16-5.雨の日々
簡単な食事をし水を飲んだ後、すぐ帰路についた。
ロックの足取りは、あいかわらず快調だ。驚異のスタミナで、一定のスピードを保っている。軽快というには、荒っぽすぎるけれど。
自分は軽すぎるのかもしれないな、とウィルは思い始めていた。マカフィくらい体が大きくなれば、ここまで揺さぶられずに済むはずだ。弾き飛ばされそうな軽騎手より、どんと重く構える乗り手のほうが、ロックも上手く走れる気がする。
雨雲はしだいに薄くなり、日暮れ頃になって雨がやんだ。かわりに、西から強い風が吹き始め、雨雲は東へぐんぐん引いていく。西の空、雲の切れた隙間から、久しぶりに太陽がのぞいた。
ウィルは窮屈な撥水コートを脱ぎ、うんと伸びをした。地平線に沈みかけた赤い太陽に照らされ、大きな竜と小さな自分の影が、前方へ長く長く伸びている。影を追っかけ、休みなしに駆けた。
沈む夕陽で赤黒く染まった砂漠を見ながら、ウィルはふと、砂漠を放浪していた頃の竜使いのことを考えた。
こんな変わり映えのしない景色の中を、サムやレオン・セルゲイ達は、何日もぶっつづけで駆けたんだな。在るのか無いのかわからない、森を探して。
自分の探索は、いつも変化と驚きに満ちていて、飽きることがなかった。延々と大河をさかのぼった、あの十日間でさえ、つまらないと感じたことは一度もない。しかし、どこまでいっても砂漠ばかりの毎日、それが何年も何十年も続く日々とは、どんなものだろう。
予想もつかなかった。ただ、すごい、としか感想が浮かばない。
唯一の救いは、竜使いたちはチームで旅をした、ということだ……いや、例外がいる。サムだ。レオン・セルゲイが竜から降りた後、森を見つけるまでの数年間、父さんは一人で砂漠を探索していたのだから――
そうこうするうちに、完全に陽が暮れた。
夜空の西半分は、だいぶ雲が晴れた。星も見える。
ウィルは再び、砂漠を旅する竜使い達の姿を思い浮かべた。
きっと、チームのメンバーは仲が良かっただろう。マカフィのチームみたいに、ミードを飲んで馬鹿騒ぎをしただろうか。夜の砂漠で、携帯コンロを点けて、その周りをぐるっと囲んで、冗談を言ったり真面目な話をしたり。
その空想の輪のなかに、サムとレオン・セルゲイがいた。ずいぶん若い。セルゲイが口を開けて笑っている。先輩面をして、なにかをサムに指導している。
その横で、他の竜使いたちも笑いながら話している。『エマがまた子供を産んだってさ――』『今度で三人目だ――』『ありゃ人間じゃねえな――』『俺にまで早く子を作れって、お手上げだよ――』……なんだか誰かに似ている。
キャンプを離れた竜使いたちは、伸び伸びとしていた。声をひそめる必要はない。周りは、気心知れた仲間ばかり。好きなことを思ったまま話せばいい。ふだんは言えないことも、誰かの悪口だって――
ウィルは、ぶるん、と首を振った。
どうしてこんなことを考えたのか。誇り高い竜使いたちが、相手のいない所で悪口を言い合うなんて、あるわけないじゃないか。
そのとき、ロックのスピードが、ぐんと落ちた。
はっと意識を戻す。興奮して立っていたはずの鬣が、ぺしょりと寝ていた。
ウィルは、声を掛け手綱を引いた。ロックも素直に止まった。疲れたんだろう……ここまで駆け続けただけでも、充分だ。休憩しよう。
下へ降りると、ロックは脚をかがめ、腹を地に付けた。さすがにスタミナが尽きてきたらしい。頭を下げ、耳ひれを揺らしている。ウィルは心配になって、半開きになったロックの口元に手を沿え、様子を観察した。子どもの頃聞いた、サムの話が頭をよぎったのだ――『多くの乗り手たちが、自分の竜が突然脚を止め、そのまま目を閉じて地面に倒れてから、やっと取り返しがつかない過ちに気づいた』
ロックの目に、そのまま閉じて地面に倒れそうなほどの疲労は見えなかった。落ち着いた輝きを宿し、こちらをじっと見返している。大丈夫そうだ。
ウィルはほっと肩を落とし、自分もぺたりと地面に腰を降ろした。
ホッホウ、ホッホウ、という低く深い鳴き声が、森のほうから一定のリズムで聞こえてくる。カピタルでも聞こえる声だ。獣だろうか。違う生き物だろうか。
脚を伸ばし、ぼんやりしていると、風で東へ吹き払われていく雲の端から、満月が顔を出した。
きっとカピタルでも、夜更かししていた大人たちが、久しぶりの月夜を喜んでいるだろう。
雨の日は水を汲みに行く手間がはぶけるけれど、夜、真っ暗になるから嫌だ。子どもの頃、雨の夜中は絶対に起きたくなかった。すぐ隣で寝ているはずのサムやハルの寝息が聞こえても、なんだか気味が悪かった。ハルも同じことを言っていたから、きっと誰でも、真っ暗は怖いものなんだ。
そういえば、ハルと離れて夜を過ごすのは、初めてだ……どうしているだろう。
ハルのことだから、寝ずに待っているに違いない。いつだってそうだ。サムに叱られてエヴィーの世話をさせられた時も、ネイシャンに怒られて学校の水汲みをさせられた時も、少し離れたところで自分の罰が終わるのを、黙って待っていた。
『僕って話しやすいのかな?』というハルの疑問を思い出した。
少なくとも、俺は話しやすい。ハルはどんなことでも黙って聞いてくれるし、絶対に他の人間には話さない。他の大人達も、ハルなら大丈夫と思って、愚痴やなんかをこぼすのだろう。……だからといって、十四歳に相談事までもちかけるのは、なにか間違っていると感じるけれど。
ハルはカピタルの日々の出来事にとても詳しかった。誰がどんなことを考えているかまで知っているように、ウィルには見えた。仕事で大人達の話し相手になっているから、だけでなく、そういう特別な力があるように思えた。
成人の日ガランは、ハルに「村の運営に携わる仕事をしないか」と提案した。きっと誰もが、そう感じているからに違いない。
対して自分は、カピタルの日々の出来事に、だんだん疎くなっている。テントと森を往復する毎日で、村の誰が何をしているか、掴めない。以前は、村の隅々まで自分の五感が届いているという感覚があった――なんの根拠も無いけれど――それなのに、今はハルの口から語られる出来事以外はまるでわからず、穴が空いたように虚ろだった。
なにか、もやもやしたものが、胸の中をうろついている。
しかたないじゃないか、と思う。俺には俺の仕事、ハルにはハルの仕事。俺のほうがハルより森のことに詳しいのだから、ハルのほうが俺より村のことに詳しくたって、気にすることはない。気にするなんて……気にしちゃいけない……
ウィルは素直に、降参した。そうだ、気になるんだ。どうしてだろう? このもやもやは、なんだろう……。
ロックが首を高く持ち上げた。体力が回復したらしい。ウィルは考え事を打ち切った。再びロックに乗り、帰路についた。
満月が二十度ほど動いた頃、ようやくカピタルに帰り着いた。
村は寝静まっていた。どのテントも、もう灯りを消している。ソディックのテント横でロックを止め、下へ降りた。そのまま手綱を、村の外周柵の一端に結びつける。
「ロック、小屋に帰るのは明日にしよう。朝になったら迎えに来るから」
心ゆくまで走れたのだろう、暴れ竜はおとなしく、されるがまま柵に繋がれた。その首筋を撫でてやりながら、ご苦労さん、ありがとうと、ウィルは口に出して言った。
月の光を鈍く照り返すテントの群れの中を、荷物をぶら下げ、自分の影に目を落とし、のろのろ歩いた。
一歩進むごとに、体がずんずん重くなる。しばらく忘れていた背骨の痛みが、急速に戻ってきた。今までのどの一日より、疲れていた。テントに着いたら、そのまま倒れ眠ってしまうだろう。ブーツを脱げるかどうかも怪しい。
そろそろ、やっと、到着……という所で、何か物音がした。
重い頭を上げて、驚いた。ランプの灯りで、自分のテントだけオレンジ色にぼうっと光り、暗がりに浮き上がっていた。戸口の前で、誰かがじっとたたずんでいる。
ハルだ。
やっぱり、自分を待っていたのか。それにしても、わざわざ外で待っていなくても――いや?
ハルは、あさっての方角を見ていた。こちらに気付かない。誰かを見送っている。ハルの視線の先を追った。
こんな夜中に、誰を――?
一つの影が、視界の端をかすめ、テントの群れの陰へ消えた。ほんの一瞬だった。
しかし、ウィルにはその正体がわかった。
その影は、小柄だった。女性だった。丸めた撥水コートを脇にかかえ、学校の方角へと歩み去っていた。