09-4.遭遇
下へ降り、ぞくりとした。かいた汗が気持ち悪くシャツと肌を濡らしている。
ウィルはエヴィーの背に荷物をくくり付け、木陰から出た。
太陽の熱が、すぐ体を温めてくれた。空は相変わらず晴れわたり、見通しのいい草原に、生き物の姿は無い。鳥が囀りながら上空を過ぎていくくらいだ。
少し歩いて、探索してみようと考えた。手ぶらで大丈夫だろう。
あたりを見回すと、やってきた林とは反対の方向に、いろいろな草木が交じりあう木立が見える。そこが一番近そうだ。
なだらかな丘を歩いて下った。
エヴィーに乗って駆けたときでも広いと感じた草原は、歩けばさらに広い。思ったよりたっぷり歩き、やっと草むらの端にたどり着いた。
こちら側はだいぶ様子が違う。木も草も、ざっとみただけで数十種類以上の植物が交じり合っている。背丈、葉の形、幹や茎の曲がり具合、どれもみな違っていて、うっそうと生い茂り、下の地面が見えなかった。
うろうろし、一番草丈が低そうな場所を見つけた。大きくまたげば、踏まずに向こうへ行けそうだ。
足を上げ、膝丈の草をまたごうとして、気づいた。
横に生えている木の枝が、草をまたぐ自分の頭上へうんと張り出している。ウィルの真上に、ヘンな物体がぶら下がっている。
大きな球体だ。子供の頭くらい、あるだろうか。土色で、無数の穴が空いている。見た目は奇妙だが、枝葉に完全に同化し、ひっそりとに存在していた。ここを通ろうとしていなければ、見落としたに違いない。
ジャンプすれば、指先が触れそうだ、けれど……。
ウィルは物体をそっとしておいた。不用意に触って痛い目に遭うのは、さっきで充分懲りている。
と、ブーンという羽音が耳元で聞こえた。
思わずのけぞると、黄色い虫が、顔にまとわりつくようにゆっくりと飛んでいる。手で払いのけてもスイとかわし、また目鼻のあたりを狙ってブンブン戻ってくる。数歩後ずさっても、離れない。しつっこい奴だ。
深く考えず、虫をパシリと払いのけた。
手袋ごしに、虫がブツッと手の平にぶつかった感触が伝わる。虫は、ふらり、と下へ落ちかけ、すぐ何事もなかったかのように、あの奇妙な物体へと戻っていった。
そのとき、茶色い物体が、耳障りな低い音を発した。
ブブブブブ、という不気味なその音がみるみる大きくなる。と同時に、物体からなにか小さな点の群があふれ出てくる。黒と黄色が交じり合うその点は、ひとつひとつが激しく振動し、やがて十、二十と物体を離れ、こちらへと――
――虫の大群だ。
わかった瞬間、ウィルは背を向け、力いっぱい駆けだした。エヴィーの方へ。
虫がどれくらい危険なものなのか、ウィルは知らない。
けれど直感が告げている。マズい。相当マズい。あの大群に捕まったら、生きて帰れないかも――。
すぐ後ろから、例の不気味な音が付いて来る。振り返らなくても、わかる。自分は追いかけられている。
「エヴィー!」
全力疾走しながら、叫んだ。遠くでのんびり草を食んでいたエヴィーが、こちらに首を向ける。だが動かない。
ポケットを探る。急げ、早く!
ホイッスルを引っ張り出す。くわえ、吹き鳴らした――ヒョウ、ヒョウ!
エヴィーが反応した。
こちらに向かい駆けてくる。やけに遅く感じる。頼む、エヴィー、間に合って!
この切羽詰った状況で、いつものようにエヴィーを止めてその背にまたがる余裕は、ない。やったことがなくとも、やってみるしかない。ウィルはホイッスルをくわえたまま、追いついてきたエヴィーに並走した。ちょうど二人の速度は同じ。鞍に手をかけ、タイミングをはかる。
ぐっと一歩踏んばり、おもいきりジャンプする。走りながらエヴィーの背に飛び乗った。エヴィーが一瞬、速度を落とす。間髪いれず鐙を鳴らした。止まってはいけない!
鞍に吊るした銃を手に取る。ツルツル滑る。手のひらが汗びっしょりだ。上着で手を拭った。
振り返ると、虫の大群は竜を呑み込むほどに膨れ上がり、今にも覆いかぶさって来そうだ。ウィルは頭をフル回転させた。銃を構えたはいいが、虫を音で追い払えるだろうか? だいいち、虫に耳があるんだろうか? 今、やるべきことは、銃を使うことじゃなくて……。
銃を戻す。
くわえたままのホイッスルに、意識を集中する。
エヴィー、この合図、わかってくれよ――
ピイィ! ありったけの音量で、甲高く吹き鳴らした。
ぐん、体が強く後ろに揺れる。
エヴィーが加速したのだ。上着が吹きちぎれそうにはためく。
竜のダッシュは、その途方もないパワーを解き放ち、後ろから吹き付けていた風を追い越した。今までの駆け足とは比べ物にならない。耳元から、あの不気味な音が消えた。聞こえてくるのは、正面から吹き付ける風がゴウゴウと唸る音だけ。
ウィルは振り返った。
虫の大群との距離が、大きく開いていた。黒い雲のようなその塊を、エヴィーはさらに引き離していく。
やったぞ!と有頂天になりかけ、ウィルは気を引き締めた。
レオン・セルゲイの言葉を思い出したのだ。騎乗を手ほどきしてくれたとき、彼は警告した。「ダッシュは長くはもたんぞ。あまりあてにしないほうがいい」と――
ウィルは油断なく後ろを確認しながら、エヴィーを林へと向かわせた。ともかく、ここを離れよう。
頭の中で、林へ帰る道筋を描く。
目が草原の上でそのコースをトレースし、体が無意識に右へ傾斜する。
素晴らしい速度を保ったまま、エヴィーが右へ流れるように弧を描いて走った。
最後に右後方を振り返ったとき、黒い雲はすでに点のように小さくなって、元の草叢へと帰っていくところだった。
と同時に、エヴィーのスピードが急に落ちた。
吹き付けていた風が急速に弱まり、景色の動きも鈍くなる。
手綱をちょんと引いた。もう、走る必要は無い。エヴィーが、並足に戻った。
鞍の下を走るエヴィーの血管が、大きく早く脈打っているのを感じた。――無理をさせたかな。ちらりと、そう考えた。
そのままゆっくり進み続け、林の入り口にたどり着いた所で、エヴィーを止めた。
皮袋から水をやり、小休止を取る。
ご苦労さん、と撫でてやった老竜の鼓動が落ち着くのを、ウィルはしばらく待つことにした。