第九話 軽い幻滅
インターハイが終わった二週間後に、国体ブロック予選が行われた。 拳人は前言通り合同合宿には参加しなかったが、学校での練習には参加していた。 でも心なしか拳人は少し疲れているように見えた。
まあ厳しい練習に加えて、アルバイトをしているのだ。 そりゃ疲れるだろう。
試合会場は埼玉県の花村徳作高校。
花村徳作高校は埼玉県のボクシングの強豪校だ。
毎年と言っていい程、インターハイや国体、選抜大会の出場者を輩出している。
ボクシング部以外の部活動も盛んで、埼玉県ではスポーツ名門校として有名だ。
今回は埼玉県という比較的近場だったので、拳人以外の部員も初戦から応援にかけつけた。
試合会場はなかなか大きい。 パイプ椅子も五十脚ほど並べられていて、応援の観客で九割方埋まっていた。 観客の大半が同じ高校の部員、あるいは選手の親だった。
既に計量と検診は終わっており、拳人も無事パスしたようだ。
「このブロック予選に勝てば、十月の国体に出場できるんですよね?」
「うん、まあ国体予選の場合はただ優勝すればいいってものじゃないけど、東京都代表は強いし、優勝すればほぼ確実に国体本戦に出場できると思うわ」
千里の問いに美鶴が淡々と答えた。
まあ他の予選と違って、国体予選は少し事情が違うようだ。
でも大丈夫。 神凪くんならきっと優勝できる。
なにせ一年生でインターハイ全国優勝を果たしたもん、と思う千里であった。
試合はいつものように軽い階級から行われた。
そして速いテンポで試合が消化され、ウェルター級の試合になった。
「神凪くん、頑張って!」
「神凪! 期待しているぞ!」
と、帝陣東のボクシング部員は一斉に声援を送る。
だが拳人に声援を送る者は他にも居た。
「神凪く~ん、頑張ってねえ~」
「神凪くん、KOしてね!」
と、帝陣東の制服を着た女子高生の一団が黄色い声援を飛ばす。
いやよく見ると帝陣東以外の女子高生の一団も声援を送っていた。
わあ、凄い。 神凪くんってもう他校の女性ファンが居るんだあ~。
なんかもうプロのチャンピオンみたい。 でもなんかちょっと面白くない。
拳人はそれらの声援を一身に浴びて、リングに上がった。
拳人の相手は神奈川県代表の松浦という選手だ。
今年のインターハイにも出場しており、ベスト16になっている。
しかし地力では拳人が上。 故に拳人はいつもと変わらぬように試合に挑んだ。
試合が開始されると同時に拳人がコーナーから飛び出した。
松浦が左ジャブを連打。 しかし拳人はそれを容易に回避して、逆に左ジャブを相手の顔面に打ち込んだ。 たまらず後ろに下がる松浦。 それを追う拳人。
試合は拳人が攻め、松浦が逃げるという感じで進んで行く。
松浦も必死にガードを固めながら、時々カウンターを狙う。
しかし見るからに腰が引けており、命中させるまでには至らない。
次第に試合は一方的になった。
それでも松浦も意地を見せて、渾身の右ストレートを放った。
だが拳人はそのパンチを躱し、逆に左フックをクロス気味に合わせた。
それが松浦の右側頭部に命中。 松浦の身体がぐらりと揺れて、キャンバスに崩れ落ちた。 すかさずレフェリーがカウントを数えたが、松浦は起き上がる気配を見せない。
するとレフェリーはカウント8まで数えると、「ボックス、ストップ!」と叫んで試合を止めた。 時間にして一ラウンド一分五十一秒RSC勝ち。
だが拳人はにこりともせず、クールにリングから降りた。
「神凪くん! 素敵よ~!!」
「神凪く~ん! おめでとう!」
途端に騒ぎ出す観客席の女子高生の一団。
千里はそれを何処か面白くない表情で見ながらも、小さく拍手した。
神凪くんは本当に凄い。 彼のお父さんも天才だったらしいけど、彼も父親に勝るとも劣らず天才なのかもしれない。 それを凄いと感心する反面、「あたしも頑張らなくちゃ!」
と思う千里であった。
翌日の国体ブロック予選の準決勝。
この日も千里達は朝早く電車に乗って試合会場まで駆け付けた。
幸い拳人の方も無事計量と検診を終えた。
今日もまた軽い階級から試合が行われていった。
そして試合は順調に消化され、迎えたウェルター級の第二試合。
拳人は昨日同様黄色い声援を浴びて、リングインする。
今日の拳人の相手は千葉県代表の三年生の選手。
これまでインターハイ、国体に三回出場しているが、最高成績はベスト8。
全国レベルの選手といっても過言はなかった。
しかしこの試合に限っては、相手が悪かった。
拳人は試合開始といつものようにコーナーから飛び出した。
そして高速の左ジャブを連打。 それが相手の顔面にヒット。
そこからオーバーハンド気味の右ストレートを放った。
拳人の右拳が相手の顔面を綺麗に捉えた。
スピード、タイミング、角度も完璧な一撃であった。
それと同時に相手はもんどり打ってキャンバスに背中から倒れた。
即座にレフェリーがカウントを数えたが、相手側のセコンドからタオルが投げ込まれた。
レフェリーはカウント8まで数えて、試合を止めた。
「う、嘘でしょ? ……ワンパンじゃない」
と、千里の隣に座る美鶴が驚きの声を上げた。
千里も同様に驚いていた。 相手も国体ブロック予選を準決勝まで勝ち進んできた選手。
けっして弱い選手じゃない。 しかし拳人はその選手をたった一撃で倒したのだ。
千里はそれに感動すると同時に軽い恐怖を覚えた。
あたしも最近少しは強いパンチが打てるようになってきたが、神凪くんのパンチはその比じゃない。 相手を叩き潰す、相手の意識を断ち切るパンチだ。
多分女子のあたしじゃどんなに練習しても、一生ああいうパンチは打てないだろう。
まあそれは男女では肉体の差があるから当然と言えば当然だ。
しかし同じ男子の中でも彼のパンチ力はずばぬけている。
まさに天から与えられた才能。 厳しいスポーツだと思っていたが、ボクシングは本当に残酷なまでに厳しい世界だ。 でもリング上の拳人はにこりともしてなかった。
一体彼は何の為に戦っているのだろうか?
死んだお父さんを超える為?
それは千里には分からない。 だがリング上の彼は少しも喜んでいなかった。
千里は今までは単純に拳人のことを凄いと思っていたが、その表情が妙に脳裏にこびりついた。 その表情はとても幸せそうには見えなかった。
少なくとも千里には、そう見えた。
そして翌日の決勝戦。
拳人の対戦相手は埼玉県代表の花村徳作高校の三年生の美籐。
二年生時には、インターハイで準優勝、国体でベスト4という好成績を残している。
今年のインターハイは準々決勝で大阪代表のあの御子柴に判定勝ちで敗れたが、ポイント差は拮抗していた。 そして三年生の美籐にとっては、この国体ブロック予選で負けた時点で引退が決定する。 故に美籐の集中力と闘争心は凄かった。
リング上で激しく拳人を睨むが、睨まれた本人は涼しい顔をしていた。
「あ、あの対戦相手強そうです」
「うん、徳作高の三年生の美籐さんよ。 かなり強いわ」
千里の問いに美鶴がさらっと答えた。
「か、神凪くん、勝てそうですか?」
「さあ、でもすぐに試合は始まるわ。 だから私達は精一杯応援しよう」
「は、はい!」
そしてゴングが鳴り、それと同時に両選手がコーナーから飛び出した。
両者がリング中央に進むなり、お互いに激しい左ジャブを連打。
更に拳人が左ジャブを連打。 それが美籐の顔面にヒット。
だが美籐は怯まない。 逆に右ボディアッパーで拳人のボディを強打。
美籐は一旦距離を取って、拳人の周りでサークリングする。
そこから左ジャブを連打。 だが拳人はそれを華麗に回避。
逆にカウンター気味に左ジャブで美籐の顎を強打。
美籐の動きが一瞬止まる。 拳人が右ストレートで美籐の顔面を強打。
美籐がぐらつき、体勢を崩した。 そこから拳人が怒涛のラッシュで攻めた。
まずは左ボディフックで肝臓を叩いて、相手の動きを止める。
そこから左右のフックで美籐の側頭部を強打。
そして左アッパーで美籐の顎の先端を打ちぬいた。
すると美籐は背中からキャンバスに倒れた。
「やったー!」
「うん、凄いね!」
千里と美鶴が思わず声を上げた。
赤コーナーの帝陣東の応援席も一気に歓声を上げる。
美籐はなんとか立ち上がったが、レフェリーがカウントを数える。
だがカウントは8まで数えられたが、そこで第一ラウンドが終了。
拳人は涼しい顔で赤コーナーに戻り、椅子に腰掛けた。
そして柴木監督が嗽をさせて、拳人のトランクスに手を入れて腹の部分を緩めた。
「あれって何か意味あるのですか?」
「ああすれば呼吸しやすくなるのよ」
「なるほど」
美鶴の言葉に千里が小さく頷いた。
そして第二ラウンドが開始された。
拳人がゆっくりとコーナーから出た。 対する美籐は猛スピードで突進する。
美籐は拳人の周囲でサークリングしながら、左ジャブを連打。
拳人は足を止めた状態で、上体を振って左ジャブを回避する。
そこから美籐が素早い右ストレートを放った。
だが拳人は素早くヘッドスリップしながら、逆に右ストレートを放つ。
それが見事に美籐の顎を捉えた。 右と右のカウンターが見事に決まる。
「す、すごっ! 神凪って本当に右でカウンターを取れるのね!」
と、思わず声を上げる美鶴。
すると次の瞬間、美籐が背中から青いキャンバスに倒れた。
レフリーが駆け寄り、カウントを数え始めるが美籐はまるで動かない。
そこで青コーナーからタオルが投げ込まれて、レフリーが試合を止めた。
「きゃー、神凪くーん! すごーい!」
「神凪くん、カッコいい!」
いつものように赤コーナーの応援席から黄色い声援が飛ぶ。
だが当の本人は到ってクール。 クール過ぎるといっても過言はない。
「……凄い人気ね」と、美鶴。
「まあ彼、ハンサムですし」
「姫川さんも神凪のこと気になってるんでしょ?」
「え、ええ……まあ、でもこれでも段々ボクシング好きになってきたんですよ?」
千里はただの神凪狙いと思われるのも、心外だったのでそう答えた。
すると美鶴は「分かっているわよ」と、言いながらこう続けた。
「でも彼、あんまり楽しそうにボクシングしていないわね」
「……美鶴先輩もそう思いますか?」
「うん」
「でもこれで神凪くんは国体本戦に出場決定ですね!」
「そうね、私達も負けてられないね。 明日からまた頑張ろう!」
「はい!」
翌日から千里や美鶴だけでなく、殆どの部員が精力的に練習に励んだ。
だが拳人は国体ブロック予選後、練習を休みがちになった。
なんでも柴木監督と立波先生に――
「しばらく家計を助ける為にアルバイトを頑張りたいので、練習は休みます」
と伝えたそうだ。 柴木監督はそれを了承したみたいだ。
まあちゃんと試合では結果だしたんだし、家計を助ける為なら、練習を休むのも仕方ない。
そう思うのは千里だけでなく、大体の部員が同じだった。
だから千里も特に気にせず自分の練習に励んでいた。
最近では左ジャブも右ストレートも綺麗なフォームで打てるようになった。
左フックはまだまだ改良の余地はあるが、一応最低限は使えている。
時々、美鶴先輩や他の女子部員の先輩にミットを持ってもらうが、最近ではミット打ちも随分と様になってきた。 スタミナの方もミット打ち三ラウンドくらいなら持つくらいついた。
それとちょこちょこマスボクシングもしている。
そんな感じで夏休みの残り半分も部活の練習で順調に消化されていく。
「お疲れ様でした、お先に失礼します!」
「は~い、姫川さん。 お疲れ~」
千里はそう挨拶を交わして、学校の門を出た。
そしてスマホで現時刻を確認。 18時15分かぁ~。
今から帰れば、丁度いい具合に晩御飯の時間になるが、少し喉が渇いている。
というか夏場のボクシングの練習は、かなり厳しい。
今日の練習だけでもTシャツを三枚替えたくらいだ。
だから軽く休憩も兼ねて、千里は駅前のカフェへ向かった。
そこでアイスティーを頼んで、二階の窓側の席に座って一息ついた。
周囲の客は千里同様に部活帰りの高校生、あるいは大学生などの学生が多い。
とりあえずストローでアイスティーを二口ほど啜る千里。
すると後ろの席から聞き覚えのある声が聴こえてきた。
「ふうん、じゃあ拳人は今部活さぼってるんだぁ?」
「さぼってると言われると、少し心外だな」
「でも学校やクラブに内緒でバイクの中型免許取る為に教習所へ行ってるんでしょ?」
「……まあそうだな」
「じゃあサボりじゃん!」
「愛奈。 お前は本当にストレートに物を言うな……」
……え? この声ってもしかして神凪くんじゃ?
千里は一瞬だけ後ろに振り返り、後ろの席の客の顔を見た。
男の方は背中越しで顔は見えないが、雰囲気は拳人に似ていた。
そしてその対面に座るのは、帝陣東の制服を着た派手な女生徒だ。
栗色のウェーブのかかったミディアムヘア。
顔立ちはかなり整っている。 可愛くもあり、美人でもある。
でも見るからに気が強そうだ。 というかあの子、同学年だ。
確か一年D組の天原さんだ。
その天原さんが恐らく拳人と思われる男と仲良く話している。
そこに千里は軽い嫉妬心と軽い幻滅を感じた。
というかこれって間違いなく練習をさぼってるよね?
なんだか千里の胸の内にもやもやとした感情が沸き上がる。
だが二人の会話が気になるのも事実。
故に千里は素知らぬ顔で二人の会話を盗み聞きした。
「何で中型のバイクの免許なんて欲しがるのよ?」
「……別に。 お前には関係ないだろ?」
「なに? その言い方、少しムカつく~。 というか拳人、学校では話しかけるな、って言ってるんだから、こうして二人で会った時くらい少しは愛想よくしてよ?」
「……ならお前もあまりずけずけと質問するなよ」
「ふうん、冷たいね。 あたし達、幼稚園からの付き合いじゃん」
「ああ、だからこうして会っている」
「まあいいや、じゃあ免許取ったらバイクの後ろに乗せてよ!」
「中型バイクの二人乗りは、免許取得から一年立たないと、罰則の対象だ」
「いいんじゃん、少しくらいならさ。 ね?」
「……まあ考えておくよ」
なんだか聞いているのが、少し辛くなってきた。
だから千里は二人にバレないように、ごく自然に席から立ちあがり、カフェを後にした。
その帰り道の最中にも拳人と天原愛奈のことを考えていた。
随分と仲が良い、というわけではないがやはり神凪くんの対応が学校で他の女生徒と接するのとは、全く違った。 でも彼女という感じではなかった。 まあそれはいい。
千里がショックだったのは、いや幻滅したのは拳人が嘘ついていたことだ。
二人の会話を聞いた限り、バイトはしているようだが、中型のバイクの免許を取りに行ってるみたいだ。 そういやウチの高校ってバイクの免許取って良かったっけ?
まあそれはいい。 とにかく拳人は嘘ついて、練習をさぼっていたのだ。
そこに軽い幻滅を覚えた。
とはいえ勝手に好意を持ち、憧れたのはこっちだ。
その気持ちを裏切られたと言う程、千里も幼くない。
でもやはり拳人に対して、がっかりした感情が沸き上がる。
ならもうボクシング部も辞めるか? いやそれはない。
もう拳人とか関係なく、千里もボクシングが好きになり始めていた。
だからこの件で部を辞める気はない。
まあいいや、自分は自分。 他人は他人。
あたしはあたしのペースでボクシングの練習を頑張ろう。
そう気持ちを切り替えて、帰路に着く千里だが、その背中は少し寂し気だった。




