第二十九話 両雄並び立たず
十日後。
千里は左眼の手術を受けた。
手術は見事に成功して、とりあえず千里と周囲の者は安堵した。 ちなみに既に夏休みに入っていた為、千里の左眼のことは一般生徒には知られることがなかった。
しかし千里が部活に顔を出すことはなかった。
千里自身は出たがっていたが、母親が猛反対した。
何度も口論になったが、父親が――
「母さん、もういいでしょ。 少しは千里の気持ちを考えなさい。
千里もこのままじゃ気持ちの整理がつかんだろ。 だから応援くらい許してあげなさい」
と言うと、母親も思うところがあったのか、試合の応援に行くことを渋々了承した。
そして夏休みを迎えた。
千里が手術に成功したので、柴木監督と静香はようやく隠していた事情を部員一同に説明した。 多くの部員が「嘘だろ?」と絶句していた。 千里と親しい美鶴は特に落ち込んでいた。
だが柴木が――
「お前らも辛いだろうが、姫川が一番辛い。 だが彼女はインターハイ本戦の応援に来るそうだ。 だからインターハイ出場選手である福山、神凪、島田の三名は特に頑張って欲しい。 とにかく必要以上に落ち込むな。 お前らが落ち込むと姫川も応援に来づらいだろ? だから今は目の前の試合や自分の練習に専念しろ!」
と言うと部員一同が「はい!!」と声を揃えて返事した。
すると気持ちを切り替えた部員達は、今まで以上に激しい練習を始めた。
全員の動きがきびきびしており、暗い空気から熱気に満ちた空気に変わった。
特に拳人の動きがめまぐるしかった。
インターハイ出場選手である主将の福山や島田を相手にまったく無駄のない動きでスパーリングでほぼパンチを貰うことがなかった。 これには柴木も舌を巻いた。
また三日に一度の頻度で、古巣の聖拳ジムに出向き、プロの六回戦や八回戦ボクサー相手に
激しいスパーリングを繰り広げた。
こちらはプロ相手なので、拳人もそれなりにパンチを貰ったが、それ以上に強いパンチを相手に打ち込んでいた。 そんな感じで日々のスケジュールが消化されていった。
そして迎えた七月二十九日。
まさに夏真っ盛りという具合に暑い日々が続くなか、インターハイが開幕した。
今年のインターハイは神奈川県の横浜市の市立文化体育館で開催される。
開催地が横浜市の為、宿泊は無用な分、学校から少し多めに交通費が出た。
帝陣東からはライト級の福山、ウェルター級の拳人、ミドル級の島田の計三人がこのインターハイに出場する。 インターハイの開幕式を終えて、出場選手達は試合会場へと移った。
試合に出場しない残りの部員も学校側が用意したバスに乗り応援にかけつけた。
ただし千里はこの場に居なかった。 彼女は応援拒否したわけではない。
単にこの日に術後の経過を見るために、病院へ行っていたからだ。
幸いなことに左眼の視力もゆっくりとだが、回復していた。
なので千里は医者に「どうしてもボクシング部の応援に行きたい!」と申し出だ。
千里の担当医は少し困った表情をしながら、「念の為、今日を入れてあと二日は眼を休めなさい」と釘を刺した。
千里も渋々ながらそれを承諾した。 幸い拳人はシード扱いで二回戦からの出場だ。
今日、明日と大事を取るが、拳人なら二回戦くらいなら問題なく勝ち進むであろう。
というわけで今日の福山と島田、そして明日の二回戦の結果は美鶴にラインで送ってもらうことにした。 そして帰りのバスの中で千里のスマホがぴこんと音を鳴らした。
どうやら福山と島田が共に判定勝ちで二回戦に勝ち進んだようだ。
翌日の七月三十日。
今日も朝からスクールバスに乗り、横浜の市立文化体育館へ向かうボクシング部一同。
福山、拳人、島田の三人は無事、検診と軽量をパス。
前日と同じく軽い階級から試合が行われた。
そして迎えたライト級の第二試合。 福山は激しい打撃戦を制して、3R1分34秒RSC勝ち。
その後、ウェルター級の第三試合。 この試合は圧巻だった。
拳人が開始30秒で強烈なライトクロスで、相手の顎を打ち抜き、1R39秒でRSC勝ちを収めた。
これには帝陣東の部員だけでなく、周囲の観客も驚いていた。
しかし当の本人は涼しい顔で勝利者コールを受けていた。
またミドル級の島田の試合は、運悪く前年度の優勝者に当たり、序盤から圧倒されつつも、島田は試合を投げなかった。 結局、島田は計二度のダウンを奪われつつも、最後まで戦い抜き、意地を見せて判定負けで二回戦で敗退。 その間、千里は自宅の自室で大人しくしていたが、スマホがピコンと鳴るなり、素早くスマホの画面を観た。
「やった! というか神凪くん、1R34秒勝ち!? マジで凄い!!」
と、思わず叫ぶ千里。
すると急に気持ちが高ぶってきた。 よし、明日こそ応援に行くぞ!!
更に翌日の七月三十一日。 千里は朝食を食べて、学校指定のジャージ姿で登校した。
既に正門近くにバスが待機していた。
千里がバスに近づくと、美鶴がこちらを見ながら歩み寄って来た。
「ひ、姫川さん! 応援に来てくれたのね!」
「どうもッス! ご心配かけました」
「ううん、いいのよ。 それより左眼は大丈夫なの?」
「はい、医者が云うには、順調に回復してるらしいです」
「そ、そう。 本当に良かった」と、涙ぐむ美鶴。
すると他の部員もこちらに寄って来て、千里に声をかけた。
「姫川さん、元気そうで良かった」と、横内。
「うんうん、今日から決勝まで応援できるのか?」
「はい、親の許可も取れましたので、残りの試合は全部観戦します」
福山の問いに千里はそう答えた。 すると周囲の部員の表情が和らいだ。
皆、あたしのこと本気で心配してくれたのね。 本当に良い人ばかりだ。
「姫川さん!」と、今度は拳人が声を掛けてきた。
「神凪くん、昨日は三十秒で勝ったらしいね。 凄いじゃん!」
と、笑顔で答える千里。
「まあ今回は本気でやってくれてるからね。 でも姫川さんが来てくれて良かった」
「ありがとう、あたしの精一杯応援するよ!」
「それじゃそろそろ行くぞ」
いい雰囲気になったところで柴木がそう声を掛けた。
これでボクシング部全員が揃い、バスは高速道路に乗って横浜へと向かった。
四十分後。
バスが無事に市立文化体育館に到着。
それから出場選手である福山と拳人は検診と軽量を受けて無事にパス。
それ以外の部員は観客席に移り、仲間の試合を懸命に応援した。
そしてバンタム級の試合が終わり、ライト級の試合が始まった。
二試合目に福山が出場した。
福山の相手は選抜大会優勝者の大阪代表の顕聖学園の三年生だった。
下馬評では福山の不利。
だが試合が開始されると福山はいきなり激しい先制攻撃を仕掛ける。
左ジャブを軸にして、ストレート系パンチ主体で攻める福山。
だが2ラウンドに入ると相手も落ち着きを取り戻した。
両者、リング中央で激しくは打ち合った。
福山も懸命に打ち合ったが、自力とスタミナで勝る相手選手がじわじわとポイントを稼いでいった。
3ラウンドに入ると、スタミナと技術で勝る相手選手がパンチを集めて、この回に二度のダウンを取ってRSC勝ちした。
しかし最後まで全力を尽くした福山は、清々しい表情でリングを降りた。
そして部員及び観客はその福山に拍手を浴びせた。
そして迎えたウェルター級の第二試合。 拳人に出番が回ってきた。
拳人の相手は昨年のインターハイベスト8、選抜大会ベスト8の奈良代表の岡本。
ゴングが鳴るなり、岡本がいきなり右ストレートを放った。
拳人は首を振って避けた。
岡本は更に左フックを売ったが、拳人は右腕で綺麗に防御する。
そこから拳人が反撃する。 左ジャブを連打して、岡本の顔面にパンチを叩き込む。
そして間髪入れず放った右ストレートが岡本の顎に命中。 ぐらつく岡本。
拳人は左右の拳を交互に繰り出して、ラッシュの嵐を浴びせる。
岡本は防御を固めて、必死に防戦するが次第に後退していく。
拳人は岡本をロープに追いやると、左フックで右脇腹を強打。
更に左フックをもう一発、岡本の右側頭部に叩き込んだ。
身体を九の字に曲げる岡本。
そして止めを刺すべく、右アッパーを岡本のみぞおちに叩き込んだ。
すると岡本の身体がゆっくりとリングに沈んだ。
すかさずレフェリーがカウントを数えるが、岡本はまるで動かない。
結局そのまま拳人のRSC勝ちとなった。
正式なタイムは1R53秒RSC勝ちだった。
これで拳人は二年連続準決勝を果たした。
そして決勝まで進めば、順当通りなら大阪代表の御子柴と当たる筈だ。
選抜大会優勝以降の御子柴は、絶好調でその後の公式戦のほとんどがRSC勝ちだった。
恐らく決勝は奴と当たるな、と拳人自身そう感じたが、とりあえず今は目の前の試合に集中することにした。
そして翌日の八月一日。
この日も学校に集まり、バスに乗って横浜に向かうボクシング部一同。
今日は準決勝。 ここまで勝ち残ったのは、拳人のみ。
故に彼に寄せられる期待は大きかった。
当の本人もその期待に応えるべく、いつも以上に気合いを入れていた。
検診、軽量を終えて選手控え室に向かう拳人。
いつものように軽い階級から試合が始まった。
そして会場の隅から、聖拳ジムの世界王者の南条とトレーナーの松島が試合を観戦していた。
「拳人の奴、完全に復調したようですね」と、南条。
「ようやく奴も本腰を入れて、真剣にボクシングに打ち込むようになった。 良い傾向だ」
と、松島。
「今日の準決勝も大丈夫でしょう。 問題は決勝戦ですね」
南条の言葉に、松島が「ああ」と頷いた。
そして松島はゆっくりと二の句を継いだ。
「大阪の御子柴か、確かに奴は強い、強くなった。 拳人といえど苦労するだろう」
「ですね、その御子柴の試合がもう始まりますよ。 あっ……」
「ん? 南条どうした?」
松島は南条の視線の先を追う。 するとそこには見覚えのある人物が立っていた。
大阪の天景寺ジムの会長である赤川がゆっくりとした歩調でこちらに歩み寄って来た。
「よう、松島。 それに南条、二人そろって教え子、後輩の試合を観に来たのか?」
「……お久しぶりです、赤川会長」
と、軽く頭を下げる松島。 それにならう南条。
「あの小僧……神凪の息子は復調したようやのう。 松島、お前が直に指導したんか?」
「ええ、そうです。 そういう赤川会長も愛弟子の試合を観に来たのですか?」
「ついでや、ついで。 ワシのジムの選手が後楽園ホールで日本タイトルに挑戦するんや。 そのついでや」
「そうですか」と、松島。
そうこう会話しているうちに観客席から喚声が沸いた。
松島と南条はリング中央に視線を向ける。
すると御子柴の対戦相手がリングに横たわっていた。
「ほう、ケージの奴。 今日もRSC勝ちか。 悪くない動きや」
「ええ、流石は赤川会長の愛弟子です。 動きに無駄がなく、一直線に相手を倒すボクシングですね」
「褒めても何も出んぞ? 次はあの小僧……神凪の試合やな。 ここは無難に勝つやろう。 そうなれば決勝で四度目の対決か、神凪の息子と御子柴聖司の息子の戦いか。 これも因縁やな」
三人が見守るなか、試合開始のゴングが鳴った。 試合開始早々、拳人がラッシュをかけた。
拳人は急な猛攻に戸惑う相手選手に高速のワンツーを何度も繰り出した。
拳人の左右の拳が相手の顔面に綺麗に入った。 相手も足を止めて接近戦を挑もうとするが、
拳人の鋭い左ジャブを連打で貰い、出鼻をくじかれる。
「ええ左ジャブや。 それに聖拳ジム特有の右のアップライトスタイルが様になっとるな。
左に回り、ジャブを中心にストレートを打ち込んでいく聖拳スタイル。 ええやないか」
と、赤川。
「はい、奴の親父も同じスタイルでした」
「おう、神凪拳の聖拳スタイルは基本に忠実かつ、応用が利く理想的なスタイルやったのう。まあその息子はまだまだ成長過程やが、ええもん持っとるわ。 こりゃ明日の決勝が楽しみやわ」
「赤川会長、まだ試合は終わってませんよ?」と、南条。
「南条、お前もええボクサーやが、後輩の応援している場合か? まあこの間の防衛戦は良かったけどな」
「ありがとうございます。 あっ!?」
南条がリングに視線を向けると、拳人が左右に身体を振りながら、綺麗な弧を描く右アッパーを放った。 拳人の右拳が相手の顎を跳ね上げて、相手選手は青いキャンバスに尻餅をついた。
レフェリーがストップをかけて、スタンティングダウンを取った。
「ええ右アッパーや。 高校生で打てる代物やないで。 ほな、ワシはもう帰るわ」
「赤川会長、もう帰るんですか?」と、松島。
「ああ、もう決まりや。 まあ明日は楽しみにしてるで。 でも所詮、リングの上では勝者は一人しかおらんのや。 両雄並び立たず、ってやつやな。 松島、明日でお前のボクサーか、ワシのボクサーが上か分かる。 云うならそれが楽しみでわざわざ高校生の試合を観に来てるからのう。 ほな、またな!」
そう言い残して、踵を返す赤川。
「「お疲れ様でした」」と松島と南条が軽く頭を下げた。
するとその時、周囲の観客がどっと喚声を上げた。
二人がリングに視線を向けると、拳人が倒れた対戦相手を見下ろしていた。
「決まったな、南条もう帰るぞ!」
「あ、あのう、俺は拳人に一言声をかけてきます」
「まあいいが、なんかお前やたら拳人の控え室に行ってないか?」
「い、いえ可愛い後輩ですからね。 激励くらいしないと」
まさか主目的が顧問の静香目当てとは言えないので、適当な言葉で誤魔化す南条。
「まあいい、じゃあ俺は先に帰ってるぞ」
「はい、お疲れ様でした」
こうして拳人と御子柴は共に決勝戦へと勝ち進んだ。
両者の戦いは今度が四度目。
――さてどちらが勝つか、見物だな。
――だが俺もトレーナーとしての矜持がある。
――だから拳人、勝つんだ。 そしたら俺がもっと鍛えてやる。
――そしていずれは父親を追い抜け、父親もそれを望んでるだろうさ!
松島はそう心の中で思いながら、僅かに口の端を持ち上げた。
余談だが拳人を激励にいった南条だが、予想以上にマスコミに騒がれて、
主目的である静香との会話は殆どなかった。 明日はいよいよ決勝戦。
勝つのは拳人か、御子柴か。 周囲が騒ぐ中、当人達は明日に向けて決意を固めていた。
――調子はいい。 奴――御子柴は強いがもう負けるつもりはない。
――今のオレは独りじゃない。
――だから天国の親父、オレの戦いを見ててくれよな。
と、いつも以上に闘志を沸き立たせる拳人であった。




