07-3.もうひとつの武器
結局のところ、エヴィーの身体測定は予想以上に手間がかかり、ニッガの用が終わった頃には昼をとうに過ぎていた。ハルが昼に戻ってこなかったこともあり、ウィルは自分の昼食をぬいて大急ぎでエヴィーに餌やりを済ませ、森へと入った。
とはいえ、森の奥まで進むのはやめておいた。
日が長い時期ではあるけれど、ネイシャンから「禁止!」と言われてもいるし・・・。
トンネルの出口周辺を、エヴィーとうろうろしただけだったが、それでも収穫はあった。
ウィルは前日よりもずっと丁寧に、木や草や花々を観察した。木は、林一面、黒くごつごつした皮の一種類のようだが、草はざっと数えただけでも二十種類以上あった。褐色の硬そうな皮をまとった新しい虫も、見つけた。ガランに一度報告し許可をもらって、そのうち標本として村に持ち帰ろうと考えた。
トンネルをくぐり村に帰りついた時、夕陽は半分以上沈み、だいぶ暗くなっていた。テントでは、ハルがもう夕食の準備を済ませて待っていた。
「お帰り。どうだった?」
昨日よりは落ち着いて、ウィルはその日の報告をした。あまり奥まで入らなかったこと、けれど、たくさんの草や虫をじっくり観察したことを。ハルも、昨日とたいして変わらない作業だったらしいが、そのかわり昨日は気が付かなかったいろいろな竜の癖がわかって、おもしろかったと言った。
ウィルは森での話を終えて、バーキン老人のあとにニッガが来たこと、それから、トニー・ヒル老人のことを話した。ハルが、顔を曇らせた。
「うん。僕も、グレズリーさんのところで聞いたよ。やっぱり、もうだいぶ悪かったんだね」
「やっぱりって?」
ヒル老人の不調などまったく知らなかったウィルは、聞き返した。
ハルは飲みかけのミードのカップを置いた。
「僕は、しょっちゅうヒルさんにお世話になるだろう。ウィルと違って。このあいだ抗体を打ちに行ったとき、トニーさんが顔を見せなかったんだ。ビリーさんに聞いたら、親父はちょっと体調が悪いって。『もう歳だからしかたがない、俺に仕事を任せてゆっくりしてくれればいいんだが』って、言っていたよ」
ヒル親子は、ある意味、カピタルで最も重要な仕事に就いている。これまでのすべてのカピタル人の体液を保存し、抗体をつくる細胞を取り出して培養し、ハルのような抗体クラスの低い者に定期的に注入するのだ。数十年前に医者がいなくなり、薬もろくにないカピタルにとって、人工的に抗体クラスを高めることができる彼らの技術はなくてはならないものだ。それが不要なのは、ウィルのようなAクラスの、ほんの一握りの人間だけだった。
ハルは続けた。
「それで僕、ずっと気になっていた。僕達が成人の報告をガランにした日、いろんな人たちがお祝いに来てくれたよね? あのときも、トニーさんは見当たらなかった。だから僕、そうとう具合が悪いんだろうって思っていたんだ」
「なるほどね」
ウィルは合点した。
自分はまったくといっていいほど、ヒル親子のテント――森に着いてからは、木の家になったが――に行っていない。行く必要がないからだ。だからヒル老人のことは、とりたてて特徴の無い、黙々と仕事をする老人としか思っていなかった。けれど、ハルは生まれてすぐから頻繁に通っている。ヒル老人は、サムの次に親しい、大事な大人なのだろう。
しばらく二人で、ヒル親子のことや昼間の出来事をとりとめもなく話した。
夜が更けてきたころ、約束したとおりネイシャンがやって来た。
「遅くなったわね。うたた寝しちゃって」
たくさんの本と紙束の上に天球儀をのせ、あごで押さえつけたままの体勢で、もがもがと言った。
「うたた寝? 夕食の後にですか」
ハルが荷物を受け取りながら尋ねると、ネイシャンは首を振った。
「夕食なんて、食べてないわよ、忙しくて。ただ、あんまり疲れてちょっと眠ったら、寝過ごしちゃって……ラタが起こしてくれなかったら、あなたたちをすっぽかすところだった」
「ラタ?」
二人揃って、思わず聞き返した。
あの生意気なラタ・ジェラは、一年前に森が発見された直後、成人の日を迎えた。だが、なぜか決まった仕事にはつかず、それを許されていた。学校にはよく顔を出しに来たが、ネイシャンの仕事を手伝っているふうにも見えなかった。
ウィルが尋ねた。
「ラタが、なんで先生のところへ……」
「さあ、さっさと始めるわよ! ぐずぐずしてたら、朝になっちゃうじゃないの。まずは太陽の動きと影の見え方から!」
ネイシャンは、出掛かったウィルの質問を吹っとばし、補習を始めてしまった。
こうして、ウィルの五日間の補習は幕を明けたわけだが――それはもう、すさまじい特訓だった。
ネイシャンが黄道(太陽の通り道)を天球儀で指し示し、理屈と季節ごとの変化を説明し、ウィルにわかったかと確認する。ウィルがうなずかないので、もう一度最初から説明し、わかったかと尋ねる。なんとなく薄ら笑っているウィルを見て、もう一度最初から説明し、大事なポイントは三度も繰り返して、わかったかと念を押す。ウィルが「わかった。……たぶん」と余計な言葉をもらしたので、もう一度最初から説明し……
学校なら他の生徒もいる手前、ウィルがついていけなかろうがヤル気がなかろうが、ネイシャンは先へ進まざるを得ないのだが、特訓でそんな遠慮はいらない。彼女は、こんなに根気強い性格だったのかと感心するくらい、同じ説明を情熱的に繰り返した。
とうとうウィルが頭を掻きむしった。
「あー、もう! わからないなあ!」
「あー、もう! わかろうとしないからでしょう!」
ネイシャンも負けずに怒鳴り返した。
テントの隅で毛布にくるまり、いつの間にか眠っていたハルが、ぱちりと眼を開けた。
「ほら、ハルが起きちゃったじゃないの」
ネイシャンはウィルの額を小突き、ハルに向かって優しく言った。
「ごめんね、ハル。良かったら、私のテントで休む? 散らかっているけど、一人分の寝場所は作ってあるから」
「僕、ここでいいよ。ウィル、どこまで進んだの?」
ハルは眼をこすりながら言った。
「えーと、まあまあ進んだ」
「嘘をつかない! ひとつも進んでないわよ」
誤魔化したウィルを、ネイシャンがぴしゃりと叱った。ウィルはぼやいた。
「でもさ、この勉強って、森では役に立たないと思うよ……」
「どうして?」
起き上がってきたハルが、毛布をかかえたままウィルの横に腰掛けた。ウィルは首をすくめる。
「森じゃ、木が邪魔して太陽も星も見えないからさ。それに方位磁石を持っていけば、方角はわかるんだろ? だったら別にこんなこと覚えなくても、大丈夫じゃないか」
「聞きなさい、ウィル」
ネイシャンが声を落とした。
「たしかにこの勉強は、場所によっては使えないわ。でもね、」
ウィルもハルも、はっと背筋を伸ばした。
ネイシャンのこの声は、本気の意思表示だ。十年以上の学校生活でも、めったに聞かなかった――彼女の目つきが変わっていた。
「大事なのは、お勉強ができることじゃない。あなたがこれから向かう世界を理解することなの。世界がどういう仕組みでできていて、どんなふうに変化するものなのか、それとも変化しないものなのか。知っていれば、森に入ってもあなたは安全だわ。なぜだか、わかる?」
ウィルが黙っているので、彼女は続けた。
「理屈がわかっていれば、危険を避けることができる。もちろん、それが一番目の理由。でも、もうひとつある。きっと森では、気味の悪いことや得体の知れないものに、たくさんぶつかるはずよ。そのとき、世界にはちゃんと仕組みがあって動いている、と知っていれば、むやみに恐れずに済む。いつでも落ち着いて行動することができる。立ち向かうことができる。支配することも――人間には、それだけの力があるはずなの。そうして、首都は生まれたわけだから」
ハルが遠慮がちに口を挟んだ。
「先生。その話、本当ですか」
ネイシャンは力強くうなずいた。
「ええ。首都の人間はすべてを知り、支配できる科学を持っていたそうよ。学校でママが話してくれなかった?」
「聞いてないよね、ウィル」
ハルの問いに、ウィルもうなずいた。
ママ先生は、首都は豊かで天国のようなところだった、とは話してくれたけれど、すべてを支配できる完璧な科学があった、とは言わなかった。だいいち、もしそんなお話を聞いていたら、子供達は疑問に思ったはずだ。なんでも知っているなら、なぜカピタルは森の場所を自分達で探さなきゃならなかったの?なんでもできるなら、なぜメルトダウンを止めることができないの?――
ネイシャンが首をかしげた。
「あら? 違ったかな……あの話はガランだったかしら。ま、どっちでもいいわ」
ネイシャンはぴしりとテーブルをたたき、ウィルに天球儀を押しやった。
「ともかく、『わからない』は許さないわよ。わかるまで、帰りません! もう一度最初から、説明するからね」
うええ、と口を開けたウィルの背中を、ハルがとんとんと叩いた。
「ウィル、覚悟したほうがいいよ。この勉強は、きっとウィルの役に立つからさ」
ネイシャンが深々とうなずいた。
「そう。ウィル、あなたは頭は悪くないはずなの。ただ、物事が自分に必要ないと思ったとたんに、聞く耳を持たなくなっちゃうのよ。あなたは意識してないでしょうけどね。だから、頭を切り替えなさい。竜使いにとって、知識はもう一つの武器。銃と同じ、いいえ、もっと役に立つ武器よ。絶対に手に入れなさい」
「銃って、先生は知って……あ、そうか」
思い当たった。ネイシャンは、銃を創っているアリータ・ジェラと仲がいい。
横から、ハルが袖を引っ張った。
「ウィル、『銃』って、なに?」
「あ、まだハルに話してなかったな」
昨日あれほど二人で喋りつくしたというのに、うっかり、森に入る前アリータの家で起こったことを話し忘れていた。ウィルは手短かに、アリータが創った『銃』がどんなに素晴らしい武器かを説明した。
「へええ! すごいな」
ハルは感心して、それから二人の授業を邪魔をしないように口を閉じ、ネイシャンに「続けて」と手で合図した。
ネイシャンが、ウィルの説明する様子をじっと見て言った。
「ウィル、銃が気に入ったみたいね。私もアリータから聞いたとき、本当にすばらしい道具だと思った。それがあれば、どんなところでも探検することができるわ」
「はい」
大きくうなずいたウィルに、彼女は続けた。
「でも、覚えておきなさい。あなたが本当に強くなるには銃だけでは足りない。銃をできるだけ使わずにすむ知恵が必要なの。それこそが自分を守る武器になる。だから……」
「だから、勉強しないといけないってことですね。わかりました」
おとなしく答えた。
銃をたとえに引かれたことで、気持ちに変化が起きていた。彼女の言葉の意味が、今なら素直に頭の中に入ってくる。
「先生、もう一度最初から、その……いいですか」
ネイシャンが、ぱっと顔を明るくした。
「もちろんよ! 最初から、もう一度ね」
ウィルの補習は、こうしてぐんぐん進んだ。
――とはいっても、今まで白紙でごまかしていた勉強の遅れを取り戻すには、それなりの時間が必要なわけで……。
結局、太陽と月と星の動きすべてについてウィルが「大丈夫、わかった」と言ったとき、東の空は白く明けかかっていた。
ウィルも、ずっと付き合って起きていてくれたハルも、さすがに頭がくらくらしていた。だというのに、ネイシャンは、「なんとか、朝までに終わったわ」と満足げにうなずき、すぐに「じゃ、今夜、またね」と、こともなげに言った。
「先生、眠くないんですか」
ウィルが嫌味半分で尋ねると、ネイシャンはさらっと言った。
「できの悪い生徒がこんなに勉強してくれてるのに、眠いなんて言ってられないわねぇ」
そうして、荷物をさっさとまとめ、帰っていった。
彼女を見送りながら、ハルがあくびをかみかみ、申し訳なさそうに言った。
「あのさ……僕、やっぱり、補習の間はネイシャンのテントで寝ることにするよ……」