第十二話 サインください!
「南条さん! 試合観に来てくれたんですか!?」
「よう、拳人。 高校二冠おめでとう」
選手控室に入るなり、南条は気さくに拳人に話しかけた。
すると周囲の報道陣やボクシング関係者が一気にどっと沸いた。
「お、おい! あれ……ライト級の世界チャンピオンの南条じゃないか!?」
「ほ、本当だ! 聖拳ジムの南条勇だ!」
「あ、すみません。 皆さん、今日はオフの日なので写真撮影はほどほどでお願いします。こいつに――拳人に声を掛けたら、すぐ帰りますので」
と、南条は爽やかな笑顔を浮かべて、そう言った。
すると報道陣はしんと黙り込んで、南条の動向を見守った。
南条は控室の長椅子に座る拳人に近寄り、見下ろす形でこう言った。
「しかし夏とは違って少し苦戦気味だったな。 松島さんも心配してたぞ?」
「え? 松島さんもわざわざ試合を観に来てくれてたんですか?」
そう驚く拳人の言葉に南条は「ああ」と答えた。
「まあな。 まああの人はもう帰ったけどな」
「……そうですか」と、拳人。
「まあめでたい日に小言は言いたくねえが、少しスタミナ不足が目立ったな。 拳人、お前ちゃんと朝のロードワークはしているか?」
「……い、一応は。 ただ最近はバイトが忙しくて休みがちでした。 すみません」
「俺に謝っても仕方ねえよ。 まあとにかく日々の練習は怠るなよ?」
「は、はい」
珍しく緊張気味にそう答える拳人。
すると周囲の報道陣が――
「すみません、チャンピオン。 神凪くんと一緒に並んでもらえませんか? それを撮影して記事にしたいのですが、いいでしょうか?」
「ええ、構いませんよ」
南条は記者の要望に快く応えた。
そして南条と拳人が並んで、お互いに軽くファイティングポーズを取った。
拳人もだが、南条もなかなかの美男子だ。 被写体としては最高の素材だ。
「神凪くん、もっと笑ってもらえる?」
「あ、はい」
そう記者に言われて、拳人はぎこちなく笑った。
そして報道陣のカメラマンが何枚か写真を撮影した。
「じゃあ俺はもう行きますので!」
「あ、南条さん。 お疲れ様です!」
と、拳人が深々と頭を下げた。
その光景を見ながら、顧問の立波静香は唖然としていた。
神凪拳人が凄いボクサーとは分かっていたつもりだったが、まさか現役世界チャンピオンが激励に来る程とは夢にも思わなかった。 というかまさか拳人とあの南条勇が知り合いとは思いもしなかった。 何を隠そう静香は南条の大ファンなのである。
とはいえ報道陣の手前、気安くサインをねだることもできなかった。
しかし南条に直接サインを貰う機会などもうないかもしれない。
だから静香は勇気を振り絞って、南条の後を追った。
「す、すみません!」
「え?」
急に呼び止められて、不意に振り返る南条。
ヤバい、もろに不審者を見る目だ。 でもここ引き下がるわけにはいかない。
静香は黒のスーツの上着から、黒革のメモ帳とボールペンを取り出して――
「な、南条選手! さ、サインください!」
頭を下げてそう言った。 すると南条は微笑を浮かべて――
「ああ、サインですか。 もちろんいいですよ」
「ほ、ホントですか!?」
「サインくらいならいつでもしますよ。 そちらの黒皮のメモ帳に書けばいいですか?」
「は、はい!」
そして南条はメモ帳とボールペンを受け取り、さらりとサインを書いた。
「これでいいですか?」
「はい! ありがとうございました!」
と、静香は表情をぱあっと明るくさせた。
「いえいえ、ところで一つお聞きしてもよろしいですか?」
「な、何でしょうか!?」
「いえ……先程、選手控室に居ましたよね?」
「え、ええ」
「もしかしてボクシング部の顧問の先生ですか?」
「は、はい! 帝陣東高校のボクシング部の顧問をしております」
「……すると拳人のことを知っているんですよね?」
「え、ええ……一応彼のクラスの担任をしております」
すると南条はしばし何やら考え込んでいた。
静香は「わ、わたし何かマズいこと言った?」と内心慌てふためいた。
だが次に南条が発した言葉で更に混乱した。
「すみません、よろしければその辺でお茶しませんか?」
「え? え? は、はい……?」
十五分後。
南条とは静香は会場から少し離れた場所にある喫茶店に入った。
そして二人は木製のテーブルを挟んで、向き合う形でそれぞれ椅子に腰掛けた。
喫茶店の内装や外装はやや古いが、落ち着いた雰囲気の古き良き店という感じだった。
しかし静香は混乱していた。
何故自分が現役世界チャンピオンと一緒に喫茶店に入ってるんだろうか。
もしかして南条にナンパされたのか?
いや、いや、いや、いや、いや、それはないだろう。
いや実際はそうであって欲しいという気持ちもあるが、それはそれで困る。
「あ、すみません。 え~と失礼ですがお名前は?」
「あ! は、はい。 英語教師をしている立波静香と申します!」
「では立波先生と御呼びしてよろしいでしょうか?」
「は、はい!」
「立波先生は何を注文されますか?」
「で、ではわたしはアイスティーで!」
「ではアイスティー二つでお願いします」
「畏まりました」
二十代前半くらいのウェイトレスが注文を取りに来たので、南条はアイスティー二つ頼んだ。 注文を取り終えたウェイトレスが踵を返して、厨房に向かった。
「急にお誘いしてすみませんでした。 ご迷惑だったでしょうか?」
「い、いえいえ、そんな事ありませんよ」
静香はそう言って、右手を少し強めに左右に振った。
駄目だ、異様に緊張する。 十代ならいざ知らず自分はもう二十半ば過ぎなのだ。
とはいえ憧れの選手を目の前にしたら、こうなるのも無理はない。
「実は拳人についてお聞きしたいんですよ。 よろしいですか?」
「……え?」
一瞬、反応が固まる静香。 しかし数秒後には我に返った。
ああ、なるほどそういう事か。 神凪は確か南条が所属する聖拳ジムに通ってたらしい。
つまり南条からすれば、神凪は後輩にあたる、というわけか。
すると急に緊張感が薄れ、静香は落ち着いた表情でこう返した。
「……ええ、いいですよ。 確かチャンピオンは神凪と同じジムでしたよね?」
「チャンピオンはやめてください。 普通に南条と呼んでください」
「……では南条さん、神凪について何を知りたいのでしょうか?」
「お待たせしました!」
「あ、どうもです」
運ばれてきたアイスティーを静香は控えめにストローで吸う。
南条もリラックスした表情でアイスティーをストローで啜った。
「いえ実はですね。 さっきの拳人、神凪の試合を一緒に観ていたウチのジムのトレーナーが拳人の調子の悪さを気にしていましてね。 ですから担任である立波先生なら、なにか拳人について知ってるかと思って、こうして話す場を設けたのですよ」
なる程、どうやら南条という男は随分と後輩思いのようだ。
でもなんか自分が興味の対象でない事を知ると、静香も何処か事務的な態度になった。
「とは言われましても、私はボクシングに関しては素人なので……」
「そうなのですか?」
「ええ、学校から顧問を押し付けられた形です」
「なる程、でも担任をされてるんですよね? 最近の拳人の生活習慣などはどうですか?」
「ああ、そう言えば遅刻が多いですね。 それと部活も時々休んでいますね」
「……やはりそうか」
「まあ遅刻に関しては、私の方からもう少し厳しく注意しておきますね」
「お願いします」
「話はもう終わりでしょうか? でしたら私はそろそろ――」
「待ってください! 良かったらラインのID交換しませんか?」
「え?」
南条の予想外の言葉に静香は一瞬呆けた。
「ご、ご迷惑でしょうか?」
と、やや照れ臭そうな表情の南条。
「い、いえ……ただ意外な申し出でしたので」
「もちろんしつこくメッセを送ったりしませんし、ご迷惑ならブロックしてください」
「……南条さんはどうしてそんなに神凪に世話を焼くのでしょうか?」
「まあそれは彼の父親に世話になったからですが、それは方便ですよ」
「方便?」
すると南条は少し真面目な表情になってこう言った。
「本当は立波先生がとても美人だったので、お近づきになりたかったんですよ」
「!?」
思いもせぬ言葉に静香はたじろいだ。
「え? え? そ、そんな……か、からかわないでください!」
「からかってなどいません! 俺は真剣ですよ。 それとも旦那さんや彼氏さんが居るのでしょうか? それならば俺も潔く身を引きますが……」
居ない、居ない、旦那どころか彼氏すら居ない。
しかしここで下手に出ると、軽い女と思われるかもしれない。
だから静香は精一杯の虚勢を張りながら、こう返した。
「……そうですね、ラインのID交換くらいならいいですよ? でも携帯番号やメアドはまだ教えませんよ? それでいいなら交換してもいいです」
「それで構いませんよ」
「……ならID交換しますか?」
「はい」
そして南条と静香はラインのID交換して、お互いにメッセージを送った。
「テスト完了。 では俺はそろそろジムに戻ります。 ここのお支払いは任せてください」
「い、いえそんなの悪いです」
すると南条はやや口の端を持ち上げて、こう言った。
「いえこれでも世界チャンピオンです。 そこそこは稼いでる身です」
「……ならご馳走になります」
飲み物を飲み干した二人は立ち上がり、支払いをすませ、店の外に出る。
「では俺はもう行きますね。 立波先生、お疲れ様でした」
「お、お疲れ様でした」
二人はそう言葉を交わして別れた。
……これは夢なのか? もしかして狐に化かされているのか?
でもそれはそれでいいかもしれない。 うん、こんな夢ならいくらでも見たい。
とはいえ程々に気を引き締めないといけない。
なにせ相手はイケメンの現役世界チャンピオン。
静香としても、遊ばれるのは御免だ。 だから警戒心を高める必要がある。
「まあこうなれば出たとこ勝負だ。 っとまずい、そろそろバスの発車時間だ。 急いで駐車場に向かわねば!」
と言いながら、静香は心なしか何処か嬉しそうな表情で、足取りも軽く駆けて行った。




