第八話 今は亡き天才ボクサー
インターハイの全国大会も終わり、再び練習の日々が始まった。
三年生は男女共にもう公式戦に出ることはないので、引退することとなった。
新たな主将は二年生のライト級の男子部員・福山が就任。
副キャンプテンには男子からはミドル級の島田。
女子からは小金沢美鶴が選ばれた。
これによって一、二年生の主導の新体制がスタートした。
当面の目標は十一月に行われる新人戦。
だが神凪拳人だけは、八月下旬に国体ブロック予選を控えていた。
その為、拳人は八月中旬に都内のスポーツジムで行われる国体の為の合同合宿に召集されていた。 東京のジュニア代表選手で集まり、泊まり込みで練習するようだ。
国体のボクシングは個人戦であるが、代表選手の成績を総合して、全国大会の出場権が決まる仕組みなので、東京だけでなく他の都道府県でも似たような合宿が行われる。
だが拳人は早い段階でこの合宿の参加を拒否していた。
拳人は――
「うちは母子家庭なので、経済事情が良くないので、できれば合宿期間中にアルバイトをして、少しでも家計を助けたいのです。 もちろん学校内での練習には参加しますし、ブロック予選にはちゃんと出場するつもりです」
と監督の柴木や立波先生にそう伝えた。
「そうか、なら仕方ねえな。 先方には俺から断っておくよ」
「お手数かけてすみません」
「気にするな。 というかお前若いのに家計を助ける為、バイトするなんて偉いな」
「いえ」
と、拳人と柴木はそう言葉を返した。
それを人づてに聞いた千里も感心した。
――神凪くんって強いだけでなく、しっかりしているな。
――あたしも少しは見習おう。
――でもやっぱり神凪くんの家は母子家庭なんだ。
――となると神凪くんの亡くなったお父さんのことが気になるな。
他人の家庭の事情に踏み込むのは良くないと思う。
でも気にならないと言えば嘘になる。
だから千里はその日の練習が終わって帰宅してから、自室のパソコンで拳人の父親と思われる神凪拳を検索してみた。
とりあえず苗字は分かるが、拳という名前がどういう字か分からなかったので、「神凪けん」というキーワードーで検索してみた。 すると色々な事が分かった。
まず正式な漢字は「神凪拳」、息子である拳人は父親から一字加えたようだ。
そして神凪拳は日本ボクシング界のウェルター級屈指の天才と言われていたようで、「悲運の天才」とか「三百年に一人の天才」とか呼ばれていたらしい。
ちなみに千里も最近ボクシングについて色々勉強している最中だ。
まずアマチュアボクシングの階級は男女ともに全部で十階級。
そして男子のプロボクシングは全十七階級あるが、ウェルター級は全階級の中でも異常に競争が激しく日本人では、未だにウェルター級の世界チャンピオンは誕生してないらしい。 それどころからウェルター級で世界挑戦した日本人も数える程しか居ないみたいだ。
またウェルター級におけるトップクラスの世界チャンピオンの中には、たった一試合で百億円以上稼いだことがあるようだ。 たった一試合で百億円。
その余りにも現実離れした金額には、千里も現実感が沸かず唖然とするばかり。
まあそれはさておき、神凪拳は本当に凄いボクサーだったようだ。
高校生の時に七冠を達成して、高校卒業と共に名門・聖拳ジムに入門。
その時の契約金は一千万円と言われている。
プロデビュー以降は連戦に次ぐ連勝。
二十歳の時に日本ウェルター王者に挑み、僅か二ラウンドでKO勝ち。
その日本タイトルを二年の間に計六度防衛。
二十二歳の時に東洋太平洋タイトルマッチで、タイ人の王者を三ラウンドでKO勝ち。 その東洋タイトルを二年間で五回防衛。
そしてその後、東洋タイトルを返上して、本格的に世界を目指した。
二十五歳の時に世界ランク八位、世界ランク五位の選手を立て続けにKO勝ち。
そして二十六歳の時にウェルター級の世界選手権金メダリストである世界ランク一位のアメリカ人・ラファエル・マーベリックと世界タイトル挑戦者決定戦を行い、激しいダウンの奪い合い末、判定勝ち。 それによってウェルター級の世界ランク一位となった。
いよいよ正式に世界タイトルに挑戦するかと思われていたが、オートバイによる交通事故で死亡。 享年二十六歳。 最終戦績二十三戦二十三勝二十二KO勝ち。
彼ならば日本人初のウェルター級世界王者も夢でなかった。
とボクシング関係者やファンは彼の死を大いに悲しんだ。
一通りネットの記事に目を通し終えた千里は何とも言えない気分になった。
まだボクシング経験や知識の浅い千里にも神凪拳が本当に凄いボクサーだったということは理解できた。 しかし世界タイトル挑戦を目前にして、事故死するのは不運としかいいようがない。 もし彼が生きていれば、日本人初のウェルター級世界王者になっていたのだろうか。
それは千里には分からない。 ただ一つ分かったことがある。
それは神凪拳の息子である神凪拳人がボクシングをする理由だ。
彼は学業成績も比較的良い方だし、体育の授業でも比較的なんでも器用にこなす。
彼の運動神経ならば、ボクシング以外の競技でも大成できるであろう。
だがそんな彼がボクシングという過酷な競技を選んだのは、間違いなく父親の影響だ。
もしかしたら彼は父親の代わりに自分が日本人初のウェルター級世界王者になるつもりではないのか? あるいは父親と同じ階級でボクシングをすることによって、亡き父の背中を追っているのではないか? そう思うとなんとも言えない気分になった。
もう止めよう。 他人のあたしがこれ以上踏み込める問題じゃない。
でもなんかよく分からないが、無性にやる気が出てきた。
まだまだボクシングのことは分からないが、ボクシング部の部員は全員真面目だ。
そして毎日一所懸命練習して、勝利を掴むべく頑張っている。
そういう光景を近くで見るだけで、なんか嬉しくなってくる。
最初は神凪くん目当てという不純な動機だったが、千里も日に日にボクシングが好きになり始めていた。 神凪くんに比べたら、あたしなんかまだまだだ。
でもあたしはあたしなりに頑張るよ。
だから神凪くんもお父さんに追いつけるように頑張ってね。
と、一人思い更けていたら、一階から――
「千里、そろそろお風呂に入りなさい!」
と、母が叫んだ。
やれやれ、雰囲気ぶち壊しだ、と思いながらも――
「は~い、今から入るよ!」
と、返事する千里であった。