人間の本性
果たして人間の本性とは何か?今日は皆さんにとって最も身近で遠くかけ離れた存在である人間について語って行きたいと思います。
まず話の前提として人間が善、悪もしくは善と不善、悪と不悪の存在という考え方をNGワード或いは禁句としましょう。
それは既に語り尽くされたお話です。
主観と客観を隔てる空隙を埋める手段が存在がしない為に結論を出す前に人生という限られた時間が終わってしまう可能性も決して少なくないでしょう。
それは例えるなら、烏賊臭くなった珍珍を凄い丁寧に洗っている間に珍珍自身が擦り切れて無くなってしまうのと同じ話です。
そろそろ皆さんのソーセージなりアワビが温まってきたところでお話を始めたいと思います。
さあ、楽しく有意義なお話の始まりです。
議論の途中、ついうっかりと潮を噴き出したり、暴発しないようにご注意ください。
元来人間という生き物は顔を持っています。
この場合、生身の肉体の顔面と精神を抽象する側面のどちらでも良いと思われます。
顔はあくまで顔です。
ズッキーニでもハマグリでもありません。
では我々は顔だけで人間の全てを語れるかどうか、と言えばそうではないと私は思います。
もちろんちんすこうやマンゴスチンも同様で、大きさ、色、臭いでは形容できないこともたくさんあると思います。
※ちなみに”ちんすこう”とは沖縄のお菓子で、”マンゴスチン”とは果物の女王と呼ばれるお値段高めの果物です。
決して下品な意味で使っているわけではないのでご容赦ください。
しかしこれらの顔、側面というものにも相性が存在していて好ましい性格、容姿があるでしょう。
あのイソギンチャクの中には入りたくないオットセイ、小さくて柔らかいちんすこうなど御免こうむるという方も多いはずです。
ここで私が何を言いたいかというとそれはやはり個々の事物に対して相性が存在する限り、それは側面である同時に全体でもあるということです。
多様性が過分に考慮される時代となった今では初めから決めてかかるのではなく敢えて保留にするのも一つの手段だとは言えないでしょうか。
つまり本性とは単一不変ではなく流動的なものではないかと提言したいのです。
つまり固いウンコが健康状態を損なうことで水みたいな下痢になったりするように知性もまた一見にして愚かに見えることが遠くから視点を変えて観察、検証することでまた違った結論に行き着くのではないかと私は思います。
人は他者に完全な本性を求めるが、本性とは気まぐれな流動的事物である為に判断が難しいということで今回の議論を終わらせたいと思います。
じゃーねー。