11)
明日には両親が帰ってくるという日の夕方。
暁は国語科の会議があって遅くなるというので、あたしは『くれぐれも気をつけろ』っていう彼女の心配する声に苦笑気味にうなずいてから、明るくて人気のある道を選んで、先に暁の家まで帰った。
おかげさまで暁の家に泊めてもらってから、ストーカー野郎は現れてない。あれ以来、視線も感じることはないし、誰かにつけられたりもしていないようで、とりあえずホッと安心していた。
……でも、その安心がまずかったんだ。
暁は遅くなりそうだし、ゆっきーも今日は大学の用事であまり早く帰れないって言ってたから、3日間泊めて貰ったお礼に、今日はあたしが夕飯を作るって言ってあった。
あの晩、しっかり泣かせてもらったおかげで、少し気持ちも軽くなったし、城ケ崎さんのことも、時間が経てば忘れられそうな気がしてきたし……。
色々な感謝を込めてっていうのもあって。
暁には敵わないけど、あたしだって少しは料理くらいできる。
……まぁ、それも外面用にがんばったからだけど。
「あらら、アルコールが少ない」
大体の料理を作り終えて、気づいた。
ビールもワインも、あたしの焼酎も、底をつきかけてる。
……原因は、あたし。
「かなり飲んだもんなぁ……」
自分の持ってきた分だけじゃなく、2人用に置いてあったものまで、お言葉に甘えておいしく頂いちゃった自分に、さすがに反省。
う〜ん……。少し暗くなりかけてるけど、すぐそこにコンビニあったし。
歩いて3分のコンビニまで行くのに、危ないこともないでしょって、財布だけ持って出かけた。
「おも……」
コンビニで買いこんだ大量のアルコールを一度下ろして、暁に教えてもらった暗証番号を打ってから、開いたドアをまたアルコール抱えて入った。
無事に帰ってこられたことに、やっぱり、ちょっぴり安心する。
エレベーターの前に携帯電話で話をしている男の人がいて、彼がボタンを押して開いたエレベーターに、同乗させてもらうことにした。
先にエレベーターに乗り込んだ男の人に軽く会釈して、扉側に立って5の数字を押す。
すぐにエレベーターが止まって、最上階に用のあるらしい男の人を残して、開いた扉から降りた。
「よいしょっと……」
預かった鍵を開けて、玄関で荷物を下ろす。
重い荷物からの解放感と無事に帰ってこられた安心感で、ふぅって息を吐いてから、扉を閉めようと振り向いた。
……その時、だった。
「!?」
あたしが伸ばした手がノブを掴もうとした瞬間、その扉が逆に開いて、すごい勢いで男が体を滑り込ませてきた。
さっきの……!
エレベーターに一緒に乗っていた男。
まさか……ストーカー!?
「だっ、誰っ!?」
ものすごく嫌な感じに、靴のままズリズリと後ずさって、男の顔がもっとはっきり見えるよう、手探りで灯りをつける。
靴で蹴ってしまったコンビニ袋からビールの缶が転がり出て、閉まろうとしていた扉に挟まって、プシュッと音を立てた。
「……やだなぁ、麻由。俺がわからないの?」
あたしが後ろへ逃げる分、ゆっくりと近づいてくる男の顔に浮かんだ、人懐っこい笑みを見た時、やっと男の正体に気づいた。
「さ、酒屋の……」
最近顔なじみになってた、あの、酒屋の店員くんだった。
うっそでしょ!?こいつが、ストーカー……!?
あぁっ、でも、あの酒屋に通うようになったのは10日前くらいからだし、確かにこいつなら、納得……って、んなこと考えてる場合じゃない!
「な、なんでここに……?」
「最近麻由が会いに来てくれないから……。家にも帰ってないみたいだったし。どこに行ったのかと思って、心配したんだよ?」
……それでわざわざ探してくれたって?
き、気持ちわるっ!やだっ!
背筋がゾォッとして、体が小刻みに震えた。
あきらぁ〜!ゆっきぃ〜!帰ってきてぇっ……!
ずっと後ずさりしていたら、とうとう壁に辿りついて、逃げ場がなくなってしまう。
ストーカー男が、目の前に立った。
そのまったく悪びれる様子のない、一見さわやかな笑顔に見下ろされて、逆に気持ち悪さと恐怖が体中を駆け巡る。
「麻由、会いたかっ……」
「触るなっ!!」
伸びてきた手を、パシッと払って睨んだら、ストーカーが呆然とした顔であたしを見つめる。すごく、不思議そうに。
きっと、抵抗するなんて思ってなかったんだ。
……あいにく、あたしはそんなにか弱くないの!
「麻由……?」
「ど、どうやって調べたんだか知らないけど、気安げにあたしの名前を呼ばないで。あたしはあんたなんか知らない」
できるだけ冷静に、震える声を抑えて言う。
こいつはあたしの本性を知らない。なら、幻滅させれば、あきらめてくれるかもしれない……。
「……何言ってるの?いつも店で俺だけに笑いかけてくれたじゃないか?麻由は何も言わなかったけど、俺にはわかったよ。いつもあなたを見てたから。麻由も俺を好きなんだって……」
……ありえないっ!なんで愛想笑いしただけで、そんなこと思われなきゃなんないの!?
「冗談じゃない!あんただけに笑いかけたことなんてないし!勝手に変な妄想してんじゃないわよ、変態!あたしはあんたなんか、好きじゃない!」
壁に追い詰められて、それでもなんとか逃げる方法がないか頭の中で考える。
携帯はカバンの中で、ここからは届かないし、何かで音をたてようと思っても、ちょうどいい道具がみあたらない……。
やっぱり、隙を見て玄関へ逃げるしか……。
「嘘だよ……。麻由はいつもかわいい笑顔を向けてくれて……俺のことを好きで……。俺に追いかけてきて欲しがってた……」
んなこと、言ってもなければ思ってもないってば!!
妄想癖ストーカー男の激しい思い込みに、背筋をまた冷たいものが上がっていく。
しっかりしろ、あたし!
こんな奴、怖くない、怖くないんだから……っ!
「麻由は……俺の麻由は……」
「あんたのじゃないって言ってんでしょ!いいっ加減にしろっ!!」
ぶつぶつとつぶやく男の体を、精一杯の力で押す。
突然の衝撃に相手がよろけた隙に、一気に玄関へ……。
「きゃあっ!?……痛っ!」
思った以上にすばやい動きの男に、逃げ切る前に後ろから腕を掴まれて、引っ張られた勢いで床に転がされてしまう。
ダイニングテーブルの足にぶつかって、乗っていた皿や料理がいくつか床に落ちて派手な音をたてた。
「ゲホッ……コホッ……」
頭と背中を打って、その痛みに咳き込んで、顔をしかめた瞬間、男が馬乗りになってあたしの体を押さえつける。
……最悪!
「あぁ……ごめんよ、麻由。痛かった?でも、なんで逃げようとするの?」
ストーカー男がそう言って、頭を撫でようとするのを、必死で身をよじって逃げる。
でも、どれだけあたしがジタバタと抵抗しても、まったく敵の体は動かない。
今更ながらに、自分の非力さを思い知らされて、この後に待ち受けるものにゾッとする。
じ、冗談じゃないっ!誰がこんな奴にっ……!!
「あんなひどいこと言って。照れてるだけだよね?麻由……」
「離してっ!……離せっつってんでしょ!!」
「麻由にそんな言葉は似合わないよ。か弱くて、かわいい、俺の麻由……。俺が守ってあげるからね」
必死でもがくあたしの両腕を簡単に片手で押さえ込んでそう言った男を、下から精一杯きつく睨み上げるしかできなくて、悔しい。
「あたしはっ……!か弱くもなければ、かわいくもない!あんたなんかに守ってもらう必要もない!勝手に妄想して、人の人格否定すんなっ!」
どいつもこいつも馬鹿にして!!
そりゃあ、おっきな猫被って生きてきたわよ!たくさん自分を偽って、たくさん男を騙してきたわよ!
……でもっ!
そうしなきゃ、壊れそうだったの!
好きだった男に『思ってたのと違う』って、『かわいくない』って、言われる気持ちがわかる!?あたしって何?って、そう思う気持ち、わかんないでしょっ!?
「……離せっ!!変態っ!!」
「麻由は、そんな言葉言ったらダメって……言っただろ?」
「!!」
ストーカー男がポケットから取り出したものに、サァッと血の気が引いていく。
その細身の折り畳みナイフの、冷たい切っ先を首筋に当てられた感触に、体が固まった。
「なっ……」
なんでそんなもの、持ってるわけ……!?
「言うことを聞けない子には、おしおきしないとね……」
じ、冗談じゃない……っ!
「麻由……。俺の麻由……」
「やっ……」
ストーカー男のナイフを持った手が、首筋を這う感触に耐えられなくて、軽く顔を動かしたら、首に痛みが走った。
「いっ……!」
……やだ。やだ、やだ、やだっ!!
なんで!?
なんで、こんな目にあわなくちゃならないの!?
だれかっ!!
助けてっ!!!
「あぁ……」
男が、どこか恍惚とした表情を浮かべて、ナイフについた血を見つめる。
その異常さが、気持ち悪くて……。
「ひっ……い、いやぁぁーっ!!」
あたしが、あまりの恐怖に叫んだ時。
バンっていうすごい音が聞こえてきて、驚いたように顔を上げたストーカー男が、次の瞬間に、あたしの上からいなくなった。
「う…っ…」
何が起こったのかわからなくて、とりあえず急いで体を起こしたら、ストーカー男が転がってうめいていて……。
「……え?」
あたしの目の前にしゃがみ込んだ人を見つめたけど、その人が誰かを理解するのには、数秒の時間が必要だった。
……だって、あまりにありえないから。
「麻由さん!」
「……じょう…が…さきさん?」
城ケ崎さん……?
間違いなく、この目の前で息を荒げている人は、城ケ崎さんだ。
でも、だけど。
なんで、ここに、城ケ崎さんが……?
「なん…………あ、あぶないっ!」
つい、状況を忘れて問いかけてしまいそうになった時、彼の後ろにいたストーカーがゆっくりと立ち上がってナイフを構えるのが見えた。
「なんだよぉ……!俺の麻由に近づくな……っ!」
「きゃあ!!」
ストーカーが、すばやい動きで城ケ崎さんへナイフを突き出す。
その刃先が、よけ切れなかった城ケ崎さんの腕を掠めて、彼が微かに呻いた。
「城ケ崎さんっ……!!」
城ケ崎さんがっ……!
「いいからっ!麻由さんは、早く……!!」
あたしを逃がそうと、かばうように腕を広げる彼の傷口から流れ出る真っ赤な血に、ゾッとする。
やだ!いやだっ!!
ストーカーが、再びナイフを構えて向かってくるのが見える。
「やめてぇっ……!!」
だめっ!!
やだっ!もう傷つけないで……っ!!
城ケ崎さんを守るため、立ち上がろうとした、その時。
「麻由さんっ!!」「麻由っ……!!」
あたしの名前を呼ぶ声と同時に、ゆっきーと暁が駆け込んできて、状況を見たゆっきーが、すばやくストーカーへ、持っていたカバンを投げつけると、ストーカーが一瞬ひるんで……。
……あとは、早かった。
城ケ崎さんがストーカーの腕を掴んでナイフを外して、ゆっきーが勢いよく殴りつけたら、相手は驚くほどあっけなく気を失った。
暁が警察と救急車を急いで呼んで、泣きながら、あたしの首にタオルを当ててくれて。
ゆっきーがストーカー男を縛って。
城ケ崎さんも、暁に腕をしばって止血してもらって……。
「麻由さん……」
ずっと腰が抜けたように動けないでいたあたしの前に、城ケ崎さんが、心配そうな表情を浮かべてしゃがみこむ。
「城ヶ崎、さん……」
その、前と変わらない優しい顔を見たら、ずっと堪えていたものが涙になってあふれ出して……。
「ふっ……うぅ…こわ……こわ、かった……。こわかっ……」
「うん。もう、大丈夫だから。もう大丈夫だからね……」
どうしようもなく震えてしまう体へ、おそるおそる伸ばされた手を、力いっぱい握り締めた。