第二十七話 違和感
千里はゴングと共に前へ出た。
接近するチャンスを探る亀崎に対して、千里はフットワークを使い、左ジャブで距離を測りながら、一定の距離を保ち続ける。
亀崎は頭を振りながら、右を振り回し千里に迫るが、千里は逆に右ストレートを顎に、ボディへの左アッパーをヒットさせる。
だが亀崎はそれでも下がらない。徐々にプレッシャーを強め、ショートパンチをねじ込んで対抗する。 アップライトスタイルに構える千里は、軽快な足さばきで亀崎のパンチを外して、スピーディな左ジャブで亀崎の動きを止める。
そこから左フックでボディをえぐり、亀崎に着実にダメージを与える。
局面の打開をはかろうとする亀崎は、ガードを固めて猛然と前へ進んだ。
すかさず千里はショートレンジから左フックを上下にダブルで打ち込むが、亀崎の動きは止まらない。千里も手を休めず、フェイントをかけては右ストレートを当てる。
しかし亀崎はまるで怯まない。
逆に公式戦の経験の浅い千里は想像以上にスタミナを浪費していた。
亀崎は接近戦から左フック、肩越しの右ストレートを打ち込んだ。
危ういタイミングであったが、千里は冷静にパンチを見切りガードする。
亀崎の繰り出した連打を上体だけで躱し、返しの左ジャブカウンターを亀崎の顔面に喰らわせる。 だが亀崎も意地を見せる。左ジャブの連打で千里をロープに追い詰めた亀崎が、強引な右フックを叩きつける。
これをまともに喰らった千里は思わず上体をふらつかせる。
亀崎はさらに左フックで追撃。
千里はあっという間にピンチを迎えることになった。
しかし、この後の千里の反撃がまた見事であった。
勢いよく攻め込んでくる亀崎に左ジャブのカウンターを返し、すぐにまたワンツーが亀崎の顔面に綺麗にクリーンヒットする。
「ラスト三十秒!」
両陣営のセコンド陣が大きな声でそう叫んだ。
それが合図だったように、千里はひるまず前に出る亀崎に右のオーバーハンドを叩き込んだ。
そこから左ジャブの連打から、右アッパーを亀崎の顎にヒットさせる。
ぐらつく亀崎に対して、千里はワンツーの連打で攻め、強烈な右ストレートで亀崎の体を泳がせる。 だが亀崎も左フックで千里の右脇腹を強打。 綺麗なリバーブロウが決まり、千里が身体を九の字に曲げた。 亀崎はそこから教科書通りの左ジャブを連打した。
一発、二発と亀崎の左ジャブが千里の顔面に命中。
しかし三発目以降は、左ジャブカウンターの相打ちで逆に亀崎の顔にパンチを叩き込んだ。
千里は鼻から血を流し、肩で息をしており、見るからに苦しそうであった。
だが眼は死んでなかった。
その後も一進一退の攻防が繰り広げられる。
千里は前進してくる亀崎に左ジャブを突き刺し、距離が詰まれば右ストレートで牽制する。
だが亀崎は千里のパンチに恐れることなく前へ前へ攻め立てる。
接近してのパンチの交換のなか、千里の左ショートフックが亀崎の顎に当たり、腰がキャンバスに落ちかける。 千里は追い打ちをかけるようにショートパンチの連打でチャンスをつかみ、右ストレート、左フックを見舞って完全に主導権を手中に収める。
打たれ強い亀崎はなおも前に出てきたが、さすがにその動きは鈍くなる。
流れを掴んだ千里はスピードを生かしたショート連打で亀崎を攻めたてた。
亀崎は鼻から血を流しながら回り込んで、千里の攻撃をしのぐ。
亀崎が鋭いワンツーを放った瞬間、千里は左へのヘッドスリップで躱し、突き出した右ストレートがカウンター気味に亀崎の顎にジャストミートする。
この一撃で亀崎はもんどりうってキャンバスに転がるダウンを喫した。
「ダウン、ニュートラルコーナーへ」
レフェリーがそう告げると、千里はゆっくりとニュートラルコーナーへ戻る。
カウント6で立ち上がった亀崎は必死にファイティングポーズをとるが、足元はふらつき、ダメージは深刻。 カウント8まで数えたあと、レフェリーは両手を交差させて試合を止めた。
厳しい打撃戦を制した千里はリング上で両手を頭上に突き上げて、喜びを露わにした。
この勝利によって千里の優勝が決定する。
3R1分52秒RSC勝ち、それが正式なKOタイムであった。
その後の女子フェザー級の決勝戦は美鶴の判定勝ち、男子ウェルター級は2R1分33秒で拳人のRSC勝ち。 関東大会は三人の優勝者を出すという快挙を成し遂げた帝陣東ボクシング部。
だが後から振り返れば、良くも悪くもこの大会が一つの分岐点であったと言えるだろう。
それから数週間後の六月下旬のインターハイ東京都予選。
帝陣東の出場者は合計で六人。
フライ級の二年生の小森。バンタム級の三年生の川上。ライト級の主将・福山。
ライトウェルター級の三年生の森山、ウェルター級の拳人、ミドル級の島田の計六名だ。
フライ級の小森は二回戦で判定負け。
バンタム級の川上は決勝で惜しくも判定負け。
ライト級の主将・福山は決勝で3R1分15秒RSC勝ち、ライトウェルター級の三年生の森山は決勝で僅差の判定負け。
ウェルター級の拳人は三試合連続RSC勝ちで優勝、ミドル級の島田は決勝で判定勝ちという結果に終わった。 これにより福山、拳人、島田の三人がインターハイ本選の出場権を得た。
拳人の優勝は妥当な結果であったが、福山、島田と三年生が全国に駒を進めたのは朗報だ。
一方の千里と美鶴は十月の全日本女子ジュニア選手権の出場が決定した。
選手経験暦が一年未満の千里がここまで活躍したことにより、他の未経験者の一、二年生達も俄かに活気付いた。 関東大会が終わったばかりの頃は、顔を腫らしていたので、親友の真理やクラスメイトにも引かれたが、なんだかんだでボクシングやってて良かった、と千里は心の底からそう思った。
しかし少し心配事があった。
最近、時々左眼が霞むのだ。 ちょっと打たれすぎたかな。
そう思いながら、千里は期末試験の答案用紙に答えを記入していった。
大丈夫な時は大丈夫だけど、たまに左眼がぼんやりとしか見えないのよね。
なんだろう、コレ……。
そして無事期末試験の最終日を終えた七月上旬。
「よっしゃぁ! 今日から部活再開! 今日も頑張るぞ!」
「千里、頑張るのは良いけど、あまり顔を打たれない方がいいわよ。一応、女子なわけだし~」
「ありがとう、真理。 うん、今後はしばらく防御の練習をするよ!」
千里は真理にそう返して、学校指定のスポーツバックを片手に部室へ向かった。
「姫川さん、元気いっぱいだね!」
と、後ろから拳人が声をかけてきた。
「あっ、神凪くん。 あっ……痛っ!!」
勢い良く振り返った千里は後ろから、歩いて来た拳人とぶつかった。
「ひ、姫川さん! だ、大丈夫?」
「ご、ごめ~ん。 なんか急に左眼が霞んで距離感がおかしくなっちゃった」
と、千里はぺろりと舌を出した。 だが拳人は神妙な顔でこちらを見据えていた。
「……それいつからなの?」
「……え~と関東大会の後からだけど?」
「……時々左眼が霞むの?」
「う、うん。 そ、それがどうかしたの?」
「姫川さん、立浪先生に言って、今すぐ病院へ行こう!」
「え? えっ? 神凪くん、どうしたの?」
「いいから今すぐ行くんだ!!」
そう叫ぶ拳人の表情は鬼気迫るものがあった。
しかしこの時の千里には、何故彼がこんなにムキになったのかわからなかった。
そして拳人は柴木監督と立波先生を呼んで、真剣な表情で千里を病院に連れて行くように懇願した。
いまいち状況が分からない千里は、立浪先生の車に拳人と一緒に乗って近所の市営病院へと向かった。 そしてそこで下された診断が左眼の網膜裂孔であった。
だがその時の千里には事態が良く飲み込めなかった。
だが診断結果を聞いた拳人は額に左手を当てて、とても苦しそうな表情で天を仰いでいた。
そして当の千里も呆然としたまま、近くの椅子に腰掛けていた。
左眼の網膜裂孔、これは事実状の千里のボクサーとしての死刑宣告であった。




