11-2.新月祭
ミード草のトンネルが終わり、ニッガの林に入る。ウィルは考え事をやめた。
‘やつ’に遭遇していらい、森の中で考え事はしない、と決めた。
いつ何があるか、わからない。エヴィーの耳栓も、荷物の中に入れずに、糸を通して手綱の近くにぶら下げてある。銃を構える状況になったら、すぐエヴィーの耳にはめられるように。
ニッガの林からは駆け足で進む。
エヴィーのスタミナがどこまで続くのか、ウィルはもう掴みかけている。
パルヴィス竜は、強い脚力に恵まれているかわりに、スタミナが劣ると教わっていた。だが、それはあくまでオーエディエン竜と比べたらであって、歳をとったエヴィーでもニッガの林を駆けきることができる。さすがにダッシュは長くもたないけれど、適度に走らせたほうが、エヴィーの調子もいい。パルヴィスとは、そういう竜なのだ。
軽快に流れていく景色を、油断なく眺める。
新しい生き物や植物がないか、異常がないか。
ハルと名前付けをやったおかげで、森でのウィルの孤独感は、ほとんど消えていた。ミード草は甘く、ニッガの大木は穏やかに、クルリが住むデコボコの木は陽気に、自分を迎えてくれる気がする。始めは見分けがつかなかったこの風景も、しだいに、林の中央、東方面、西方面、それぞれの微妙な違いがわかるようになってきた。
もうすこし探索範囲が広がったら、地図を描いてみよう――。
バーキン草原にたどり着くと、ウィルはそのままデコボコの木をやり過ごし、草原をつっきることにした。休憩は午後に入ってからにしよう。
進路を西に取る。
ここ何日か調べたところ、バーキン草原の北と東方面は、うっそうとした薮地が広がっている。エヴィーを乗り入れ進めそうなのは、西の方角だけのようだ。
北西へ進むと、背の高い樹木の群生が見えてきた。
ニッガの林と違い、枝葉を大きく広げる大木と、その隙間を埋める雑多な細い木が入り混じる、雑木林だ。
エヴィーを並足に戻し、林に入る。薮や低い枝葉で入り込めない暗がりを避け、できるだけらくに通れる空間を探しながら、ゆっくり北へ進んだ。
植物が変わると、森の気配も変わる。はじめて見る生き物達が、あちこちにいた。
赤茶色の毛をした丸っこい獣が、エヴィーの前を走り抜け、藪の中へガサガサと突っ込んで行った。
その脇の木の幹を、別の小さな獣がぴょいぴょいと伝い登っていく。クルリより一回り大きいくらいで、尾が細長く、大きな耳がぱたぱたしている。枝までたどり着くと、その長い尾で枝に逆さにぶら下がった。耳を垂らしてぷらぷら揺れながら、下を通りすぎるエヴィーとウィルを見送っている。
ウィルはクスクス笑いながら、さっそく名前を付けた。プラリ、だ。
ハネシロ虫は見かけなかった。そのかわり、黒い霧のように集まり漂っている虫の群が、そこここにいる。一匹一匹がプランクトンぐらい小さい虫だ。通り道をふさいで漂われると、鼻の穴や口に入りそうで、うっとおしい。
皮袋から予備の布を出し、鼻と口を覆うように顔に巻いた。マスク代わりだ。
新しい風景を見廻しながら、ウィルは常に自分の鼓動を数えていた。
この林にも、マーキングをしていかなければ。鼓動を数え、一定間隔で樹木に赤と黄の塗料を塗っていく。
そうやって、五つ目のマーキング地点に着いたとき――ザワザワという葉ずれの音に似た響きが聞こえてきた。
風は無い。しかしその音は、途切れることなく響き渡っている。
ウィルはそれに近い音を、砂漠で数度、聞いた気がした。この音、もし、自分の予想があたっていれば……ウィルはエヴィーに合図し、林を駆け抜けた。
音が急に大きくなる。ざわめくような高音に、ドウドウと地を鳴らす重低音が加わる。木立が途切れた。ひんやり冷たい空気が頬を打つ。無かったはずの風が、東の方角から吹きつけてきた。マスクを脱いだ鼻に、新しい匂いが飛びこんでくる。大量の水の匂い――
林を抜けた先に横たわっていたのは、向こう岸まで数十リールはあろうかという、堂々たる大河の流れだった。
ウィルは、エヴィーを川岸近くまで進め、下へ飛び降りた。
岸辺は、ごつごつした大小の石で埋め尽くされている。
騎乗用のスパイク・シューズは歩きにくくてしようがない。といって、脱ぐわけにもいかない。
念のためエヴィーに耳栓をし、銃を降ろした。細長い筒身を杖代わりにつきながら、大きな石を足場に、川面へと近づいて行った。
とうとう、河の流れが目の前に現れた。
流れは相当速い。深い緑色をして、陽射しをぎらぎら照り返している。深さも水中の様子も、うかがい知ることができない。
ウィルはため息をついた。
こんな水では使えそうにない。
砂漠でごく稀に見つける、清い河の流れは、カピタルにとってまさしく恵みの水だった。機械が作り出す精製水に頼るしかない彼らにとって、さいげんなく流れる天然の水は、いろいろな恩恵をもたらしてくれた。普段なかなかできない洗濯や沐浴を、存分にするチャンスだ。竜を水浴びさせ、汚れたテントを洗い、みんな心身ともに生き返った心地がしたものだ。
これがもっと綺麗な河だったら、きっとガランも村のみんなも、喜んでくれるだろうにな……。ウィルはそう思いながら、目を対岸に移した。
今まで砂漠で見たどんな河より、ずっと川幅がある。竜がいくらジャンプしたって、届く距離じゃない。オーエディエン種でも、渡れない深さのような気がした。ここから北へは、どうやっても進めない。それだけは明らかだ。
しゃがんで手に触れた石を、腹立ちまぎれに川面へ投げつけ、エヴィーの元へと戻ることにした。あきらめが肝心、というときも、ある。
ところが、足元に注意しながら河原を歩き、エヴィーまであと数十歩、というとき、エヴィーの様子がおかしいことに気がついた。
自分の方ではなく、上流のある一点をじっと見ている。
その視線を追い、全身に緊張が走った。
大きな太った獣が、こちらに背を向け、たたずんでいた。
距離にして十数リール。灰色の獣だ。平らな石の上に、べったり座っている。首から上が見えない。水の上に屈みこんでいるのか。自分がここに着いたときには、確かに何もいなかったのに……水音にかき消され、やつの接近に気付かなかった。
それにしても――なんて大きさだ!
エヴィーと変わらない、いや、むしろ向こうのほうが勝るかも。
ウィルは銃を肩に構えた。弾は込めてある。慎重に、音をたてないように、エヴィーの元へと戻る。
このままエヴィーに乗れたら、銃を使わず道を引き返そう――
だがあと十歩、というところで、踏みつけた石がスパイクの底でゴロリと動いた。体が大きく傾く。ウィルは派手な音をたて、河原石の上で転んだ。
獣が首をもたげた。のっそり身を起こし、こちらを向く。
こちらに向けたそいつの丸っこい顔も、エヴィーくらいでかい。顔の面積に不釣合いな小さな目は、カリフの、‘やつ’の瞳とは違い、鈍く淀んでいた。
けれども、転びながらも一瞬も目を離さなかったウィルは、そいつのたくましい腕と、その先についた野太い鉤爪を見逃さなかった。地に膝を立て、銃を構え直す。銃口を向けた。
獣が口を開けた。低い咆哮が空気を震わす。たくましい腕が動く。
そいつは、ウィルがてこずった石河原を、意外な速さで向かって来た。ブフー、ブフーという荒い鼻息が間近に迫る。
ためらう暇は無い。今こそが、使うときだ!
パン!という銃声――次の瞬間、アリータの地下室で聞いたより何倍も強烈な金切り音が、獣に向かい、銀の弾丸とともに突進した。
獣が後足で立ち上がった。
エヴィーをしのぐ巨体を揺らし、竜じみた咆哮を上げる。大きく開けた口に、真っ白な牙が並んでいた。ウィルは銃の引き金に指をかける。これで効かないなら、次は、あの口めがけて撃つしかない!
だが、その必要はなかった。
そいつは、ぶるんと頭を振り、よたよたと後退した。
べたりと這いつくばり、情けない唸り声を出しながら、川上の林の繁みに向かい、のっそりと歩み去って行く。
獣が繁みの向こうへ完全に消えるまで、ウィルは油断なく銃を構え続けた。
異常な音になぶられ、鼓膜がヒリヒリと痛んだ。森の鳥たちの囀りは、銃声とともに一斉に止まっていた。葉ずれのざわめきや風の響きまでが、変化したような気がする。この世界には無かった、人間が創り放った、新しい「音」の出現を境に――
耳栓をしたエヴィーだけが、変わらぬ様子で、ほっと肩を落とすウィルを迎えてくれた。