第十三話 父親の背中
国体から数週間後の十月下旬。
JR難波駅から徒歩20分。
裏通りに入ったやや古めかしいビルの一階にある天景寺ジム。
ジムの入り口に「練習生募集! 女性のボクササイズ大歓迎!」と看板が出ていた。 その入り口を前にして、御子柴圭司はスポーツバック片手に立っていた。
「……ここに来るのは久しぶりやな。 まあええ、行こか」
御子柴はそう独り言を呟き、ジムに中に入った。
練習場の大きさは大体五十畳くらい。 壁の近くに程よい大きさの青いキャンバスのリングがあった。 鼻を突くむっとする匂い。 ジム内には二十人前後の練習生が居た。
「こんちはっス!」
御子柴が挨拶すると、中に居た何人かが「ちはッス!」と挨拶を返した。
「おう、ケージやないか。 ジム来るのは久しぶりやな」
「村島さん、お久しぶりです」
御子柴は声を掛けてきた中年の長身痩躯の男にそう答えた。
すると村島と呼ばれた顎髭を左手で触りながら、御子柴を見据えた。
「今日はどないしたんや?」
「いえ練習したくて来ました。 赤川会長居ますか?」
「おう、事務室におるで」
「ちょっと挨拶してきます」
「おう、後でちょっとミット打ちしようか!」
「はい!」
御子柴はそう答えて、ジムの奥にある事務室へと向かった。
「失礼します!」
御子柴はそう挨拶しながら、事務室のドアを開けた。
事務室はあまり広くなく、部屋の中もけっこう散らかっていた。
だが机の上に置かれた黒いノートパソコンは比較的新しかった。
その机の椅子に腰掛けた六十歳ぐらいの老人がこちらに振り向いた。
歳のわりには背筋はぴんと伸びており、眼光はとても鋭い。
そして背中に漢字で天景寺ジムと白字で書かれた黒ジャージを着ていた。
「おう、ケージか。 今日はどないしたんや?」
「赤川会長、お久しぶりです。 ちょっとジムで練習したいのですが……」
「ああ、ならかまわんで。 しかし国体は残念やったな」
「……もしかしてわざわざ茨城まで観に来てくれたんですか?」
「……まあな、ちょいと気になる奴も居たしのう」
「……気になる奴ですか?」
やや硬い表情でそう問う御子柴。
「おう、奴の――神凪拳の息子のことや」
赤川のその言葉を聞くなり、御子柴は更に表情を険しくした。
「……赤川会長から見てあいつ――神凪はどうでしたか?」
すると赤川は右手で顎を摩りながら、数秒程黙考する。
そして何かを思い出すような表情でぽつりぽつりと語りだした。
「まあアレやな。 ハッキリ言えば期待外れや。 まあ高校ボクシングレベルやったらアレでも通用するやろうけど、プロじゃあかんな。 親父の足元にも及ばんわ」
「すみません、そんな奴に負けてもうて……」
御子柴は申し訳なさそうな表情でそう言ったが、赤川は軽くこう返した。
「いや気にすることはないで。 確かに現時点ではお前よりあの小僧の方が技術は上やけど、高校レベルの大会でスタミナ切れ起こしているようじゃ物にならんわ。 なんというかアレは単純に練習不足やわ。 アイツはボクサーとして甘いで!」
「……本当にそう思いますか?」
御子柴の言葉に赤川は「ああ」と頷いて、こう言葉を続けた。
「ボクシングにおいて技術は確かに大事や。 でもそれ以上に根性や精神力はもっと大事や。 まあこういうのを古いだの、時代遅れだの言う輩は居るが、ワシはそうは思わん。 そしてケージ、お前には根性もやる気もある。 だからお前さえ本気になれば、あんな小僧もの数やないで、どうやケージ。 あの小僧に勝ちたいか?」
「はい! 勝ちたいです!」
と、背筋を伸ばしてハキハキと答える御子柴。
すると赤川は満足そうに笑みを浮かべながら、こう言った。
「よしなら次の大会までワシがきっちり鍛えてやるわ。 とりあえず今日は村島にミット打ちでもしてもらえや。 それでお前の今の実力をみせてもらうわ」
「はい、では早速着替えて練習してきます」
「おう、頑張りや!」
元気よく答えた御子柴は一礼して、事務室を後にした。
だが御子柴がこの場から居なくなると、赤川は少し渋い表情なり、こう呟いた。
「そういや国体の決勝戦の会場で、聖拳ジムの世界チャンピオン南条とトレーナーの松島の姿を見かけたな。 確かあの男――神凪拳も聖拳ジム所属やったな。 ならあの小僧も聖拳ジムでボクシングを習ってたんか? あの小僧はまだまだひよっこやけど、松島が本気で指導したら化けるかもしれんな。 まあそれはそれでおもろいけどな」
「ほら、ほら、ほらぁっ! もっとガンガン打てっ!」
「は、はい!」
村島の声と共に御子柴は全力でワンツーパンチをミットに放つ。
御子柴の右ストレートがミットに当たるとバシッという激しい衝撃音が響いた。
ミットを持つ村島も少し態勢を崩す。 だが間髪入れず「いいぞ、もっと来い!」と叫ぶ。
そこから更にワンツー、ワンツースリー、ワンツーから左フックのダブル。
左右のフックの連打。 左ボディから左フックのダブル。
様々なコンビネーションのパンチがリング上で繰り出された。
「ラスト三十秒!」
ストップウォッチを片手に赤川会長が大声で叫んだ。
このラスト三十秒が以上に長く感じるくらい御子柴の肉体に容赦なく疲労が襲う。
だが御子柴は拳を緩めない。 むしろまだ余力があると言わんばかりに、凄まじい勢いでパンチをミットに打ち込んだ。 御子柴は力のある限りパンチを繰り出した。 ビーというラウンド終了を知らせるブザーが鳴り「よし、ええ感じや!」と赤川会長が言い、
「……あ、ありがとうございました」とだけ言い、御子柴はリングを降りた。
「ええ感じやったぞ。 高校の練習がない日はウチに来い! 今のお前やったら、ワシが直々に指導してやる価値があるわ」
「ほ、ホンマですか!?」
「ホンマや、こんなしょうもない嘘つかんわ」
「なら監督の許可取って、時々出稽古に来ます。 正直部活内ではオレと互角以上にスパーやれる奴あんまおりませんので……」
「まあそうやろな。 でもこのジムやったらいくらでもお前の相手がおるで。 ところでケージ、お前はワシを恨んでへんのか?」
「え、え?」
赤川の唐突な問い掛けに戸惑う御子柴。
すると赤川は何かを思い出すように語りだした。
「お前の親父――御子柴聖司はそら凄いボクサーやった。 同時代にあの男――神凪拳という男さえ居なければ、日本ボクシング界の英雄になれたやろう。
だがその神凪拳も世界タイトル挑戦者決定戦で世界ランク一位のラファエル・マーベリックに勝った後に交通事故死。 その穴埋めの形でお前の親父に世界戦が舞い込んできたが、結果は接戦による判定負け。 それだけならまだええ。 でもその結果――」
「赤川会長、正直言えばうちのおかんは会長を、ボクシングを憎んでおりますわ……」
「そうか……」
「でも俺は恨んでませんよ。 そりゃ子供の頃は結構苦労しましたわ。 というか金銭面では今も厳しい状況ですわ。 でもね、オレは御子柴聖司の息子で良かったと思ってます」
「……何でや?」
赤川は真顔でそう問うた。 すると御子柴はゆっくりと答えた。
「親父も多分ボクシングしかなかったんと思います。 オレも同じです。 オレ、頭悪いし、取り柄と云えばボクシングくらいですわ。 でもそのボクシングのおかげでオレは学校ではちょっとしたヒーローなんですわ。 でもそんなオレの前にあいつが立ちはだかった。 親父のライバル――神凪拳の息子・神凪拳人が……」
そう言いながら、御子柴は少し強く唇を噛み締めた。
「ここであいつに負けたままやとオレは永遠の二番手ですわ。 そんなん冗談やない。 親子二代揃って神凪親子の噛ませ犬になるわけにはいかんのですよ。 オレにも意地とプライドがありますからね。 だから赤川会長、オレをもっと鍛えてください!」
そう言う御子柴の表情は真剣そのものだった。
「そうか、お前も親父の背中を追ってるんやな」
「……はい」
「分かったわ。 今まではお前には、一歩距離を置いて指導してきたけど、これからは本気で教えてやるわ。 だけどな、やるからには徹底してやるぞ! 打倒神凪やない、どうせやるならウェルター級で頂点を目指せ! 五輪でもプロでも天辺取るんや!」
「は、はい!」
「ほな、ぼけっとしとらんでバック打ちでもしろや! というかお前等も見とらんで、自分の練習をするんや! ジム(ここ)は遊び場やないんやで!!」
それに対して練習生達は「はい!」と返して、また更に激しい練習を続ける。
その姿を赤川は満足そうに眺めながら、僅かに口の端を持ち上げた。




