緊急搬送
……慌ただしく、一人の女性が走っている。
彼女はとある建物へと入り、そのまま受付へと直行する。ダンッ、とカウンターに手をつき、落ち着きなく肩で息をしている彼女の様子は、尋常ではない。
「あ、あの……?」
「はぁ、はぁっ……ぅ、けほ! えほ、けっほ!」
まさか、猛ダッシュしただけでこんなに疲れるとは、思っていなかった。普段の運動不足、それを実感するが、今はそんな場合ではない。
彼女は顔をあげ、青ざめた表情でカウンターの女性に叫ぶ。
「い、勇界 達志の、母です! この、病院に、は、運ばれたと、息子が……連絡を、受けて……!」
「お、落ち着いてください! 勇界……達志さん、ですね。少々お待ちを……」
今にも掴みかかってきそうな女性を、必死に宥めながら女性はノートパソコンになにかを入力する。今言った名前の人物がこの病院にいるのか、いるならどの病室かを、調べるためだ。
名前、そして息子と言ったことから性別を入力しつつ、母だと言った人物の様子を伺う。わからないほどではないとはいえ整理されていない台詞に、事態の深刻さを思わせる。
数秒後、入力したデータと一致する人物が表示された。
「勇界 達志さん……はい、確かにこの病院に運ばれています。車に、はねられ……」
「息子は! 息子はどこに! 無事なんですよね!?」
「お、落ち着いてください!」
こちらの言葉を、最後まで聞くことなく息子の安否を聞いてくる。落ち着いてもらいたいが、気持ちはわからないではない。
カウンターのこの女性も、一児の母だ。年齢こそ違えど、子供が事故に遭ったと聞いては冷静ではいられない。だからこそ、こちらが冷静に対応しなくてはいけない。
「息子さんは、今集中治療室で治療を受けています。ですので……」
「集中……治療……そんなに、悪いんですか……!?」
「……打ち所が、悪く。とにかく、今案内させますので」
自分の役割は、この場での受付のみ。医者でもないのだ、容態について適当なことは言えない。
ともあれ、家族であれば部屋の中はともかく、近くの場所まで行って問題ないはずだ。なので、別の人間に案内を依頼する。
本来ならば、自分が案内したいくらいだ。だが、仕事があるしそうもいかない。彼女を任せ、自分は仕事に戻る。その際、案内される母親になにも言えはしなかった。
「お元気に」? 「きっと無事です」? そんな慰めにもならない言葉を言って、なんになるというのだ。ここはなにも言わず……いや、言えなかった。
それでも、別れる間際……母親は、軽く会釈をしてきた。こんな状況にあっても、他人に気を向ける余裕はあったのか……それとも、なんとか落ち着いたのか。
結局、こちらも会釈を返すことしか、できなかった。
「……無事で、ありますように」
同じ母として、彼女の背中を見送り、そう祈るばかりだ。
「さあ、こちらですよ」
母親……勇界 みなえは、集中治療室への案内を受けながら、どうしてこうなってしまったのかを、ぼんやりと思い出していた。
今朝は達志を、ことりを、そして二人の幼なじみである由香を、それぞれ送り出した。その後、家の掃除をし、時間を見計らい、パートに向かった。
その後、いつも通り仕事をして、家に帰ってきた。干していた洗濯物をたたみ、二人が帰ってくるのを待つ……そう、いつも通りだったはずだ。
プルルル……プルルル……
あの電話が、鳴るまでは、
ガチャッ
『はい? 勇界ですが』
『もしもし。そちら、勇界さんのお宅で間違いないですか?』
『? はい』
『落ち着いて聞いてください。先ほど、息子さんがこの病院に運び込まれました。緊急搬送された少年の名前は、勇界 達志くん……息子さんで、お間違いないですね?』
『えっ…………は、はい……えっ、達志、が……?』
『はい。詳しくは後程話すことになりますが、どうやら車にはねられたようで。とにかく、こちらに来ていただけますか? 病院の名前と住所は……』
……息子が病院に運び込まれた。その衝撃で受話器を落とさなかったのは、我ながらよくやったものだ。
一分一秒さえ惜しいのに、わざわざ言葉を聞き逃すなんてことは、したくはない。
あの後、家を飛び出した。それでも、娘のことも気にしなければいけない。走りながらもなんとか小学校に電話をし、預かってもらうためだ。なにも知らない娘が帰ってきて、家に入れないなんてことあってはならない。
「……つきましたよ」
終始無言だった母親に、ふいに声がかけられる。それに伴い顔を開けると、そこには『IOC』と書かれたプレートがかけられた扉がある。
この向こうに、達志が……
「すみません、ご家族の方でも、手術中ですので……こちらで、お待ちください。先生に、話してきますので」
部屋の側にある椅子にみなえを腰掛けさせ、案内してくれた女性は去っていく。きっと、母親が来たと連絡するためだろう。
それから数分後……戻ってきた女性の話では、先生は今手が離せないため、申し訳ないがここで待っていてくれ、というものだった。
すぐそこには、息子がいる……なのに、会うことは出来ない。そのもどかしさは、みなえを絶望の淵に叩き落とすには充分であった。




