第十一話 国体
九月も終わり、十月を迎えようとしていたが、気が付けば帝陣東の一年生のボクシング部員は、七人から四人まで減っていた。 練習がきついこともあるが、未経験者は一年間試合に出場できないのも退部の理由の一つであった。
だがそれでも千里は腐らず、毎日毎日地道な練習に励んでいた。
そして十月の第一週、国民体育大会――通称・国体が開催された。
開催地は茨城県。 ボクシング競技の試合会場は県立高校の体育館だ。
今回は学校の援助があり、柴木監督と立波先生の分の交通費と宿泊費が出た。
だがボクシング競技は五日間もあるので、一年B組の担任の立波先生は授業の兼ね合いもあり、準々決勝が終われば、学校に戻る予定だ。
尚、監督の柴木は唯一の出場者である神凪拳人の世話や調整に付き合う為に、最終日まで残ることになる。 帝陣東高校からこの国体本戦に出場するのは、全学年合わせて拳人一人である。 故に学校も本腰を入れて、ボクシング部の支援に乗り出した。
ボクシング部の部員も全員、学校が手配したバスに乗って応援に行く予定だ。
だが肝心の準決勝戦と決勝戦も平日開催の為に応援には行けない。
そういうわけで柴木監督がメールかラインで主将の福山に試合結果を伝える事となった。 拳人はウェルター級でエントリーしていたが、シード扱いで二回戦からの出場。
そして二回戦は土曜日だったので、ボクシング部全員が応援に参加。
その期待に応えるべく、拳人は二回戦を二ラウンドでRSC勝ち。
翌日の日曜日の準々決勝。
この日はボクシング部だけでなく、拳人目当ての帝陣の女生徒も応援に参加。
対戦相手は北海道代表の旭第三高校の三年生・窪塚。
相手が左構え型という事もあって、拳人は序盤から苦戦した。
いや苦戦した理由はそれだけではない。
どうにもこの日の拳人の動きは鈍かった。
それでも相手の右ジャブを掻い潜り、逆に左ジャブで相手の顔面を打ち抜く。
そして執拗に左ボディフックで相手の肝臓を何度も強打した。
すると第三ラウンドを迎えた頃には、両者ともにかなり疲労していた。
そして拳人は手数で攻めて、なんとか判定勝ちを収めた。
インターハイの頃のような圧倒的な強さはないが、やはり拳人は強かった。
しかし千里は素直に喜ぶことはできなかった。
やはり練習不足によるスタミナ不足が千里の目から見ても明らかだ。
全力を出してこの結果なら、千里も文句はないが最近の拳人は色々と弛んでいた。
まあそれでも拳人は千里や他の部員より遥かに強かった。 それは認める。
でもなんというか胸の中でもやもやした感情が渦巻くのであった。
更に翌日の月曜日の準決勝戦。
この日は平日なので、拳人以外の部員は授業に出ていた。
そして授業が終わり、部活の時間になって部員達は練習場に向かった。
すると主将の福山に柴木監督からラインが送られて――
「おお! 神凪、勝ったみたいだ! 今日も判定勝ちみたいだな」
と、福山が声を高らかにして皆に告げた。
「へえ、やっぱり神凪は強いわねえ。 これで決勝戦進出でしょ?」
「ああ、こりゃインターハイに続き、国体も優勝するかもな」
副主将の美鶴の言葉に福山が相打ちを打った。
決勝進出かあ~。 なんだかんだで神凪くんは凄いな。
でも判定勝ちが続いてるのが、気になるなあ。
もしかして練習不足でスタミナに不安があるのでは?
でもそれでも勝つのだから、やはり凄いといえば凄い。
だけど今は他人の試合結果より、自分の練習の方が楽しい。
だから今はとにかく地道に真面目に練習しよう、と思う千里であった。
翌日の決勝戦。
この日も平日開催という事で、部員は応援に不参加。
しかし決勝戦という事もあり、観客席にはプロのジムの関係者や大学の関係者の姿が目立った。 そしてその中にはインターハイの時と同様に聖拳ジムの世界王者の南条勇とチーフトレーナーの松島の姿があった。 彼等の目当ては言うまでもなく、拳人である。
「拳人の奴、なんだかんだでまた決勝に来ましたね」と、南条。
「まあな。 でも俺の眼から見れば、奴は少し調子を落としているな」
「そう思う根拠はあるのですか?」
南条の問いに松島は「ああ」と頷き、こう言葉を続けた。
「ここ二試合程、判定勝ちが続いている。 奴の本来の実力ならもっと楽に勝てた筈だ」
「でも相手も全国レベルの選手でしょ? そうそうKOできるもんじゃないでしょ?」
「俺も並みのボクサーなら、文句など言わんよ。 だが拳人とは天才だ。 少なくとも中学時代の奴は親父に勝るとも劣らない才能を持っていた」
「まあ確かにあいつの中学時代は凄かったですよね。 中三の時点でプロの四回戦や六回戦相手でもかなり良いスパーしてましからね」
「ああ、だから高校生レベルの大会では、勝って当然……ん?」
「……どうかしましたか?」
「いや向こうの観客席に見覚えのある顔を見つけたのでな」
と、松島は神妙な顔でそう言った。
「誰ですか?」
「……大阪の天景寺ジムの会長だ」
松島は何処か嫌そうな響きの声でそう答えた。
松島さんにしては珍しいな、と南条は率直に思った。
大阪の天景寺ジムといえば、古豪と呼ばれる名門ジムだ。
自分の知る限り、松島さんは他のジムの会長やトレーナーにも礼節を尽くす人だ。
だからこの人がこういう反応するのは意外だ。
だがそれを聞くのは、やはり失礼だ。 だから南条は特に何も云わなかった。
「そういえば今日の拳人の相手は、以前にも対戦したことのある選手だったよな?」
「ええ、確かその筈です」
「夏に観た感じだと、闘志のある良い選手だったな」
「はい、名前は憶えてませんが、典型的なインファイターですね」
「そうか、なら今の拳人の状態を測るのに丁度良い相手だな」
「松島さん、そろそろ試合が始まります。 とりあえず拳人の戦いっぷりを観ましょう」
「ああ、そうだな」
そしてウェルター級の決勝戦が開始された。
青コーナーから飛び出すなり、大阪代表の御子柴圭司は手数を出して果敢に攻めた。
だが拳人は相手のパンチを綺麗に防御、ブロックして被弾を許さない。
逆に左ジャブを中心に的確に相手にパンチを打ち込んで、的確にポイントを稼ぐ。
御子柴はそれでも執拗に攻め立てるが、逆に拳人のカウンターをもらう。
しかしクリーンヒットが命中しても、拳人は無理には攻めず、中間距離では左の差し合いで的確に左ジャブを決めて、御子柴のスタミナを奪いながら、ポイントを上手く稼ぐ。
そのような展開が続き、第二ラウンドが終了。
青コーナーに戻る御子柴は既に肩で息をしており、苦しそうな表情をしている。
だが松島がそれより気になったのが、同様に赤コーナーで肩で息をする拳人だ。
攻め立てて、反撃を受けて疲労する御子柴はまだ理解の範疇だ。
技術が上の相手と試合をしたら、苦しくても攻め続ける精神がボクシングには必要だ。
そういう意味じゃあの御子柴という選手は、闘志があり、精神的にも強い。
だが松島が解せないのが、基本的に迎撃態勢を取りながら、疲弊している拳人だ。
よく言えば相手の勢いを利用して、相手に手数を出させて、カウンターなどでじわりじわりと相手のスタミナを奪いながら、地道にポイントを稼ぐ。
アマチュアボクシングの試合においては、ある意味正しい戦い方だ。
しかしそれで拳人が軽いスタミナ切れを起こしているところに妙な違和感を覚えた。
考えられる理由の一つが、単純に練習不足。
だがなまじ技術があるから、楽して勝とうとしているし、実際それで勝てそうだ。
拳人の奴め、色々と手を抜いているな。 これは少し良くない兆候だ。
「……悪くない試合運びですね」
「……俺はそうは思わんよ」
南条の言葉に松島は憮然とした表情でそう返す。
すると南条は数秒程、なにか考える素振りを見せてこう問うた。
「そう思う理由はあるんですか?」
「ああ、拳人の奴は色々と手を抜いている。 俺はそこが無性に気に入らん」
「……確かに良く見ると、拳人が微妙に苦しそうな表情をしてますね」
「ああ、あれは単純に練習不足によるスタミナ切れだ」
「でもそれでも省エネで相手を疲弊させて、的確にカウンターを打ってますよ?」
「それは認めるよ。 技術に関しては褒めてやるよ。 相手を動かせて、こつこつとパンチを当てて、ポイントを稼ぐ。 そういう意味じゃ大人のボクシングかもしれん。
だがそんな楽した状態で、スタミナ切れを起こしているのは、良くない兆候だ」
「……まあそうかもしれませんね。 でも拳人はまだ高校一年生ですよ?」
南条はやんわりとフォローを入れたが、松島は首を左右に振った。
「俺も並のボクサーなら文句は言わないさ。 だが拳人の生まれ持ったボクシングセンスは神凪拳に勝るとも、劣らない。 だから俺はこうしてわざわざアマチュアの高校生の試合を観に来てるんだ。 だが俺は才能を持っていながら、努力を放棄して、その才能を腐らす奴が嫌いだ。 そういう意味じゃ拳人は父親に少し似てるのかもな……」
「……それどういう意味ですか?」
南条の問いに松島はしばらく考え込んでから、ぽつりとこう漏らした。
「神凪拳は不世出の天才と呼ばれていたが、精神面では甘い面があったんだよ。
なんというか奴は気分屋でな。 練習量もモチベーション次第でばらつきがあった。
また女にモテた為、女遊びもよくしていた。 まあそれを咎めるつもりにはない。
俺も男だからな。 だがそれで本業が疎かになるようでは、本末転倒だ。
それでも拳の奴は試合前にはちゃんと仕上げてきたが、その息子はどうだろうかな?」
「……なる程、確かに拳人はイケメンだ。 ああいう奴はモテる。 奴も思春期の高校生。
そりゃ女の子と遊びたい時期でしょう。 でも確かにそれで才能を腐らせるようでは、奴も所詮それまで、ということですかね?」
南条の言葉に松島は「うむ」と小さく頷いた。
二人がそうこう会話しているうちに試合は最終ラウンドを迎えていた。
相変わらず前へ出る御子柴に対して、カウンターで迎え撃つ拳人。
それでも果敢に攻める御子柴。 すると拳人は足を使って左ジャブで御子柴の突進を食い止めながら、サークリングする。 そしてそのまま拳人が逃げ切り、試合が終了した。
「駄目だな、勇。 俺はもう帰るぞ。 こんな試合観に来るんじゃなかった」
松島はそう言って席を立った。
「え? もう帰るんですか?」
「ああ、奴には――拳人にはがっかりした。 このままでは奴は一生親父を超えられないだろう。 俺の経験上、自分に甘いボクサーは大成しない。 そして俺はそんな甘ったれた野郎は大嫌いだ。 だから俺は先に帰らせてもらう」
「……そうですか、お疲れ様です」
「……勇、お前は帰らんのか?」
「俺は一応拳人に声でもかけておこうと思います」
「後輩思いだな。 だがお前も防衛戦が迫っている身だ。 あまり長居はするなよ?」
「勿論です。 少し声をかけたらすぐにジムに戻りますよ」
「……そうか、では先にジムへ帰っているぞ」
「はい!」
そう言い残して、松島は会場から去った。
南条はその背中を目で追いながら、少しばかり考え込んだ。
――松島さんは一流のプロのトレーナーだ。
――俺だけでなく、多くの世界王者を育て上げた名伯楽だ。
――その松島さんが拳人を駄目出ししたのは気になる。
――まあ確かに俺の眼から見ても拳人の状態が良くないのは分かる。
――だが奴はまだ十六歳の高校生。
――だからここは先輩である俺が軽く探りを入れてみるか。
そう思いながら、南条は拳人のところへ向かおうとしたが、途中で周囲の観客に気付かれて、サインをせがまれた。 だが南条は嫌な顔一つせず丁寧にサインを書くのであった。




