僕のしょーもなさ
自分は人の気持ちが、考えていることがある程度分かっていて、相手が望んでいる答えも何となくだが気づけて空気の読める存在だ思っていた。
実際そう言う節もあるにはあるのだろう。
例えば小学2年生の頃、この頃に自分のことが好きなんだろうなと思っていた女子がいた。
仮にAとする。
するとAではなくAの友達にAは僕の事が好きらしいと言われた。
その時はやっぱりそうだったんだなと、すかした顔をしていた。
その事もあって自分は人の気持ちをコントロールなんて今思えばくそダサい言葉だが、できると世の中を舐め腐っていた。
人間を舐めていたし、人この事を考えている自分というレンズを通して自分の事しか目に入っていなかった。
中学までは足の速さも学年の上位に入っていたし、
ある程度勉強も一度やれば理解できた。
謎の自信があったのだ。
今でも思う、別に自分は特別な人間ではないけど普通とは違うなんて事を。
そりゃ人は皆ちがう、そんな当たり前のことを自尊心で固めて生きてきた。
気がつけば何も、人として当然のことさえ当たり前にできない登校拒否児だ。
僕は末っ子で、家族から本当に甘やかされて生きてきたと思う。
親への感謝も頭では分かっていると思っても、ホントの所では理解できていない。
なぜなら逃げてばかりだからだ、いままではそれで許されてきた事も許されない年齢になってきているし自分でも気づいてる。
なのに動かない。
それは本当の意味で分かっていないし、親のことも舐めているという事だろう。
ただ学校に行くだけの事、テストでいい点数をとって欲しいと言われているわけでもない、いい大学に入ってほしいとも言われていない。
こんなに愛されていて幸せなのに僕は気づけない。
苦労してこなかったし、目の前の壁から逃げ続けてきたからだ。
何が不満なのか、不満なんてある筈がない。
ただ自分を甘やかして生きているだけだ。
そんな僕がどうやったら学校に行き、ゴミのような部屋を綺麗にして、明るく毎日を過ごせるのか。
そんな事、考えてもしょうがないのだ。
同級生の子達はみんな嫌でも学校に行くし、勉強もする、それが当たり前。
そう教えられてきたし、そうするのが正しいと本能で分かっているから。
でも僕はできない、というかやらない。
これも自分の甘えだ。
挑戦してもいないのに、無駄だと無理だと勝手に決めつけてしまう。
馬鹿な話だと思う、自分の頭で考えたって僕の見たもの、感じたものでしか物事を考えられないのだから、答えなどそれ相応のものしか出ないのだ。
話を戻すと、学校に行くのも何をするのもやるしかないというのが答えだと思った。
今まで何もしてこなかった自分はやった気になって諦めてしまう。
綺麗にいえば飽き性というのかもしれない。
「諦めるな」とは漫画などでもよく聞く、目にする言葉だと思うが、その通りだなと今は思う。
これも頭でわかっているだけなのだが。
諦めたらそこで道は途絶えてしまうし、諦めなかったらその先は誰にも分からない。
そこに楽しみを抱ける人間になりたいと思う。
「どうせ」「でも」「めんどくさい」こんな言葉をよく使って生きてきたけど、言霊っていうのは本当で、中学一年生の頃吹奏楽部で頑張っていた僕はその言葉を殆ど発していなかった。
その頃の写真を見ても、今とは雰囲気がまるで違う。
そう、何かに没頭して頑張っているから。
だからあんなにもあの頃の僕は輝いて見えたのだろう。
こんな大層な事話している割に今の僕はまだ不登校なまま。
今年で17歳。
新学期は2週間も行っていないのかもしれない。
クラスの気まずさだってあるし、スクールバスが同じの大好きな先輩への気まずさがある。
先輩はメッセージで早く来てと連絡をくれていたのに行っていない。
こんなに申し訳ない気持ちになることはなかった。
大好きな人には嫌われたくないし、好かれたいと思う、でもその割には行動が伴っていない口だけの男だ。
先延ばしにしても仕方がないのもわかっている、こんな女々しい文をつらつらと書いているのも恥ずかしい。
だから今日は久しぶりに学校に行ってみようかなと制服に着替えた。
読んで下さってありがとうございます!。
昔から本を読むのは好きで、厨二病っぽい話はよく書いたことあったんですけど、こういう自分の話を書くのは初めてで、しかも見られてると思うとなんだか恥ずかしいですけど、
最後まで読んでくれた嬉しさが勝ってます!
ありがとうございました。