第二十八話 君の為に戦うよ!
網膜裂孔。
初期症状では、黒い点などが見える飛蚊症や、光が見える光視症などが起こる。
そして放置していると、網膜剥離が発症する。
だが不幸中の幸いか、千里の左眼は網膜裂孔のほぼ初期症状であった。
この状態なら裂孔の周囲をレーザーで焼き固めるレーザー光凝固術で治療できる。
しかし完全に完治及び安全な状態になるまでは、数ヶ月は要する。
だから十一月の新人戦は辞退せざる得ない状況だ。
いやそもそもボクシングを続けることが非常に難しくなった。
ましてや千里は女の子、もし万が一のことがあったら、取り返しがつかなくなる。
また千里自身も失明の危険性がある状態で、ボクシングを続ける勇気はなかった。
「一体どうしてくれるんですか!? 千里は女の子なんですよ!?」
「……申し訳ありません」
千里の母親がヒステリックに叫び、静香が申し訳なさそうに頭を下げた。
その後も千里の母親は静香を怒鳴りつけたが、千里が「もう止めて!」と涙声で訴えると、落ち着きを取り戻したが、やはり親としてやりきれないような表情をしていた。
「お母さん、手術したら結構簡単に治るみたいだから、落ち着いて!」
「……分かったわ。 でももうボクシング部は退部しなさい!」
「……」
母親の言葉に押し黙る千里。 本当は退部なんかしたくない。
でもこのままボクシング部に残っても、皆が必要以上に気を回すのは目に見えている。
そういう状況で部活を続けるのも心苦しい。 一体どうすればいいのだろうか。
「……お母さん、ごめん。 今は気が動転しているから何言っていいか分からない」
「そうね、一番辛いのは貴方よね」と、軽く涙ぐむ母親。
「お母さん、先に帰ってて。 あたしはちょっと気持ちの整理をするから」
「……分かったわ。 じゃあ立浪先生。 後で千里を車で家まで送っていただけますか?」
「……はい、分かりました」
「じゃあ千里、お母さんは先に帰ってるわ」
「うん」
千里の母親が帰り、病院の一階のロビーに千里、拳人、静香の三人が残された。
「姫川さん、帰りたくなったらすぐ言いなさい」
「立浪先生、ありがとうございます。 でもまだ家には帰りたくない」
「……そうか。 なら少し場所を変えるか? 病院の外へ行こうか」
「……はい」
十分後。
病院の正面玄関から出た千里達は近くのベンチに腰掛けた。
千里の左眼には、白いガーゼの眼帯がついていた。
三人はしばらくの間、黙っていたが千里がぽつりぽつりと喋り出した。
「どうしてこうなっちゃったのかな。 あたし、まだ四戦しかしてないのに……
網膜剥離がボクサーの職業病とは、なんとなく知っていたけど、
その初期症状の網膜裂孔なんて初めて聞いたよ。 しかもまさか自分がなるなんて……」
「姫川さん、初期症状の網膜裂孔ならレーザー治療で比較的簡単に治るから!」
拳人が励ますような口調でそう言った。
だが千里は力なく首を左右に振り、こう返した。
「うん、それはお医者さんから聞いたよ。 でもこれでもうボクシングはできない……。 仮に左眼が万全な状態になっても、もうボクシングするのは怖いかな。 正直高校の部活で失明なんかしたくない。 でもこのまま辞めるのもなんか嫌……」
「「……」」
千里の悲痛な言葉に拳人と静香も返す言葉がなかった。
二人も痛いほど千里の心情が分かった。
まったくの素人の千里が一年間本当に真面目に練習して、関東大会に優勝したのだ。
二人ともその努力を目の当たりにしていたのだ。
これ以上、彼女に頑張れなどと言えるわけがない。
「……神凪、私は柴木先生に少し電話してくるから、君が彼女に付き添ってあげてくれ」
「はい」
静香はそう言ってその場から離れた。
一見すれば逃げたようにも見えるが、静香としてはとりあえずこの現状を顧問の柴木に伝える必要があった。 それにしばらくボクシング部内で箝口令が敷く必要がある。
とりあえず事情を知っている拳人は別として、他の部員にはしばらくこの件を隠すつもりだ。
もし万が一、部員の口から一般生徒にこの件が漏れたら、千里を悪い意味で注目させることになる。 その状況だけは回避せねばならない。 いずれ周囲に伝わるとしても、今すぐは駄目だ。 彼女は彼女なりに教師としての務めを全うしようとしていた。
そして静香が居なくなると、千里と拳人の間でますます会話がなくなった。
千里はベンチに座ったまま暗い表情で下を向いており、拳人がその隣で同様に下を向いていた。 元々、口下手な拳人だがこの状況下で、彼女に何を言えばいいかなど必死に考えた。
すると千里が力なくこう言った。
「神凪くんももう帰っていいわよ。 これ以上無理して、あたしに付き合う必要ないわ」
「……でもこんな状態の姫川さんを放っておけないよ」
「……ありがと、でも今はその優しさが辛いかな」
「……オレ、いつも向日葵のように明るい姫川さんに何処か惹かれていた。 だからこんな落ち込んだ姫川さんに何もしないのは、なんか嫌だ」
「うん、あたしも自分は基本的に明るいと思っていたけど、まさか自分がこんな状況になるなんて思いもしなかった。 だからショックというか、茫然自失という感じ……」
「そりゃそうだよ。 こんな状況で落ち込まないわけがない。 だから愚痴でも言いから何でも言って! 言葉に吐き出したら、楽になる部分はあるはずだから!」
「……なんか愚痴言う元気もない。 あ、でも少し気になることはあるかな?
この際だから聞いていい? 神凪くんはなんでボクシングしているの?」
千里の唐突な質問に拳人はしばしの間、考え込んだ。
何故、彼女は急にこんなことを聞いたのであろうか?
しかしこの場で彼女の質問を無視すると会話が止まるのは明白だ。
だから拳人は言葉を選びながら、自分の内情を打ち明けた。
「実はオレの父親は少しは名の知れたプロボクサーだったんだな。 でも世界タイトル前に事故死したんだ」
「うん、それは知ってた。 神凪くんはお父さんの背中を追う為にボクシングを始めたの?」
「多分そうだと思う。 親父はあと少しでウェルター級の王座に手が届きそうな天才ボクサーと言われてたらしいが、オレには親父の記憶が殆どないんだよ。 だから小五くらいでネットの動画サイトで、投稿された親父の動画を片っ端から観たよ。 オレには親父の記憶はないが、世間では親父の記録は残っている。 オレは不思議な思いをしながらも、動画の映像を通して、親父の生きた証を感じることができたんだよ」
「……そっか、神凪くんの立場からしたらそう思うよね」
「うん、でもいざ高校の大会で優勝したら、嬉しいというより何処か拍子抜けした感じになったんだ。 オレがボクシング続けようが、優勝しようが、親父の背中を追っても、親父は何も言ってくれない。 そこにたまらない寂しさを感じたよ。 だから部活サボってバイクの免許取って、親父のバイクに乗ったりしたけど、気持ちよいのは最初だけだった。 時間が経つごとにまた空しさと寂しさが全身に押し寄せてきたんだ」
成る程、なんとなくそうじゃないかとは思っていたが、初めて自分の父親の事を語る拳人の言葉を聞くと少し気分が楽になる反面、妙な抵抗感を覚えた。 端的に言えば、才能のない者からすれば、優勝して満足できないことが実に腹立たしい。
なんという贅沢な悩みだ。 自分は一年間、努力してなんとか関東大会に優勝できたが、そこでいきなり足止めを食らった。 でもそれは千里の事情。 拳人には拳人の事情がある。
だからその辺を批判する気にはならなかった。
「まあ昨年の夏以降の神凪くんは本当にだらけていたよね。 正直軽い幻滅を覚えたもん」
「返す言葉がないよ。 オレ自身、色々と甘えていた自覚はあるよ」
「でも選抜で負けて以降は少し、ううん、だいぶ変わった。 今はすごく真面目に練習している」
「うん、やっぱりオレにはボクシングしかないからね。 今は吹っ切れたよ」
すると千里は寂しそうに笑った。
「いいね、まだリングに上がれる人は。 でもあたしはリングに上がれない。 例え上がる権利があっても、 今の気持ちのままだと、ボクシングするのが怖い。 ああ~、あたしにとってボクシングって何だったのかな。 あ、あんなに……あんなに……練習したのに……うわあぁぁぁぁぁぁっ……ああぁっ!!」
千里の中で急にやりきれない思いが全身を駆け巡った。
そしてその後に悲しみがこみ上げてきた。
千里は両眼からぽろぽろと大粒の涙を流して、嗚咽をもらした。
同時に拳人にも言い知れない悲しさが押し寄せてきた。
なんとかしたい、でもどうしたらいいかわからない、でもこのまま彼女を放っておけない。気が付けば、拳人は千里を抱きしめていた。
そして彼女の耳元でこう囁いた。
「姫川さん、泣かないで……君が泣くとオレも悲しい」
「だ、だって……だって……あたし……本当にボクシングが……好きになってたのに……」
「うん、うん。 そうだよ。 姫川さん、本当に頑張ってたもん。 オレはちゃんと観てたよ」
「……うっ、うっ、うっ」と、声を詰まらせる千里。
すると拳人は千里をもっと強く抱きしめながら、大きな声で言った。
「オレが、オレが君の分まで頑張るよ。オレ、明るい姫川さんが好きだ。 でもこのままじゃ姫川さんは気持ちの整理がつかない。だからオレは君の分まで思いを背負って、リングで戦うよ」
「か、神凪くん?」
「今は無理しなくていいよ。 でもこのままボクシングを辞めたら、きっと後悔する。 もちろん続けろなんて言わない。 でも心に影を落として、リングを去るのは良くない。 オレはそういうボクサーを何人も観てきた」
「……というかあたし、抱きしめられている?」
ようやくそのことに気付く千里。 しかし不思議を妙な抱擁感を感じていた。
だから彼女もそれを拒まず、自然のままに受け入れた。
「・……とりあえず今はゆっくり静養してね。 そして手術が終わったら、オレの試合を観に来て欲しい。 今年のインターハイは横浜開催だから比較的近場だからね。 そこでオレは自分の限界を超えて頑張るよ!」
「……神凪くん、ありがとう。 少し気持ちが楽になった」
すると拳人は千里を抱きしめるのを止めて、彼女から少し離れた。
「……じゃあオレはもう行くよ。 姫川さん、お大事に……」
「う、うん。 今は辛い気持ちが強いけど、気持ちの整理がついたら、あたしも皆の応援に行くよ。 やっぱりこのままボクシングから離れたくない。 だから神凪くん、あたしの分とかいいから、アナタはアナタのできるだけの事をして! 大丈夫、アナタは本当に天才ボクサーだから、まあちょっとメンタル弱めだけど」
「そうだね、自分でもメンタル弱いと思う。 でもオレは自分の為だけでなく、君の為にも戦うよ」
拳人はそう言うと、踵を返すと歩き去って行った。
千里はその背中をぼんやりと眺めていた。
そうね、このままじゃ終われない。 なんとか自分の心と折り合いをつけなくちゃいけない。
だから神凪くん、今度はあたしがリングの外からアナタを見守るわ。
そして千里はこの場に戻って来た静香の車に乗せてもらい、家まで送ってもらった。
車の中でぼんやりと外を眺めながら、千里はこの一年間の出来事を思い出していた。
最初は拳人に興味があって、ボクシング部に顔を出したが、気が付けばボクシングの虜になっていた。
練習はきつかったが、自分が強くなる実感が出てくると段々楽しくなってきた。
うん、あたしやっぱりボクシングが好きだ。 だからこのまま部を去りたくない。
だから神凪くん、あたしはアナタの戦いをリングの外から見守るよ。
そう思うと急に胸が楽になった反面、疲労がどっと押し寄せてきた。
そして気が付けば、千里は車の中で軽い眠りについていた。




