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中編

「あの人と結婚したとき、お互いもう30代後半だったから。私たち夫婦には子供がいないのよ。

 だから、さきちゃんとかさちゃんの成長がまるで我が子のように楽しみだった。私もあの人もね……。

 だからこそ、あの人はあなたたちに心配をかけたくなくて、癌のことは黙っていてくれって私にお願いしてきたのよ」

 また突然碁会所のお休みがしばらくあって不思議に思っていたところ、千鶴子さんからそんな電話があった。

 その日はゴールデンウィークで学校もお休みだったから、自分の家にいた私はすぐにさきちゃんに連絡をした。

 そして話し合った結果、私とさきちゃんと千鶴子さんの3人で直接会って話をしようということになった。

 千鶴子さんも電話越しにそれを了承してくれて、私たちは近くの喫茶店に集まったのだ。


「……それじゃあ、正月明けにはもう……?」

 私の問いかけに千鶴子さんは静かに首を縦に振った。去年の末、大晦日を向かえようかという夜に哲さんは突然お腹に激しい痛みを感じて病院に緊急搬送されたのだという。

 検査をした結果、肝臓からの出血が確認され止血のための手術をし一命は取り留めたものの、その後の精密検査により肝臓癌の末期に至っていることが判明した。

 肝臓は「沈黙の臓器」と呼ばれ、癌になっても初期にはほとんど自覚症状が出ない、……という話を何かの本で読んだような気がする。

 気付いたときにはもう手遅れだったのだろう。それから約2ヶ月間はそのまま入院し治療を続けることになったそうだ。

 碁会所をお休みしていたのは、そういうわけだったのか……。



「でもね、あの人が悪いんですよ。自業自得だわ。

 もう何年も前からお酒もタバコもすぐにやめるようにお医者さんに言われていたのにやめられなくって」

「……? 哲さん、タバコ吸ってたんですか?」

 千鶴子さんは突き放すような言い方をしたけれど、それはきっと自分の心を守るためにあえてそうしているのだと思った。

 人生の伴侶を再び喪い、つらい思いをしているに違いない。心中察するに余りある。

 気になるのは哲さんがタバコを吸っていたというところだ。

 確かに最初に会ったとき、灰皿にタバコの吸い殻が山ほどあったのは覚えている。

 だけど、それ以来哲さんがタバコを吸っている姿はほとんど見たことがない。だから私はてっきり禁煙しているのだと思っていたのだけど……。


「あなたたちの前で吸うのをやめていただけよ。

 小さい子供にタバコの煙を吸わせるわけにはいかないってね。

 いつもあなたたちが帰るとすぐにぷかぷか吸い始めていたわよ」

「そう、なんだ……」

 さきちゃんはぼそりとそう呟き、物思いに耽っている様子だった。

 私も胸の奥がきゅっと締め付けられる感覚を覚えた。それだけ哲さんは私たちのことを大切に思っていたのだ。

 改めて哲さんの心境を慮ってみると、何故私たちの成長にあれほど喜んでいたのかも分かる気がする。………………。



「でも考えてみたら、その分タバコを吸う本数は減っていたから、あなたたちのおかげで寿命が延びたのね。

 ……本当のことを言えば、入院を続けていればもっと長生きできたのでしょうけれど。

 お医者さんに持ってあと数ヶ月の余命だと申告されて、もう回復の見込みがないと分かると自宅療養をする道を選んだの。

 最期まであの碁会所であなたたちの成長を見守りたかったから……」

 それはつまり私たちのおかげで伸びた寿命の分、私たちの成長を見届けることができたということで……。

 もしその時間がなければ、私は哲さんに互先で勝つことはできなかったかもしれない。



「あの、すみません。こんなときに訊くことじゃないかもしれませんけど――」

 一瞬、躊躇った。悲しみの底にいる千鶴子さんに今この場で決断を迫るような質問をしていいのだろうかと。

 だけど、この機会を逃したら次にいつ千鶴子さんに会えるのか分からない。ここで訊くしかないと思った。

「あの碁会所はどうなっちゃうんですか? 哲さんがいなくなったらあそこは……」

 碁会所の営業を続けることは難しいだろう。でも、せめて哲さんが大事にしてきたあの場所は何かの形で残せないものだろうか。

 私はすがるような想いで千鶴子さんに問いかけた。

「それが悩んでいるところなのよ。私は囲碁はさっぱり分からないものですから。

 あの人は『碁盤の貸し出せる喫茶店ってことにでもすりゃいいじゃねえか』って笑ってましたけど。

 それにしたってすぐに営業開始できるものじゃありませんし。手続きとか発注とかいろいろあるのよ」

「そう、ですよね……」

 困ったような表情を浮かべながらそう言った千鶴子さんに、私はそれ以上何も言えなくなってしまった。


「どんな形であれ、あの場所が残るなら私たちはまた遊びに行きますよ! ね、かさちゃん!」

「……うん、そうだね」

 さきちゃんの明るさのおかげで、その場はそれ以上暗い雰囲気にはならなかった。

「ありがとう、ふたりとも……」

 千鶴子さんがそう柔らかく微笑むと、そのあとは碁会所での思い出話に花を咲かせることとなった。



 それからお店を出るとき、お会計は千鶴子さんがすべて払ってくれることになった。

 私たちも自分が飲んだコーヒーの分くらいは払えるけれど、そのご厚意に甘えさせてもらうことにした。

 さきちゃんはお店を出ると大きく伸びをした。身体が凝ってそうしたというより、そうやって気持ちを切り替えているのだろう。

「それじゃ、千鶴子さん。今日はごちそうさまでした!」

「ご、ごちそうさまでした……」

「いえいえ、いいのよ。

 ふたりに話を聞いてもらえて、私も心が軽くなったわ。

 また何か進展があれば連絡するからね」

 そんな風にやり取りしたあと、さきちゃんは千鶴子さんを家まで送っていこうとしたけれど、千鶴子さんはここで大丈夫だからとそれを断った。

 そうなると、千鶴子さんの家は私たちの家とは反対方向らしいから、ここでお別れだ。

 私とさきちゃんは千鶴子さんに別れの挨拶とお辞儀をして歩き出した。しかし、その背後から引き止めるような声をかけられた。


「さきちゃん、かさちゃん」

「「はい」」

 振り返ると、そこには深々とこちらに頭を下げた千鶴子さんの姿があった。

「あの人に、幸せな最期を与えてくれてありがとうございました……」

 そのまま千鶴子さんは顔を上げることはなかった。――何も、かける言葉は見つからなかった。

 私たちは曖昧に笑うと、もう一度会釈をして今度こそ帰路についた。



 帰り道、さきちゃんはずっと黙っていた。並んで歩いているときに彼女がこれだけ長い間沈黙を続けるのは珍しいことだ。

 かく言う私も何を話していいのかまったく分からなかった。だけど、それでいいのかもしれない。

 言葉を交わすだけが想いを通じ合わせる方法というわけではないのだから。

 私もこのまましばらく沈黙の時間に身を委ねることにしよう……。きっと今の私たちにはそれが必要なのだ――。



「かさちゃん!!」

「え、あ、はい!? なになに、どうしたの、さきちゃん!?」

「……いや、かさちゃんこそ。そんな驚く?」

「ご、ごめん、考え事してて……。それで何?」


 ……前言撤回。やっぱりさきちゃんに沈黙は似合わない。

 私が問い返すと、さきちゃんは曲がり角を指差しながら言った。

「ちょっと寄り道していかない?

 久しぶりに公園でブランコにでも乗って遊ぼうよ」

 空はもうすっかり青黒く染まっている。

 中学生になって少し門限は伸びたけれど、早く帰らないとお母さんに心配されてしまう。

 それに……、この年になってブランコで遊ぶだなんてちょっぴり恥ずかしい。

 私たちもう中学生だよ? そんな言葉が口をついて出そうになったけれど、これは「ふたりきりでゆっくり話がしたい」ということだと直感した。

 それなら答えは決まっている。お母さんには「少し遅くなる」とメッセージを送っておけばいい。

「分かった。向こうの公園だね」

 私はそう了承すると、さきちゃんの手を取って夜の帳に包まれた道を再び歩き出した。



 見慣れたはずの公園も、こうして夜に訪れるとどこか別世界の景色のように感じられた。

 街灯の明かりがぼんやりと遊具たちを照らし出している。

 私たちはその中のひとつのブランコにそれぞれ腰かけると、ゆっくりと揺れ始めた。

 静寂の闇夜に金属の軋む音が響き渡る。一定のリズムで繰り返されるその音と、時折吹き抜ける夜風がなんだか心地よかった。

 ただ、こんな姿を見知らぬ通行人に見られたら非行少女だと思われてしまうかもしれない。今のうちに言い訳を考えておこうかな。


 さきちゃんは、中学校でできた友達の話とか学校の勉強が大変だとか他愛ない話をしてくれた。

 ……かと思ったら、体育の話になってテンションが上がったのか突然立ちこぎを始めて加速すると、なんとそのまま前に向かって飛んだ。

「よーし、着地成功!」

「うわっ!? 何してんの、危ないでしょ!」

「えー、平気だって、これくらい」

 そう言ってさきちゃんはそのまま平均台に上がって夜空に向かって手を伸ばし始めた。

 まったくもって危なっかしいったらありゃしない。私は思わず立ち上がり、彼女の元へと駆け寄った。



「今度は何? 転ぶからやめたほうがいいよ」

「うーん、ちょっと待って。あともうちょっとだから」

 もうちょっと? 何が?

 さきちゃんは必死に背伸びをしながら、何かを掴み取ろうとしているが、彼女の頭上には何も見当たらない。

 変わった子だとは思っていたけれど、ここまで突拍子もない行動をとるのは初めてのことだった。

 それでも何か真剣な眼差しをしているので止める気にはなれず、私は彼女が転んだときに支えられるような場所で見守ることにした。


「何をしようとしているの?」

「お星様!」

「はい?」

「だーかーらー、私は星を掴もうとしてるの!

 ……うわっとっと!!」

 その直後、さきちゃんの身体が大きく傾いた。

 彼女はなんとか平均台に踏み留まろうとしたようだけれど、結局はバランスを崩してしまい、私の方へ倒れこんできた。

 慌てて彼女を抱き留めたが、その勢いのまま地面に尻餅をついてしまった。


「ごめーん、かさちゃん……」

「ほら! だから言ったでしょうが!?」

「でもさー、私小学生の頃に比べたら大きくなったと思わない?」

「……はあ? そりゃ当たり前でしょ。

 さっきから何言ってんのよ、あんた」

 訳も分からず呆れていると、さきちゃんは何事もなかったかのようにブランコに座り直し、おいでおいでと私に向かって手を振った。

 私は溜息をつきながらも、彼女に促されるまま隣に座り再び揺れ始めることにした。


「なんで分かんないかなー。

 だから大きくなったから、星に手が届くかもしれないって話だよ」

「馬鹿ね、星に手が届くわけないじゃない」

「うーん、届きそうな気がするけどなあ」

「あのねえ――」

 ……いや、これは何かのたとえ話なんだろうか。

 その真意を掴み切れずに困っていると、さきちゃんは今まで見たことないような大人びた表情で口を開いた。



「私ね、プロになろうと思うの」

「プロ? なんのプロ?」

「あはは、囲碁のプロに決まってんじゃん」

 私たちまだ中学生だよ? そんな言葉が口をついて出そうになったけれど、これは決して茶化していい話ではないと直感した。

 それ故に私はただ黙って彼女の話の続きを待つことにした。

「……私も私なりにさ、いろいろ考えたんだよ。哲さんがいなくなって、これから先どうするべきなのかなって。

 中学で囲碁部を立ち上げたりするのもいいかもしれないけど、目標もなく碁を続けても哲さんは喜ばないんじゃないかなって。

 きっと誰よりも上を目指して強くなることこそが哲さんへの何よりの供養になるんだと思う」

「だからっていきなりプロなんて……」

「いきなりじゃないよ。初めは院生。

 前に話したでしょ? 少年少女囲碁大会の決勝で戦った子が昔、院生っていうプロの養成所に通う生徒だったって。

 実は今でもときどきその子とやり取りしてて、話を聞いてるうちに強い子たちに囲まれて頑張るのも面白そうだなって思ったの。

 でも哲さんの碁会所で過ごす時間も大切だったから、どうしようかなって悩んでたんだ。

 ……だからいきなりじゃないよ。ふたつの意味でね」

「……そんなこと考えてたんだ」


 急に、彼女が遠い存在になったように感じた。さっきまで公園の遊具で危なっかしい真似をしていた子と同一人物だとは思えない。

 私は将来のことなんて、まだ考えなくていいと思っていた。もちろん囲碁の世界では中学生でプロになる子もざらにいるとは知っている。

 だけど、そんなのは私には全然関係ないことだと、まるで別世界のことのように捉えていたのだ。

 でも、さきちゃんにとってその世界はほんの少し手を伸ばせば届きそうなほど、近くにあるものだったらしい。

 そんなの、私にはとても考えられない。私にとってそれはあまりにも――。



 次の瞬間、雲間からお月様が顔を覗かせた。


「私の夢はそれだけじゃないよ」

 ……あれ、おかしいな。

「私はかさちゃんとずっと一緒に過ごしていたい。

 かさちゃんとずっと一緒に碁を打っていたい。

 かさちゃんとずっと一緒に笑っていたい」

 なんだか変だな……。不思議な光景だ……。

「かさちゃん、お願い!

 私と一緒に院生になろう。かさちゃんにも私と同じ道を歩んで欲しいんだ。

 大丈夫、私たちならどこにだって行けるよ!」

 月明かりってこんなにも眩しかったっけ……?


 差し伸べられた手を取る勇気は、私にはない。だからこれは勇気なんかじゃない。

 私の手はカタカタと震えていた。とてつもなく恐ろしい。

 この手を取ればきっともう後戻りなんてできない。

 それどころか進んだ先には地獄が待ち受けているかもしれないのだ。

 それでも私は迷うことなんてなかった。他に選ぶ道など、どこにもないのだから。


「うん、行こう。どこまでも一緒に……」

 私がその手を取ると、さきちゃんは満面の笑みを浮かべてくれた。

「ありがとう、かさちゃん! それでこそ私の親友!」

 そして私たちは手を取り合ったまま立ち上がり夜空を見上げて、もう片方の手を高く掲げた。

 まるで哲さんが煌めく星になって、私たちを見守っているとでもいうかのように。

 冷たい風が火照った身体をひんやりと冷ましてくれた。今夜は冷え込むらしい。



「へっけちゅ!」

「……風邪引く前に帰ろうか」




 院生試験。それは毎年3ヶ月ごとに行われる院生になるための試験らしい。

 私たちが募集の締め切りに間に合ったのは、7月期の試験だった。

 履歴書みたいな志願書を提出し書類審査を通れば、1万円を超える受験料を払ってようやく受けることができる。

 つまり十分な棋力や適性がないと見なされれば門前払いを受ける可能性だってある。この時点ですでに狭き門なのだ。


 ……とは言え、少年少女囲碁大会で3位以内に入った私たちはそこはクリアしていたようで、すぐに試験の日時の連絡があった。

 さきちゃんにも確認すると私は彼女の試験のすぐあとに受けることになっていた。

 場所は日本棋院。ここを訪れるのは去年8月の少年少女囲碁大会本戦以来だ。

 私はお母さんと一緒に受付に向かい、前の子、つまりさきちゃんの試験が終わるまでしばらく待つように指示されたが、すぐにエレベーターの扉が開いてさきちゃんとそのお母さんが歩いてきた。

「さきちゃん!」

「あ、かさちゃん! このあと試験だよね?」

「うん……、さきちゃんはどうだった?」

「へへん、当然合格!」

 さきちゃんはにぃっと笑ってVサインを見せつけてくる。それを見て私は自分のことのように胸を撫で下ろした。

 そして彼女は「かさちゃんも絶対受かるよ!」と応援の言葉を口にするとともに、私にハイタッチを求めてきた。

 私はそれに力強く応える。さきちゃんの純朴な後押しが何よりも心強かった。



 受付の人によれば試験は少なくとも1時間くらいはかかるらしい。それまでお母さんは外の喫茶店で待っててくれることになった。

 緊張しながら私は受付の人とともにエレベーターに乗り込む。その扉の隙間から大きく手を振るさきちゃんの笑顔が見えた。

 私がそれに気付いて手を振り返そうとする前に無情にも扉は閉まり、エレベーターは上の階を目指して動き出した。

 さきちゃんの姿が見えなくなると急に不安が押し寄せてきて、胸が苦しくなった。

 もしも私だけがこの院生試験に落ちたら、少なくとも土日はほとんどさきちゃんと会うことはできなくなるだろう。院生研修があるからだ。

 それだけじゃない。そのままさきちゃんは私の手が届かないくらい遠くへ行ってしまうかもしれない。そんな気がする。

「ふぅー……」

 深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。不安な気持ちに押し潰されるな、私。

 少年少女囲碁大会では3位だった。哲さんにも互先で勝つことができた。

 それがもしたまたまだったとしても、今度もまたその奇跡を起こせばいいだけのことだ。

 さきちゃんだって、絶対受かると言ってくれた。だから、きっと大丈夫だ。



「それでは、こちらの部屋へどうぞ。

 すでに院生師範の先生がお待ちになっています」

 エレベーターから降りると、受付の人は私を試験の部屋まで連れて行き、そう言った。どうやら案内はここまでらしい。

「ありがとうございます」

 お礼を言ってその部屋に入ると、眼鏡をかけた細身の男性が椅子に腰かけていた。

 おそらく40代くらいで少々陰のある印象を受けるけれど、いわゆるイケメンの部類に入ると思う。

 なんというか、あれだ。少女漫画で女子生徒と禁断の恋に落ちる先生みたいな感じだ。

 ……いや、そういう漫画を読んだことがあるわけじゃないけど。イメージね、イメージ。


「こんにちは。雨宮かさねくんだね? どうぞそちらの席におかけなさい」

「あ、すみません……。失礼します」

 ノックも挨拶もなしに部屋に入ったのは失敗だったかもしれない。

 扉を開けてすぐ目の前に先生がいるとは思ってなかったのだ。こういう悪印象も試験に影響するんだろうか。

 私は促されるまま椅子に腰かける。先生とは正面に向き合う形となり、間には碁盤と碁笥の置かれた机があった。

 試験の部屋が洋室なのは少々意外だ。和室で正座をしながらするものかと思っていた。

 椅子もパイプ椅子や安物の椅子ではなく、お父さんの書斎にあるようなしっかりした硬い椅子でなんとなく落ち着かない。

 でも少年少女囲碁大会のときも3位決定戦まで含めてホールで対局したっけ。

 尤も決勝戦は和室の部屋で行われたようだけど、どう使い分けてるのかな。

 ――っと、いけないいけない。"細かいこと"を気にし過ぎるのは私の悪い癖だ。



「僕は院生師範の大林学おおばやしまなぶだ。

 一応プロ棋士としては七段で打たせてもらっている。よろしく頼むよ」

「は、はい! よろしくお願いします……」

 大林と名乗った先生は私が提出したものとみられる志願書を片手に柔和な表情を浮かべた。

「そんなに緊張しなくていいよ。

 君は去年の少年少女囲碁大会で3位だったんだろう? それなら実力は十分だ」

「あ、はい……。でも、準決勝ではさきちゃん相手に散々な結果で……。

 3位決定戦もなんとか勝てたって感じなので、結果にふさわしい実力があるかは――」

「はは、君は随分謙虚なんだね。それとも本当に自信がないのかな。

 前者ならいいが後者なら、もっと堂々とするべきだ。

 でなければ、君に負けた相手にも失礼だし、これから先厳しい世界で勝ち抜いていくことはできないだろうからね」

「す、すみません!! そんなつもりじゃ――」

「さきというのは、さっき試験を受けた子だね? 君の友達なのかい?」

 大林先生は私の謝罪を無視して話を続けた。別にお説教のつもりではない、ということだろう。

 君にはこれから先、プロ棋士を目指す道を進んでいく覚悟はあるのかと問いかけられているような気がした。


「あ、はい。さきちゃんとは小学2年生の頃からずっと友達で」

「学校のお友達? ああ、少年少女囲碁大会の結果は見させてもらっているよ。

 同じ小学校の子が3位以内にふたり入賞していたから気になっていたんだ」

「はい。昼休みに読書をしていたら、さきちゃんが話しかけてきて、それから仲良くなったんです」

「それはいいね。同世代の子がライバルとして身近にいるのはお互いのためになる」

 ライバルなんて――。そう言いかけた口を私はそっと閉じる。

 多分これは面接じゃなくて、私の緊張をほぐすために雑談をしてくれているのだ。

 なら、無暗に反発するのはやめて素直にその言葉を受け入れよう。そうでなくても、なんでも否定から入るのは相手に失礼だ。


「さて、そろそろ試験碁を始めようか。三子置いて」

「はい、よろしくお願いします」

 そうして始まった試験碁は三子の置き碁、つまり私のほうがみっつ分のハンデをもらって打ち始めた。

 いざ始まってしまえば、それほど緊張はしない。ただ普段通りに打てばいいだけだ。

 それに正直、三子ももらえばプロ相手でもなんとかなるんじゃないか。私は特に根拠もなく、そんな風に思っていた。



 ――甘かった。所詮は浅はかな素人考えだった。

 序盤に打たれた定石はずれにはなんとか対処することができたけれど、形勢はじわじわと大林先生のほうに傾いていった。

 悪手を打っているつもりはない。だけど、大林先生のほうが常に私の読みより一歩上をいくのだ。

 しかも、こちらがコウを制して大石を仕留めたかと思えば、大林先生はフリカワリでもっと大きい私の石を殺してしまった。

 打たれてみると、初めからこうなるように手を誘導されていたかのような気もする。

 これが高段者のプロ棋士……。まるで私の心の内を見透かして、私がどう打つのかすべて計算し尽くしているみたいだった。


「ふむ、これくらいにしておこうか。君の力は十分に分かったよ」

「はい……、すみません、不甲斐なくて……」

「いやいや、冷静沈着な打ち回しだったよ。

 この定石はずれの対策は知っていたのかい?」

「いえ……、でもあまり見たことのない形だったから、何か上手い対処法はあるんじゃないかと思いました。

 そうでなければ、みんなその手を打っているだろうから……」

「ははは、やはり冷静だ。まあ、この定石はずれを打ったほうもそれほど悪くはなっていないのだけどね。

 代わりに先手で別の急場に回ることができたからね。結果的には五分の分かれさ。

 それにしても志願書を見るに、師匠や推薦者はいないとのことだけど、普段はどんな勉強を?」

「さきちゃんから訊いてませんか?

 私たちプロの師匠はいませんけど、梶原哲さんっていうおじいさんの碁会所にずっと通ってて。

 哲さんは昔県代表にもなったことのあるアマチュアの強豪で、随分と鍛えてもらいました。

 もう亡くなってしまいましたけど……」

 それを聞いた大林先生は少し目を細めたあと、申し訳なさそうに俯いた。


「それは……、つらいことを思い出させてしまったかな」

「いえ……、悲しいことですけど、多分哲さんは最期まで幸せだったので……」

「しかし、師匠はいたほうがいい。僕の知り合いでよければ紹介しよう」

「え、それって……」

 師匠がつくということは本格的にプロを目指すということだ。

 大林先生は私にそれに見合う実力と資質があると判断したことになる。つまりこの試験の結果は――。

「ああ、話の順序が前後してしまったね。

 君も来週末から、ここに来なさい。もちろんさきくんと一緒にね」




 それから次の土曜日、私たちは再び棋院を訪れた。もちろん院生研修に参加するためだ。

 私たちが来たとき、会議室みたいな部屋には院生とみられる子供たちがすでに多く集まっていた。

 私たちは呆然と立ち尽くしたまま、その光景を見回した。

「かさちゃん、かさちゃん。ここにいる子たち、みんな院生なんだよね。

 私たちよりもずっと小さい子もいるけど……」

 私の耳元でひそひそ話をするようにさきちゃんがそう口にした。

 子供と言っても、ここには小学生から高校生までの年齢の子が集まっている、……らしい。

 さらに正確に言えば、原則として院生でいられるのは満17歳を迎える年度まで……。

 院生を卒業してもプロ試験は23歳未満まで受けられるものの、院生期間中に合格できなければプロになるのは難しい。

 すでに中学1年生の私とさきちゃんにはそれほど長い時間は残されていないのだ。

 改めて自分たちが恐ろしく厳しい世界に足を踏み入れてしまったことを実感する。そこに大林先生がやってくる。



「おや、ちょうどいい。おはよう、ふたりとも。

 このまま自己紹介の時間にするから、そこで立っていてください」

 その指示の通り、私たちが入口の扉近くで立っていると、大林先生は集まっている院生の子たちに挨拶をした。

「皆さん、おはようございます。ああ、すでに席についてる子はそのままで結構。

 まだ来てない子もいるかもしれないが、今日から新しく仲間になるふたりに自己紹介をしてもらおう。

 それでは、さきくんからどうぞ」

「は、はい! 早川さき、中学1年生です!

 趣味はゲームとドッ、……読書です! よろしくお願いします!」

 今ドッジボールって言おうとしたな……。

「さきくんは去年の少年少女囲碁大会小学生の部で2位だった子だ。

 ここでもその実力を発揮して切磋琢磨してくれることを期待しているよ。

 それでは次は、かさねくん」

「あ、はい……。私は雨宮かさね、中学1年生です。

 さきちゃんとは小学生の頃からの幼馴染で……。

 私は少年少女囲碁大会では3位でしたけど、これから一生懸命頑張りますのでよろしくお願いします!」


 ざわざわ……、ざわざわ……。研修部屋が俄かに騒がしくなる。

 何かまずいことを言ってしまったのかと思ったけれど、漏れ聞こえる話を聞くとそうではないようだった。

「1位って誰?」

東谷ひがしたにだって。あいつ家庭の事情で院生辞めたけど、強かったよな……」

「決勝の棋譜は見たけど、少なくとも2位の子は相当強いよ」

「少年少女囲碁大会で3位なら、あっちも十分強いだろ……」

「今年は間に合わなくても来年のプロ試験は――」

 そんな声が聞こえてくる。どうやら私たちのことを強敵が現れたと認識しているらしい。

 さきちゃんに対してならともかく、私に対してその評価は買いかぶり過ぎだろう。

 私は初心者だった頃を除けば、さきちゃんに互先で勝ったことは一度もないんだし……。


「皆さん、静かに。確かにプロ試験ではライバル同士になりますが、ここではお互いを伸ばし合う仲間です。

 仲良くしてあげてください。さきくんもかさねくんも分からないことがあればみんなに遠慮なく訊くように」

 大林先生が場を鎮めると、一瞬で研修部屋の空気が引き締まった。

 この切り替えの早さがプロを目指す者たちの心構えといったところだろうか。

 ぴりぴりとした緊張感が私の肌を突き刺す。私も気を引き締めないと身体中が穴だらけになってしまいそうだ。

 それから大林先生に案内されて、私たちはそれぞれ本日最初の研修手合の相手の前に腰かけた。

「お願いします」

「お願いします」

 さあ、ここからだ。私がプロになれるかどうか、この一戦で行く末を占おう。

 さきちゃんと一緒にいられる未来を掴むためには、こんなところで負けてられない!



「……ありません」

 これで私が投了の宣言をするのは本日3度目だ。

 勝てなかった……。しかも、手も足も出なかった。これが院生のレベルか……。

「ここの攻め方は少々無理をし過ぎだね。もう少し一歩引いた打ち方をしないと。

 たとえば、このツケを打った手で――」

 対局終了後の検討に大林先生も加わっていろいろ教えてくれているけれど、私の頭には何も入ってこなかった。

 その手が悪手なのは分かってる。打つ前からそんな気はしていた。

 問題はどうして分かっていながら、そんな手を打ってしまったのか……。自分でも理解ができなかった。


「そろそろ帰ろうか、かさちゃん」

 院生手合がすべて終わりしばらくしてから、さきちゃんがそう話しかけてきた。

 そんな彼女は3連勝、一方私は3連敗……。お互い何も言わずとも勝敗表を見れば、戦績は分かる。

 その結果を受けてか、さきちゃんもどことなく遠慮がちな態度だった。

 けど、その日の帰り道では勝敗の話なんて一言もしなかった。彼女が私に気遣ってくれているのが分かる。

 だからこそ、私は惨めな気持ちを抱えたまま、その夜はベッドに倒れ込むようにして眠りについた。




 その翌日の日曜日にはなんとか1勝したけど、それ以外は負けたから1勝2敗……。

 その次の土日も、さらにその次も結果は散々だった。

 さきちゃんは「最初だから調子が出ないだけだよ」とか「たまたまスランプになってるだけだよ」とかフォローしてくれたけど、何ヶ月経っても自分の思った通りの碁は打てなかった。

 自分の力はこんなものじゃない。もっともっと打てるはずだ。

 そう思えば思うほど深みにはまっていくような感覚に襲われた。


 現在、院生のクラス分けはAクラスからDクラスまである。昔は1組2組というクラス分けだったのが、さらに細分化された形となる。

 人数によってはEクラス、Fクラスまで備えられることもあるらしいけど、今はDクラスが底辺だということだ。

 私はそのDクラスですらまともに勝てない日々が続いたのだ。

 それでもなんとか頑張ってCクラスまでは上がったけれど、その間にさきちゃんはAクラスの上位まで上がっていた。

 それが私たちが院生になって1年ほど経った頃のことであり、プロ試験開始が目前に迫っていた。

 でも、それに参加できるのは院生の中でも上位の子たちだけ。Cクラスの私には出場資格すら与えられてはいないのだ……。


「かさちゃん、あのさ……。久しぶりにお昼食べに行かない?

 ここしばらくずっとゆっくり話す時間もなかったしさ……」

 ある日のお昼休み、おずおずとさきちゃんが私を昼食に誘った。

 ……いつからだったっけ。彼女がこんなにもよそよそしくなったのは。

 だけど、それも当然か。私が何かと理由をつけてお昼や帰りの誘いを断り続けていたからだ。

 こんなにも差をつけられて、私は彼女に一体何を話せばいいのか分からない。当たり障りのない会話をするのも疲れる。

 もう放っておいて欲しいという意思を伝えているつもりなのだが、伝わっていないのか伝わっててあえてしつこく誘い続けているのか。

 いずれにせよ彼女は今でも私の親友であり続けようとしてくれていた。

 その気持ちは嬉しいけれど……。私は今日も誘いを断ろうと口を開きかけた、その次の瞬間だった。



「さーき! 一緒にお昼行こっ!

 早くしないと時間なくなっちゃうよー?」

 そう言ってさきちゃんに飛びついてきたのは、さきちゃんと同じくAクラス上位の倉橋茂美くらはししげみという子だった。

 学年は私たちと同じだが、軽薄そうな感じがなんだかいけ好かない。多分どうやっても仲良くなれないという予感がする。

「あ、しげちゃん……。でも今日は――」

「別に行ってくればいいでしょ。好きにすれば?」

 私は対局途中の碁盤をそのままにさっさと立ち上がって、さきちゃんに背を向けて歩き出した。


「うちらAクラスがCクラスの子なんか構ってどうすんの?

 幼馴染だかなんだか知らないけど、ほっといたら?」

「で、でも、かさちゃんは私の大切な……。待ってよ、かさちゃん!」

 私はさきちゃんの叫びを無視して、どんどん歩いていく。

 ここで振り返ったって茂美の不愉快な顔を見ることになるだけだ。


「その碁の続き、ひとりで考えたいから」

 吐き捨てるような台詞を残して私は研修部屋をあとにした。

 その間にも茂美はさきちゃんにしつこく絡んでいるようだった。

「ほら、さき。本人もああ言ってるんだし。

 それに変な同情なんかかけても、その子のためにもならないしー?」

「わ、私はそんなつもりじゃ――」

 つんざくような黄色い声が耳に響く。私は視線を動かすこともなく、廊下を突き進んでいった。

 さきちゃんが優しい子なのは知ってる。だけど、今はその優しさがつらかった。




 そして、ついにプロ試験本戦が始まる。院生上位のさきちゃんは予選もなしでいきなり本戦出場だ。

 正確にはプロになる方法はいくつかあって、たとえば4月から6月の院生成績で総合1位の子はすでに合格となった。

 他にも女性には特別枠の試験や推薦枠があるし、関西や中部からプロ棋士になる人もいる。

 しかし、私にはそのいずれも関係のない話だ。今はまだプロになれる基準には達していないのだ。

 さきちゃんからは、プロ試験の勝ち負けがどうとかっていう連絡は来なかった。

 それどころかプロ試験中は土日に彼女と会うことはなく、学校のクラスも別だったので、ほとんど話す機会もなかった。

 だけど、直接聞かずともその勝敗は漏れ聞こえるもので、開幕から何連勝中だとかって話だった。

 ……もちろん親友の活躍が嬉しくないわけじゃない。だけど、彼女が私の手の届かない存在になっていくのがどうしようもなく寂しかった。




「さきちゃん、プロ試験合格おめでとう」

「あ、ありがとう、かさちゃん……。

 嬉しいよ、かさちゃんが喜んでくれて」

「何言ってんのよ。喜ばないわけがないでしょう?

 あんたは私の無二の親友なんだから」


 ――それは本心だ。プロ試験をトップの成績で合格し、院生の研修部屋に報告しに来た彼女に私は心からの祝福を送った。

 その一方で、正真正銘私と彼女の立場に違いが生まれてしまったことに内心ショックを受けていた。

 これから先はプロ棋士と院生の関係になる。プロは学校の授業を休んで棋戦に参加することも多い。

 彼女ならすぐに大忙しになることだろう。まともに会って話す機会すらもう恵まれないかもしれないのだ。

 私も早くプロにならないと……、そうでなければもう二度と、彼女と肩を並べて歩くことなんてできない……。

 こぼれ出る涙を指で拭いながら喜ぶさきちゃんを前にしたまま、私は憂鬱な気持ちを抱えていた。




 このままじゃいけない。今よりずっと強くならないと。そのためには猛勉強が必要だ。

 そう思うと学校の授業すら煩わしくなる。……いっそサボってしまおうか。

 そんな思考がわずかに頭を過るが、さすがにそういうわけにはいかない。

 代わりに頭の中の碁盤でひたすらイメージトレーニングをする。授業の内容なんて聞いちゃいない。

 学校が終わればすぐさま研究会で研鑽を積む。それが終われば家で夜遅くまで棋譜並べだ。

 そんな生活を気が遠くなるほど続けて、中学3年生にしてようやくBクラスの上位に上がった私は、初めてのプロ試験に挑むこととなった。


 ……と言っても、いきなり本戦に出場したさきちゃんとは違い、私は予選からの挑戦となる。

 この中でプロになれるのは本戦成績の上位2名のみ。正直なところ、未だBクラスの私が今回合格できる可能性は限りなく低い。

 それでもプロになりたいという気持ちだけは誰にも負ける気がしなかった。それだけが私の原動力なのだから。


 でも、想いだけで勝てるのならば、誰も苦労はしない。……いや、そうじゃない。

 そもそも想いの強さなら勝ってるなんて自信が思い上がりに過ぎなかったのだ。


 ――私の成績は結局、予選敗退。初めてのプロ試験は無残な結果に終わった。




『早川快挙、女流棋聖を奪取!』

『囲碁界の新星、女流三冠へ』

『早碁女王クイーンから新人王に。悲願の男女混合棋戦優勝』

 日本棋院が発行する囲碁の新聞『週刊碁』の紙面を私の親友が華やかに賑わす。

 記事を読むと『囲碁界の新星』だとか『早碁女王』だとか大仰なあだ名が彼女につけられていた。

 突然おかしなことをするし、そうでなくても抜けてるところもある彼女の姿を思い出すとなんだか笑ってしまう。

 だけど、それは私だけがみんなが知らないさきちゃんのことを知っているわけではなく、私だけが"今のさきちゃん"を知らないだけなのかもしれないと気付くと絶望した。

 高校1年生になった私はそんなニュースが飛び交う間にもプロ試験に挑んだが、やはり予選敗退だった。

 そんな自分を不甲斐なく思うと同時に、煌めく星になった"さき"への劣等感と嫉妬が抑えられない。

 この頃から私はさきに関する記事は棋譜、――つまり対局の内容を記入した記録以外は目を逸らすようになった。

 彼女を嫌いになりたくなかったからだ。


 師匠の研究会へと運ぶ足も重い。こんな生活、いつまで続けるんだろうか。いつになったら終わりになるんだろうか。

 そもそも私、なんのために頑張ってるんだっけ……? プロになりたいから? 本当に?

 私はとっくに気付いている。これはただ、大好きな親友のさきへの執着心を捨てられないだけなのだ。

 その心さえ捨ててしまえば、いつだって終わりにできる。別にプロの世界になんて、なんの憧れもない。

 だけど、それでも――、


「あと1年だけ、頑張ってみようかな……」

 院生でいられる最後の年度まで頑張って、それで駄目ならもう仕方ないと諦めもつく。

 「あのときもう一度挑戦していれば」なんて後悔するくらいなら、当たって砕けろの精神でいこう。

 そんな思いで挑んだ次のプロ試験ではどうにか本戦へと駒を進めることがきた。……囲碁なのに「駒を進める」はおかしいか。

 でも将棋の世界でも「一目置く」とか「白黒つける」とか言うでしょう? おっと、また余計なこと考えてる。




 集中しなきゃ。

「……負けました」

 もっと目の前の一局に真剣に取り組まないと。

「……ありません」

 一歩一歩を大事にすれば、いつかは必ず。

「黒の6目半勝ちですね」

「……ありがとうございました」


 ――おかしいな。どうして勝てないんだろう。私はこんなにも一途で一生懸命なのに。

 今日の対局も午前中の展開まででもすでに酷い有様だ。

 当然、お昼休みになっても食欲なんて湧かない。だけど、栄養不足で戦えるほどプロ試験は甘くない。

 私は休憩室でお茶を一気飲みして、コンビニのサンドウィッチを無理矢理胃袋に流し込む。

 今からどれだけ足搔いても、すでに私の不合格はほとんど決まっているのに。

 それでも、なんというか、途中であきらめたら本当の本当に、負けたことになるような気がしたのだ。

 そんなとき、他の受験者たちの話し声が聞こえてきた。


「ニュース見た? 早川女流四冠の」

「ああ、昨日のニュースか。テレビでも大々的に取り上げられてたな」

「マジでバケモンだよな。女性初の、しかも史上最年少での名人戦リーグ入りだってよ」

「……なんつーか、俺らとは住む世界が違うって感じだな。

 どこが早碁女王だよ。早碁以外でもすでにトップクラスじゃないか。しかも、昇段規定で一気に七段かあ……」

 さきが名人戦リーグ入り……?

 プロ試験の間は余計な情報を入れたくないから、ネットやテレビなどの情報媒体はなるべく見ないようにしている。

 あいつも自分からその活躍ぶりを宣伝してくるような奴じゃない。

 だから、そのニュースは初耳だった。と言うより、まさか名人戦でそこまで勝ち進んでいたなんて。

 さき……、私はもういくら手を伸ばしても、あんたの背中には届かないって言うの?

 どれだけ追いかけても追いかけても、その差は縮まるどころか広がっていくばかりだ……。


 ――午後に再開した一局も当然の如く負けた。



「……ただいま」

 帰宅した私はほとんど囁くくらいの声量でそう言いながら、玄関を開ける。

 靴置き場を見るとビジネス用の黒い革靴があり、すでにお父さんも仕事から帰ってきているようだった。

 最近はいつも私の顔を見るなり、将来の心配ばかりしてきて気が滅入る。私だって、別に何も考えてないわけじゃないのに。

 ――迎えの挨拶はない。私が帰ってきたことにお父さんもお母さんも気付いてないのかもしれない。

 それなら別にそれでいい。リビングを通らなくても自室には行けるから、お父さんと顔を合わせずに済むはずだ。晩御飯の時間になればお母さんが呼びに来るだろう。

 まるで空き巣みたいな忍び足で自室の廊下を歩いていると、リビングから突然大きな叫び声がした。


「だけど、かさねは一生懸命頑張ってるのよ!?」

 お母さんの声だ。私は何事かと思い、すかさず聞き耳を立てる。

 すると、それほど大きな声ではないが、お父さんの話し声もしっかりと聞こえてきた。

「頑張ってるのは知ってるよ。だから今までずっと見守ってきたんだ。

 しかし、そうは言っても来年は受験生だろ。もう夢を追いかける時間は終わり。タイムリミットだ」

「そんな言い方ってないでしょう!? まだ今年のプロ試験だって――」

「奇跡でも起きなきゃ受からないくらいの成績らしいじゃないか。今日の勝敗次第じゃ、それもどうだか。

 それとも何か? 上位の子たちが試験を辞退してくれるのを待つとでも――」

 どたどたどたどた、ばったん!! 私は音を殺すのも忘れて自室に駆け込み、内鍵を閉めて閉じ籠った。

 私のせいでお母さんとお父さんが喧嘩する声なんて、これ以上聞きたくなかった。


 代わりにお母さんの驚いたような声が聞こえてきた。

「かさね!? 帰ってきたの!?

 ねえ、かさね聞いてちょうだい! お父さんもあなたのことが心配で――」

 次の瞬間、私はベッドに飛び込み、頭まで覆い隠すように布団をかぶった。

 聞こえない聞こえない、何も聞こえない。

 悲鳴にも似たお母さんの金切り声も、冷酷なほど鋭いお父さんの言葉も、心臓が刻む鼓動の音でさえも。――今は。




「プロを諦める? ……それは師匠の横山先生にも話したことかい?」

「いえ、先に大林先生にお話しするほうが筋かと思いまして。

 院生も今月末で辞めるつもりですし」

 プロ試験が終わった翌月の12月、私は土曜の院生研修のあとに大林先生にそう打ち明けた。――プロ試験の結果は言うまでもない。

 ただ、私はまだ来年の3月までは院生でいられる。満17歳を迎える年度になっても勉強のために院生を3月まで続けたあとに、外来としてもう一度プロ試験を受ける人も少なくない。

 でも私にはそんなことは考えていなかった。プロを諦めるのに院生を続ける理由はないだろう。

 碁会所を開いたり、囲碁のインストラクターや観戦記者になったりする道もあるが、それも考えてはいなかった。


「……そうか」

 大林先生はしばらく黙って私の目を見つめていたけど、やがて静かに口を開いた。

「まあ、君が決めたことだ。師匠でもない僕がどうこう言える問題じゃないだろう。

 しかし、ひとつだけ言わせてもらうならば――」

「なんですか?」

 まるで勿体ぶるようにそこで一呼吸置いた大林先生の言葉の続きを私は促した。

「君は着実に実力を伸ばしている。僕は自分の見る目が間違っていたとは思っていない」

「……私、未だにAクラスに上がったこともないんですよ?

 はっきり言ってください。私には才能がないって」

「そんなことはない。はっきり言えば、君がここぞというところで勝ちを逃すのは精神的に未熟だからだ。

 才能が足りなくてプロに届かないわけでは決してない」

「……………………」


 どちらにしたって、同じことだろう。プロになるためには足りないものが私にはあるということだ。

 ――当然だ。私には決意も覚悟も信念も、何もかもが欠けているのだから。

「そうですね。そもそも私はプロになんて、別になりたくありませんから。

 他の受験生に精神面で負けているのは当たり前のことだと思います」

「しかし、それでも君がここまで頑張ってきたのには理由があるのだろう?

 この間の週刊碁に載ったさきくんが名人戦リーグ入りした直後のインタビュー記事は読んだかい?」

「私がプロを諦めるのと、さきの名人戦リーグ入りになんの関係が?

 すみませんけど、相談しに来たわけじゃないんです。これで失礼します……」

 私はそう言い残して、その場を立ち去ろうとする。その背を大林先生は呼び止めようとした。

「待ちたまえ、かさねくん! まだ僕の話は――」

 しつこい。バッグを掴んで研修部屋から廊下に飛び出した私は閉まりかけていた下りのエレベーターに駆け込む。

 さきが何を言ったのかは知らないが、今の私にとってはどうでもいいことだった。大林先生も追いかけてはこないようだった。



 帰りの電車に揺られながら私は昔のことを思い返していた。

 あれはそう、小学2年生の頃の昼休みのときだった。

「何読んでるの、雨宮さん!」

 太陽のように明るいさきの笑顔は今でも鮮明に覚えている。

 校庭で男の子に混じってドッジボールで遊んでいたはずの彼女は、いつの間にか私が読書する姿を覗き込んでいた。

「……これ」

 言葉で説明するのが煩わしかった私は表紙を彼女のほうに向けた。

「えーっと、それって事件の謎を解いたりするやつでしょ!

 うわー、難しそうな本! やっぱり雨宮さんって頭いいんだね!」

「やっぱりって?」

「だって、雨宮さんって難しそうな本を読んでるから、頭いいのかなって」

 ……なんだろう、微妙に解答になってないような気がする。

 難しそうな本を読んでるから頭いいのかなと思って、難しそうな本を読んでるから頭いいのだと納得した……?

 まあ細かいことは気にしても仕方ないだろう。とにかくよく分からないが、ひとつ言えるのは彼女は私に興味を持っているということだ。

 私はひとりでいるのが好きだけど、別に友達が欲しくないわけじゃない。だから、その好意を素直に受け入れることにした。



「……かさね」

「ん?」

「私の、下の名前。雨宮って名字、あんまり好きじゃないから、下の名前で呼んで」

「えー! 雨宮っていい名前なのに!

 でも、下の名前で呼んで欲しいなら、そうするね!

 かさにゃ、……じゃなくって、かさにぇ――」

「……言いにくいなら、かさちゃんでいい」

「分かった! それじゃ、かさちゃん。

 私のことは、さきちゃんって呼んでね!」

 それが私の心に残る、あの日の記憶。それを思い出すといつだって、胸がぽかぽかと温かくなるのだ。

 それから私たちは一緒に登下校するようになって、無二の親友になったのだった。

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読後、胸がぎゅっと締めつけられました。 誰かを追いかける苦しさ、尊敬と嫉妬の狭間で揺れる心、それでも手を離さずにいたいという祈りのような気持ち……かさちゃんの想いが、あまりにもリアルで、切なくて、読ん…
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