「さっきのあれね、確かに全部本心よ?
でも私はあなたと出会って、仲良くなれたことには、なんの後悔もないよ。
私はあなたと出会えて本当に良かった……!」
「か、かさちゃん……。さすがに恥ずかし過ぎぃ……」
「言ってる私が一番恥ずかしいのよ!? 我慢しなさい!」
ギャラリーがいるのも忘れてしばらく抱き締め合ったあと、私たちはそっと身体を引き離した。
それを見届け終わったとでもいうように、大林先生が口を開いた。
「かさねくん、あえてもう一度訊こう。
君は本当に本気でプロを諦めるつもりなのかい?」
私はすぐに返事ができず、さきちゃんの顔を見た。それから微笑ましそうに見ているギャラリーの人たちの顔も。
そしてもちろん大林先生の顔も。みんなみんな、私を待っていた。私が人生の決断をする、その瞬間を――。
「嫌ですね、先生。そんなの、決まってるじゃないですか……」
そう言って私は大きく息を吸い込み、そこにいる誰の耳にも届くように高らかに宣言した。
そして、翌年の10月。私は日本棋院の前に立っていた。
あれから私は強くなった。と言うより、まるで別人に見違えるほど成長したと大林先生も誉めてくれたくらいだ。
結局3月まで続けることにした院生研修では、Aクラスまで上がることもできた。今年のプロ試験予選では全勝だった。
何はともあれ、私はまたもう一度ここまでたどり着いたのだ。そして、ここからが本番だ!
「かさちゃん、これからプロ試験本戦の初戦が始まるんだね?」
うしろから不意に声がする。私は振り向きもせずに答えた。
「あら、これはこれは早川名人。
女性初、史上最年少、しかも4連勝で名人位を奪取した大天才様がこんなところで油を売ってていいわけ?」
「わ、私も今日は対局の予定入ってるよ……!
そのあともし時間があったら、ちょこっとインタビューも……」
「はいはい、大天才様はお忙しそうでよろしいですこと」
「あはは、まあね」
私の皮肉にもさきちゃんは嬉しそうに笑った。本当に今、彼女は充実した生活を送っているのだろう。
それを羨ましいと思う気持ちも、なんとなく悔しいと思う気持ちもあったけれど、今は何より彼女の活躍ぶりに勇気づけられた。
そんな彼女の期待に応えるためにも、行かなくてはならない。
私は意を決して一歩を踏み出す。しかし、その背を彼女は呼び止めた。
「待って、かさちゃん!」
「何?」
私はそこで初めて振り向いた。……怪訝な顔をしながら。
せっかく人が決意を固めたところなのに、一体何が言いたいのだろうか。
「あのさ、あれはね、違うんだよ。
私がかさちゃんを待ってるっていうのはさ、別にかさちゃんに気を遣ってるとか同情してるとか、そういうことじゃないんだよ。
本当のことを言うと、私はさ――」
「……それはもう分かってるし、怒ってないってば」
「だから違うんだよ!」
「…………何が?」
彼女にしては珍しくしどろもどろな感じだ。何が言いたいのか、全然はっきりしない。
しばらく黙って彼女の顔を見つめていると、やがて彼女は物憂げな表情をしながら言葉を漏らした。
「ひとりじゃ、不安で」
……そんな風に弱音を吐く彼女を、私は初めて見た。
だからこそ、それは噓偽りのない本心なのだろうと思った。
私は思わず苦笑いを浮かべてしまう。そして彼女に近付いて言ってやった。
「まったくもう。人が大舞台に挑もうってときに辛気臭い顔見せるんじゃないわよ」
「えへへ……、ごめんね」
気付けば涙すら浮かべていた彼女の瞳を私はそっと撫でるように指で拭った。
「安心しなさい。私は必ずあんたの前に立ち塞がるわ。
同じプロ棋士として必ず……、あんたと戦うことになる。
これから先、何度も何度も数え切れないくらいに。
だからさ、さきちゃん、……ううん、さき――」
「うん」
「首を洗って待ってなさい」
「……愛の告白って、そういう言い方もあるんだ」
「もう! 茶化すのはやめて!」
それだけ言い残すと、私はもう一度さきに背中を向けて歩き始めた。
さあ、行きましょう。プロ試験なんて別に何も怖くない。
このハードルを越えた先がようやくスタートラインなんだから。こんなところで躓いてなんかいられない。
私の目指す先はもっともっと遠いところにある。煌めく星を追いかけて、私はここまでやってきたのだ。
私は絶対にいつかその星を掴み取ってやる。そうだ、絶対に……。
秋晴れの空は夜には満天の星を咲かせることだろう。
そよぐ秋風が私の頬をそっと撫でた。