第二話 ステップワークと左ジャブ
「じゃあまずはステップワークを教えるわね、腰に両手を当ててみて!」
「はい! こうっスか?」
千里は見様見真似で自分の腰に両手を当てた。
「そうそう、あなた右利きよね?」
「はい!」
「了解、まず半身に構えてから、足は大体肩幅くらいに開く。 まあ多少なら広くしても、狭くしてもいいわよ。 足はやや内股気味。 膝を少し曲げる感じで」
急に色々言われて少し混乱するが、
これまた見様見真似でやってみる。
「お? あなた、呑み込みが早いわね。 流石、運動部経験者。 そしたら右足で床を蹴って、体勢を崩さず前進して! そしてその次も同じ体勢で、後ろに飛んでみて!」
これボクシングに関係ある動作なの?
あ、でも一種のステップワークか。
バスケでも似たような練習をしたことがある。
とりあえず言われた通りやってみよう。
「そう! いいわよ、その調子! バスケ部出身だからステップワークも得意みたいね」
「いえいえ、これくらいなんともないっス」
「それじゃ前進と後退を何度か繰り返してみて!」
「はい!」
そして千里は何度か前進と後退を繰り返した。
何度か練習するとこつも掴めてきた。
「あなた、本当にスジが良いわね、なら次は左ジャブを教えてあげるわ」
あ、左ジャブは聞いたことがある。 確かボクシングの基本のパンチだ。
「さっきと同じ体勢を取り、両腕を上げる。 身体は少し前傾姿勢ね」
千里は言われるがまま身体を前かがみにして両手を構えてみた。
「この時、右手の構えが重要なのよ。 右拳を顎につけて、しっかりと守る。
ここが空いていると相手に左パンチで狙われるわ」
段々と分からなくなってきた。
というか気が付けば小金沢先輩にボクシングの手ほどきを受けている。
しかしやってみると、意外と面白い。
「右手を上げ過ぎると、お腹が空くわ。 右脇腹には肝臓という弱点があるから、絶対に狙われないように心がけて! リバーにパンチを喰らうと全身が痺れるわ」
わあ~、痛そう。
というかそんなところ殴られたくもないし、殴りたくもない。
気が付けば千里はリバーを護るべく、右腕をがっちり右脇腹につけていた。
「顎ががら空きよ?」
そう言いながら美鶴が左手で千里の空いた顎をちょこんと叩いた。
「いたっ!!」
「あ、ごめん、ごめん。 でもリバーを護ろうとすると、顎が空いちゃうでしょ? 両方を護る為には、顎をしっかりと引いて、身体を少し曲げるのよ」
とりあえず言われた通りにしてみる。
すると顎とリバーが右手一本で護れた。
「それが基本となる構えよ。 いい、右手を顎にくっつけるのは常に心掛けて!」
「は、はい」
「それと左手もできるだけ高く上げて構えて。 左ガードが下がると、相手の右パンチを顔にもらうわ。 これらの動作を身体にしみこませて!」
「はいっス!」
「それじゃあ今から左ジャブを教えるわ!」
ようやく本題に入った。 左ジャブか、少し面白そうだ。
今までのは、多分基本的な動作なのだろう。
スポーツにおいて基本は大事だからね。
「構えたところから真っすぐに左腕を伸ばして打つ! これが左ジャブよ!」
美鶴はそう言いながら、
千里に教えるように左ジャブを打ってみせた。
パンチが風を切る音がした。 は、速い! これが左ジャブ!
「これが左ジャブよ。 ジャブには色々な効果があるわ。 まず一つはジャブを出すことによって相手との距離を掴む測定器代わりになるわ。 ボクシングに限らず対人格闘技において相手との距離感はとても重要よ。 とにかく距離感は大事、覚えておいて!」
「はい」
「また相手にジャブを当てることによって、相手のフォームやバランスが崩せるわ。 そしてそこから強い右パンチを打つ、これがワンツーパンチよ。 でもこのワンツーを打つにあたって、ジャブで相手の動きを止めて、更に距離感を測ることがなによりも重要よ」
「はい」
とりあえず「はい」と言ってるが、段々分からなくなってきた。
「それとジャブは防御にも有効なのよ。 ジャブで相手の動きを食い止められる、ジャブで相手の突進を止めることもできる。 相手が飛び込んで来たら、カウンターで迎撃。 とにかくジャブには無限大の可能性が秘められてるわ」
「……はあ、そうですか」
熱くジャブを語る美鶴にやや引き気味になる千里。
よく分からないが、確かにジャブは凄いのだろう。
千里も何度かボクシング漫画を読んだことがあるが、
確かに作中でもジャブの重要性を説いてた気がする。
しかしイマドキの女子高生には、その有難みが分からなかった。
この人、美人だけど変わってるなぁ。 でも悪い人ではなさそう。
「大事なのは真っすぐ打って、真っすぐに引いて元の位置に手を戻すこと。 とりあえずやってみて!」
「……はい」
とりあえず千里は言われた通り左ジャブを何発か打ってみた。
幸か不幸か、バスケの経験から左腕を使ってのプレイには慣れていた。
初心者はまず左腕の使い方に慣れるまでが、大変だが千里にはそれがなかった。
しゅっ、しゅっ、しゅっ、何度か打っているうちにコツを掴んだ気がする。
「へえ、その子。 初心者とは思えないなあ」
「うん、初心者はまず左の使い方で躓くからなあ」
いつの間にか周囲に何人かの見物人が遠巻きにこちらを見ていた。
よく見ると神凪拳人も見ていた。
なんだか恥ずかしい、と思った時――
「ふうん、けっこう良いジャブじゃん」
と、拳人が千里に聞こえるようにぼそっと呟いた。
お、神凪くんに褒められた! ちょっと嬉しい。
千里は更に左ジャブを連打。
言われたとおりガードや手をしっかりと元の位置に戻すことも忘れない。
「……姫川さん、あなた本当に呑み込みが早いわね」
と、美鶴が感心したようにそう呟いた。
「ちょっとミット打ちしてみる?」
「ミット打ち? あのミットにパンチするやつですか?」
「そうそう、けっこう楽しいわよ? ついでにバンテージも巻いてあげるわ!」
「い、いえあたしそろそろ……」
「いいから、いいから! 本当に面白いから!」
と、強引に話を進める美鶴。
やばいな、完全に退路を防がれた感じだ。
実際やってみた感じボクシングの練習は思ってたより面白い。
でもなあ、イマドキの女子高生がやるものではない、と思う。
女子高生と言えば、青春の象徴、多分。
その女子高生という人生における黄金時代?で、
ボクシングに身に捧げるような高校生活は少し嫌だ。
でも美鶴先輩は確かに楽しそうだ。
でもなあ、ボクシングだよ、ボクシング。
やはり女子がボクシングしていたら、偏見の眼で見られるだろう。
「はい、とりあえず両手に巻いてみたわよ!」
「あ、ありがとうございます」
気が付くと両手に白い包帯のような物が巻かれていた。
これがバンテージか。 なんか少し自分が強くなった気がする。
「どう? きつくない?」
「いえちょうどいい感じです」
「ならこのパンチンググローブをはめて、私が持つ左ミットに左ジャブを打ち込んで!」
「は、はい!」
千里は言われるがまま両手に赤いグローブをはめた。
これがボクシングのグローブか、でも少し革が薄い気がする。
「じゃあ行くわよ、まずは構える。 はい、左ジャブ!」
千里は美鶴の掛け声と共に左ジャブをミットに打ち込んだ。
グローブ越しに左拳に確かな感触が伝わる。
更に左ジャブを連打、連打。 そして綺麗にミットに命中。
「お! 初めてのミット打ちにしてはいいわよ! 姫川さん、やっぱりあなたスジがいいわよ。 はい、じゃんじゃん行こう! はい、ジャブッ!」
「えへへへ、そうっスか? えいっ!」
調子に乗ってバンバンとミットを打つ千里。
でも実際にやってみたら、これはこれでけっこう楽しい。
なんか良いストレス解消になりそうだ。 などと思ってたら――
「はあ、はあ、はあっ……」
「はい、まだよ。 はい、左ジャブ!」
「は、はいっス!」
何だろう。 急に息が切れてきた。
スタミナには少し自信あったのに、なんかすごく疲れる。
その後、何度もジャブを打ったところで、
ラウンド終了のブザーが鳴った。
「はあ、はあ、はあっ」
「はい、お疲れさん。 どう? 簡単に見えていざやってみるとかなり疲れるでしょ?」
「は、はい」
「ボクシングは無酸素運動のスポーツだから、実際にやって見るとかなり疲れるのよ。 でも少し練習すれば、すぐに慣れるし、ダイエットにもなるわ。 どう? 入部する気になったかしら?」
「え~と……」
いやいやいや、自分はあくまでマネージャー希望だったわけで、
気が付いたらなんか練習させられていたんですけど~?
というかこの先輩に上手く乗せられたな。
よし、断るなら今のうちだ、と思った矢先に――
「姫川……さんだっけ?」
と、急遽、拳人と声をかけられた。
「あ、神凪……くん、どうも」
「姫川さん、ボクシングに興味あるの?」
「ええ……まあ」
まあ本当に興味あるのは、あなただけどね。
でもそんなこと言えない。
「うちの部は女子もけっこう居るし、未経験者も多いから、初心者でも歓迎するよ。 俺が見た感じでも姫川さんはけっこう良いセンスしてると思うよ」
「……そうなの?」
「うん、ちょっと練習すれば凄いボクサーになると思うよ」
「……あ、ありがとう。 じゃあ今日は失礼します」
そう言葉を交わして、練習場を後にする千里。
やったぁ! 神凪くんに褒められた! これは素直に嬉しい。
でも正直入部するかはまだ微妙。 とりあえずまだ仮入部期間。
ダンス部だけでなく、色んな部活を見てまわろう。
それでボクシング部に入部するか、どうか考えよう。