ひう、ひう(三十と一夜の短篇第71回)
いつものバスに乗って帰る途中、エイスケはその音をきいた。
ガタンゴトン、ブロロロロ、と硬質な音がきこえるなか、ひう、ひう、とどこかからきこえてきた。静かな寝息かと思ったが、それにしてはどこか金属的な余韻のある音で人が出しているのではない。バスが鳴らしているものだと確信できるほどのものではないが、ともかくそれは人以外のものが鳴らしているに違いなかった。
その音はどうしても気になるわけではないが、しかし、ここに友人がいれば、間違いなく相談して、この音の正体について、あれこれ思索を巡らせるだろう。アタマの体操になりそうだ。
だが、いま、このバスに乗っているのは、顔の見えない運転手、定時帰りらしいサラリーマン、ひどく顔色の悪い男、シルバーシート以外の座席に座った老夫婦。誰も知り合いはいない。ひう、ひう、について語れそうにない人々だ。このうち、顔色の悪い男は阿久鳥で降りていった。
そもそも、この音はエイスケだけにきこえている可能性だってある。聴力は人より優れていて、きこえなくてもいい音をしょっちゅうキャッチしている。それは誰かの陰口だったり、カンニングのためにスマホの表面をこする指の音だったりで始末にこまる音ばかりだ。
いまも彼の耳は老夫婦のぼそぼそと交わされる会話をきいていた。
「百歳になっても何も変わらないんだね」
「九十九歳と大差ないね」
「でも百一歳になったら変わるかも」
「もう百歳で十分」
「でも、変わるかもしれない」
「百歳で十分」
「次は義夫延~。義夫延です」
運転手のアナウンスがあり、そして、あの、ひう、ひう、という音がまたきこえだす。
義夫延に停車すると、三歳くらいの子どもを連れた主婦が乗ってきて、ふたり掛けの席に座った。
バスは発車し、まぶしいくらいに電気をつけたスーパーマーケットの横を通り過ぎ、幅の広い環状線では歩道をなぞるように走ってから、左折した。
小さく開いた窓から吹き込む風が心地よい。明後日、最高気温が十八度になる。
「次は禰宜塚~。禰宜塚です」
ここで停車すると、運転手がサイドブレーキを引いて、鉄のバーを上げ、外に出た。備えつけの傾斜タラップを引き延ばすと後ろのドアから車椅子の若い女性が乗ってきた。運転手はふたつの席を折りたたんで、車椅子専用のスペースをつけると、フック付きのゴムバンド引っぱって、そこに車椅子の女性をしっかり固定した。
「終点の常水には18時半到着予定です」
エイスケはほんの二時間前に宗川と交わした言葉を思い出した。鋭敏な聴力は相手の心のなかの声まで拾ってしまう。それでエイスケは自分がどれだけ宗川を傷つけてしまったかを知った。それでもお互いを非難する言葉は止まらなかった。これで自分たちは終わりだと、はっきり胸に指を突きつけるような残酷な言葉が、宗川の心を削り落とす音が、エイスケの耳にはっきりきこえていた。宗川はエイスケを冷たい人間だと言った。そうなのかもしれない。エイスケには、そうではない、とはっきり言える自信がなかった。どうしてあんなことになったのだろう。引き返せる瞬間はいくつもあった。それも相手が同じくらい自分を憎んでいるという馬鹿な思い込みのために無視していった。僕はどうしようもない、うぬぼれた、耳のいい馬鹿だ。宗川の心がこれ以上お互いを傷つけ合いたくないと分かってもなお、空の鳥を墜とし、魚を沈め、全ての家畜が死に絶える、人間だけしか生き残れない言葉を止めることができなかった。
少し暑い。エイスケは手を伸ばして、窓をもう少し開けた。
バスは、ひう、ひう、と音を出しながら、市街地を走った。明後日の最高気温は十八度で、今日の最高気温は八度。宗川が体調を崩さないといいが。そう思い、エイスケは先ほどよりもひどく落ち込んだ。あんなふうに喧嘩別れするべきではなかったのだ。ぼんやり考えていると宗川のことが浮かび上がり、秋の井戸に沈む夏休みの宿題のように消え失せる。後悔は贅沢だ。宗川は後悔すらできないほど傷つけられた。それをしたのは自分なのだ。
ぽろぽろと涙が出た。自分が冷たい人間ではないと証しだてるための打算の涙。バスのなかはさっきよりも暑い。
「次は十府神社前。十府神社前」
ひう、ひう。
暑い、暑い、熱い。
誰かが乗ってきた。涙と汗が目に入り、よく見えない。白くて四角い何か。
バスのなかが真夏のように熱く、吸い込んだ空気は肺を焼くようだ。
だが、エイスケ以外の乗客は呻きひとつ漏らさず、平然としている。
「終点の常水には18時半到着予定です」
小さなバンがバスを追い越す。うるんだ目で見る。テールランプが赤くめらめらと燃えているようだ。
ひう、ひう。
バスは小刻みに揺れている。熱い。体のなかの血が全て沸騰している。
阿久鳥。百歳。義夫延。禰宜塚。十府神社前。常水。
あくとり。はくさい。ぎゅう。ねぎ。とうふ。ぞうすい。
火う、火う。