第十話 マスボクシング
長い夏休みも終わり、二学期が始まった。
夏休み明けということで、クラスの皆も雰囲気が変わっていた。
運動部の者は、こんがりと日焼けしており、体格が少しばかり良くなっていた。
部活に所属していない者達も日焼けしてたり、髪型が少し派手になっている。
そういう意味じゃ千里はあまり変化がない。
ボクシングは基本的に室内競技なので、ロードワークや体力トレーニングとかでない限り、あまりグラウンドを使うことはない。 この辺はバスケ部と同じだ。
ちなみに髪も新学期が始まる前に美容院に行って、少し切ってもらった。
まあそんな感じで夏休み明けのダレた空気で、二学期が過ぎていく。
「千里、なんか全体的にシャープになったわね」
「そう?」
千里は中学からの親友・真理の言葉に軽く首を傾げた。
「夏休み中は大体部活だったの?」
「うん、まあ基本的にそう。 たまに試合の応援へ行ってたけど」
「そう言えば、神凪くんはインターハイで全国優勝したのよね?」
「う、うん。 そうだよ」
真理はただ興味本位で聞いているのであろう。
でも千里はクラスの女子がごく自然な様子を保ちつつ、聞き耳を立ててるのに気づいた。 ここで変に勘繰られるのも、後々面倒になりそうだ。
「神凪くんってそんなに強いの?」
「う、うん。 まあ凄いよ」
「部活中は時々彼と話すの?」
「ううん、たまに挨拶とか交わす程度。 あたしも自分の練習で精一杯だから」
「ふうん、そうなんだ~。 でさあ、わたしの話も聞いてよ!」
「うん、いいよ」
その後、真理のダンス部についての話を昼休みが終わるまで聞かされた。
まあアレだ。 やはりダンス部も色々とあるみたいね。
でもそれは多分どのクラブも同じ。 だからあまり気にしても仕方ない。
ちなみに神凪拳人は、この日も遅刻して二限目に登校。
最近の彼は遅刻が多い。 立波先生もそれについてやんわりと注意していた。
でも千里は拳人への興味や関心が段々薄まっていた。
確かに彼は凄いボクサーだ。 天才かもしれない。
でも千里は嘘ついて練習さぼる彼に対して、次第に興味を失っていった。
まあ他人は他人。 自分は自分で頑張るしかない。
そして放課後。
ストレッチを終えた千里は、いつものように鏡の前でシャドーボクシングをしていたところに、監督の柴木に声をかけられた。
「よう、姫川。 調子良さそうじゃねえか」
「ええ、まあ……」
「次のラウンド、マスボクシングやってみろよ」
「はい!」
「とりあえず二ラウンドな。 相手は――同じ一年の横内でいいだろ。 横内、姫川の相手をしてやれ!」
「はい!」
柴木はそう言って、一年生の女子部員である横内に声をかけた。
横内はピン級の選手だ。 小柄だが千里と違って中学からプロのジムに通ってより、試合の経験もある。 見た目は色白の美人だが、普段はあまり喋らない。
「姫川は左ジャブと右ストレート。 横内は基本的にガードのみ。 だが時々は左ジャブを打ってもいい。 そうじゃねえと、練習にならないからな!」
「「はい!」」
そう返事をする千里と横内。
そして二人は口にマウスピースを入れて、周囲の部員にヘッドギアをつけてもらった。
グローブは14オンス。 1オンスが約28グラムで、14オンスは約400グラム。
試合用のグローブは10オンスだが、マスやスパーリングの時は安全性を重視して、大体14オンスから16オンスのグローブをつける。
「マスだから、軽くな。 とにかくパンチに慣れることが一番だ」
柴木の言葉に千里は小さく頷いた。
これまでもマスボクシングをしてきたが、大体は未経験者同士でやっていた。
だが今回は経験者の横内さん。 挨拶以外はあまり話したことないが、ボクシングの実力は確かなものだ。 だから胸をかりるつもりで、一生懸命やろう!
千里はそう思いながら、リングに上がった。
横内は既にリングに上がっており、軽くワンツーパンチを繰り出していた。
そしてラウンド開始のブザーが鳴り、「では始めろ!」と柴木が叫んだ。
千里はとりあえずガードを高くしながら、横内にゆっくりと近づいた。
そこから左ジャブを出すが、横内が右手で軽くパーリングする。
更にジャブを連打、連打。 しかしそれも綺麗にパーリングで弾かれた。
パンチを弾かれた後もすぐに左腕を元の位置に戻す。
マスボクシングは単に攻防の練習だけでなく、ボクシングに必要な基本動作を覚えるのに適している練習法だ。 攻撃したらすぐに手を戻す。 相手のパンチは最小限の動作で防ぐ、攻防の際の体重移動をしっかりやること。
それらの事を全て念頭に入れて、千里はひたすら手を出し続けた。
しかし横内は中学時代からの経験者。 故に千里のパンチは殆ど当たらない。
逆に左ジャブで時々寸止めのカウンターで顎を狙われた。
彼女のボクシングは派手さこそないが、非常に堅実で全般的にフォームがとても綺麗だ。
パンチを出し続けたので、妙にグローブが重く感じる。
それでも千里は懸命に左ジャブを繰り出した。
すると横内は背中を後ろに反らせて、千里の左ジャブを回避する。
今のは確かスウェイバックというディフェンス・テクニックだ。
なる程、あたし相手なら余裕があるから色々試してるのね。
ならばこちらとしては、その余裕を奪い、気迫で攻めてやる。
千里はそう思いながら、距離を詰めて踏み込んだ。
次の瞬間、軽い衝撃と共に鼻の奥がつんと痛んだ。
痛っ……。 すぐに体勢を戻す千里。
今のは多分左ジャブでカウンターを喰らったのだ。
しかし千里は挫けず、更に左ジャブを繰り出した。
だが横内はバックステップして、華麗に左ジャブを回避。
そこで第一ラウンド終了のブザーが鳴った。
自分のコーナーに戻り、美鶴に嗽をしてもらう千里。
「左ジャブは悪くないわ。 でも打ち終わりに気を付けて!
横内さんは打ち終わりにカウンターを合わせにきてるわ」
「は、はい……」
「じゃあ残りに一ラウンド頑張って!」
「はい!」
そして第二ラウンド開始のブザーが鳴り、千里はガードを固めて前へ出た。
とりあえず教科書通りに左ジャブで横内を狙い撃つ千里。
そこから右ストレートで横内を狙い撃つが、横内の左手で綺麗に弾かれた。
全然パンチが当たらない。 流石、経験者。 動きに無駄がない。
だがそれでも千里は諦めず、果敢に手を出し続けた。
千里は横内の顎を狙って何発も左ジャブを繰り出す。
しかしその左ジャブは、横内の右のグローブでことごとく弾かれた。
千里の左腕が急に重くなってきた。 まるで自分の腕じゃないようだ。
「姫川! 左ガードが下がっているぞ!」
柴木がそう檄を飛ばした。
それと同時に千里は左ガードを上げるが、やはり腕が重い。
「横内! 姫川のガードが下がったら、ジャブで狙え!」
その瞬間、千里は鼻っ柱に衝撃を受けた。
い、痛い。 また左ジャブを当たられたようだ。
そこから千里はがむしゃらに手を出した。
しかし横内は焦る様子も見せず、一発ずつ綺麗に左ジャブを防御、回避する。
そして打ち終わりを狙って、左ジャブで逆にカウンターを合わせた。
その都度、千里は身体をぐらつかせるが、両足をふんばってダウンは回避する。
どうやら二人の力量の差は、想像以上に大きいようだ。
でもこのまま何もしないで、終わるのは悔しい。
だから千里は覚悟を決めて、披露した身体を気力で奮い立たせた。
千里はそこで不意に右ガードを下げた。
それと同時に横内の左ジャブが飛んできたが、千里も同時に左ジャブを出す。
その瞬間、千里の顎に衝撃が走り、マウスピースを吐き出しかけた。
だが千里の左手にも確かな感触が伝わった。
よく見ると横内が顔をしかめて、やや後ろに後退していた。
どうやら千里の狙い通りに相打ちで、なんとか左ジャブを当てられたようだ。
千里はそれから何度も何度も相打ち狙いで、左ジャブを延々と繰り出した。
時には外れもしたが、二発に一発は命中してその都度、横内をたじろかせた。
そして相打ちの間隙を狙って、右ストレートを叩きつけた。
右ストレートに関しては、殆ど不発だったが、ガード越しに右拳に手ごたえが伝わる。
そこでラウンド終了のブザーが鳴った。
「あ、あ、ありがとうございました!」
千里は両手を下げて、大きく頭を下げた。
すると横内も僅かに息を切らせながら、ありがとうございましたと言った。
そして周囲の部員にヘッドギアとグローブを外してもらった。
「姫川さん、なかなか良いマスだったわよ」
「はぁはぁはぁ……そうっスか?」
美鶴の言葉に千里はそう問い返した。
「うん、相打ち狙いで左ジャブを当てに行った姿勢は評価するわ。 でも試合じゃやっちゃ駄目よ? アマチュアボクシングは安全性を重視しているから、ああいう戦い方は好ましくないわ。 でもああいうガッツがあれば、あなたはこれからも強くなれるわ!」
「……ど、どうもっス! こ、これからも頑張ります!」
「その意気よ!」
そう言葉を交わして、千里はリングから降りた。
鼻がジンジンと痛むが、幸い鼻血は出てないようだ。
でも確かに手ごたえを感じたマスボクシングだった。
これも毎日毎日練習してきた成果なのか?
もしそうならば、やはり毎日の地道な努力が大事なのかもしれない。
「……姫川さん」
「え? あ、神凪くん」
急に拳人に声を掛けられたので、戸惑う千里。
「良いマスだったよ。 とりあえず左ジャブはかなり上達したみたいだね」
「……そうかな?」
「うん、後は右を上手く当てることが大事だね。 でも相打ち狙いは止めた方がいいよ」
「あ、それ美鶴先輩にも言われたよ」
「うん、それに俺は女の子が顔を打たれるのは、あまり良くないと思うからね」
「う、うん……あ、ありがとう……?」
「じゃあ今後も頑張ってね!」
「うん、神凪くんも国体本戦頑張ってね!」
「ああ、頑張るよ!」
そう言って拳人は鏡の前に行き、シャドーボクシングを始めた。
なんか最近は拳人に対する憧れみたいな感情も薄まっていたが、いざこうして褒められると悪い気はしない。 いや素直に言おう。 けっこう嬉しい。
そうか、あたしも神凪くんから見て褒められるレベルになったか。
でもこんなので満足しないよ。 もっともっと頑張らなくちゃ!
そう思いながら、千里は両手にパンチンググローブをはめてサンドバックを叩き始めた。
しばらくすると、その横で拳人もサンドバックを叩き始めたが、どうにも軽く流している気がする。 そういえば最近の彼は、授業は遅刻気味だし、練習も休みがちだよね。
確かあの子――天原さんは中型のバイクの免許を取りに行ってるとか言ってたな。
こんなにボクシングの才能あるのに、なんでバイクなんかに乗りたがるんだろう?
まあいいや、他人は他人。 自分は自分。
そして千里は更にペースを上げて、サンドバックを叩き続けるのであった。




