第三十話 死闘
八月二日。
長いようで短かったインターハイもこの日が最終日だ。
ボクシング部の全部員はいつもように、学校に集合してバスに乗った。
すると拳人が千里の隣の席に座り、こう言った。
「姫川さん、今日、セコンドついてもらえないかな?」
「え?」と、思わず聞き返す千里。
すると拳人が照れくさそうに笑った。
「駄目かな?」
「い、いや駄目じゃないけど、あたしでいいのかな?」
「うん、姫川さんについて欲しいんだ。 そうすればオレは頑張れる」
「そ、そう。 ならいいよ。 でも神凪くん、変に気を負わず戦ってね。 あたしの為とかじゃなくて、自分の為に戦って欲しいな」
「うん、だから姫川さんの為に戦うのが、自分の為にもなるんだ」
「……そうなの?」
「うん、そうなんだ」
そういうわけで千里は今日、拳人のセコンドにつくことになった。
正直あたしに何ができるのかな、と思いつつも、拳人の気遣いを有り難く思った。
そうね、神凪くんのファイトを身近に観られる良い機会だわ。
彼が全力を尽くせば、あたしも何処か吹っ切れるかもしれない。
そうこうしているうちにバスが試合会場に着いた。
インターハイの決勝戦は午前十一時から開始された。
いつものように軽い階級から試合が始まり、今はライト級の決勝戦が行われている。
「どうだ、バンテージきつくないか?」
選手控室で柴木監督が拳人の両拳にバンテージを巻いていた。
「ちょうどいい感じです」
「よく眠れたか?」
「はい、ぐっすり寝ました」
「そうか、とにかくここまで来れば全力を尽くせ。この三ヶ月、お前は真剣にボクシングに打ち込んできた。 監督の俺からみてもお前は本当に頑張った。 だからこそ今日はお前を勝たせてやりたい、だがリングで戦うのはお前だ。 だからとにかく悔いのないように戦え!」
「はい!!」
柴木の言葉を噛み締めて、拳人は力強くそう言い放った。
良い雰囲気だ。 そう思いながら千里は拳人にこう声を掛けた。
「神凪くん、頑張ってね! あたしもセコンド頑張るから!」
「うん、オレ今まで本気でボクシングやってなかったもしれない。 でもこの三ヶ月は本気で練習してきた。 だからその成果を見せるよ!」
「うん!」
「ライトウェルター級の試合が終わりました。 神凪選手、準備してください」
控室のドアを開けて大会役員が事務的にそう告げる。
「それじゃ行くぞ、神凪!」
「はい、それじゃあ行くよ、姫川さん!」
「うん! 行こう!」
拳人はそう告げて小刻みに身体を揺らせてリングへと向かった。
決勝戦という事もあり、報道陣やプロアマ指導者の姿もちらほら見かけた。
すると帝陣東の応援席から歓声が沸き起こる。
「頑張れー、神凪!!」
「神凪くん、頑張って!!」
その歓声を一身に浴びながら、拳人は颯爽とリングに向かう。
「じゃあ行って来るよ」
そう言ってリングのロープをくぐる拳人。
「神凪くん、あたしのことより、自分の為に戦って!!」
拳人は小さく頷くと、そのままリングインした。
対する赤コーナーの御子柴は異様に落ち着いていた。
去年はやや粗野な部分が目立ったが、今は寡黙な狩人のように悠然としていた。
両選手がレフェリーに呼ばれ、二人はリング中央でグローブを合わせる。
そしてゴングが鳴った。
拳人はアップライトスタイル気味にガードを固めながらリング中央へ向かっていく。
対する御子柴もガードを固めて、すり足で前へ進む。
先にパンチを出したのは、拳人であった。 とりあえず牽制の左ジャブを連打。
だが御子柴も冷静に右のグローブでパーリングする。
御子柴も左ジャブを放ったが、拳人は軽くバックステップして回避する。
そこから拳人は踏み込んで、左右のワンツーパンチを叩き込んだ。
しかし御子柴はそれを難なくブロックした。 そこで両者は距離を取った。
そこから中間距離で、お互いに左の差し合いをする。
大半はガードや回避したが、それでもたまには被弾したが、拳人と御子柴は慌てることなく、左ジャブを出し続けた。 更に左ジャブを連打、連打、とにかく連打する拳人。
すると次第に拳人の左ジャブが御子柴の顔面や顎を捉え始めた。
しかし御子柴は下がらない。
逆にパンチの打ち終わる瞬間をついて、右フックで拳人のボディを狙う。
だが拳人は左腕でそれを防御。
逆に右ストレートで御子柴の顔面を強打。
御子柴の身体が一瞬ぐらついた。
そこで拳人はサイドステップを駆使して、様々な角度から左ジャブを打った。 右に左に回り、更に右にと素早くステップを踏んで、相手に休む間を与えず、ひたすらジャブを叩き込んだ。
そして拳人は隙を突いて左フックを御子柴のボディから顔面へダブルで打ち込んだ。
ボディは強打したが、顔面の一撃は右腕でガードされた。
だが御子柴は苦しそうだ。
拳人はそこから左右のパンチを打ちまくった。
左、右、左、右。ガードなどお構いなしに鋭く早いパンチをひたすら打ち込む。
御子柴はたまらず、後方にバックステップする。 だが逃すまいと拳人が前へ前へ踏み込む。
ダブルジャブから右ストレートを打ち込む。 それをギリギリで躱す御子柴。
逆に左フックを打つ御子柴。 しかし拳人も右手で綺麗にブロックする。
そこから拳人は素早く左フックを打った。 拳人の左拳が御子柴の右側頭部に命中。
一瞬動きが止まった御子柴に、拳人は右アッパーを綺麗に顎の先端に当てた。
たまらずよろめく御子柴。
しかし御子柴はダウンしなかった。 断固としてダウンを拒否した。
逆に渾身の右ストレートを打ち返す。
それが拳人の顎に当たり、拳人も一瞬後ろに下がった。
その時、第一ラウンド終了のゴングが鳴った。
会場が大きくどよめいた。
拳人がゆっくりとした歩調でコーナーに戻って来た。
千里は素早く椅子を出した。
「いい感じだぞ、このまま攻めろ」
椅子に座った拳人に柴木がそう言った。
「はい」と、答える拳人。
「神凪くん!」
千里はコーナーの下からそう声を掛けた。
「良い調子よ。 でも相手も強いわ。 だから絶対油断しちゃ駄目よ!」
「うん、あいつ強いよ。 一年前とは別人だ。 でもだからこそ戦い甲斐がある。 でもオレの力はまだまだこんなものじゃない。 だから姫川さん、ちゃんと観ていてね」
「うん、分かった!」
そしてセコンドアウトのブザーが鳴り、拳人は椅子から立ち上がった。
「神凪くん、あたしちゃんと観ているから、頑張って!」
拳人は千里の言葉に小さく頷いて、コーナーからゆっくりと出た。
対する御子柴は飛び出すようにコーナーを出る。
リング中央に歩み寄る両者。 そこで拳人は左ジャブをいきなり出して命中させた。
そこから右ストレートを放ったが、御子柴もスウェイバックで回避する。
今度は御子柴が左フックを放つ。
拳人はダッキングでパンチを躱し、右アッパーを顎に打ち込んだ。
観客席がどよめき、帝陣東の応援席から歓声が飛び交う。
「いいぞ、神凪!!」
「神凪くん、カッコいい!!」
だが当の本人は涼しい顔をして左右のアッパーを連打した。
御子柴は一端後ろに下がり距離を保った。
そして拳人の右アッパーをギリギリのタイミングで躱し、左フックをボディに叩き込んだ。 そこから更に左フックで拳人の右側頭部を狙う。
御子柴の左拳が右側頭部に命中。
だが同時に拳人の左フックも御子柴の右側頭部を捉えた。
両者の動きが一瞬止まる。 だが即座に体勢を立て直す二人。
ここで諦めたらこの数カ月の練習が無駄になる。
だから苦しくても、二人は無理やり闘志と気力を振るい立たせた。
――こいつ、めっちゃ強なっとる!?
――選抜の時とは別人や。 やっぱりこいつは神凪拳の息子なんやな。
――でもオレにも意地がある。 親子揃って神凪の噛ませ犬になる気はねえ!
――オレはその為に地獄のような練習に耐えてきたんや!
――だから技術で負けても、気持ちでは絶対負けん!!
御子柴の身体に溢れんばかりの力が漲った。
だが拳人にもボクサーとしての矜持と意地がある。
拳人は足を止めて、真正面から御子柴を迎え撃った。
二人のボクサーとしての誇りと意地が激しく衝突した。
御子柴は拳人のパンチを浴びながらも、相討ち覚悟で手を出し続ける。
被弾数は御子柴の方が多かったが、一発のパンチの重さで、拳人の身体を時々ぐらつかせた。
超接近戦から、両者一歩も引かず、力の限り打ち合った。
――強い、今まで戦ったボクサーの中で一番強い。
――だがオレは負けるわけにはいかない。
――彼女に、姫川さんに笑顔に戻ってもらいたい。
――だからオレはどんなに辛くても、絶対に退かない!
拳人はそう胸中で強く念じながら、御子柴の放つ破壊力ある左右のフックを綺麗にガードする。 ガードする度に腕がビリビリと痺れたが、拳人もすかさずショートパンチの連打で応戦する。 拳人は左フックでボディを打ち、返しの右フックで御子柴の左側頭部を強打。
「す、凄い!?」
千里は思わず声を上げた。
今までも凄かったが、今日の拳人は特に凄い。
千里の胸の中に熱い思いが駆け巡った。
応援席も沸いている。
拳人は素早い動きで、次々と御子柴のパンチを躱していく。
御子柴のパンチが何度も空を切った。
そこから拳人は猛烈なラッシュを繰り出した。
拳人は左、右、左、右と素早く拳を交互に繰り出す。
ガードする御子柴の両腕に強烈な衝撃が走る。
だが拳人はガードの上から、ひたすら猛ラッシュを浴びせる。
乱打、乱打、乱打、乱打、狂った風車のような乱打。
ボクシングの基本のワンツーパンチ。
だがこれ程、鋭く荒々しいワンツーは滅多にお目に掛けられない。
拳人の猛攻の前に、たまらず後退する御子柴。
――くっ、えげつないワンツーや。 こいつ、やっぱ強いわ。
――しかしこう手を出されたら、足を使って逃げるしかないが、それも厳しいわ。
――でもオレは最後まで諦めへんぞ。 絶対に負けない、負けない、負けてたまるか!?
しかし拳人の連打は続く。 息をつく間もなく繰り出される高速の連打。
反撃しようにもその隙がない。
むしろ拳人の連打で御子柴の両腕が限界に近かった。
そこから拳人は身体を外側に捻り、強烈な右フックを打ち込んだ。
御子柴はスウェイバックで、その右フックを鼻先にかすらせながら、ギリギリで回避。
拳人の体が左側に流れる。
そこから御子柴は気力を振り絞り、左フックをダブルで繰り出す。
拳人は打ち込まれる左フックをダッキングで躱して、そこから突き上げるように左右のショートアッパーで御子柴の顎を打ち抜いた。
左、右、左、右とアッパーが決まる。 御子柴の腰がわずかに落ちかける。
御子柴はそれを両足のふんばりで耐え、バランスを持ち直して、右フックを振るい、つづいて左フックを見舞った。 その両方とも拳人は躱す。
その時、第二ラウンド終了のゴングが鳴った。
拳人が肩で呼吸しながら、コーナーに戻る中、応援席は拍手で迎えた。
すると千里が素早く椅子を出す。
「アイツ、かなりタフだな。 大した奴だ」
拳人が椅子に座りながら、そう言った。
「ポイントでは多分神凪くんが優勢よ。 このまま油断しないで!」
「うん、でもここまで来たら、完全に勝つ。 チャンスがあれば倒すよ!」
「神凪、無理に倒しにいくな!」
柴木監督が厳しい声で注意した。 だが拳人は小さく首を左右に振った。
「監督、この試合はオレの好きにさせてください!」
「……分かった。 スタミナは大丈夫か?」
「はい、だから残り一ラウンド死に物狂いで戦うよ! 姫川さん、観ていてね」
「うん、観てるわ!! 頑張って、神凪くん!!」
そこでセコンドアウトのブザーが鳴った。
リングを降りて来た柴木が千里にこう漏らした。
「あいつがここまで勝ちに拘るとはな。 姫川、多分アイツはお前の分まで戦っている!
だからお前もアイツの戦いを最後まで見守れ! それがお前の為でもある!」
「はい!!」と、大きな声で返事する千里。
そして最終ラウンド開始のゴングが鳴った。




